第8話 忘れ物を取りに行ったままで
下校時刻を知らせる校内放送が遠くから聞こえる。
校門を出てすぐの道を私たちは歩いていた。空は赤く染まっている。風が少し肌寒い。
「――今日、クラスの友だちに休日は何しているのって訊かれて、そこから買い物の話になったのよね。そしたら、私が当たり前に思っていたことが案外と違うっぽくって」
週末はよーちゃんと買い物に行くことが多い。必要な物の購入と、買うか悩んでいる物の調査のために私は一緒に出掛ける。ウィンドウショッピングみたいになんとなくぶらぶらすることがないのだが、よーちゃんの話の流れからするとそういうタイプは少数派らしい。
「ふーん……」
クラスが別れて、互いに新しい友だちができた。そこから見えてくる今まで知らなかったモノはたくさんあるのだろう。私がコノミから新しい知識――主に恋愛話だけど――を得ているように、よーちゃんもまた新しい知識を友だちから得ているに違いない。
――でも、なんか寂しいな……。こんなに独占欲が強いとは思ってなかったよ。
「あっ」
私が寂しさを感じて俯くと、よーちゃんは急に立ち止まった。
「どうかした?」
「忘れ物」
よーちゃんにしては珍しい発言だ。
「学校に置いてきたの?」
私が顔を上げてよーちゃんを見ると、彼女はどこか遠い場所に目を向けていた。長い前髪が邪魔で、どこを見つめているのかはよくわからない。
「うん。課題で出されたプリントをね」
「でも、学校、もう閉まっちゃっているんじゃない?」
校門を出たとき、下校を促す放送がかかっていたはずだ。
「一応行ってみるよ。結衣は先に帰っていて。追いかけるから」
これもまた珍しい発言である。私は何だか不安になった。
「え? 私も一緒に戻るよ」
「すぐに追いつくからさ。スペクターズ・ガーデンに寄るの、忘れないでね」
よーちゃんはすでに走り出していた。
――そういえば、弥勒兄さんと典兎さんにポプリを頼んでいたんだったな。
私はよーちゃんを引き留めようとした手を引っ込めながら、放課後の会話を思い出す。
――すぐ、追いつくよね。よーちゃんだもん。
私は弥勒兄さんたちが待っているだろうとも思い、一人でスペクターズ・ガーデンへと歩き出した。
歩き慣れた通学路を一人で歩いているうちにすっかり暗くなってしまった。
――まだ追いつかないのかな? そんなことを考えながらいつもよりゆっくりなペースで歩いていたが、遠くに明るい場所が見えてくる。
スペクターズ・ガーデンの前は店から漏れた明かりに照らされていた。
「こんばんはー!」
明るい色の花でいっぱいの入口を抜けると、私は奥に向かって声を掛けた。
「あぁ、来た来た。今日は遅かったね」
奥から出てきたのは典兎さんだけだった。
「えぇ。部活に出ていたんで」
「そっか。今日は月曜日だっけ」
私の部活の活動日を典兎さんは覚えていてくれたらしい。なんだかちょっぴり嬉しくなる。
「あれ? 葉子ちゃんと一緒じゃなかったの?」
入口付近に視線を向けた典兎さんは不思議そうな顔をして訊ねてくる。
「えぇ。忘れ物を取りに学校に戻ってしまって」
「葉子ちゃんが?」
典兎さんの表情が一瞬固まった。普段の穏やかな笑顔がすっと消えて、なにやら深刻そうな表情に変わる。しかしすぐにいつもの微笑みを取り戻していた。
「はい……すぐに追いつくから先にここに向かうように言われて」
――そう言っていたのに、遅すぎるような……。
「なら、すぐに来るんだろうね。しっかり者の葉子ちゃんなら心配ないだろう」
私を安心させるように典兎さんは笑顔を作った。やはり私の気持ちは顔に出ているようだ。
「じゃあ結衣ちゃん、手を出して」
言われるままに右手を出して視線を典兎さんの手に移すと、小さな袋が握られているのが目に入った。ピンク色を基調とした花柄の布で作られており、緑色のリボンで口が結ばれている。
「はい。葉子ちゃんから頼まれていたポプリ」
「ありがとうございます」
差し出されたそれを大事に受け取る。香りを確かめると薔薇の柔らかい匂いがした。他にも数種類の香りが混じっているようだ。
「幸福な気持ちになれる香りを合わせてみたんだけど、どうかな?」
「ふわぁっ……。とても良い香りです」
選ばれた香りから感じられた作り手の心遣いに気持ちが安らぐ。きつすぎない、角のない柔らかな印象は典兎さんの雰囲気そのものだ。
「典兎さんが作ってくれたんですか?」
「ミロクに作らせるつもりだったんだけど、生憎、蓮さんと外に配達中でね」
「ふぇ? 別に私、典兎さんが作ってくれたものでも嬉しいですけど?」
――やっぱり典兎さんが作ってくれたんだ。
大事にしようと思いながらポケットにポプリを入れる。このサイズなら持ち歩くことができそうだ。
「――あぁ、これだからアイツは……」
典兎さんはため息をついて遠くを見つめた。
私にはその理由がわからなかったので、首をかしげるだけだ。
「そだ。――今、典兎さんはお一人なんですか?」
弥勒兄さんは蓮さん、つまりよーちゃんのお父さんと配達に出ていると典兎さんは説明してくれた。ということは、私は今、典兎さんと二人きりである。
「ん? そうだけど、何?」
「弥勒兄さんって付き合っている人とか、好きな人とかっているんですかね?」
私が問うと、典兎さんは微苦笑を浮かべた。
「なんでそれを僕に訊くの?」
「直接本人に訊いたら誤解するかなーなんて。それに典兎さん、弥勒兄さんとよく一緒にいるし」
コノミに弥勒兄さんには好きな女のコがいるのかいないのか、好みのタイプはどんな人なのかを訊いてくるように頼まれたのだ。典兎さんがいうように本人に訊くのが一番早いだろうが、面と向かって訊ねるのは気恥ずかしいし、誤解されてややこしくなるのは避けたい。
そんな都合で、典兎さんにこっそり訊いてみようと思っていた。よーちゃんに訊くのも悪くなかったんだけど、昨日のあの様子からだと、あんまりいい顔をしなさそうだったし。
私の返事に典兎さんは小さくため息をついた。
「えっとねぇ……、ミロクにカノジョはいないよ」
――良かったぁ。コノミちゃん、まだチャンスはあるよ!
「じゃあ、好きな女のコは?」
ほっとして私は念のため繰り返し訊ねる。
「それ、言わないといけない?」
典兎さんは困ったような顔をする。
――あれ? 典兎さんがそういう反応をするってことは、好きな女のコはいるってことかな?
無理に訊くのは困っている典兎さんに悪いと思ったので、質問を切り替えることにする。
「うんと……だったら、どんなタイプの女のコが好きなのかわかりませんか?」
「そういうことなら、結衣ちゃんのほうが僕よりミロクとの付き合いが長いんだから、詳しいんじゃないの?」
――それがわかっていたら、苦労しないよっ!
そう叫んでしまいたい気持ちを抑えて黙る。
確かに、出会って十年近い私と、高校からの付き合いである典兎さんと比べたら、私のほうが詳しくてもおかしくはない。だけど一緒に過ごしている時間を比較したら大差ないと思うんだけど。
私が膨れてじっと見つめていると、典兎さんはくすっと小さく笑った。
「僕にはアイツの趣味はわからないよ。ただ、自分に似ている身近な存在が気になって仕方がないみたいだけどね」
「ふぅん……」
――弥勒兄さんに似た身近な人ねぇ……。それって誰だろ?
根負けしたのか、先の質問の返事も合わせたような回答に私は頷く。弥勒兄さんの友だちという典兎さんの立場上、これ以上具体的なことは言えないだろう。
私は典兎さんを必要以上に困らせたくなかったので、弥勒兄さんに関した質問はここまでにしようと決める。
「じゃあ、典兎さんにはカノジョ、いるんですか?」
「へ? 今度は僕?」
私の質問が自分にも向けられるとは思っていなかったようだ。目を真ん丸くして驚いている。
「はい。参考までに」
真面目な顔を意識して、私はこくりと頷く。
「ついでみたいに訊かれるの、なんか好きじゃないんだけど」
困惑されたうえに苦笑されてしまった。
――うーん、その意見は納得できるなぁ。
「あ、すみません。今の、忘れてください」
典兎さんの気持ちも理解できたので、私は素直に謝ることにする。失礼な態度だった。
すると、典兎さんは何かに気づいたみたいに表情を変えた。
「あ、本当についでだったんだ」
「だから、参考までにって……」
にっこりと笑んで、典兎さんは私に顔を近付けた。
「僕自身にちょっとでも興味があるなら、教えてあげるよ」
「ふぇっ??」
――ど……どうしよっ? 興味がないわけじゃないけど、でも、うんと、そうじゃなくって……あー、でもでも気になるっ!
弥勒兄さんとなかよしであることは見ての通りで、つまりは弥勒兄さんとも関係する話題――高校が一緒でそこで知り合ったことや、このスペクターズ・ガーデンでアルバイトをしていることくらいしか聞いたことがなかった。
「えっと、私は……」
「コラッ! テント、顔が近いぞっ!」
私は両肩をいきなり掴まれるとぐいっと後ろに引かれた。
「ふぇぇぇ?」
バランスを崩して私は後ろにいた人物に体重を預ける。頭を動かしてその人物の顔を見上げると、弥勒兄さんが私を見ていた。
「はははっ。ちょっとからかっていただけだよー」
典兎さんは楽しげに笑って弥勒兄さんと私を見た。
――って、からかわれてたのっ!
「で、いつまでそうしているつもりかな? お二人さん」
笑いながら典兎さんが指摘する。
――いつまでって……。
私は弥勒兄さんに寄りかかったままであることを思い出し、慌てて離れる。弥勒兄さんが私の肩から手を離すのとぴったりと合った。
「て……テントっ! 謀りやがったなっ!」
弥勒兄さんは顔を真っ赤にして典兎さんをにらみつける。
「ミロクが自分でやったことだろ? 僕は何もしちゃいないよ。ね? 結衣ちゃん?」
――私に振らないでよ。
私は無言で典兎さんを見つめる。からかわれたことに対しての抗議のつもりだ。効き目がなさそうだけど。
「あれ? かばってくれないの?」
典兎さんはそれでも構わなかったらしく、上機嫌で笑っていた。
「――で、何の話をしていたんだ?」
むっとした口調で弥勒兄さんは問う。
私はとっさに人差し指を自分の口元に当てて典兎さんを見た。さすがに弥勒兄さんの好きな人についてを話していたとは言えない。ってか、ここで喋っちゃったら、典兎さんに訊いた意味がない。
典兎さんはそれを見てますます愉快そうに笑む。
――嫌な予感。
「せっかく二人っきりだったんで、内緒話をねー」
――うっ……典兎さんひどいっ! それじゃあ意味ないじゃんっ!
弥勒兄さんの様子をちらりと窺うと、非常に不機嫌そうな顔をしていた。典兎さんとは正反対の心持ちのようだ。
「うらやましい?」
「べ、別にうらやましくなんか……」
「ミロクは素直じゃないなー。そんなんだから、進展しないんじゃん」
言いよどむ弥勒兄さんを典兎さんは追撃する。
弥勒兄さんはぷいっと横を向いて、ちっ、と小さく舌打ちをした。
どうやら典兎さんはわざと弥勒兄さんを刺激して、話をうやむやにする作戦を取ったようだ。
――典兎さん……もっと穏便に済ますことのできる方法を使ってくださいよぉ……。
「――そういえば、葉子は?」
よーちゃんがいないことに気付いたらしい。弥勒兄さんは辺りを見回しながら私に問い掛けた。
「忘れ物を取りに学校に戻ったきり、まだここに来てないんですよ」
「葉子が?」
弥勒兄さんも典兎さんと同じような反応をした。表情が凍り付き、すぐに外を覗きに行く。
「下校時刻はとっくに過ぎているよな?」
その焦り度合いは尋常じゃない。
帰宅時間が遅いというだけのことなのにここまで焦ることはないだろうって他の人は思うかもしれない。だけどよーちゃんは、今まで忘れ物をしたと言って学校に戻ったことはないし、寄り道をして帰ったこともない女のコなのだ。完璧な人間はいないだろうけど、今日のよーちゃんは何か変だったから余計に心配になる。
「うん。校門を出たとき、校内放送が流れていたから」
「――ったく、葉子は何やってるんだ?」
弥勒兄さんはスマートフォンを取り戻して電話を掛ける。しかし繋がらなかったのか、スマートフォンの画面を見直してため息をついた。
「学校まで迎えに行ってくる」
「あ、だったら私も行くっ!」
私が片手を挙げて同行の意思を伝えると、弥勒兄さんはこちらを一度にらみ、典兎さんを見た。
「テント、今日のバイトはこれで終わりにしていいから、結衣を家まで送ってやってくれ」
「え? ミロクが結衣ちゃんを送ったら? 僕が葉子ちゃんを捜しに行くから」
――いや、私はまだ帰るつもりはないんだけど。
私の意見を完璧に無視して話は続く。
「ポプリ、結衣にやったんだろ? だから、お前がついていけ」
――ポプリと何が関係してるのよ?
ポプリは確かに典兎さんから受け取ったが、今の弥勒兄さんの言葉は意味不明だ。
――って、私もよーちゃんを迎えに行くんだってばっ!
「だけど、ミロク――」
典兎さんは戸惑っているようだ。困ったような声で何かを告げようとするのを、しかし弥勒兄さんは遮った。
「送ってやれよ。でないと――」
「ちょっとぉ! 私もよーちゃんの迎えに行くって言ってるでしょ!」
「しょうがないなぁ」
私の抗議の声は虚しく、典兎さんは肩を叩いて帰宅を促した。
「あんまり遅くなるといけないから、ね? ここはミロクに任せて帰ろう」
――なんでなんで? 私だってよーちゃんを捜しに行きたいよ!
「でもっ!」
「結衣」
弥勒兄さんの静かな低い声。
私は黙って弥勒兄さんに視線を向ける。
「心配ごとを増やさないでくれよ。わかったな?」
つらそうな表情。滅多に見ない不安げな顔。
――やっぱり、よーちゃんの身に何かあったのかな?
私は渋々頷く。
「わかりましたよぉ……」
「よし、なら帰ろうか」
いつの間にか身支度を整え、デイバッグを背負った典兎さんが私の背中を押す。
私はスポーツバッグを握ると、弥勒兄さんに見送られながらスペクターズ・ガーデンを後にした。
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