鏡越しの真由子。

「ぇえっ!?」


 変な声が出た。思わず振り返る。

 誰もいない。


「ちょっと、どうしたの?」


 間を置かず、私の素っ頓狂な声を聞いた母が心配そうにやって来た。


 私は気にも止めず周囲を見回すが、やっぱり誰もいない。


「何?ゴキブリでも出たの?」


 落ち着きなくキョロキョロする私を見れば、そりゃそんな風に思うだろう。私の焦りがうつったようにして、母も気忙しく辺りを見る。


 勿論、実際はそんなものがいたわけではない。


「ううん。ゴメン、何かの見間違いみたい」


「見間違いって……」


 ここで「あ、そ」と私の言い分を素直に聞き入れてくれる母なら、私も苦労はしない。


「……そんなわけないでしょ。あんなに大きな声だったんだから」


 案の定、母は食い下がってきた。こうなると何を言っても中々信じてもらえない。

 が、


「おい、行ってくるぞ!」


 不機嫌そうな父の一声が、母の推理を遮った。


 いつも自分勝手なタイミングでものを言う父を疎んじていたが、この時だけは彼のその習性に感謝した。


「あ、ハイハイ!」


 母は、いきなりの父の呼び出しを受けて、そそくさと私の前から姿を消した。


 私は、あらためて鏡を見た。


 真由子の姿は、未だそこに居座っていた。


 私は、右のこめかみ辺りを軽く何回か小突いてみた。


 ちゃんと痛覚は感じる。とりあえず夢ではないようだ。


 改めて見ると、鏡の中の真由子は小さな手をひらひらさせながら「おいでおいで」をしている。


 何だろう?


「ちょっと待ってね」


 誰にも聞こえないような小声で言うと、手早く身支度を整える事にした。


 少しして、父を見送った母が戻ってきた。


「母さん。やっぱりこの辺、虫がいるみたいだから」


 適当な嘘でごまかしつつ、メイクを簡潔に仕上げる。


「やだ。殺虫剤焚かないと」


 真に受ける母。当然こちらはその話を長々と続けるつもりはない。


「じゃ、私も行くよ」


「あら、今日はちょっと早いんじゃない?」


「そう?」


 確かに10分ほどは早いが、そんな事はどうでも良い。


 私は玄関で振り返り、化粧をチェックする振りをしながら、コンパクトの鏡を覗きこんだ。


 案の定、真由子が身振りで私を外へ誘っている。


「久美子」


 コンパクトをしまったその時、不意に名前を呼ばれた。


 見ると、祖父が直立の姿勢でこちらを見ていた。


「え、ちょっと大丈夫なのおじいちゃん!?」


 名前を間違えられなかった事よりも、体の弱い彼が真っ直ぐに立っている方が衝撃だった。私は駆け寄って祖父の肩を持つ。


 祖父は、強い視線で私を真っ正面から見据えていた。


「どこへ行くつもりだ、久美子」


 いつもの弱々しさが全く無い。私は戸惑い、祖父へ返事が出来ないでいた。

 すると、


「真由子についていくのか?」


 予想外の指摘に、ぎょっとして祖父を見る。


「やめろ。お前まで行ってしまうのか」


 私は、玄関に目をやった。

 私には見えないが、真由子がそこにいるはずだ。


 あの日、

 私が見失ってしまった、私の妹。


「……ゴメン」


 私は祖父の肩を離すと、駆け足で走り去った。


「待て!久美子!」


 後ろに響く祖父の声を振り切り、私は車に乗り込んだ。


「行くよ、真由子!」


 バックミラーで確認しながら言うと、ミラーの中の真由子は嬉しそうに頷いた。

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