第三章 恋慕の行方

 刃に依頼の文を送ったのは、地種の領主――狐坂道明こさかどうみょう。つい二箇月前に前領主を打ち倒した新興勢力である。

 勢力を興す時には、新たに築城をするのが一般的だ。しかし、狐坂軍は乗っ取った城を改修する方針を取ったようだ。朽ちた城を修繕する者が、城壁沿いに黒山の人集りを形成している。

 刃は城門をくぐり、応接間へと案内されていた。座敷の中央に欅調の座卓があり、刃は座布団の上に腰を掛けた。

 刃は大きく息を吸い、溢れ出る気勢を漲らせていた。「契約解除の打診があった際には、次の修羅狩りを見るまでは滞在しよう」だとか、「如何なる理由でも領地から遠く離れた遠方への外出はやめさせよう」だとか、反省を活かして様々な遣りようを考えていた。神都では色々あったが、同じ轍を踏んではならない。この地こそは絶対に護り抜かなければならない。

 すると向かって右側の戸が開き、若い男が応接間に入ってきた。

「お待たせ! よく来てくれたね、仔猫ちゃん」

「……こ……仔猫!? 何を言うか! わしは刃だ!」

「刃君のような、可愛い修羅狩りと契約ができるなんて嬉しいな!」

「か、可愛い……だと?」

 何を言い出すのかと思えば、男は揶揄うように軽口を叩いてきた。

 男は刃の向かいに座り、屈託のない笑顔をみせている。

「僕は狐坂道明。この地種の地を統べる者だ。よろしく!」

「よ、よろしくのう……」

 彼が影武者である可能性が頭をよぎっていたが、刃は即座に否定した。

 日輪の現状では、影武者を立てることは常套手段だ。影武者を護らせ、修羅狩りが信用を勝ち取った時に本性を明かす――なんてことが屡々行われている。

 駆け出しの修羅狩りが本物か否かを判断するために、これは妥当な手法だといえよう。だが刃は歴七年の熟練者だ。その勇名は日輪中に轟いているはずである。試されているとなると、不愉快極まりないことだ。

 しかし目の前の男、影武者としては我が強すぎる。どう見ても国を背負う者だとは思えない。領主らしからぬ異質な雰囲気。逆にそれが彼を領主だと決定付ける材料となった。

 刃は、改めて道明を観察した。中性的な容姿を持ち、目鼻立ちが整っている。領主にしては相当若く、刃とそう変わらない年齢にも見える。

「道明よ、お主、いくつだ?」

「僕は今年で十八になる。刃君は?」

「わしは十六だ」

「十六歳か、いいね。僕と結婚してくれないか?」

「けっ……結婚!? わ、わしに結婚なぞ、まだ早いわ!」

「ははっ、冗談だよ。刃君は可愛いな」

「何だ……こ奴は……」

 まだ挨拶を交わして間もないが、刃は既に疲れていた。

 言葉を掛けると茶化して返ってくるのだ。投げ掛けられる言葉の勢いに刃は圧倒されていた。彼は刃にとって、これまで関わったことのない種類の人物だった。

 刃は異性に対しての免疫がない。他人に揶揄われたことさえ初めてである。

 初対面でここまで苦手意識を持った人物は、目の前の男が初めてであった。こんなふざけた男を今後は護ることとなるのだ。契約を結ぶ以上は、責務を全うしなければならない。頭が痛いが、これも日輪のためだと刃は己を奮い立たせた。

 ――少し経って、豪華な料理が運ばれてきた。

 二人は食事を楽しみながら歓談し、契約内容を詰めた。

「報酬の話をしようか。月に五十貨鈔でどうかな?」

 道明の言葉を聞き、刃は淀みなく動いていた箸を止めた。

「……ん? 五十と言ったのか? それは多いな。報酬は二十貨鈔でよい。こんなご時世に、そんな大金を受け取れぬ」

「これって大金なのかな? 命を預けるのに、そんな額では割に合わない。領主にとって、修羅狩りは神様も同然なのだから。殺し屋に立ち向かえるなんて、本当に凄いことだよ!」

「そう言ってもらえるのは有難い。だが、わしには無用だ。その金を領民に還元してやってくれ。わしが言えた柄ではないがのう」

「そうか、わかった。今日は月初めだから、日割りなしで月末に支払うよ!」

「かたじけない」

 道明は修羅狩りの仕事を理解し、労ってくれた。播宗と神都の事変で傷心だった刃は、胸の痛みが少し和らいだ気がした。 



 食事が終わると、刃は領内を案内された。

 城下町を含め、ほとんどの箇所が修繕中であった。まさにこれから、国を機能させる準備を整えていくのだろう。このような状態では、隣国にとって格好の餌食である。修羅狩りがいなくては容易に滅ぼされてしまうことだろう。

 修羅狩りとしての力量が試される。刃の不用意な優しさ、詰めの甘さが命取りとなり、播宗、神都は酷い目に遭ってきたのだ。侵入者を無傷で帰すなど、生易しいことをしている場合ではないのかもしれない。

 佐越の領主から聞いた話だが、佐越ではここのところ五年以上は殺し屋の襲撃がないそうだ。担当の修羅狩りがあまりに残虐非道で、誰にも手出しができなくなっているという。これこそが理想の形であり、修羅狩りの目指すところなのだ。

 刃自身も己の枷を外し、敵を殺める必要がでてくるかもしれない。自分はどこまで残酷になれるだろうかと、自問自答してみたが答えは出なかった。

 殺生のない世界を目指すために敵を殺めなければならないなんて、どこか間違っている気がしてならない。しかし幾度となく殺し屋と対峙してきたが、話し合いで解決できそうな輩はほとんどいなかった。

『殺し屋殺し』。それこそが修羅狩りたる所以だ。だが殺しを推奨するなど、殺し屋とどこが違うのだろうか。もう幕府は存在しないのだから、かつての信条に縛られる必要はないだろう。しかし殺し屋を殺生せず、痛めつけて帰す行為にどれだけの効果があるだろうか。

 誰よりも強い実力を持ちながら、刃は無力さを実感することがある。「あくまで契約対象は個人だから」、「契約が切れたから」、「領主の指示に従ったから」――など、失態に対して規約に真っ当な言い訳は幾らでも思いつく。だが稼業と言いつつも、修羅狩りは金を目当てにやっていることではない。国を護り切れないなんて、修羅狩りとしての技量不足にほかならない。修羅狩り契約国が攻撃されるなど、そもそも絶対にあってはならないことなのだ。



 領内は広く、全てを見て回ると夜になっていた。

 本丸御殿の一室が道明の寝室だ。刃はこれから、旦夕怠らず夜間の護衛を行うのだ。夜は殺し屋が動く絶好の時間帯であり、修羅狩りとしての本領を求められる。一切気を抜けず、眠ることも許されない。

 道明が眠る布団から、屏風を隔てて刃は座った。

 刃はいつものように目を閉じて、夜間の警戒態勢に入った。修羅狩りを始めたての頃に体得したこの作法で、刺客の存在を見抜けなかったことはない。

 この場にいない詩音に手本を見せるかのように、刃は極度の集中を保ち続けた。

「……刃君、そこにいるか?」

 道明の小さな声がした。

「……どうした?」

「こちらに来て……一緒に寝てくれないか?」

「――はぁっ!?」

 思いも寄らぬ道明の要求に驚き、思っていたより大きな声が出てしまった。

 声量を反省するように、刃は自身の口を掌で塞いだ。

 すると、刃は道明に腕を掴まれた。道明は布団を出て、刃のすぐ近くまで近接していた。力を込めてグッと腕を握られ、払う程度では手が離れない。

「刃君と話がしたい。こっちに来て欲しい……」

「ななな、何が目的だ!? 話ならここでもできるだろう!?」

「契約者である僕の言うことが聞けないのかい?」

「一緒に寝るなど……修羅狩りのすることではない! わしは――」

 言下に言葉を遮って、道明は刃を力強く抱き締めた。

「――ど、どど、道明!?」

「夜伽を求めているわけではない。少しだけ、傍にいてほしい」

「む、むう……」

 経験したことのない事態に、刃は頭の整理が追い付かない。道明に悪気や下心がないことを信じて、刃は手を引く道明についていった。

 既に刃の枕が用意されてあったので、道明に背を向けて横臥した。

「布団で横になるのは久々だ……」

 ボソッと呟いた刃へ、道明から掛け布団が被せられた。

「修羅狩りは大変だね。刃君、今日は普通に眠っていいよ。番兵の配置は万全だ」

「……できるわけがなかろう。そういった気の緩みが不測の危機を招くのだ。わしは睡眠を取らずとも支障はない。気を遣う必要はない」

「真面目だね。刃君はどうして修羅狩りになったの?」

「わしは……」

 道明の質問に、刃は両親の顔を思い浮かべた。

「わしは殺し屋が蔓延る世を変えたいと思って修羅狩りとなった。きっかけは父上の影響だ。父上のように、剣術で人々を助けたかった。父上は……立派な修羅狩りだった……」

「修羅狩り……だった……?」

「ああ。わしが八つの時に、父上は突然行方を晦ませた。父上が戦いで敗れるとは思えぬが、望みは薄いのだろうな……。どこかで生きておるかもしれぬが、一切の音沙汰がないのだ……」

「そうだったのか……」

 道明は刃の身を案じるように、目の前で横になる小さな背中を撫でた。

「僕は刃君の身が心配だよ。殺し屋が猛威を振るう昨今、いつどこで首が狙われるかわからない。己の実力が最強である確信でもなければ、修羅狩りなんて遣る気も起こらないはずだろう?」

「……ふっ、わしを侮るな。戦闘についての憂慮は一切ない。わしは戦いで苦しんだことがないからのう。九つの時に初めて修羅狩りとして契約をした。修羅狩りだった父上から授かった心得を以て、当時からわしに敵う者はおらぬ」

「九歳……その歳で百戦錬磨か。恐ろしいな。こんなに可愛らしいのに……」

 刃の背中と、道明の胸が触れた。気が付くと、道明は刃のすぐ傍まで近寄っていた。背を向ける刃に対し、道明は背後から手を回して少女の小さな手を握った。

「おい、いい加減にしろ!」

「…………」

 刃が振り返ると、道明は静かに寝息を立てていた。

「本当に調子が狂う……。まったく、こ奴は……」

 刃の人格に対して、ここまで踏み込んできた契約者は彼が初めてである。もし彼が寂寥を感じているなら、話し相手ぐらいはしてやろうと刃は思った。彼は道化を演じているようには見えない。お調子者だが、悪い奴ではないのだろう。

 道明の手は、刃の指に絡んで離れない。仕方なく、刃はそのまま目を閉じた。

 当然ながら眠ることはせず、すべからく周囲の警戒を続けた。

 しかし胸の鼓動が高鳴り、あまり集中ができなかった。


    ◇


 翌日の朝、刃は石垣を修繕する作業を手伝っていた。膠泥を塗った石を積み、鏝で丁寧に仕上げていく。

 すると近くで作業をしている職人が、怪訝な顔で刃に尋ねた。

「刃さん……これも修羅狩りの仕事なのかい?」

 刃は疲労で歪んだ表情のまま、話し掛けてきた職人に向けて首を横に振った。

「いや、絶対に違う……違うのだ……。だが、断れなかった……。修羅狩りに肉体労働を頼む領主など、聞いたことがない……」

 前代未聞の依頼を受けた刃は、ぶつぶつと文句を零していた。

「ははっ、本当に助かるよ」

 刃の隣で、道明も同じく作業を行っている。

 契約者である道明を傍で護ることが修羅狩りとしての最優先事項だ。雑作業を断る口上として、道明も一緒に作業を行うことを刃は条件に出した。

 しかし道明がこれをあっさりと受け入れたため、刃はやらざるを得なくなったのである。想定が外れたが、周りで作業をしている職人の喜ぶ顔を見ると断り切れなかった。仕方なく、刃は真面目に作業に勤しむことにした。作業は思っていた以上に難しく、築城にはこんなに手間が掛かるのかと思い知らされていた。

「ちょっと、刃君。膠泥がシャバシャバだよ。膠灰の分量が足りないぞ」

「すまん、不慣れなもので。……というか領主のくせに、お主はなぜそんなに遣る気満々なのだ?」

 道明は額に爽やかな汗を掻き、慣れた手付きで作業を進めていく。頭にはタオルを巻き、どう考えても本職にしか見えない。

「元は貧乏な家で育ったからね。幼い頃に、家屋の修繕や築城工事の仕事を手伝ったことがあるのだ。左官や組積、屋根の瓦葺きだってお手の物さ!」

「ほう、お主も平民上がりなのか。まぁ、名家はほとんどが狙い撃ちされて滅びたからのう」

「そうだね。今度は僕が狙われないように、刃君にはしっかり働いてもらわないとね!」

「任されよ。わしがいれば鬼に金棒だ」

 そうは言いつつも、石垣の修繕は想像以上に重労働だった。

 灼熱の炎天下に体力を奪われ、衣服に汗が染み付いていく。こまめに休憩をしなければ、疲労でぶっ倒れてしまうことだろう。慣れない刃にとって、こういった作業は戦いよりも体力を消耗するものであった。

 しかし戦争が起きれば、こういった建造物は破壊されていく運命にある。築城の作業工程を知っていれば、安易に物を壊そうなどとは考えないはずである。

 建物を平気で壊していく者への怒りが込み上げると同時に、自分が修繕に携わった石垣を護りたいという不思議な意識が刃に芽生えていた。熱で頭がやられたのだろうかと自分を疑いながら、刃は黙々と修繕作業を続けていた。

 しばらく作業を続けていると、怪しい浪人が近付いてきた。童子の能面を被り、表情が見えない。刃の長年の勘により、男が殺し屋であると一目でわかった。

「――止まれ」

 刃は左官鏝を置き、怪しい男の前に立った。

「……道明よ、こんなに容易く殺し屋の侵入を許すとは、門番はおらんのか?」

 刃は能面の男に殺意をぶつけて威嚇し、道明に一言の質問を添えた。

 しかし、道明から飛んできた返答が驚愕だった。

「よう、お疲れ様!」

「――!?」

 道明は軽口で挨拶をして、能面の男に巾着袋を放り投げた。

 能面の男は受け取った巾着の中を確認し、懐に仕舞い込んでいる。

「刃君、驚かせてすまない。彼は僕が雇った殺し屋だ。昨日の夜半に、隣国の《尾鷹おだか》の領主を討ってくれた。後は我々で攻めれば尾鷹を沈められる」

「…………」

 道明の手際のよさと、平然と侵犯を行使する胆力に寒気がした。

 能面の殺し屋は何も言わずに去っていく。

 刃は修羅狩りの規約を思い出し、焦って道明に向き合った。

「ちょ、ちょっと待つのだ! 道明よ、修羅狩り契約に於いて、殺し屋と関わることは規約違反だ。契約は今日で打ち切りにさせてもらう!」

 規約上、修羅狩りと契約中に殺し屋を雇うことは許されない。

 修羅狩りは、殺し屋の雇用を堰き止める役を担っているのだ。

「えぇ!? そんなこと聞いていないよ! そういうことは初めに言ってもらわないと! もう二度と殺し屋とは関わらない! それで許してよ! ね?」

「お主……正気か……?」

 刃は頭を抱え、新興勢力であるが故の無知さを嘆いた。

「こんなことは常識かと思っておったが……。まぁ説明を怠ったわしの落ち度か。今回は大目に見よう。金輪際、殺し屋とは関わるな」

「ありがとう! 刃君がいないと僕は生きてはいけないからさ!」

「調子の良いことを言いおって……」

 道明は家臣に指示を出し、尾鷹へ兵を送り込む手筈を整えている。

 軽薄そうな男だが、これでも一国の主だ。国取りの一戦を征し、この乱世で頭角を現した傑物なのだ。

「道明、お主は行かないのだな」

「当然だよ。戦場に赴くなんてとんでもない! むざむざ殺されに行くようなものだ。かつての戦国時代とは違うのだよ」

「そうか、なるほどのう。……して、尾鷹はどうなる? まさか、皆殺しか?」

 侵攻が和平を遠ざける行為であると、刃は確信している。

 兵を送り込む道明に対して、刃はどうしても心情を聞きたかった。

「そんなことはしないさ。降り掛かる火の粉は払うが、尾鷹は領主を失ったことでもう戦意はないだろう。狐坂軍に吸収合併さ。かつての敵にも土地を与え、生活を保障する。そうして領地を広げていくことで、天下統一を目指すのさ!」

「ほう、ただの侵略ではないのだな。気に入った」

 またも神都の再現が行われるかと心配したが、杞憂に終わったようだ。

「して、道明。家臣と同じ色の袴を着ているのはなぜだ?」

 往々にして、領主は派手で立派な束帯を召していることが多い。

 道明が着用している地味な袴は、領主には似合わない。

「こんな小国で偉そうにしていたら滑稽だろう? それに、現在のご時世にわざわざ領主が目立つのは愚の骨頂だね。戦場に行かない理由と同じだよ」

「なるほど。聡いな」

「どうもー」

 播宗も神都も、どこかの勢力に滅ぼされてしまった。殺戮を許さない刃にとっては、仕える主は平和主義者を選びたい。その点で道明は優れている。

 道明の近侍として仕える人生も、悪くないと刃は考えていた。


    ◇


 狐坂と契約してから四箇月が経とうとしていた。暖かい気候となり、春の風が心地良い。刃はすっかり地種での暮らしにも慣れていた。

 刃は毎日道明に連れられ、各地に観光へと出向いた。修羅狩りの後ろ盾を武器に、道明は悠々と観光を楽しんでいた。遠方への外出要請には、過去の凄惨な事例を持ち出して断った。浮浪者に出くわすことも多かったが、刃の鶴の一声で追い払った。護衛のために道明に同行する刃だが、彼女自身も外出を楽しんでいた。

 時折道明が手を握ってくるので、刃は慌てて引き離す。こうした遊びが毎日のように行われていた。刃の狼狽する姿を見て、道明は呵々と笑っていた。

 刃と道明はしばらく歩き、大きな一本桜が立つ小高い丘に座った。刃に桜を見せたいと言い、道明に無理矢理連れられたのだ。花に興味はないと道明を突き放したものの、刃は桜の美しさに見惚れてしまっていた。

 花の観賞を楽しみながらも、刃は常に害敵への警戒を怠らない。そのせいで道明への注意が疎かになり、肩に手を回されていることに刃は気付かない。

 そうして、刃は道明にギュッと抱き寄せられてしまった。

「ちょっ、こら! やめぬか!」

「やはり可愛いな、刃君」

「……やかましいわ」

 刃の肩を道明はさする。こういった行為も、いつものことで慣れてしまった。

 かつて刃には兄がいた。刃が八歳の時に、兄は辻斬りに殺された。兄がもし生きていたら、道明のようになっていたのだろうかと密かに空想していた。

 道明を兄に重ね、彼の戯れを受け入れている自分がいた。

「刃君……」

 道明は刃の顔を覗き込んだ。いつもの笑顔とは異なり、神妙な面持ちだ。

「僕は天下を取る。そのために、刃君にはずっと僕の隣にいて欲しい。生涯、僕を護って欲しい」

「し、生涯……? それって……」

「僕と……結婚してくれ!」

「えぇ!?」

 刃は赤面して顔を伏せる。いつも刃を揶揄う道明だが、今日は真剣であると刃は感じていた。こうして異性に言い寄られたことが初めてであり、ここまで男性と親密に接したこともなかった。

 かつてない欲望と感情が、刃の胸中を往来している。だが恋にうつつを抜かしている場合ではない。刃は道明の要望を拒否しようと、必死に言葉を絞り出した。

「わしは……戦いしかできぬ……。恰好も小汚いし、道明の妻になれるような器ではない! わしは修羅狩りだ! 戦いの道具なのだ!」

 急な展開に焦るあまり、刃は思ってもいないことまで口走っていた。

 慌てる少女の言葉を遮って、道明は刃を抱き締めた。

「僕は君がいい。永年契約を所望する」

「うぅ……」

 いつもはすぐに離れる刃だが、今日は道明を受け入れていた。

 刃はもう、どうしたらいいかがわからなくなっていた。

「答えは急がないよ。落ち着いたら教えてくれ」



 地種に戻ってからも、刃はずっと上の空だった。戦いしか知らない少女は、男性との懸想や結婚について想像すらしたことがない。

 道明は変わらずに話し掛けてくるが、刃は目も合わせられない。

「こんなわしでも、恋をしてもよいのだろうか……」

 いかに契約者を護るか、いかに敵を退けるかしか考えてこなかった刃だが、道明に出会ってからは無意識に身なりを気にするようになっていた。

 しかし自身の手を見ると、長年の戦いによる胼胝たこができている。考えなしに長く伸びた髪は、お洒落とは程遠い。がさつで上品とはかけ離れた自分に、若くして領主となった道明と釣り合うとは思えない。

 それでも道明は、そんな自分を受け入れてくれた。好意を抱いてくれた。刃はそれが嬉しかった。道明と結婚をすれば刃は一介の修羅狩りではなくなり、妻として道明を護ることとなる。刃には、その覚悟ができつつあった。

「刃君……? 嫌いな具材でもあった?」

「……すまん。ボーっとしておった」

 そういえば、今は食事中だ。雑念に意識を削がれては修羅狩りの名折れ。本業を全うするために、とりあえず今は食事に集中しようと意気込んだ。

 このように思い悩んでいることを道明に悟られるわけにはいかない。邪念を払拭すべく、刃は湯呑に注がれたお茶を一気に飲み干した。

「刃君、それは僕のお茶……」

「――す、すまぬ! わざとではないのだ!」

 刃は誤って道明のお茶を飲み干してしまった。平静を装っても、全く落ち着けていないことが行動に現れている。だが失態はここで終わらなかった。

 湯呑を道明に返そうと伸ばした手が、茶碗に当たって味噌汁をぶち撒けた。

「あああっ!」

「ははっ、刃君は面白いなー」

 慌てふためく刃を見て、道明はおとがいを解いた。

 刃は気まずさを誤魔化すために、茶碗の米を一気に掻き込んだ。


    ◇


 蕭々たる晩春の夜。夜気が衣服の隙間を通り過ぎていく。

 刃はいつものように、道明の寝室で夜警に当たっていた。夜半の寝室で無防備な主君を御護りすることは、修羅狩りとして最も遣り甲斐を感じる時だ。

 道明とは屏風を隔てて、いつもと同じく就寝前の談笑をする。刃はこの時間が好きだった。何気ない会話でも、道明は上手く話を繋げてくる。話題が一向に尽きず、いつも道明が眠りに落ちるまで会話を続けるのだ。

 刃が狐坂と契約してから、幸いなことに外敵の襲撃を受けたことは一度もない。それでも刃は油断することなく警戒を続け、万全の態勢で警備に臨んでいた。

 今日も綺麗な星空だ。きっと無事に朝を迎えられることだろう。


 ――ガタッ。


「え――」

 視界の景色が目まぐるしく変化していく。突然の出来事に理解が追い付かない。

 どうやら足元の床が抜けたようだ。宙に放り出され、刃は数秒の後に着地した。

 急いで目を暗闇に馴致させ、刃は周囲の状況を確認した。辺りは煤けて薄暗く、鼻が曲がりそうな異臭が漂っている。

「ここは……どこだ? わしは道明を護らねばならぬ!」

 契約者と離れてしまうことは、修羅狩りとして最も避けるべき事態だ。一刻も早く道明の元へと戻らなければならない。

 見上げると、落ちた床は塞がれている。忍者屋敷のように床がどんでん返しになっていたようだ。そんな構造があるとは、現在に至るまで知らなかったことである。夢か幻か。いずれにせよ、ここでほうけている場合ではない。

「くそっ、刺客か! 道明、わしが行くまで待っておれ! 絶対に死なせぬ!」

 現在地がわからない以上、天井を斬って脱出するほか道はない。

 大きく膝を曲げ、刃が跳躍の姿勢を取った時だった。

「――!? な、なんだ!?」

 刃の足首に冷やりとした何かが触れた。目を向けると、人の形をした何者かが足首を掴んでいる。じっくりと目を凝らすと、なんとその者には首がなかった。

ものか……。なぜ、城の地下に……?」

「――僕が雇った殺し屋さ」

「――!?」

 刃は脊髄反射で振り向き、声の出所を見据えた。

 地下の中二階の見張り窓から、道明がこちらを見下ろしている。

「道明……? 無事か……よかった!」

 道明は合図をするように手を挙げた。

 すると周囲から、夥しい数の物の怪が姿を現した。瞬く間に場は瘴気で満たされていき、蠢動する異形の化物が刃に鋭い殺意を向けている。

「刃君、物の怪は妖刀でなければ斬れない。君の錆びた脇差では傷を付けることもできまい」

「……道明、何を言っている?」

 どうも様子がおかしい。道明は何かに取り憑かれたように顔を歪めている。

「まだ状況が理解できないのか? 君はここで死ぬんだ。修羅狩り」

「…………え?」

 刃は思考が停滞して固まった。そして、これは夢だと結論付けた。

 修羅狩りとしたことが眠ってしまったようだ。なんと不甲斐ないことか。だとすれば、この幻覚を打ち破る方法を考えなければならない。

 刃は現実逃避に意識を割き、周囲の状況が見えなくなっていた。そろりと背後から近付く影に気付けないほどに。

「――くっ!」

 肩に激痛を感じて振り返ると、物の怪が刃の背にしがみついていた。物の怪の爪が肌に食い込み、吹き出す血液が衣服を赤に染め上げていく。

 鋭利な爪が皮膚を裂く感触。肉体の損傷による痛覚。これは夢ではない。

 痛みによって強制的に現実に引き戻され、刃の幻想は水泡に帰した。

「道明……どうして……?」

「まさか、本気にしたのか? この僕が、君のような乳臭いガキと婚姻しようなどと……」

「う、嘘だ……嘘だと言え! いつものように笑ってみせよ!」

「残念ながら嘘ではない! 君は僕に付きっきりだったから知る由もないだろうが、隣国五国は既に堕とした。皆殺しだよ。仕方がなかった、彼らは奴隷となることを拒んだのだ。もう殺し屋との人脈も潤沢にある。後は遠方へ侵攻し、蹂躙するのみだ。この世は力が全てなのだ!」

「道明……」

 刃は悄然と立ち尽くした。視界が薄っすらと暈けてくる。

「尾鷹の民の生活を……保障すると言っていたのは嘘か……」

 大勢の人の死と、道明の裏切り。脳が受け入れることを拒否している。

「どうして……どうしてわしを殺す? わしが気に入らぬならば、契約を解除すればよかろう?」

 刃の縋るような声に対し、道明は泰然と答えた。

「君が人を殺すことを忌避するからだ。僕の政治にはそぐわない。他国と契約されても面倒だ。殺したほうが手っ取り早い。ガキとの恋愛ごっこには疲れたよ」

「そうか……わしを好いてくれたのではなかったのだな……。全て偽りか……」

 刃は胸に手を当てて、ギュッと拳を握った。

「わしは……お主のことが好きであったぞ。地種では楽しい日々を過ごさせてもらった。もし恋人がいれば、こんな感じなのかと……。毎日、柄にもなくウキウキしておったのだ……」

 刃は零れた涙を払い、脇差を抜いた。少女の怒りに呼応するように、刃の身体から黒の妖気が迸った。

「残念だ。狐坂道明。修羅狩りとは何者か、篤と見せてやろう」



 四方八方から襲い来る物の怪を、刃は寸分違わず一太刀で沈めた。

 百体はいた物の怪が、瞬く間に数を減らしていく。

「な、なぜだ! そんな脇差で……物の怪に傷を付けられるはずがない!」

「わしに斬れぬものはない。わしが握れば、どんな鈍物でも妖刀となる」

 物の怪は通常、特殊な方法で作られた妖刀のみでしか斬ることができない。一般的な刃物では、傷が再生してしまうのだ。

 豪剣斎が天禰の毒にやられたように、この世には剣術だけでは勝てない者が存在している。妖術、もしくは妖術を破る術がなければ、この歪な戦乱を戦い抜くことはできない。

 すると、斬られた物の怪が身体を擦り合わせて合体していく。身体中から人体の四肢を生やした異形の化物は、合わさって一体の怪物となった。

 体長は目測で二十尺。このような巨体とは刃も戦ったことがない。

「いいぞ、物の怪ども。勝てば報酬は大きいぞ。殺し屋の矜持を見せてみろ!」

 物の怪の合体を見て、道明は得意になって息を吹き返している。

「殺し屋に矜持もクソもないだろう……。物の怪の分際で日銭を稼ぐとは、変わった奴らだ。修羅狩りに歯向かう愚かさも含めて、馬鹿の極みだ」

 刃は脇差を鞘に納め、精神を集中させた。居合の構えで、見上げんばかりの巨体に正対する。同時に妖力を増大させ、蜷局とぐろを巻いた殺意で物の怪を縛り付けた。

「狐坂道明よ、覚えておけ。修羅狩りはあるじの牙。そう易々と折ることは叶わぬ。幾ら束になろうとも、殺し屋風情に敗れるようでは……修羅狩りは務まらんのだ!」

 ――抜刀。

 鞘を走る刀身が音なき唸りを上げ、巨大な物の怪を両断した。

 黒の妖気を纏った斬撃を受け、物の怪は傷の再生ができない。苦しむように身体を蠕動させた後、塵となって霧消した。そうして、周囲の瘴気が晴れていった。



「ひいいいいぃぃぃぃー!」

 物の怪の大群が刃に敗れる様を見て、道明は一目散に逃走した。急いで本丸御殿から出ると、曲輪を埋め尽くすように大勢の狐坂兵が待機していた。

 刃は易々と追い付き、道明の前に立ちはだかった。

 道明は恐怖のあまり、腰を抜かして倒れていた。

「曲者だー! 出会えー!」

「無様だのう……。これが、わしの初恋か……忘れよう……」

 刃を取り囲む狐坂兵の中には、殺し屋が数多く紛れていた。否、ほとんど全てが殺し屋であった。雑兵とは違う異質な雰囲気を醸し出し、一目で殺し屋であると見分けられる。山賊、剣客、忍び衆。特に目立つのは、夥しい数の妖怪。宙を舞う百鬼夜行が群れを成し、夜空を覆い尽くしている。

 それぞれが腕に覚えがあり、殺し合いを興じてきた猛者達である。得意の凶器を見せびらかし、開戦の合図を待ち侘びているようだ。

 その中に、とんでもない大物も紛れていることを刃は見逃さなかった。

 正巳流剣術継承者。百人斬りを成し遂げた大剣豪――正巳立馬まさみりゅうま

 古今東西の武術を修め、素手で熊をも仕留める武闘家――朽木重信くちきしげのぶ

 戦いを求め、同業の殺し屋に手を掛ける狂気の奇術師――愚楽遊娯ぐらくゆうご

 戦国時代に暗躍していた忍、童魔忍軍の現頭目――朱雀陽炎すざくかげろう

 日輪に伝わる妖怪集団、百鬼夜行の主――蟒蛇童子うわばみどうじ

 よくぞここまで集められたものだ。いずれも有力な殺し屋であり、一堂に会することなど有り得ない錚々たる面子である。彼らは道明に雇われてこの場に立っており、互いが協力関係にあるわけではない。しかし個人や組織に捉われず、共通の敵である修羅狩りに視線が向けられている。

 修羅狩りとは、殺し屋にとって災害と呼ぶに相応しい存在である。絶対に避けなければならない厄難として、先人から強く伝えられている。だが脅威であることのみが独り歩きをし、その存在は空想上のものと化している一面もある。戦えば死であるが故に、その実力を体験した者は多くない。殺生をしない修羅狩りという異質な存在は、音に聞こえし伝説をその眼に映す絶好の機会であった。

 そう、彼らは黒斬刃の品定めとして集まったのだ。殺し屋を震撼させる修羅狩りとは、一体どれほどのものであるかを確かめるために。そうして集まった殺し屋は百を超え、あわよくばここで修羅狩りを仕留めてやろうという算段である。

 しかしほどなくして彼らは、その判断を後悔することとなる。

 数に物を言わせて得意になる殺し屋に対して、刃は堂々と宣戦布告をした。

「おるわおるわ、うじゃうじゃと。力の差もわからぬ雑魚どもが……。わしに挑む者は前へ出ろ。どうだ? 纏めて掛かってきてもよいぞ?」

「…………!」

 刃の言葉に込められた殺意は、取り囲む殺し屋に絶望を与えていた。

 百を超える殺し屋の軍団は、たった一人の少女によって足止めをされている。死の想像を植え付けられ、金縛りにあったように動くことができない。

 彼らは自覚した。ここが既に猛獣の腹の中であると。

 殺気の優劣は実力差にも関わっており、殺意に呑まれた状態で勝てる道理はない。己が生きるも死ぬも、少女の意志一つ。完全に生殺与奪を握られている。一挙手一投足の全てを見透かされ、遁走はもう間に合わない。

 興味本位で修羅狩りに近付いたことがどれほど愚かな行為であったか、身に染みて痛感させられていた。上には上がいるという不変の真理。だがあまりにも壁は高く、届き得ることのない摩天楼。楯突こうものなら殺される。勝つか負けるか、そんな次元ではない。多勢の優位性は無いに等しい。羽虫がどれだけたかろうとも、燃え盛る山火事を消すことはできないのだ。

 修羅狩りを名乗ることは、己の実力が最強であることの自負。そして、血みどろの戦渦に抗う覚悟の表れである。敵方に腕力で劣ろうとも、敵が近しい実力を持ち合わせていようとも、その不撓不屈の精神が揺らぐことはない。どれだけ相手が強くとも、どれだけの数に囲まれようとも契約者を護り抜く。こういった気概が太刀に込められ、修羅狩りは最強のつわものとなる。

 勝てない相手とは戦わない、勝てないなら逃げればいい、そんな覚悟で戦っている者など高が知れている。私利私欲に溺れ、弱者を食い物にする殺し屋など相手になるはずもないのだ。

 こうして格の違いを見せつけることで、修羅狩りの威光は広まっていく。巣に返った彼らは仲間に告げるだろう。「修羅狩りには手を出すな」――と。

 殺し屋の戦意は疾うに砕け散っている。自身の他に標的と成り得る対象が近くに存在することだけが、彼らの心を落ち着かせる材料となっていた。可能な限り目立たないように息を殺し、少女の許しをじっと待っている。

「ふっ、安い挑発には乗らぬか……」

 しばらく殺し屋の集団を縛り付けた後、刃はふっと息を吐いて殺気を解いた。

 すると殺し屋の集団は、静かに刃から距離を取った。迷いなく踵を返し、蜘蛛の子を散らすように闇夜へと消えていく。殺し屋は誰一人として刃に牙を剥くことはなかった。どうやら脅しが利き過ぎてしまったようだ。

 立錐の余地もなかった城内は、数名の寡兵と領主の道明のみが取り残された。

 道明は絶望に顔を歪ませ、肘を地面につけて頭を抱えている。

「ど、どうして……」

「殺し屋とはこんなものだ。損得勘定でしか動かず、そこには義理も人情も存在しない。あんな奴らを信用して領内に置いておく気が知れぬ」

 残った家臣の一人が銅鑼を鳴らすと、大勢の狐坂兵が集まってきた。

 全員が腰の太刀を抜き放ち、刃に敵意を向けている。

「やめておけ。大人しくしておれば手出しはせぬ。実力差もわからんのか? 命は大事せねばならぬぞ」

 刃は一言の脅しを添えて相手にしなかったが、狐坂兵は抗う姿勢を変えない。なんと狐坂の兵には、殺し屋を撤退させた刃の殺気が通じないようだ。

 殺意とは、相手を殺すという明確な意思表示である。危害を加えるという強い思念が波動となり、標的の脳内に死に様を植え付ける。むざむざ人食い鮫の泳ぐ水槽に身を投じる者がいないように、強力な殺意の前には戦意を削がれて然るべきである。しかしこれは、命のやり取りをした経験のある者にしか感じることができない。無辜の民には効果がなく、狐坂兵もまた刃の睨みが通用しなかった。

 なんと鈍いことだろうか。野生を知らない家猫のように、彼らは外敵の脅威を察知できないのだ。百の殺し屋が尻尾を撒いて逃げる光景を目の当たりにしても、黒斬刃の実力を推し量ることができないのだ。

 刃は狐坂の兵から、殺意とは程遠い極少の敵意を犇々と感じさせられていた。領主の道明を護るために命をも擲つ気概だ。弱者であるが故の無知が恐ろしい。

 すると道明はそこに光明を見出みいだし、家臣への下命を叫んだ。

「我が狐坂の兵達、よく聞け! 黒斬刃は人を殺さない! 全員で叩け!」

「はぁ……」

 空虚な策に呆れた刃は、蹲う道明を見下ろした。

 そして、錆びた脇差の切っ先を道明の眼前に突き立てた。

 殺生を行うためではない。修羅狩りの矜持を傷付けられたからでもない。道明の今後の人生の糧として、修羅狩りの本質を知らしめる必要があったのだ。

 修羅狩りに対する畏怖の正体は、その名が示す通り惨殺の歴史の積み重ねである。現存する修羅狩りは、きっと刃のように温厚な者ばかりではない。決して暴力で出し抜ける相手ではなく、絶対に敵に回してはならない存在なのだ。

 いつの時代も、愚将の旗揚げほど梼昧とうまいなことはない。この厳しい戦乱で頭角を現した道明だが、実際は傑士でも何でもないのだ。彼は時代の寵児ではなく、むしろ時代の被害者だといえるだろう。

 誰が最初に始めたのか、殺し屋の目論見通りの世の中となってしまった。

 殺し屋が報酬の受け取りを後払いにしていることは、本当によくできた構造だといえよう。殺し屋を雇えば、自国の犠牲や被害を厭うことなくあっさりと戦争に勝つことができるのだ。力のない国でも強国に勝つことができ、一個人であろうとも将領になることができるのだ。

 そんな夢のような仕組みを利用しない手はない。これに道明は食いつき、無一文から領主へと成り上がったのだ。ただ殺し屋の掌の上で踊らされていただけだとは知らずに――。

 現代の日輪という魔境の摂理。それは、自然界の弱肉強食など生易しく思えるほどに厳しいものだ。領地を統べる者としてあるまじき愚行。あまりにも欠如した危機管理能力。修羅狩りを武力で捩じ伏せようなど、正気の沙汰とは思えない。

 だが道明には商才がある。その人並外れた野心と行動力を正しく使えば、立派な商人になっていたであろうことは想像に難くない。他人を煽動する力、更には大勢を纏める力もあり、時代が違えば将軍になっていたことも考えられる。出会った場所や立場が違えば、刃と仲良く笑い合えていた可能性だってあるのだ。

 そんな憐れな道明に、刃は情けをかけた。刃は道明の瞳を見据え、心の深淵に向かって強く語り掛けた。

「道明、知っておるか? 四肢が千切れようとも、止血をすれば人間は生きられる。視覚も聴覚も、生きるだけならば無用だ。わしは人を絶対に殺さぬが、殺す以外なら何だってできるぞ」

「ひぃっ!」

 刃は脇差の峰で、道明の首筋を優しく撫でた。殺し屋とは比較にならない殺気を放ち、虚構のかいなで道明の心臓を鷲掴みにした。

「お主から――生きる以外の全てを奪ってやろうか?」

「――――!!」

 刃の全力の殺気は、戦いを知らない道明の心に楔を打ち込んだ。道明は白目を剥いて動かない。恐怖のあまり、泡を吹いて意識を失っている。

 これでいい。これで彼は同じ過ちを犯さないことだろう。

「狐坂道明、どうして人の道を外れてしまったのだ……。一体どこで間違えたのだ……? 殺しは外道であると……お主は真なる眼で言っておったではないか!」

 刃は脇差を握り締めたまま、茫然と夜空を見上げた。冷たく光る錆びた刀身の輝きと共に、独り立ち尽くす刃の姿を月明かりが照らし出す。

 刃の戦いはどこまで続くのだろうか。いつになれば世界は平和になるのだろうか。日輪に充満する殺意を取り払うことは不可能なことなのだろうか。

 どれだけ精神的に打ちのめされそうになっても、刃は立ち止まるわけにはいかない。力に溺れた者によって繰り返される虐殺を絶対に阻止しなければならない。道明のような者がまた、日輪のどこかで現れるかもしれないのだから。

 その命が尽きるまで、刃の戦いは続いていく。底なしの悪意にまみれ、暗雲が立ち込める日輪に光を齎すために。

 佇立する刃の背後で、さく星月夜ほしづきよを彩る流れ星が音もなく走り去っていった。

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