元夫



 明らかに敵意を向けている清影を見て、誠二はぎょっとした顔をした。

 清影が静かに歩みを進める。


「やめろ……来るな……!」


 誠二は手を離さず、桔梗を盾のように引き寄せた。だが清影の足は止まらない。


「その手を放さなければ、骨ごと砕きますよ」


 冷たく吐き捨てられた声に、誠二の体が震える。

 本気だ。清影の目は言葉以上に雄弁だった。


「く、くそっ……!」


 誠二は桔梗を突き飛ばし、背を向けて逃げ出そうとした――が、次の瞬間には地面に転がっていた。風のような速さで距離を詰めた清影が、誠二の背中に片膝を叩き込み、同時にその腕を後ろから絡め取ったのだ。

 誠二の体が地面にねじ伏せられる。乾いた音とともに地面に顔が押しつけられ、彼の叫びが潰れる。


「ただの人間が、俺から逃げられると思いました?」


 清影が淡々と問いかけた。

 その素早さに呆気に取られた桔梗は、ふと清影が動いたことで地面に落ちた包みを見下ろす。落ちた拍子に、包みの中から飲み物と饅頭、握り飯が顔を出していた。それも二人分だ。


「あ……あなたまさか、夕食を買いに行っていたの?」

「人間はすぐ腹が減るんでしょう。列車に乗っても着くのは夜です。それまでに死なれても困るので」

「一食食べなかったくらいで死なないわよ!」


 桔梗は清影に反論しながら、内心ほっとしていた。

 清影がまた桔梗を放って勝手な行動を取った可能性も考えていたからだ。てっきり幸代に早く会いたいあまりに先に列車に乗ってしまったのかと思っていた。しかしどうやら清影は、きちんと桔梗と一緒に行く気があったらしい。


「やめろ……離せ……!」


 誠二がもがくたびに、清影の指が腕の関節を締め上げ、骨が軋む音が響く。全身を制する技は重く冷徹だった。

 痛そうにしている誠二を見て、桔梗は清影の袖を掴んで言った。


「あまり痛め付けないで。その人、私の元婚約者なの」

「は? こいつがですか?」


 清影は眉を寄せてこちらを見てきた。

 その反応も当然だ。端から見れば、突然桔梗を襲った人さらいだろう。まさか顔見知りだとは思わない。


「多分、私を追ってここまで来たんだと思う」


 桔梗は清影の下にいる誠二に視線を移して言った。


「誠二さん……あなた、鷹彦様に脅されているのね。ずっと」


 ぴくりと、誠二の肩が揺れる。


「結婚できないなら無理やりにでも私を連れてこいと。さもないと、あの鬼に何かされる……そうなんでしょう?」


 誠二は目を見開いた。

 何故桔梗がそんなことを知っているのか、と驚愕した顔だった。まだ藤山家に嫁いでいない桔梗は、鷹彦の名も、鷹彦が鬼であることも知らぬはずなのである。


「私を鷹彦様に売って、自分やあの下男の命を繋いだところで、その先にあなたが望む未来なんて来ない。私はそれを知っている」


 語りながら蘇るのは、あの日の悪夢だ。

 藤山家の屋敷で、誠二の両親も、誠二自身も、血だらけになって倒れていた。鷹彦は誠二のことを散々利用し、用済みになれば切り捨てる。


 信じていた誠二が鷹彦に襲われている桔梗を見捨てた時の夢を今でも見る。それほどあの出来事は辛く、桔梗の心を折った。

 それでも全てを知った今なら、もう一度改めて話したいと思える。


「私、誠二さんのことが憎い。でもあなたは、沢山よくしてくれた人でもある」


 結婚して五年。夫婦らしいことは何一つしていない。それでも心はそれなりに通わせているつもりだった。

 庭園で散策をした。茶屋で抹茶やお菓子を楽しんだ。お洒落をし、夫婦そろって観劇をした。

 誠二との時間は穏やかなものだった。お互い燃え上がるような恋ではなくとも、桔梗は誠二のことを夫として好いていた。


「私はあなたと違って、五年連れ添った男を見捨てるほど薄情ではないわ。私と一緒に戦ってくれるなら、あなたのことを許す」

「連れ添った……? 何を……」


 怪訝な顔をした誠二は、しかし次の瞬間その意味を理解したようで、はっと息を呑む。


 秋の風が銀杏の落葉をさらい、駅裏の静かな小道に吹き抜けた。

 桔梗はゆっくりと膝を折り、誠二と同じ高さに身を下ろす。


「未来では誠二さんも殺されている。言うことを聞けば生かしてもらえる、愛する人と結ばれるなんて未来は来ない。鷹彦様はそんな甘い鬼じゃない。従順な駒となり、言いなりになっているあなたも、このままでは死んでしまう」

「……そんな、ことは……」


 誠二の指が地面を掻いた。


「そんなことは分かってる! でも兄様の中にいるのは化け物だ! あれに敵うはずがない! 私には愛する人がいるんだ! その人はあの鬼の手先でっ……だから、私は……!」

「なら、なおさらよ」


 桔梗は静かに手を伸ばした。

 ただ手のひらを、真っ直ぐに差し出す。


 最初の人生で桔梗は、ずっと受け身だった。

 流れ込んできた会ったこともない男からの結婚話を家のために素直に受け入れ、誠二からの熱烈な口説き文句を受け入れ、夫婦のことが何も進まない状況も黙って受け入れた。

 今はあの時の自分とは違う。


「未来ではあの下男も殺されている。彼を助けたいと思うなら、今ここで……一緒に立って」


 誠二は桔梗のことを見捨てた。けれど桔梗は、だからといってそんな人間に並ぶような真似はしたくなかった。


「私の手を取って。藤山誠二さん」


 腐っても元夫のことを、見放したりなどしない。




 ――――その時。

 匂いがした。

 清影の匂いとは違う、清影のものよりもずっと薄い、気を付けていなければ気付けないような甘い香りが、風に混じって流れてきた。


 匂いの元は、後ろだ。

 咄嗟だった。桔梗は素早く立ち上がると同時に、清影を庇うにして身を投げ出した。


 直後、何かが空気を裂いた。錆びた鉤爪のようなものが、清影がいたはずの場所に振り下ろされ――代わりに、桔梗の肩を深く抉った。


「……っ!」


 白い和服にぱっと朱が散った。血飛沫が夜の冷たい空気に混じり、駅裏の暗がりを赤く染める。


「桔梗!」


 清影はすぐに振り返り、桔梗の身体を支えた。桔梗の肩口には、鋭利な爪の痕が大きく裂け、血がとめどなく溢れている。桔梗は全身を使って清影の背を守っていた。



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