第46話 夏の終わりに
目が覚めると、無機質な白い天井が真っ先に目に入った。
「…………」
まだ半分寝ているような状態で視線をゆっくり動かす。
すぐ左側の窓から、星の瞬く夜空が見えた。照明のおかげで室内は明るいが、時間的には夜らしい。
──あぁ、病院か。
見慣れない部屋にやたら硬いベッド。徐々に覚醒してきた頭が病院だと気づくのにさほど時間はかからなかった。
右が廊下側かと、再び視線を動かす。
「……先輩?」
視界に入ったのは、同室の病人でも病室の扉でもなかった。
個室らしい病室の、ベッドの傍らに置かれた椅子。
そこに美しい少女がもたれて寝ている。
すぐ近くで、翼が静かに寝息を立てていた。
その左腕には痛々しい包帯が巻かれている。
──……そうだ。
なんで自分がこんなところにいるのか思い出した。
身体を起こし、着せられた入院着をめくり上げる。
ナイフを刺された箇所は、少しの傷跡を除いてすっかり元に戻っていた。
もう痛みも違和感もない。
たった数滴の血があれば、吸血鬼は大抵の傷を瞬時に治すことが出来る。
「……あれだけ貰ったら、そりゃ治るか」
ぼそっと独り言を呟いた。
──倒れたのは、傷を塞ぐのに全体力を使ったからかな。
刺された場所にそっと触れる。
血を得た吸血鬼の活性化した治癒力は凄まじいものだが、身体のエネルギーを治癒に集中させるため、大きな怪我を治す場合は燃料切れで気絶することがある。また、傷は塞がっても流れた血が体内に戻るわけではないため、出血多量のときは病院で別途輸血が必要になったりする。
翼がそこまでユウキに教わっていたかはわからないが、考えうる限りの最善を翼は選択してくれたようだ。
「……ハル?」
小さく、自分の名前を呼ぶ声がした。
翼は重たげにまぶたを上げたあと。
「……ハル!」
こちらを見るなり、がたっ、と椅子から立ち上がった。
ここが個室でなければ、声の大きさを注意されていたかもしれない。
「良かった……!」
ハルの頭を胸に抱えるように、ぎゅう、と思いきり抱きしめられる。
しばらくその心地良さを堪能していたら、はっ、と慌てたように翼が離れた。
「すみませんっ、身体痛くなかったですか……?」
恐る恐る聞いてくる翼を安心させるように、ハルは表情を和らげる。
「全然大丈夫です」
ほっ、と翼は安堵の息を吐いた。
「先輩のおかげで、もうほとんど元通りになりました」
「……傷、見せてもらっても?」
責任を感じているのか、翼は神妙な面持ちでそう聞いてくる。
ハルは無言で入院着をめくった。
中腰になって、翼はハルの脇腹にできた傷跡を辛そうに見つめる。
「……跡、ちゃんと消えるでしょうか」
「んーどうですかね」
別にこの程度の傷が残ろうとハルはなんとも思わないが、気にするなと言っても翼は気にするだろう。
「先輩」
翼には、できれば笑顔でいて欲しい。
申し訳なさそうに眉を下げる翼の手を、ハルは軽い気持ちで手に取った。
「いつだか言った自慢の腹筋、どう?」
それを自分の腹へと誘導する。
ひんやり冷たい翼の手が、ハルの腹筋に触れた。
「え……」
翼は目を数度瞬かせたあと。
「?!」
その頬を、みるみる赤く染めていった。
ばっ、と跳ねるように手を振りほどかれる。
やりすぎたか──そう思いながら、翼の顔を見上げた。
「────」
翼の瞳は、今まで見たことのない熱を宿していた。
赤らんだ頬、どこか苦しそうに寄せられた眉、早まる呼吸に上下する肩。
何かを訴えるような、我慢するような、それでいてどことなく甘い視線。
「ハル、これからは、その……」
ハルの視線から逃げるように目を逸らして、翼はたどたどしく喋る。
「そういうこと、は──」
その続きが、翼の口から発せられることはなかった。
「え」
くい、と翼の腕を引く。
身体を後ろに倒しながら、彼女を強引に自分のもとへ引き寄せた。
体勢を崩した翼が慌ててベッドに両手を付く。
驚く暇も与えず、彼女の背と後頭部に腕を回した。
ぐっ、とその腕を抱き寄せて。
「─────」
翼の唇に、ハルは自分の唇を重ねた。
「……?!」
長いまつ毛に縁取られた双眸が大きく見開かれる。
翼の身体が力んだのがわかった。けれどそれも長くは続かなかった。
ふっ、と力の抜けた身体が、ハルの上に覆い被さる。
薄い病衣越しに彼女の体温が伝わってきた。
そうしてしばらく、互いの熱を分け合って。
「………っは」
長いような短いような口づけを終えて、どちらからともなく顔を離した。
適切な温度に保たれた部屋も、今は少し暑い。
乱れた呼吸を数度繰り返したあと。
「……えっ」
自分を見下ろす翼の両目からポロポロ涙が零れ落ちてきて、熱い身体が一気に冷めた。
「ごめん、先輩」
慌てて上半身を起こし、謝罪を口にする。
調子に乗った。そうとしか言いようがない。
「無理やりなんてやだったよね」
なんで自分はこうなのだろうか。
姉の器用さのほんの一割でもあれば、今回の件だってもっと早く、上手く解決できたはずなのに。
「ちがう、ちがうんです」
けれど翼は、ハルの謝罪に小さく首を横に振った。
「ただ、嬉しくて」
「え……?」
「ハルの『好き』は、私の『好き』とはちがうものだと思ってたから……」
目元を拭いながら、小さな声で翼は言う。
それはつまり、さっきのが嫌で泣いたわけじゃないということで。
「…………」
安堵に胸を撫で下ろしつつ、あまりに言葉足らずだったなと反省した。
まだ、大切なことを伝えていない。
「先輩」
彼女の手を握り、まだ潤むその瞳を真っ直ぐに見つめた。
「わたし、先輩のことが好きだよ」
きゅ、と手を握る力を強めて、溢れる想いを言葉にする。
「友情とか恋愛とか、好きの種類ってあんま考えたことなかったけど……この『好き』は、先輩と同じ『好き』だと思う」
熱を帯びた翼の目を見たとき、身体が勝手に彼女の腕を掴んでいた。
そうして強引にキスをしてしまうくらいには、自分の「好き」は友情の範疇を超えている。
「これが恋愛としての好きだって気づいたのは、たった今だけど」
「たった今かぁ」
そう言いつつも、翼は嬉しそうに頬を緩ませた。
「先輩はいつ自覚したの?」
「私は花火大会の日です」
「あんま変わらないじゃん」
「……たしかに」
前までの調子が戻ってきて、二人ではは、と笑い合う。
またこうして前みたいに話せるなんて夢みたいだった。
だけどまだ、もうひとつ伝えなきゃいけないことがある。
「先輩」
「はい」
こんなことを言う時がくるなんて、少し前までは想像もしていなかったけれど。
「吸血鬼のわたしを……受け入れてくれてありがとう」
翼が吸血鬼だったらよかったのに──ずっとそう思っていた。
翼と仲を深めるたびに、隠し事をしてる自分が嫌になった。
それでも、正体を明かすなんて選択肢はなくて。
翼から無理やり吸血したあの日、全部終わったと思った。
──だけど。
そのすべてを受け入れ、好きだと言ってくれる人がいる。
化け物と謗られる瞳を「綺麗」だと言ってくれる人がいる。
そんなの、好きにならない方が無理という話だ。
「人間だろうと吸血鬼だろうと、ハルがハルであることに変わりはないですから」
風鈴の音のように透き通った声が、心の奥底まで染みていく。
欲しい言葉をくれるのは、いつだって目の前の少女だった。
「先輩ってほんと、人たらしですよね」
くしゃくしゃになった顔を見られたくなくて、下を向きながらそう呟く。
零れた涙がベッドのシーツをぽつぽつと濡らした。
「ハルにだけは言われたくないです」
けれど、意地悪な翼に両頬を包まれて、顔を優しく持ち上げられた。
愛おしそうにこちらを見る目が、ゆっくりその距離を縮めてくる。
翼の前髪がサラリと揺れた。
「……ん」
二人の距離が再びゼロになる。
手持ち無沙汰の手を彼女の背に回して、その細身の身体をぎゅっと抱きしめた。
結局まだ、三上雫と何があったのかも、ユウキと翼が話した内容も知らないけれど。
──夜が明けたら、ちゃんと話そう。
今はただ、目の前の幸せに思いきり浸っていたい。
二人の縁を祝福するように、淡く輝く満月が夏の夜空にぽっかりと浮かんでいた。
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