覚悟
(そろそろ……戻ろう)
高価なシャンパンの余韻が、喉を滑り落ちていく。
さっきまで浮かれていた卓の空気は、少しずつ落ち着きを取り戻していた。
(ちゃんと笑えたし、ちゃんと接客も出来た。いつも通りなのに……)
心のどこかが空っぽだった。
会話をしながらも、視線はずっと――莉子の方ばかりを探していた。
「赤姫さん、俺、また来るからさ。次はもっとすごいボトル入れちゃうよ」
「……楽しみにしてます」
笑って、手を振る。
いつも通りの笑顔に、いつも通りの接客。
でも、それが終わった瞬間すぐに立ち上がり莉子の所へ向かう。
(早く、あの子のところへ……)
あの席へ向かう。あの、いつも落ち着いて話せる場所。
莉子が待っているはずの席。
けれど。
そこに――彼女の姿は、なかった。
(……え?)
瞬間、胸がぎゅっと締め付けられる。
張り付いていた笑顔が崩れていくのを感じる。
グラスの中に、ぬるくなったジュースだけがぽつんと残されていた。
(帰っちゃったの……?)
信じたくなくて周囲を見渡す。
でも、どこにも莉子の姿はなかった。
どんな顔で去って行ったんだろう。
寂しそうだった。あの目を――今さら思い出す。
心がズキズキと痛む。
あのとき、彼女の手を離さずにいられたなら。
「……っ、バカみたい。私はキャバ嬢よ。1人のお客さんにこだわるわけないじゃない」
呟いた言葉は、小さく震えていた。
気づいたら、指先がグラスの縁をなぞっていた。まるで彼女の手の名残を探すように。
(待ってるって言ったのに)
届かないと分かっていながら――今すぐにでも、あの子のもとに駆け寄りたい衝動に駆られていた。
~莉子~
「……莉子? ねえ、莉子ってばー?」
「……なに?」
ぼんやりしていた視線が友人へとむかう。
「どしたの、朝からずっとぼーっとしてない? また寝不足?」
「……えぇ。ちょっとね...」
隣の席の並木が、眉を寄せて覗き込んでくる。
なんかあった? バイトで揉めたとか?」
「違うわよ、そんなんじゃない」
並木は少しの沈黙のあと、小声でからかうように囁いた。
「もしかして……好きな人とかできた? ふふっ」
「っ!? ち、ちがっ、そんなわけないでしょ!!」
思わず声が裏返る。
並木はくすくすと笑って、ノートに目を落とした。
「図星疲れたらめっちゃ子供っぽくなって可愛い」
「っ、覚えてなさいよ」
「こわーい!...でもさ珍しいよね。莉子がそんな風に悩むの」
こんな風に授業の内容が頭に入ってこないほど誰かのことを考えるなんて初めてだった。
(……燈さん。なんであんな楽しそうな顔してたのよ)
(私の前だと大人ぶって...あんな風に笑ってなかったくせに)
ぎゅっと、胸の奥が苦しくなる。
言葉にはできないこの気持ちを、抑え込むために、本に視線を落とす。
(……悔しい。意味わかんない。私の方が、ずっと前から見てたのに)
思い出すのは、あの高額ボトル。
隣のホストに向けた燈に向けた笑顔。
(……私だって、負けたくない)
(次に会ったときは――私の方が、いっぱい貢いでやるんだから)
手のひらがじんわりと熱を帯びる。
本の文字はもう見えていない。
「莉子?」
「……ごめん、ちょっとトイレ」
椅子を引いて立ち上がる。
その背中に、舞の小さな声が追いかけてくる。
「……ほんとに、なんでもない?」
振り返らず、ただ曖昧に笑って教室を出た。
けれど、決まった。
彼女に捧げる物を。
もう遠慮なんていらない。
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