アークコミックス:次元連結事変

こたろうくん

NEW ORDER

第1話

 小気味良い音とともに空き缶が入道雲そびえる青空に高く跳ね上がった。


「わーっ! ねっねっ、見た? 見た? ねーってばあ。ねえっ、ザガン!」


 竜らしくもなく全身に羽毛のような白い毛を蓄えたバジラが四肢をばたばたと暴れさせ興奮冷めやらぬ声で何度も確認を求める。


 彼女を両手でしっかと掴み上げていたザガンは自らを見上げるバジラを見下ろし、彼女の翠玉のような瞳を見つめて「以前は葉を揺らす程度が精々だったのにな」そうしみじみと頷く。


「どれくらいやっつけたか見てみよーよ! はやくはやくっ」


 ザガンの腕にしがみついて、そのまま背中まで這っていったバジラは彼の両肩に後ろ脚をかけ頭頂部から顔を出し、そして前脚で頻りに彼の黒髪頭を叩いた。


 彼女に急かされながら地面に転がる空き缶へと歩み寄り、それをザガンは拾う。鮮やかな赤いアルミの本体には流れるような字で白く、社名でもある飲料の名前が画かれている。それが今やくしゃくしゃに歪んでいた。

 そうしたのはバジラの吐き出す圧縮空気のさく裂だ。


「うーわ、べっこべこ! このちょーしなら元通りまであっという間だね!」

「乱暴になるのは善くないけど、な」


 ザガンの手から自らが変形させた空き缶をひったくり、器用な前脚でお手玉してはしゃぐバジラをザガンは諭した。


 かつては山のような巨体を誇った竜――バジラも今や猫くらいの大きさしかなく、街に吹き掛ければ屋根という屋根が剥がれ飛び、人が木の葉のように舞い上がった吐息もご覧の有り様。彼女を斯様な姿に留める封印は故郷を遠く、それは遠く離れた場所に於いても機能しているようだ。


「それよりお腹すいたよ。帰ってごはん食べよーよ。それかさ、このまわりでいっぱいみんみん鳴いてる虫食べよっ」


 空き缶をビニール袋の中へと片付け、建物の建設予定地を裏手からこっそりと後にする。バジラへと「帰って飯にしよう」とザガンが告げて、するとバジラはセミの鳴き声を惜しみつつ彼の選択を尊重するのだった。


「今日のお昼はー、ビフテキ!」

「今日のお昼は肉味噌の野菜炒め」

「えーっ、それって昨日の残りものじゃん!」


 残り物には福がある――ぶー垂れるバジラをそう窘めるザガン。二人が大通りへと出る。日曜正午、己頃おのごろ良保日来坂町りょうもつひらいさかまちには大勢の人がいる。そして往来する人々はザガンの頭を抱えたバジラという竜の存在に別段興味を示さない。


 ――照り付ける陽射しの鋭さにバジラが太陽を詰り始めた頃、帰路に着く彼らとは真逆の方角で振動を伴う爆発の轟音が駆け抜けた。

 おやと不思議がったバジラが振り返ってみてすぐザガンも身を翻し、そして駆け出す。


「ちゅーちょなーし!」

「すまん……!」

「さいこーだよ! ザガンはそうでなくっちゃねっ」


 ぜんそくぜんしーんっ――先端部に羽毛を蓄えた尻尾をピンと屹立させたバジラの姿が夥しい光の粒に変じて霧散する。直後、ザガンの全身を円と線からなる幾何学的じみた紋様が包み込んだ。


 そして彼がぐんと身を屈め、踏み込んだ右足で思い切り路面を蹴ると、彼の身体は一瞬にして空高くに駆け上がっていった。


 少年の去った場所には一陣の風が残り、一部始終を目撃した者たちはその風に巻かれながら無人の空を見上げ続けるのだった。





 ザガンとバジラが五二八いふや通りから跳び立つ三十分前、“異変”への対処に通所“屯所”から飛び出した 青と白のSUVが唸りを上げて通りを駆け抜けた。緊急を示す赤色灯が旋回しながら輝き、分厚い装甲板に覆われた巨大な車体が次々に先行する車たちを追い抜いてゆく。運転席ではブロンドの坊主頭をした掘り深い顔の男性が助手席に座る少女に苛立った様子で言った。


「今月入ってもう二回だ。この間まで三ヶ月に一回もありゃ多い方だったろ」


 どうなってんだ、クソ――デイヴィッド・マルクスの悪態に彼の隣の少女は荒れ狂う景色を映すサイドウインドーへと視線を向けてため息一つ。肌が白く体毛は金色であるデイヴィッドとは真逆で、少女の肌と髪は黒い。


「勝手にグチって勝手に完結してんじゃねーよ。うんざりしてるのはアタシだって同じだってのに、どうしてそうアンタばっかりそうやって文句モンクもんく……。だいたいね、もとはといえばアンタがもたもたしてたからアタシたちこんなワケのわからないとこに来るハメになったんじゃん。そこんとこアンタほんと理解してんの? 理解したうえでアタシに向かってグチグチ言ってんだ? じゃあ言わせてもらうけどアンタはそのどーしょーもない愚痴をどの口で言ってるのかしら? ねえねえ、どの口? その口? 汚い言葉ばっかり吐き出す髭の汚い口?」


 よほどデイヴィッドの悪態が頭にきたのか堰をきったように反論を吐き出し始めた少女はシヴィエイラ。

 デイヴィッドとペアを組むダークエルフの女である。


 彼女はデイヴィッドの口元へと手を伸ばすと彼の唇を掴んだり髭をつまんで引っ張ったり。その間もずっと彼女は「アタシ一人ならオーロラから逃げられたのにさ。おかげで今じゃこーんな空気の悪いヒトの街で蒸し蒸し熱っ苦しい毎日を過ごしてるんだ。しかも一緒に来たからってそんな理由で異世界くんだりまで来てアンタと組んで働くハメにまでなって。あーあ、果たして愚痴りたいのはアタシとアンタ、どっちかしらー? わかってんでしょ?」と喋りっぱなしだ。


「だーってろこのクソアマ! こっちは運転してんだ。こんな自動運転もついてねぇクラシックな車をだぞ!? もしその減らず口を今すぐ閉じなきゃの前にテメェのドタマぶち抜くぞ」


 もちろんシヴィエイラの手から逃れてデイヴィッドも言い返す。だがシヴィエイラもまた、当然とばかりに言い返した。


「あーらあら、ドケチな守銭奴デイヴィッドさんがずいぶん羽振りよくなっちゃってまぁ。お給金もらって弾丸たまも経費で落ちるとなると違いますこと。というか、アンタのへなちょこな腕で誰の頭をぶち抜くですって? 脅すならもっとましなこと言いなさいよね。ほんと最低だわ、アンタって」

「ケッ、最低さならテメェだって大概だろ。ぺちゃくちゃぺちゃくちゃと鳥みてーに朝から晩までくっだらねえ文句垂れやがって。テメェみたいなエルフなんざ見たためしがねえや。イヤならMCかDJでもやってろ。まっ、こんなイヤミな口しかきけねえクソエルフなんざ何処もゴメンだろーけどな」

「はぁ!? アンタまだエルフに対してそんな見識しか持ってないんだ? やっぱり違うわねー、ヒトって。エルフは淑やかで高貴でなよなよしてて、魔法や弓でもって非力と勝手に思い込んでる。こっち来てからそんなのばっか。無作法で高慢ちきでなよなよ弱っちいのは実のところエルフとヒト、果さてどっちでしょう? 忘れちゃいまちたかー? ヒトのデイヴィッドくーん? 今ここでキミの腕、へし折ってあげてもいーんでちゅよ?」


 口をとがらせ赤ちゃん言葉でデイヴィッドを挑発するシヴィエイラだったが、そうしていると急に彼女の体が横に強く引き寄せられ、ツインテールを結った頭がサイドウインドーへと激突。ごつんと鈍い音が響いて彼女は鈍痛走る頭を抱えた。


「おおーっと、ごめんなあ! 急カーブだったわホントすまん。お前とのおしゃべり楽しすぎてついつい言うの忘れっちまったぜアホエルフ」

「ちょっと、アンタ――」

「ようやくケツが見えてきたぜ。出番だ、準備しなシビラ」


 してやったりとばかりに顔をにやつかせるデイヴィッドをシヴィエイラは忌々しげに涙の滲んだ瞳で睨むものの、すぐにそれを引っ込めたデイヴィッドが顎で示す先を見て彼女もまた頬を引き締めた。


 複数の車両が追突や横転をして阿鼻叫喚の事態に陥る通り。二人の視線が向かう先にはそれを引き起こしたであろう存在がさらに一台、車を払い除けながら車道を走る。


 その姿をシヴィエイラが目を細めて凝視する。そして――


「あれエルフだ」

「あん?」

「話せば分かるかもって言ってんの」

「いや、おい待てありゃ――」


 エルフだという対象の人物にもう六十秒もしない内に接触出来るというところで、デイヴィッドは周囲の状況も構わず突然に、しかも大きくハンドルを切った。SUVの車体が急旋回を行い、デイヴィッドの乗る運転席側が傾きながら正面を向く。


 直後、閃光が一帯の色彩を白く飛ばし、その後に赤と橙色の灼熱が爆発的に生じて、衝撃が轟音と共に迸った。


 光る残滓の残る右手、その掌に再び五指を握り込み、エルフは逃走を再開しようとした――


「アタシは話し合いで解決しようって思ってたんだよ」


 エルフの青白く、頬の痩けた何処かは虫類にも通じる表情が歪み、轟々と大炎上するUSVの上空を彼は見上げた。そこには黒い魔力で形成された大弓を構えたシヴィエイラの姿があった。


 弦を引き絞る彼女の左手が指を離すと、弓と同じく魔力によって作られた矢が残滓の尾を引いて宙空を鋭く走る。エルフはとっさに魔力の光が灯った左手を差し向けたが、生じた力場をシヴィエイラの矢は容易く貫き、エルフの長身痩躯が弾き飛ぶ。


「大火球なんて高カロリーなもんぶっ放したら、いくらなんでもMPのリチャージ間に合わないでしょ。そんな余りものの魔力で作った盾で躱せるほど、アタシの魔法はヤワじゃないんだ」


 上空六メートル近くから硬いアスファルトの地面へと軽やかな着地を果たしたシヴィエイラ。彼女は一度、炎上続けるUSVへと振り返ってから、そうしてから地に伏したエルフへと歩みを進める。


故郷くには違うだろうけど、同じエルフだ。これ以上痛めつけたくない」


 だから大人しくお縄について――シヴィエイラが取り出したのは手錠。だが手錠と言ってもいささか大きく、外見も機械的だ。


 これは魔法や、それに類する超常現象を引き起こす可能性がある者に対して使われる特別なもので、精神鎮静剤と弛緩剤を円環部内側より対象に投与し無力化。認識能力を混乱させ“超能力”を行使不能に陥らせる。


 全身に巡る激痛故か、地面で蠢くエルフの月のように金色の瞳が近付くシヴィエイラを見た。黒い瞳孔がきゅっと締まり、細い亀裂のようになる。


「アンタまだ――」


 エルフの眼に何かを感じ、逮捕を急ぐべく走り出したシヴィエイラだったが、僅かに遅かった。彼女の足元のアスファルトが微塵に砕かれ、中から無数の蔓が出現。荒れ狂う蔓の一つが身を翻したシヴィエイラの手から手錠を弾き飛ばし、それに気を取られた彼女を一斉に襲った。


 シヴィエイラが舌打ちする。先ほどエルフにかけた言葉がそのまま自らに返ってきたような今の状況に苛立ったからだ。


 蔓の一つ一つは大したものではないだろう。だがそれが幾つもとなると、魔弓という大きな魔法の行使によって貯蔵していた魔力が枯渇した彼女にはすぐに逃れ得る術が無い。

 新たに捻出した魔力で即座に魔法を組み立て、突破できても時間がかかる。見ればエルフは既に立ち上がり、走ろうとしていた。


「待ちなさいってば――!」


 身を翻し、身を屈め、次々と波状攻撃を敢行する蔓を避けるシヴィエイラの焦燥した声が虚しく響く。しかし彼女の声にはなんの力も無い。

 だが、遠ざかってゆくエルフの背中を忌々しげに見詰めるだけの彼女の耳に一発の銃声が、そしてその目には足をもつれさせて倒れ込むエルフが映る。


 デイブ――とっさに彼女が声を上げた。周囲を見渡すと通りの端に全身から煙を上げたデイヴィッドがいて、その手には角張ったオートマティックの拳銃が構えられている。

 蔓の包囲網からなんとか転がり出ることができたシヴィエイラはデイヴィッドとエルフを交互に見た後、デイヴィッドへと言う。


「あっ、アンタ――アンタねえっ、遅すぎでしょ!」

「うるせえ、焼死ってのは中々死ねねえんだよ」


 げほっとデイヴィッドが咳をする。

 彼の吐息には煙が混じり黒かった。


「ちっ、くだらねえ。九ミリじゃ皮も破れねえや」


 転倒したエルフに対しデイヴィッドはさらに一発、二発と弾を撃ち込む。その度にエルフは身悶え呻き声を上げたが、血は一滴として流れなかった。


 エルフの肉体は頑強。それはシヴィエイラをして同じであり、彼らの皮膚は弾丸すら弾き返すのだ。


 今のうちに確保しろとデイヴィッドはシヴィエイラへと手錠を投げ渡す。何処か釈然としていないようなしかめっ面を引っ提げ、シヴィエイラはうずくまるエルフのもとへ駆けた。


「抵抗すればその分キツいよ。あのバカ、エルフには容赦ないから」


 風貌は大きく異なるものの、出自は違えどエルフには共通する何かがあるらしい。呻くエルフに対して気遣った様子を見せるシヴィエイラだが、彼女の吐いた毒にすかさず「聞こえてんぞ。今ちょうどいい位置に誰かさんの頭があンな」とデイヴィッドが返す。シヴィエイラは彼を見て一言「死ね」と毒づいた。


「はんっ、そいつが出来りゃあどれほど――」


 ――言いかけて、デイヴィッドはエルフへと構え突き付けたままの拳銃を発砲。身を躱したシヴィエイラもまた、魔力の光を両手に蓄える。


 繰り返される発砲音。野次馬から上がる驚嘆に悲鳴。シヴィエイラの顔が徐々に徐々に持ち上がってゆき、その顔に影が落ちた。


 ――うずくまるエルフを中心にアスファルトの地面に無数の亀裂が、それこそ蜘蛛の巣を描くが如く広がり、破片となったアスファルトたちが宙空を舞い踊り旋回。そして起き上がるエルフへと群がった。


 連なり、重なり合って溶けて交わり、一つになってゆく漆黒。巌となった表面は身動ぎ一つで軋みを上げ、ときに不要部が削ぎ落とされてゆく。


 見上げるばかりの巨大、手足持つ漆黒の岩巨人。

 エルフは超越の魔技を以てその身を強大へと変じたのだ。


「――ざっけんなよ、おい」


 拳銃の懐に一発残し、空になった弾倉を手際良く交換。悪態と共に最速で再攻撃に移らんとしていたデイヴィッドを巨人となったエルフの裏拳が弾き飛ばした。その隙にシヴィエイラが付け入る。


「止めなっ、これ以上は制圧じゃ済まなくなる!」


 しかしエルフは止まらない。警告も無視して裏拳を放った勢いのまま、揃えた両足を軸にコマのように急旋回。シヴィエイラの接近を拒む。


 やむを得ない――シヴィエイラが両手の魔力を一つに練り合わせ、一つの強大な魔力に作り変えんとしたときだった。巨人の腕が突如として伸び、シヴィエイラが確保していた間合いを詰めたのだ。


 大技に意識を割いていた分、予想外の事態に咄嗟に肉体の反応が鈍る。自らに迫る巨岩の拳を、シヴィエイラは逃れ得ないと身構えた。耐え切る自信など、しかし無く――


 ――空来、雹!


 拳が迫り、もうじきに命中する。シヴィエイラの全身が拭いきれない恐怖によって守りの奥で硬直していた。だがそれは突如として飛来した“何か”によって呆然に上書きされ、巻き上がった煙の中、彼女はその中に佇む“何者か”をじっと見つめていた。


「怪我は?」


 え――思わず間抜けた声がシヴィエイラの喉から出た。白い狩衣の上に白銀の鎧を重ねたような特異な装束。すっぽりと頭部を覆い隠した兜。仮面では碧の光を宿した大きく丸いゴーグルが煌めいていた。


 その“何者か”が発した声は兜の、人の口元を模った部分に彫刻された唇から発せられ、言葉をなくすシヴィエイラへと今一度「怪我は?」と問う。


「……ない……ケド……」

「ならば良し」


 頷く鎧の人物に「え……や……あの……?」とシヴィエイラが困惑している間にも、鎧の男が足蹴にしていた巨人の腕が崩れ落ちる。二人の視線が再び巨人を睨んだ。


「分かってるな、ザガン?」

「ああ、敵は鎧を纏っている」

「だったら決まりだ!」


 鎧の男――つまりザガンは“心に伝わる”バジラの意思に対し「オーケー」と意気揚々に返し、我に返ったシヴィエイラからの静止も聞くことなく、地面を蹴破るほどの勢いを以て巨人へと突撃。その際、口元には装甲が被さり、首元を純白のマフラーが包みはためいた。


 一陣の風となり、一瞬にしてザガンと巨人との間合いが詰まる。巨人は残る左拳を突き出し、まっすぐやってくるザガンを迎撃せんとした。しかしザガンは巨人の拳を後ろに倒れ込むようにして潜り抜け、余った勢いで地面をスライディングして前進。


「やっちゃえ! ザガン!」


 バジラの声援を受け、ザガンの左足が地面を掴む。ぐんと寝ていた彼の体が起き上がり、そして力を溜め込むように軸足の膝が屈する。巨人が再生した右拳を振りかぶっていた。


 突き破った窓ガラスの奥で、倒れた棚の下敷きになっていたデイヴィッドの銃が巨人を狙う。

 大弓を作り上げたシヴィエイラがやはり巨人に向けて矢を番える。


 そして巨人の拳が振り下ろされるのと、ザガンの屈した膝が伸び上がるのはほぼ同時。いや、やや巨人のほうが速い。デイヴィッドとシヴィエイラがそれぞれの武器の威力を解き放とうとして、しかし踏み留まった。


 巨人の拳は文字通り紙一重でザガンの兜を掠めていた。巨人が外したのではない。ザガンがその紙一重、避けていたのだ。そもそも、巨人の攻撃が彼に先んじたのも彼が手遅れに至る寸前まで引き付けたからである。


 真っ直ぐに突き出されたザガンの右拳。鏡面の艷やかな装甲で保護されたその鉄拳はぴんと一本、地面を捉える彼の左足まで芯が通っていた。

 右拳から左足まで一直線。それは巨人の胸のど真ん中に突き刺さったまるで支え棒のようで――


 ――巨人の全身に深い深い、それは深い亀裂が幾つも走る。ザガンの右拳がめり込む胸の急所から。

 停止する巨人。増えてゆく亀裂。鋭い動作でザガンが拳を引き戻し、構え直す。だが、彼の残心も杞憂であった。

 直後にも亀裂に侵されていた巨人の体が音を立て崩れ落ちてゆく。積み上がったアスファルトの山の中でエルフがうめき声を上げていた。


 両手を下げ、一部始終を傍観に徹していたシヴィエイラ。一方的ではないかと、目の前に佇む白い鎧姿を見詰め、彼女はため息を吐くのだった。


 そして仮面の奥でザガンは瞳を閉ざし黙祷。微かにだが高揚して乱れていた息は既に落ち着きを取り戻しており、脈拍も平静そのもの。


「やったなっ、ザガン〜! 一発だぞっ、イッパツ!」


 はしゃぐバジラの嬉々とした感情を胸に覚えつつ、感触の残る右手の握り拳をザガンは解いてゆく。一指ずつ、おもむろに。


「……手強い相手だった」


 一手間違えれば砕かれていたのはこちらだったと、ザガンは此度の戦いを省みて一言零した。


「結果オーライでしょ。過程に拘るのは自分は強いって思い込んでるヤツの驕りよ」


 バジラのものではない。空気を震わせる至って普遍なその声にザガンは振り返った。いたのは無愛想な顔をしたシヴィエイラで、その手には手錠が揺れている。


 敵意は無いと示すように仮面を覆っていた装甲を兜へと格納し、歯を見せず押し付けがましくもない、仏様のような微笑アルカイック・スマイルが象られた口元を露わにするザガン。だからなんだとシヴィエイラは鼻を鳴らした。


「とはいえアンタ、登録されてないでしょ。未登録の“異邦人”が戦闘行為なんてもってのほかなんだけど、BAN覚悟で出て来たってんなら大したものじゃない」


 まずは身分を明かしなさい――声を低くし、目元を鋭くして威圧するシヴィエイラに、しかしザガンは沈黙した。すると……


「助けてもらっといてそりゃねーだろ」


 直後舌打ちを鳴らして、シヴィエイラはよたよたとやって来たデイヴィッドを睨む。彼女のその目は口を挟むなと言いたげであったが、言葉としてそれが出てくるよりも先にデイヴィッドがザガンへと告げる。


「とりあえず身分証とかそんな感じのもん、見してくれや」


 彼が言うやいなや、シヴィエイラから「アホか!」と怒鳴り声が響き、驚いたデイヴィッドが身を竦め「ンだよ?」と困惑。


「それもうアタシ聞いたんだけど」

「は? 知るかよ、ンなこと」

「ボケたこと言うくらいなら伸びたままでいてくれる?」

「あンだ、コラ。テメェ、仕事の邪魔すんなら帰れよ」

「ジャマしてんのはアンタの方でしょ!」

「俺がいつお前の邪魔したってんだ? 癇癪もいい加減にしとけよな」

「死ね!」

「おう、やれるもんならやってみろよ」


 ぎゃあぎゃあと猫の喧嘩のように騒がしくお互い罵り合う二人。ザガンはそれを静観し、やがて飽きたうえに呆れたバジラが「もう帰っちゃおうよ」と彼に言う。ザガンは彼女の提案を否定せず、しかし黙って去ることもしなかった。


「身分は明かせません。けれど、見て見ぬふりは出来ない――」


 “――俺が俺であるために”


 結局、それをザガンが口にすることはなかった。だが心を繋いだバジラには彼のその想いがしっかりと明確に伝わっていて、今は姿の無い彼女だが、姿があるのであれば小躍りしていることだろう。


 だが彼の事情も想いも知らない二人には、彼の発言は不可解でしかない。

 何故身分を明かすことができないのか、それを問いただす必要がある。シヴィエイラが彼を連行すべく一歩踏み出したとき、風が吹いた。


「なに……?」


 今日、強い風が吹くという予報はない。

 ないはずの突風が突然吹き、シヴィエイラとデイヴィッドは思わず顔を伏せた。

 風は徐々に強さを増してゆき、やがて目を開けることさえ困難な程にさえなった。


「魔法か?」

「こんなの……!」


 デイヴィッドがシヴィエイラになんとかするように言って、彼女が両手に魔力による力場を作り始めると、しかし彼女がそれでなにかする前に強風が止んだ。

 その後、二人が顔を上げる。眼前には力尽きたエルフだけがいて、ザガンの姿はもうそこにはなかった。


 彼がいたはずの場所にシヴィエイラが駆け寄って周囲を見渡すが、遠巻きな野次馬の中にも、見上げた蒼天にも白銀の鎧の煌めきを見るけることは出来なかった。





「でもスカッとしたなーっ。さくれつ、野郎衆闘法やろうしゅうとうほう! 地鳴ぢなり破城槌はじょうつい!!」

「ガルラには劣る。あれは如何に地面と繋がることが出来るかが鍵なんだ」

「ガルラなんてただのクマってゆーかデブなだけじゃん! それにのろま~」


 重厚なんだ――事件現場を離れ、住まいのあるマンションへと戻ってきたザガンとバジラ。部屋のある十階へとわざわざ階段を使って上がり、目的の階で部屋の前まで歩く途中、先程の戦いを思い返す二人は同郷の友の話で盛り上がっていた。


「重くって厚いのはさ、やっぱりガルラがデブだからだって!」

「うむ、ならデブは強いぞ」

「でもザガンにはわたしがいるもーん。鎧変着身へんしんでイチコロだよ!」

「ヤツとは真っ裸このままで闘いたいな」


 やがて“五〇五号”と書かれた扉の前に到着した二人。空腹を強く訴えるバジラにせっつかれながらザガンが生体認証の後にドアノブを回して扉を開けると、直後に置くから伸びてきた手に襟を掴まれ強引に引っ張り込まれてしまった。


 あわやザガンの頭から落っこちそうになったバジラが驚嘆を上げたりしながら「どーしたんだよっ」と問うたのは、ザガンの胸ぐらを掴み上げる女性――浅見もみじだ。

 顔を青くした彼女は慣れない暴力に戸惑いつつ、目を丸くしているザガンに言う。


「ふっ、F.O.A.F.フォアフ! みみみっ、見たんだけど! ケド!」

「ふぉあふ……ケータイの、アプリのヤツ」

「そう! そうなんだけど、そうじゃなくって!」

「おちつきなよ、もみじ」


 もみじがザガンの胸ぐらを掴む右手を伝い、ザガンの肩からもみじの肩へと乗り移ったバジラが彼女の顔を覗き込み宥めようとする。もみじはまずザガンから手を離し、バジラに促されるままに深呼吸などした後、改めて言うのだった。


「真っ昼間からこんなことしちゃダメでしょお!」


 ずいともみじが突き付けたスマートフォンの画面にはSNSサイト“F.O.A.F.”のトップページが映し出されていた。


 不特定多数が思い思いの言葉を書き記し、撮影した映像を投稿する場所。そこには先のエルフによる事件についての書き込みがいくつもあって、添付された画像には巨人となったエルフやシヴィエイラ、棚の下敷きになったデイヴィッド。そして鎧姿のザガンが写っていた。


「“怖そうな人”があんま目立ったことはしちゃダメって言ってたじゃない。危険だからって! アナタは強いし怖いものなしなのかもしれないけど、私は違うんだからね!」


 返す言葉もないのかバツが悪そうな顔をして黙りこくるザガンに代わり、バジラが画面の映像を見て「小さいし、ぶれぶれじゃん。せっかくならキレイにカッコよく撮ってほしーよね。しつれーしちゃう」などと軽口を叩くと、彼女の頭をもみじの平手がぺちんと叩いた。当然、目から星を散らしたバジラは何をするんだと食ってかかるが……


「わっ、私はこれ以上ヘンなことに巻き込まれたくないだけなの! “超能力者ニューヒューマン”とか異世界とか、私はただのオタクな独身女なの! それで充分なんだからっ」


 ボリューム感のある身体でその場にへたり込んでしまうもみじを前にしてザガンもバジラも気不味そうに互いを見合う。


「でもほら、ここに帰ってくるまでは誰にも見られないようにしてきたからさ。もっ、もちろんカメラにだって映ってないぞ!」


 もみじの頭に乗っかって長い首を垂らし、逆さまになって彼女の顔を覗き込んだバジラの必死の弁明。それは赤くなった鼻をすする彼女をあやす、そんな風でもあった。


 バジラは次いでザガンに目配せし、彼にももみじの機嫌を取り繕うように促す。彼はいささか緊張した様子で、きゅっと唇が真一文字に結ばれていたが、意を決したらしく彼女に頷いて見せる。そしてへたり込んだもみじの前に片膝を突く。


「何が来ても俺とバジラで必ず追い払おう」


 何も問題は無い――もみじの前でぐっと力強く拳を握り固め、そう言って退けるザガン。見ていたバジラは果たして彼の発言が自らの求めたものなのか分からずに静止。もみじはといえばおもむろに眼鏡を外し、前髪の掛かりがちな目元を拭った後立ち上がると頭上のバジラをかなぐり捨てて自室へと駆けていってしまうのだった。


 振り払われたバジラを両腕に抱き留め、しっかと抱え込んだザガンをバジラは見上げ「ザガン〜?」と責める。

 玄関前の広々とした廊下。そこにザガンはあぐらをかいて座り込み「……難しいな、こういうの」と独り言る。


「だいじょーぶ、お腹空いたら出てくるよ。だからおいしいゴハン作ろっ。わたしもお腹ぺこぺこだもん」


 バジラが両前脚と胴体を可能な限り伸ばしてザガンの顔に爪先で触れながら言う。そうだなとザガンは一言返してから、彼女を抱いたままリビングへと向かい、LDKと隔てる扉が開けられては静かに閉ざされた。





 せっかくのエルフが無駄になった――天井を覆い尽くすほど藍色の空を思わせる枝葉が繁り、星々の如き果実がそこに連なる。

 その光景を見上げるエルフが静かに言った。


 疎らに居るエルフたちの内、白銀の髪をした褐色の肌の女は彼を見て「あればかりは仕方がありませんでしょう。予期せぬ来訪。予期せぬ邪魔――定めだったのですから」そう告げる。


 絹のような滑らかで艷やかな金糸の長髪を揺らし、光る果実を見上げていたエルフが彼女たちに振り返る。その顔では大きな傷が交錯し、蛇のように裂かれた頬には痛々しい縫い傷が刻まれ、右目は抉り取られていた。残った左目に浮かぶ金色の眼に宿る光には強い“想い”が込められていて、静かに言葉を紡ぐ声には怒りがあった。


「我が悲願、邪魔立てするのであればもはや容赦はせぬ」


 例えそれが定められ運命なのだとしても――すると地面から露出していた木の根に腰掛けていた白肌のエルフが立ち上がり、無言のまま彼らに背を向け歩き出した。褐色のエルフが彼を目で追う。


「“大いなる影”が潜んでいますよ」


 立ち去るエルフの背中に彼女は呼び掛けた。エルフの足が止まる。だが振り返らず、ただ彼は身を包んだローブから右手にした剣を顕にする。それが彼の答えらしい。褐色のエルフが彼から視線を外す。傷顔のエルフもまた、大樹を見上げていた。


「神は私を見放した。故に、私は私の新たなる運命を紡ぐ」


 傷顔のエルフは大樹を仰ぎ、怨嗟と決意を言葉とする。

 残ったエルフたちもまた大樹を見遣り、果実が宿す強く美しい光には目を細めた。


「新たな世界よ、我らが故郷となれ」

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