第2章 溝戸大学

 有輝は数日前、紙切れを手に入れた経緯いきさつについてのろのろと話し始めた。


「俺、辻宮つじみや駅の近くにある大吾とは別の柔道教室に電車で通ってるんだ。で、その日も教室に行ったんだけど……」有輝は、駅に着いたタイミングで教室が休止になったとの連絡が入っていることに気付いたのだという。さらに間の悪いことに、有輝は家の鍵を忘れてしまっていた。今日は母親も有輝と同じ時間に用事で家を出ていたため、あと一時間は家に入ることができない。仕方なく、有輝は駅やその周辺で時間を潰すことにした。


 幸い、駅の構内にも周辺の商店街にも店はたくさんある。一時間くらいは大丈夫だろう。そう思って歩き出した時、有輝は目の前を早足で横切った男のポケットから一枚の紙切れが落ちたのに気付いた。落としましたよ、そう言おうとして紙切れを拾い上げた時には、男は電車に乗り込んでしまった後だった。


 その時も、有輝はさほど気にも留めなかった。この紙切れが大切なものなら、その内に男は戻って来るだろう。もし戻って来なかったとしても、これを駅員に渡せばいい。時間もある。そう思って、有輝は駅のベンチに腰掛けてしばらく待ってみることにした。


「待ってよ。だったら何でその紙を持ってるの?」華は口を挟んだ。


「その落とした男、結局戻って来なかったの? だったら駅員さんに渡せばいいんじゃない?」


 もっともな問いだったが、有輝は違うんだ、と首を横に振った。


「その男、しばらくして戻って来たんだよ。でも……」


 十分もしない内に戻って来た男は、紙切れがないことを確認するや否や、もの凄い勢いで周りの人々に食ってかかり出したのだという。


「おい、俺の紙を取ったのはどいつだ!? お前か、それともお前か!? 正直に言え!」


 男は声を荒らげ、周囲の乗客や駅員を片っ端から問い詰めていった。その様子は明らかに尋常ではなく、有輝を恐怖させるには十分だった。


 自分は何かヤバいものを拾ってしまったのではないか。そう感じた有輝は、男に気付かれないように駅を出ると、コンビニにも本屋にも寄らずにまっすぐ家へと帰り、母親が帰って来るまでずっと庭先で息を潜めていた。その後、紙切れを開いてみると、この数字が書かれていたのだという。


「俺、これを見ても何のことか分かんなくて……その時、大吾から探偵団の話聞いたの思い出してさ、相談してみようと思ったんだよ」


 華は渡された紙に書かれた数字をまじまじと見る。八十文字の数字が四行に分かれて二十文字ずつ並んでいる。見たところ、パスワードや暗証番号の類いではなさそうだ。そして、紙を落としたことに気付いた男の取り乱しぶりを考えると、これは透の言う通り……。


「暗号ねっ! そして男はこの暗号を使って何か悪いことをしてる犯罪組織のメンバー!」


「ええっ」その言葉を聞いた有輝が身を竦ませる。松村有輝という少年、図体の割に肝は意外と小さいらしい。まあまあ、と優がなだめに入る。


「ところで有輝、それから何か変わったこととかなかった? 例えば誰かに監視され

てるとか……」


「いや、特にないと思うけど……」


「だったらいいんだけど……もし、何かあったらすぐに言ってね。僕たち、県警の首藤しゅとう警部って人とも知り合いだから」


「お、おう……やっぱすごいんだな、お前たち」


「だから、ひとまずこの紙は僕たちが預かってもいいかな?」


「ああ、頼んだ」


 有輝がホッとした様子でその場を離れようとした時、最初に「暗号だね」と言ったきり黙っていた透がその背中に「ねえ」と声をかけた。


「有輝って右利き?」


「そうだけど……」キョトンとした表情で答える有輝の右手を指さして、透はこう言った。


「利き手は大事にした方がいいよ。さっき、右ポケットに入れてた紙切れを左手で取り出したってことは、どこか右手を怪我してるってこと。怪我したのは今日の体育かな?」


 何でもない風な透の「推理」に、有輝は半分驚き、半分感心したような顔をする。


「よ、よく分かったな……そうだよ、今日の体育で突き指しちゃったんだ。一応保健室で湿布貼られたけど、手とか洗ってたりしたらすぐ外れちまったし、ちょっとズキズキするくらいだから別にいいかなって」


「駄目だぞ」間髪を入れず翼が忠告する。


「突き指はそのままにしておくと余計に酷くなるからな。きちんと湿布を貼ってしばらく安静にしておいた方がいい」


「あ、ああ、分かった」有輝は翼の言葉に頷くと、


「じゃあ、その紙のこと頼んだぜ……それにしても、透が頭いいって噂、ホントだったな」


 と、最初に紙切れを持って来た時に比べていくらか軽い足取りで廊下を去って行った。



 翌日の放課後、場所は六年二組の教室。優は透たちと共に首を捻っていた。机の上には暗号の紙と三冊の文庫本。本は図書室や透の家から持ってきたものだ。いずれも『短編集』『傑作選』といったタイトルが付いている点は共通しているものの、作者の名前は全て異なっている。表紙に書かれた名前は江戸川乱歩えどがわらんぽ、その名前の由来になったエドガー・アラン・ポー、そしてミステリ好きならその名を知らない者はいないであろうコナン・ドイル。透がその内の二冊を手に取って言った。


「ポーの『黄金虫』やドイルの『踊る人形』によると、英語で一番多く使われる文字はEらしいんだ」


 その言葉と同時に優は一枚のメモ用紙を暗号の隣に置く。暗号にそれぞれの数字がどれだけ使われているか多い順に示したものだ。暗号本文と合わせて見ると、その差が一目で分かる。



  00427980000800110231

  13680020037501960216

  03750021006579800090

  01170025037500210216



  0…31回

  1…11回

  2…8回

  7…6回

  3,5,6…5回

  8,9…4回

  4…1回



「う~ん……」


 何か規則性があるようには見えない。あまりにも文字数のバランスが悪い。特に0の数が他に比べて多すぎる。


「単純に数字を他の文字に置き換える、って訳ではなさそうだね」


「そもそも、英語が関わっている訳でもなさそうだな」と翼。


「話を聞く限り、松村が見た暗号の落とし主は日本人だ。だとしたら、英語をさらに暗号にするとは考え辛い。それに、数字を他の文字に置き換えるとしたら、十文字の数字では仮名にしろアルファベットにしろ少なすぎる」


「じゃあじゃあ」そこで華が口を挟んだ。


「数字を二文字ずつペアにするのはどう? 例えば、最初の00で“あ”になるとか」

 一見筋の通った推理に思えたが、それに「いや」と異を唱えたのは意外にも大吾だった。


「それは違うと思う。有輝の力に少しでもなりたくて、俺も自分なりに考えてみたんだ。その時に今華が言ったやり方も思い付いたけど、それだと、ほら」と言って、大吾は三行目の右二文字を鉛筆で指した。


「その方法だと、ここは九十番目ってことになるだろ。でも、仮名ってそんなに多くないんだ。が行とかぱ行の他に、小文字も入れてやっと八十文字になるんだ。九十文字なんて中々いかないんじゃねえか」


 なるほど、もっともな指摘である。優は幼なじみが見せた意外な鋭さに驚いた。華もそれは同じだったらしく、一瞬不満そうな表情を見せたものの、一応は納得したのかすぐに引き下がった。


 どうやら、暗号から謎を解くのは後回しにした方が良さそうだ。優がそう思って他にヒントが無いか紙をよく見ようとした時、「ねえ」と透が出し抜けに声をかけた。


「もしかしてこの紙、真ん中で切れてるんじゃない?」


「えっ?」優を始め、他の四人も紙に顔を近付ける。言われて見ると確かに、紙の下は細かくちぎられたようになっている。折り目に沿って定規を当て、はさみを使わず紙を切る方法にも似ているが、これはごく自然にちぎれたように見える。おそらく、普段から紙を折り畳んで持ち運んでいた結果、どこかで紙がちぎれたのだろう。だとすれば有輝が拾ったのは暗号の前半部分ということになる。やはりこれだけでは暗号は解けそうにない。さらに、優は紙の全体を見てあることに気付いた。


「あれ、暗号の周りにも何か書いてある」アルファベットの大文字が紙の端に印刷されている。優はそれを読み上げた。

「えーと……M、I、Zと……後は左側しかないけど、Oかな」


「そのようだな」優から紙を受け取った翼が頷く。


「Zの後にCやGやQが来るとは考えにくい。それに、M、I、Zと来れば何が書いてあるか大体は分かる」


「MIZODO……溝戸、か……」自分たちが住んでいる県の名前。県内にあるどこかの施設だろうか。よく見ると、反対側にも別の文字が書いてある。こちらは小文字のようだ。


「こっちは……最初はやっぱり切れてるけどu、その次がn、i、vかな。でも、univって何だろう」


 優が首を傾げた時、扉が開く音と共に誰かが教室に入ってきた。


「あらあなたたち、まだ帰ってなかったの?」


 入ってきたのは六年二組の担任教師、樽井たるいすず先生だった。最初こそ透たち(主に華)が探偵団として行き過ぎた活動をすることにいい顔をしていなかったこの先生も、今では(主に華が)度の過ぎたことさえしなければ探偵団を見守ってくれる、頼れる味方である。ふと優は、樽井先生にこのアルファベットの意味を聞いてみようと思い立った。


「先生、ちょっと聞きたいんですけど、univってどういう意味ですか?」


「ユー……? ああ」案の定、すぐに答えが返ってきた。


「それなら多分、“ユニバーシティ”、大学のことじゃないかしら」


「ユニ……大学?」


「ええ」先生はチョークを取ると、黒板に“university”という文字を書いた。


「これが大学を意味する英語、“ユニバーシティ”。そして」と、黒板消しでeから後

の文字をサッと消した。すると、後に残った文字は……univ。


「こうやって最初の四文字以外を省略しても、大学って意味は伝わるわね。大学がどうかしたの?」


「いえ、何でも」優はとっさに誤魔化した。調べたところ、探偵には『守秘義務』というものがあるらしい。先生であっても、無闇に依頼人、すなわち有輝のことを話すわけにはいかなかった。


「そう」樽井先生はそれ以上は訊こうとしなかった。


「雨が降りそうだから早く帰った方がいいわよ。もうすぐ梅雨だしね」それだけ言って、教室を出て行った。


「……大学、か……」先生の姿が見えなくなると、大吾がポツリと呟いた。


「ってことは、やっぱだよな……」


 大吾が何を言わんとしているか、優にも理解できた。「溝戸」「大学」と来て真っ先に思い付くのは……


溝大みぞだいだね」


 溝戸大学、通称溝大。県の名前を持つ国立大学。横川町からは意外と近く、横川駅から乗車して途中で急行に乗り換えれば、三十分で着く。


「でも、どういうことだ? 暗号を作ったのは溝大の奴ってことか?」


「ねえ」


「どうなんだろう。翼のお父さんって大学の先生じゃなかった?」


「ねーえ」


「父が勤めているのは溝戸大だ。溝戸大学とはキャンパスの方向が違う」


「ねえってば」


「うーん、他に誰かいないかな? 知り合いに溝大の学生か先生がいる人」


「話を、聞けぇー!」


「痛っ」急に頭に衝撃を受けて優が振り返ると、華がこちらを睨みつけている。どうやらチョップを食らったらしい。全く、こういう時に背が低いと損だ。


「何だよ、華」


「いたんだってば。あたしの近くに」


「誰が?」


「溝大の人」



 そのマンションは、横川駅から歩いて約500メートル、松江まつえ川という一級河川のほとりに建っていた。五階建てと小ぶりだが全体的に新しく、建てられて僅か数年しか経っていないことが分かる。エントランスの脇には『シャトー横川』と書かれたプレートが掛かっている。どうやらこれが名前らしい。クリーム色の壁に彩られた外見と合わせて、いかにも一人暮らしの大学生が住んでいそうなマンションだった。


 二日後の土曜日、透たちはマンションのエントランスに立っていた。このマンションの住人である、溝大に通っているという華の知り合い――九歳上の従姉――に会いに来たのだ。時刻は向こうが指定した午後二時、雨は午前中に上がり、雲間からは太陽の光が覗いていた。


「着いたよー」


 エントランスのインターホンで華が相手を呼び出すと、扉がするすると開いた。華は大吾に預けていた手土産の入った紙袋を受け取ると、先頭に立ってエレベーターホールへと向かっていく。


 エレベーターで四階まで上がると、ここでも華は迷わず廊下を奥へ進んでいった。突き当たりの少し手前、415号室の前で足を止める。


「ここが従姉の……」そこまで言って、華は急に言葉を切った。その理由は、扉を見ればすぐに分かった。扉にはこんな紙が貼られていた。




        合い言葉を言え


 平等院堂 平凰 平等 平院凰 院凰 平鳳

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