夏休み

 とにもかくにも、夏休みは始まった。


 最初は、家族全員が弘一に手を焼くものだと思っていたが、どういう訳か彼は非常におとなしく我々の言う事を聞いてくれた。


 絶対にため込むと思っていた夏休みの宿題も、順調にこなしているようだ。


「あいつ、何かあったのか」


 とある日曜日の昼過ぎ、息子が遊びに出ている時間を見計らって、妻に聞いた。


「さあ。でも良い子にしてるんだから、あれで問題ないでしょ」


「いや、まあそうなんだが」


「最近は家のお手伝いもしてくれるようになったし、あの子が良い子だとわたしは単純に嬉しいけどね」


「んー……」


「……何か、気に食わないんですか?」


「あ、いやいや。悪い、そういう訳じゃないんだ」


 妻が冷たい敬語を使いだすのは、機嫌が悪くなる合図だ。俺は慌てて引くことにした。


「最近、いつも昼飯食ったら遊びに出てるらしいな」


「まあ、家に居たところでする事ないからね」


「そりゃそうだ」


 せめて兄弟でもいたら話は違ったのだろうが、こればっかりはしょうがない。


「もうちょっと、家が集落から近けりゃなあ」


「やっぱり、引っ越しは出来ませんか」


「まあなあ。やっぱり親父が元気なうちはここに住むのが良いんじゃないかって思ってさ」


「……そうですね。わたしが少し気にしすぎただけかもしれません」


 笑顔の妻。弘一の態度に彼女の心も軟化したのだろう。丁寧な物言いに不穏なものは一切感じられなかった。


       *


 その日の夕方、暇を持て余した俺は、家の周りをウロウロしながら父の帰りを待っていた。


 夏至はとうに過ぎたとは言え、まだ日没までが遅い時期である。あまり張り切られても体にさわるので、それなりに加減をしてもらいたいのだが。


 ちなみに、今日はまだ弘一も家に帰ってきていない。


 確か、今はもう6時を回っていたはずだ。


 これは久々に説教か。俺が気重にそう考えていると、弘一が北の方角から歩いてくるのが見えた。


「……え?」


 あちらに、民家は一切ない。あるのは黄泉小径だけだ。


 弘一がこちらに気づいた。明らかに動揺している。それはそうだ。夏休み以降、黄泉小径には行くなと何度も念を押しているのだ。


「また何か、嫌なことでもあったのか」


 俺は、まだ遠くにいる弘一に大声で聞いた。息子は無言で首を横に振る。


「じゃあ、何でそっちから来るんだ」


 弘一は走って寄ってきた。


「ただいま」


「そうじゃないだろう。父ちゃんの質問に答えなさい。お前、何で黄泉小径から来たんだ?」


 弘一は少しの間黙っていたが、ほどなく口を開いた。


「……ごめん、内緒にするって約束したから」


「大人に言えない約束なのか」


「……」


「悪い約束なんだな」


「ううん、違う!」


「じゃあ言いなさい。お前みたいな小さい子供が、親に言えない秘密を抱えるなんて不健康だ」


「……」


 息子は、律儀に口を閉ざした。


 三輪トラックの音が遠くから聞こえる。


 今夜は長い夜になりそうだ。

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