狂人の独り言「連鎖する記憶」!!!

立花 優

第1話 女性獣医師

「お背中、流しましょうか?」そう言って、2畳はあろうかという広いお風呂の戸を開けて、彼女が入浴中の私のお風呂に、急に入ってきた。思わず浴槽から飛び出しそうになりながらも、「け、結構です」と、拒否をしたのだが、その時の彼女の無垢な瞳や、美しい姿態は、今でも甘酸っぱい記憶として、思い出さずにはいられないのだ……。




 ああ、背中の辺りまで届くほど長い煌めくような黒髪と、意外に大きな両胸、全身をタオルで覆う事もせず全裸で入ってきたため、下腹部まで全て見えるのだが、全然恥ずかしがる事もなく、ただただ微笑んでいたその姿を、どうして忘れる事ができようか!……そして、その後に勃発するあの忌まわしい「大事件」をも。




 しかしながら、あの忌まわしい「大虐殺事件」と、それにまつわる話は、当時の新聞記事を見ても何処にも出ていない。つまりあの「大事件」は、これほどマスコミが発達している時代においても、どういう訳か全く世間には知られていないのだ。




 この私とは、現在、50歳の独身男性。X大学医学部付属病院の精神神経科病棟に何故か強制的に入院させられている身である。




私は、某私立大学を出た後、大阪に本社のある某メーカーに勤務していた。私はそのまま関西に住むつもりでいた。郷里の両親は、国立大学に進学した弟に面倒を見てもらうつもりだった。




 しかし、大学3年生の時に、その弟は交通事故で即死。それが原因で、悲観した両親が相次いで重い病に罹ってしまった。仕方なく郷里にUターンし両親の介護をしながら、両親の知人の紹介で地元の金融機関に就職したのである。だが、郷里にUターン後、私の両親はそのまま二人とも急死。わずか27歳で、天涯孤独の独り身になってしまったのだった。




 そんな時友人から生後数ヶ月の子犬を貰った。雌犬である。12月24日生まれだから、クリスマス・イヴにちなんで「イヴ」と名付けかわいがった。




だが、この子犬に異変が起きたのである。5月の第4土曜日であった。大事にしていた子犬が、急に、胃液と血が混じったような嘔吐を数回繰り返したのである。取り乱した私は、近くの動物病院に電話をしたが、土日は休みのためか全く電話が通じない。その時、私は、上司の山元課長の親戚に女性の獣医さんがいると言う話を思い出した。そこで山元課長に頼んでその獣医さんのいる動物病院を紹介してもらったのである。その病院は、私の住んでいる市の隣のT市内にあった。




 私は、キャリーバッグに子犬を入れて、その動物病院へ車を走らせた。




 受付で、待っていると、白い帽子を被り白い大きなマスクをした女性の獣医が現れた。それが、彼女との最初の出会いであった。




「この症状はネギ中毒です。何か、ネギかそれらしきものを食べませんでしたか?」


「はあ、そんな覚えはないがですけど…」




 女性の獣医の顔は、よく見えなかった。ただすらりとした姿と、豊満な両胸に目がいった。土日は安全のためここに入院させたほうが良いとの話だったので、入院させる事にした。




「大丈夫ですかね?」


「ええ、きっと大丈夫です。チワワでも雑種ですし、この子犬ちゃん、生命力がありそうだし…」




 その時、私は、彼女と初めて目を合わせた。




「えっ!」と思った。




 もしかしたら相当な美人なのじゃないのだろうか?私は、急に、顔が熱くなるのを感じた。早くここを出なければと思った。




「少しでも早くこの場から立ち去るのだ」と、自分の心の奥から指令が出る。




「立ち去れ!恥をかくだけだ。こんな美人と俺とは、結局、人生で何の接点もありえないのだ。ただ、子犬の治療をしてくれただけの事なのだ!」しかし、自分の心がそう叫べば叫ぶほど、私は、反対の行動を取ってしまった。とりとめの無い話をして、彼女の気を惹こうとしたのである。




 次の週、毎日のようにその動物病院に通ったものの、結局、彼女の受け持ち時間帯とはうまくマッチせず、彼女と顔を合わせる事も無く、私の子犬は一週間後、無事退院となった。再び子犬との二人だけの生活がスタートしたのだ。




その約1週間後の事である。私が、緊急に連絡を取った上司の山元課長が、めずらしく赤提灯の灯るおでん屋に私を誘ったのだ。その山元課長の口から出てきた言葉は意外にも見合いの話であった。




 酔いも程々に廻った頃、山元課長は、思いもかけない女性を挙げた。誰あろう自分の遠縁だと言うあの動物病院の女性獣医師だったではないか。




「そんな、いくら何でもその話は無理ですよ。最初から(断わられると言う)答えの出ている話に乗る馬鹿なんていませんちゃ」


「いや、そんな事は無い。実はその後、彼女のほうから、私宛に、君の事をそれとなく聞いてきたんや……。どうやろう、少しは脈が、あるとは思わないかい?」




「それは、自分が面倒を看た子犬の回復状況を聞きたかっただけじゃないですかねえ、僕としては、そうとしか思えませんが……」


「そんなに卑下する事もあるまいに。君は学生時代、アクション俳優目指しての映画のオーディションでも結構いいとこまでいったんやろ。まあ、騙されたと思って一度会ってみてはくれんかいや?」




「いやいや、最初から無理だから、止めておきますよ」




「イヤ、ここだけの話だが、彼女には実はある大き過ぎる問題を抱えているんや。だから、彼女自身も見合いと言っても、今まで、中々うまくいかなかったんや」




「大きすぎる問題とは?」




「いや、それは今はまだ言えない。もし君が気に入ったら、その時こそは、私も全てを話さなければならないかもしれないがなあ……」と、山元課長は、意味深な言葉を口走ったのである。私は、せいぜい彼女の身内に犯罪者か何かががいるのだろう、との軽い気持ちでしか考えてなかった。




 6月の上旬の金曜日の夕方、T市の外れにある喫茶店兼レストランで、彼女と会う事となった。私は車でその店へ行った。コンコンと窓ガラスを叩く者がいる。半分、寝ぼけ眼で車のドア越しから相手を見て、私は、思わず飛び起きてしまった。


 あの彼女だ! 喫茶店内で、私は震える手でコーヒーを飲んだのだが、どうにも話が続かない。




「来るべきではなかった。まるで想像以上の美人ではないか!」、と私の心が私を責めて責めて責めまくる。




「どっちみち、こんな美人なら一発で断られるだろうし早く帰ったほうが身のためだ……」と、五分程度の雑談の後、私は決心して、




「すみませんが、急用を思い出したので、今日は、これで失礼します」と切り出した。




 しかし、意外にも、彼女のほうが少しもの悲しそうな顔で私を見たのだ。


「えっ、もう帰られるんですか、やはりあの話が気にかかられるんでしょうか?」




「あの話?何の事です。それは一体どんな事ながですか?」


「そ、それは、知らないのならそのほうが一番良いがですけど、でも、もし私を気にいってくださるんなら、いずれは分かる事ですから、ここでお話しても構いませんが……」と、その美しい顔が少々涙目になったように思えたのだ。




 彼女の涙目に心を奪われてしまった私は、結局、その店で約1時間以上も話し込んだ。


 彼女の概略も、食事が終わる頃には大体が把握できた。彼女の名前は「藤崎真理」と言い、T県の最も奥深い場所にあるH町蛇谷村の大字人杭(ひとくい)字人首(

ひとくい)に、現在重い病気の母親と二人で住んでおり、年齢は今26歳で、東京の獣医大を卒業したところ。今は叔父が経営しているT市の藤崎動物病院に車で勤務していると言うのだ。




 レストランでの別れ際に、藤崎真理は、明日は、自分の家に遊びに来て欲しいと言って、あいの風鉄道のT駅から単線に乗り換え、某駅で下車、更にそこからバスで約30分かかるとされるT県H町蛇谷村の場所を詳細に教えてくれた。この蛇谷村には確か蛇谷温泉郷もあった筈だ。


 大昔の大蛇伝説でも有名な村であった。




車の運転には、あまり興味も自信も無かった私は、明日の土曜日は、彼女の教えてくれた道筋通り、単線の汽車とバスで、その蛇谷村に行くと約束したのである。飼い犬はペットホテルに預けて……。


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