2-4 師匠の《結界》の気配がします
咲羅が夕希と舞弥に案内されて風子学園を歩き回っていたころ、
「こんなことって……」
空芽は眉間にしわを寄せる。普段は信頼しきっている自分の感覚を疑いたくなった。それほどまでに、ここで感じたことは常識を覆すものだった。彼は学園への帰還を急いだ。
学園へ戻り、高等部生の制服に着替えてから、空芽は学園長室へ向かった。重厚な両開きの扉を三回叩くと、中から風牙の「どうぞ」と言う声が聞こえてきた。
扉を開けると、コーヒーの香りが空芽の鼻腔をくすぐった。学園長室は広々としていた。壁には歴代の学園長の顔写真が整然と並んでいる。
風牙は湯気の立ち上るマグカップを手に、悠々と窓際に立っていた。彼の奥にあるブラインドが全開の窓からは、澄み切った青空が覗いている。のどかな春の陽気とは裏腹に、空芽の心は重く沈んでいた。
風牙はコーヒーを一口飲み、ゆったりと革張りの回転椅子に腰を下ろした。その仕草には、これから聞く報告の重大さを知る由もない気軽さがあった。
空芽は緊張で固くなった足を動かし、応接用のソファの横を通り抜けて学園長用デスクの前に立った。
「五田村の事後調査が終わったため、報告に来ました」
「どうだった?」
空芽は神妙な面持ちで語った。
「風牙さんの予想通り、確かにあの村には破れたての《結界》の残滓がありました」
「だろう? あそこまで魔物が大量発生することはなかなかないからな。なにかあると思ったんだ。空芽に行ってもらって正解だったな」
空芽は緊張で湿った手を体の後ろに隠した。百六十センチメートルほどの小柄な体格からは想像もつかないが、高等部三年生の彼は既に学園の守備の要だ。《結界》の残滓から、まるで指紋のように個人を特定できる稀有な才能。その能力ゆえに今回の調査を任されたのだが、その結果を告げるのを躊躇っていた。
「で? 誰のものだった?」
風牙に催促されたが、空芽は口を一文字に引いたまま、何も答えない。口にする言葉がないのではない。どう伝えるべきか迷っているための沈黙だった。
「自分でも信じられないんですが……」
空芽は言葉を選びながら、ゆっくりと口を開いた。これから話すことが、いかに非現実的に聞こえるか、彼にはよくわかっていた。しかし、真実を告げるしか道はなかった。
空芽の前置きに、風牙は首を傾げる。いつにない慎重さに、風牙も身を固くした。
「どうしたんだ?」
空芽は肖像画に視線を向けた。一番右下には風牙の写真があり、その左隣で、前学園長を務めた
「……師匠です」
「なんだって?」
風牙は目を剥く。
「師匠の《結界》の気配がしました」
空芽の言葉に、風牙の表情が一瞬で凍りついた。
「ばかを言え!」
風牙は机を叩き、立ち上がった。跳ねたコーヒーが、書類に茶色い染みを作る。
「持之はもう死んだんだ、四年も前にな!」
「分かっています!」
空芽もつられて声を荒げる。
「でも、僕が師匠の気配を間違えることはありません!」
二人して顔を赤くしていた。睨み合いが続く。
少しして冷静さを取り戻した風牙は、力無く回転椅子に沈む。頭の中にさまざまなことが浮かんでくる。情報量で発熱しそうだった。
「死んでも持続する《結界》が存在するのか? ありえない」
「僕だってそう思って、何回も確かめました。でも、やっぱり師匠の気配なんです。師匠なら、ありえるかもしれないと思って」
「……もし本当にそうだとして、持之はいったい何を守っていたんだ。あの新入りか?」
「その可能性が高いですけど、でも、そしたら……」
空芽が気まずそうに言いかけた。
「ああ。風原の監視下にない風人について黙っていることは重罪だ。学園長だったあいつがそんなことするはずない、と思いたいが……」
「温厚に見えて、無茶をする人でしたからね」
「頑固だしな」
故人に思いを馳せ、風牙と空芽は笑いを洩らした。二人して、持之の写真に視線を送る。
風牙はふっと溜息を吐いた。肩の力が抜ける。憶測は危険だ。事実だけを見て判断しなければ。そう思った。
「忙しくなりそうだな」
「ええ。でもやっと……師匠がなぜ死んだのか、わかるかもしれません」
空芽の声には熱がこもっていた。
「だな」
互いに静かに頷く。二人の脳裏に、持之の笑顔が浮かんでいた。そして同時に、新たな謎を解く鍵を握っているかもしれない少女――咲羅の姿が浮かんだのだった。
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