お祝い返し

 数日後。


「ちい。少し頼まれてくれんか」


 居間でボロボロの夏目漱石を読んでいると、不意に祖父から声をかけられた。


「どうしたの、珍しい」


 私は本をいったん伏せ、祖父を見上げた。彼は机に、のし紙で包まれた手ぬぐいを無造作に置いた。


「いや、なに。桜井少尉の奥さんから昨日、ご丁寧な引っ越しの挨拶をいただいたものでな。そのお返しを持って行ってもらいたいんじゃよ」


「サクライショウイ?」


 聞き慣れない名前に首をかしげると、祖父は渋い顔をした。


「なんだ、名前知らなかったのか。ホレ。この間、ちいが尾行したあの兵隊さんだよ」


「ええ!?」


 私はまず、何故祖父がその事を知っているのかに驚いた。あの人が桜井さんなんだ、という点はどうでも良かった。


「なんじゃ、その顔は。お前らのやってる事など、村じゅうみんなが知っとるわ。あんまり馬鹿な真似はするもんじゃないぞ」


「ええー」


 私はうんざりしながら、机に置かれた手ぬぐいを見た。


『引越祝 沢沼草太郎』


 のし紙には、祖父の名前が書いてある。


「……これを持って行って、ついでに謝れってこと?」


「さあな。それはお前次第じゃ」


 絶対、謝れって思っている。


 そう直感してしまった私は、祖父の依頼を重たく感じた。


 しかしながら、断る理由もない。


「……はい。いってきます」


「少尉殿によろしくな」


 祖父は、なにくわぬ笑顔だった。


 渋々家を出て、引っ越し祝いを届けに行く。祖父から教わったその行先は、


「……コレ、なんでなの?」


 あのきつね屋敷だった。


 理解が追い付かないまま、中へ入る。


「ごめんください」


 すぐに返事は返ってこなかった。


 が、少しして、あの時の軍服さんが着流し姿で現れた。


「なんだ。いつぞやの女学生か」


 げ。顔、覚えられてる。


「あ。あの、その節は、申し訳ありませんでした!」


 しらを切れない以上、謝るしかない。私は素直に頭を下げた。


「気に病まなくても良い。それは何だ?」


「はい!引越の挨拶をいただいたと聞きまして、祖父からお返しを持っていくように言われまして!」


 私は、祖父から預かった手拭いを差し出した。


「そんなに勢いよく突き出さなくても良いだろう」


「え、す、すいません!」


 私本人としてはそんなつもりじゃなかったのだが、軍服さんからはそう見えたようだ。おそらく緊張で体に力が入ってしまったのだろう。困惑顔の軍服さんへ、私はまた謝った。


 引越祝を受け取った軍服さんは、のし紙が貼っていない部分を軽く撫でると、小さく頷いた。


「うむ、よい品だ。有り難く頂戴する」


「はい!」


 他に気の利いた返しもあったのだろうが、私は一言そう答える事しか出来なかった。


 変な間が空く。私の目は泳ぎ、軍服さんの顔には怪訝の色が浮かぶ。


「……えっと……」


「何だ。聞きたい事があるなら聞きなさい」


「え。あ、はい。ありがとうございます」


 意外にも助け船が出た。私は気持ちを落ち着かせようとしながら言った。


「どうして、いつもそんなに姿勢が良いんですか?」


 ……ちがうでしょ……。


 その質問は失敗だろうと自責する私を尻目に、軍服さんは声を立てて笑った。


「なんだそれは?」


 はい。我ながらそう思います。


「別に意識してそうしているわけではない。ただ、我々はお国を守るために働いている故、常に毅然としていなければならない。だから、おそらくその気構えが姿勢に出ているのだろう」


 しかしながら、この人はこんな下らない質問にも真摯に答えてくれた。表情も前より少し柔らかく、違った印象を受ける。


「でも、今日はお休みですよね」


「今、この瞬間も、我が同胞は命をかけて戦っている。それを思うと、仮に休みでもだらけるわけにはいかん」


 それは、兵隊さんなら皆が持つ感覚なのだろう。勝手な決めつけだが、私はこの人を見ていてそんなふうに思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る