第31話 寝静まったあとに

「大丈夫ですか」


 少しでも安心させるべく、翼は震える雫の肩に手を添えた。

 苦手というレベルではない雷への怯えようにかける言葉を考えていると、雫が耳を押さえる手を少し緩める。


「……雷、トラウマなんです」


 消え入りそうな声で雫は言った。


「昔、家のすぐ近くに雷が落ちたことがあって──」


 そのとき、強烈な光と音がほぼ同タイミングで夜闇を走った。先ほどよりも近いところに落ちたようだ。

 雫がびくっと肩を跳ね上げ、再び耳を強く押さえる。

 言葉はそれ以上続かなかった。


「今日のところは解散して、早めに寝ましょうか」

「すみません……」

「大丈夫ですよ。得意不得意は誰にでもありますから」

 

 高校生が寝るには少し早いが、二十一時は過ぎているし寝れない時間ではない。


「本は私が片付けるので、三上さんは休んでてください」


 雫を心配しつつ、翼はテーブル上の本を抱えて棚へ戻しに行く。

 その間も雫は耳を塞いで怯えていた。だが完全に音を遮断できてはいないようで、雷の音が鳴るたびに動転しているのが見て取れる。


「片付け終わりました」


 本を数冊棚に戻す作業はすぐに終わった。

 翼は雫に歩み寄り、スっと手を差し出す。


「ゲストルームへ向かいましょう。立てますか」

「……はい」


 翼の手を、雫は恐る恐る掴んで立ち上がった。

 不安定な雫の足取りはゲストルームに着くまで続いた。雷が鳴るたび雫の足は止まり、再び歩き出すまで翼は根気強く付き合った。


「着きましたよ」


 通常の倍以上の時間をかけてゲストルームに着く。うつむく雫の顔は未だ青いままだ。


「すみません。一緒にきていただいて……」

「気にしないでください」


 穏やかな声音で言って、翼は続ける。


「夜、一人で大丈夫ですか?」


 ここへ一人置いていくのを躊躇うくらいには、雫の状態はかなり不安定だった。

 しかし雫はぎこちない動きで頷く。


「……大丈夫です。ありがとうございます」

「わかりました」


 正直あまり大丈夫そうには見えなかったが、無理に自分の主張を押し通すのも気が引ける。翼は本人の意思を尊重することにした。


「じゃあ、私も自分の部屋へ行きますね」


 おやすみなさい──そう言って、翼が足を踏み出そうとした時だった。


「……あ」


 雫が、行かないでと言うように翼の手を掴んでいた。

 しかしすぐに、弾かれたようにその手を離す。


「……ごめんなさい」

「いえ……」


 なんて言えばいいかわからず、翼はそれだけを返した。


「……昼間」

「?」

「翼さんは自分のことを子供っぽいって言ってましたけど……子供っぽいのは私の方です」


 右手で左の二の腕あたりをぎゅ、と押さえながら、雫は目を伏せる。


「雷にこんなに怯えて、一人でいるのが怖くて……家じゃ、雷の鳴る夜は姉と一緒に寝てるんです。高二にもなって、恥ずかしいですよね」


 自虐の言葉を連ねて、雫は乾いた笑みを浮かべた。


「そんなことないですよ」


 やっぱりさっきの「大丈夫」は大丈夫ではなかったんだと、そう思いながら翼は言う。


「今日は私もここで寝ます」

「……え?」


 翼の言葉に、足元を見つめていた雫の顔が上がった。


「三上さんを一人置いていくのは忍びないですから」

「ご、ごめんなさいっ、そういうつもりで言ったわけじゃ……」

「大丈夫ですよ」


 私がそうしたいだけですから──申し訳なさそうに謝る雫へそう伝える。


 きっと、ハルならこうするだろうと思った。


 出会ってすぐの、まだ関係値も浅い頃。

 スーパーで大量のレトルトを買っていた自分を、望月家まで引っ張ってくれたあのときのように。


 幸い、ゲストルームにはベッドが二つ置いてある。二人で寝るなら自室よりもこちらが適しているだろう。

 

「雷、少し落ち着いてますね」


 そう言いながら中に入る翼を、雫はそれ以上止めなかった。本心ではやはり誰かと一緒にいたかったのかもしれない。


 ゲストルームはグレーを基調としたホテルライクな洋室で、壁際に並ぶツインベッドには夏用の薄いタオルケットがセットされている。枕元にはベッドに挟まるようにして小さめのサイドテーブルが設置されており、卓上には円筒形のランプが置かれていた。


 部屋の照明を常夜灯に切り替え、翼が率先してベッドに横になる。雫が少し遅れてそれに続いた。


「雷が鳴らないうちに寝てしまいましょう」


 今は落ち着いている雷だが、ここでくだを巻いていたらまた鳴り始めるかもしれない。泊まりにしては淡白な夜になってしまうが、今日の所はさっさと寝るのが賢明だろう。


「おやすみなさい」

「お、おやすみなさい……」


 最後に顔を合わせて静かに言い合い、どちらからともなく顔を逸らす。

 お互いの表情は見えない。


 だから。


 サイドテーブルを挟んだ向こうのベッドで、雫の顔から一瞬で恐怖の色が抜け落ちたのを、翼が知ることはなかった。


 


 隣のベッドから規則正しい寝息が聞こえてくる。この部屋に来てから三、四時間ほど経っただろうか。

 まだ少し雨音はするが書庫にいた時よりだいぶ雨足は弱まったようで、雷の鳴る気配はない。


 雫は音を立てないようにそっと身体を起こし、ヘッドボードに置いていたメガネをかけた。ぼやけていた視界が一気に鮮明になる。常夜灯の暗さにもすぐに目が慣れた。

 自分のベッドを抜け、雫は翼のベッド脇に立つ。


──綺麗な寝顔。


 見下ろす顔は、フィクションの中から出てきたかのような完璧な顔面だ。

 一度も寝返りしていないような美しい仰向けの姿勢で、実は精巧な人形なんじゃないかとすら思った。けれどすぅすぅと繰り返す息遣いが、それに合わせて上下する胸が、間違いなく生きた人間なのだとハッキリ主張してくる。

 なんといっても、人間という種でここまで文句の付けようのない顔面を持っているのが素晴らしい。顔の良さだけならあの望月ハルも負けていないが、生物として全員容姿レベルの高い吸血鬼より、翼の顔面の方が何倍も価値がある。

 

──さてと。


 たっぷり好きな人の顔を堪能したあとで、気持ちを切り替える。こんな時間にわざわざ起きたのは、なにも翼の顔を眺めるためじゃない。

 雫はすぐ横にあるサイドテーブルに視線を移した。

 円筒形のベッドサイドランプの傍らに、シンプルな透明ケースを付けたスマホが一つ置かれている。

 物音を立てないよう、雫は慎重にそのスマホを手に取った。顔認証が普及して今どき少なくなった、指紋認証でロックを解除する機種だ。ホームボタンはなく、電源ボタンに指紋認証センサーが付いているタイプ。


 軽く電源ボタンを押すと南京錠のマークが画面に出てきた。だがマークは拒否するように横に揺れるだけで、解錠されない。

 それもそのはずだ。


 このスマホはのだから。


 翼が寝ているのを改めて確認したあと、雫は彼女のベッドの右手側──サイドテーブルがない方のベッド脇──へ移動した。

 タオルケットから出た華奢な腕の先、左手はお腹の上に、右手は体の横に投げられている。

 雫は持っているスマホをゆっくり翼の右手へ近づけた。指先の位置をほんの少し調整し、指紋認証しているはずの人差し指をスマホの電源ボタンに触れさせる。

 南京錠のマークが解錠された。


「!」


 喜びの感情が胸の内に湧き上がる。こんなに計画通りに進むことがあるのかと、思わず口に出してしまいそうになった。

 だが今翼に起きられたらたまったもんじゃない。

 気持ちをすぐに抑え込んで、雫は翼の手をそっと元に戻した。

 自分のベッドに戻り、スマホを手にしたままタオルケットを頭まで被る。


「…………」


 解除されたスマホの画面から、メッセージアプリのアイコンをタップして開いた。


──いた。


 上から十五番目あたりに目的の名前を見つける。

 クリーム色の猫のアイコンは、祖母と二人で暮らす家で飼っている猫らしい。


 個人チャットを開くと、最後の会話の日付けは二週間以上も前だった。仲違いする以前からあまり頻繁にやり取りはしていないようで、猫の写真を送ったり、それに対して「可愛い」と感想を送るようなほのぼのとしたやり取りが続いている。

 中には翼が自分と初めて対面した時の会話もあったが、大して印象を語られることもなく猫の話に戻ったのを見て、それ以上メッセージを漁るのをやめた。


 個人チャットの設定画面を開き、下にブロックと表示されたアイコンを雫は迷わずタッチする。

 アイコンの色が変わり、下の文字がブロック解除に変わった。


 これで翼からこのチャットを開かない限り、メッセージが飛んできても気づくことはできない。


 しばらく会話をしていないハルへ翼から連絡をする時は、おそらく仲直りをしようという気持ちになった時だろう。その段階にきたらブロックなどバレて終わりだが、逆パターン──ハルから翼へのコンタクトは阻むことが出来る。

 あわよくば、翼からのブロックを察してハルが自ら引いてくれたら最高だ。そう上手くいくことばかりではないし、期待はしておかないが。


──よし。


 今日やろうとしていたことは無事全部達成した。最後まで気を抜かず、翼のスマホを元の位置に戻す。


「…………」


 寝る前にもう一度顔を見たくなって、雫は再び翼の眠るベッドの傍らに立った。


 これまで見たどれよりも自分好みの顔。

 どんな手を使ってでも手に入れたい。


 リスクの高さを承知で、雫は翼のベッドに膝を乗せた。

 低反発のマットレスに自分の足が沈む。

 ヘッドボードに右手をついて身体を支え、気持ちよさそうに眠る翼の顔に、ゆっくり自分の顔を近づけていった。


──大好きだよ。翼ちゃん。


 


 

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