ある鬼の話 二
:
季節は変わる。
橙に染まる空の下、崖の上の小さな寺には秋風が吹き抜けていた。鬼は今日もふらりとその寺に姿を現した。
鬼はあれ以降、気まぐれに少年のいる寺に訪れるようになっていた。
少年の名前は清影というらしかった。
清影は鬼が来ると毎度嬉しそうに笑った。彼は体が弱く、あまり友達がいないようだった。鬼に丁寧な話し方を教えたり、時に寺での説法の際に配っている落雁をくれたりした。
清影は罪人の子供だった。
罪人と言っても、人を殺したとか物を盗んだとか、そういった類の罪ではないらしい。
母親が姦通罪――夫以外の男と体の関係を持ったという過去を持つため捕まり、その子である清影は父に捨てられたという。
「母さんは、罪人じゃないんだ」
清影は度々言っていた。
「ぼく、見たもの。母さんは急に入ってきた大柄の男に無理やり夜這いされて、抵抗できなかったの。ぼくはそんなの認めない。いつか大きくなったら、母さんを捜しに行くんだ」
父親は清影を置き去りにし、新しい嫁を作って引っ越した。そのため母親の行方を聞ける相手がいない清影は、寺に身を寄せながらも母親の手がかりを探し続けていた。
清影は話しながら、時折咳をしていた。細い体で胸を押さえながら咳き込む姿が痛々しい。ゴホ、ゴホ……と乾いた咳が、澄んだ空気に滲んでゆく。
その時、鬼の背後から声が飛んだ。
「また来やがって、化け物が! 清影を誑かすな!」
数人の若い僧侶たちが石を拾い、鬼めがけて投げつけた。ゴツッと音を立てて一つが鬼の肩に当たったが、鬼は顔をしかめるでもなく、ただじっと彼らを見返した。
寺に異形がやってくるのだから嫌がって当然である。鬼が自分たちに歯向かわないことを知ると、石を投げつけるようになった。
「やめてよ!」
清影が叫びながら鬼の前に立ちはだかる。細い体で、大きな鬼をかばうように両手を広げた。
「この鬼は、今は悪いことなんかしてない!」
「清影、鬼なんぞを庇う気か! 離れなさい、鬼は危険だ。すぐに邏卒に通報しなければ、お前も危ないぞ」
「この鬼は、怖いことなんてしな――……」
言葉の途中で再び咳が込み上げたらしく、清影は胸を押さえてしゃがみ込んだ。ゴホ、ゴホッと、喉の奥から血の混じった咳が漏れる。見ていた僧侶の一人が、石を持つ手をそっと下ろした。
「清影、遊んでいないで部屋に戻りなさい。最近咳が酷くなっているぞ」
その目には同情の色が見えた。
清影はどうやら、不治の病を患っているらしかった。
人間の病気のことは鬼には分からないが、栄養をとって安静にするしかなく、発病するとほぼ治らないらしい。
清影の寿命が長くないことを僧侶たちも分かっている。
そして、清影が中へと上がると、病が移ることを避けるように清影から一定の距離を取った。
鬼は清影の後を付いていった。僧侶たちは決して清影たちには近付かず、「鬼め……」と忌々しいものを見る目で鬼を見ていた。
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清影の状態は日に日に悪化した。
寺の一室には風の音がかすかに響いていた。木の障子越しに月明かりが滲み、畳の上に淡く照りつけている。
清影はその一室で、薄い布団に包まれながら横たわっていた。顔色は青白く、呼吸は浅く、喉の奥から乾いた咳が時折漏れる。胸を押さえて体を丸め、苦しげに目を閉じた。
部屋には鬼が静かに座っていた。何も言わず、ただ清影の傍らに膝をつき、その異形の手で煮詰めた薬草の煎じをかき混ぜていた。その手の動きはどこか不器用でぎこちなかった。
しばらくの沈黙の後、清影がぽつりと呟いた。
「ねえ、もう、来なくていいよ」
それはおそらく、鬼に病を移すことを恐れてのことだった。
「人間のくせに俺を庇うのかよ」
「だって……」
「鬼は人の病にかからない。余計なこと考えんな」
清影は一瞬、黙り込んだ。
そして、少し泣きそうな顔で笑った。
「……ねえ、ぼく、母さんに会うまで生きられるかなあ」
その声はとても小さく、風の音にかき消されそうなほどだった。
けれど鬼の耳は確かにそれを捕らえ、動きを止めた。
「なんとなく自分の最期がわかるんだ。体の中が……毎日、少しずつ削れてる気がする」
月光が少年の頬に落ちる。その頬は痩せこけ、額にはうっすらと汗がにじんでいた。
「ねえ。鬼っていう生き物はさ、食った人の姿形を模倣して、記憶すらも引き継ぐんだよね。例えばさ。あなたがぼくを食ったとして、今のぼくと全く同じ記憶や体を持つ存在が出来上がるわけでしょう。それも、鬼は病気にかからないから元気だ。そうしたらもしかして、その〝ぼく〟はまだ、母さんに再会する夢を追えるのかなあ」
鬼は何も答えなかった。
「……ねえ、もしも、その時が来たら。ぼくがいよいよもう駄目だってなったらさ、ぼくを食ってよ」
「……何、くだらねえこと言ってやがる」
「はは、本当に口が悪いね。もしもぼくの姿になったら、その口調はやめてね。嫌われちゃうから」
冗談っぽく笑った少年はまた咳き込み、力なく目を閉じた。その呼吸は浅く静かに、けれど確かに続いていた。
鬼はゆっくりと手を伸ばしてその布団の端を直す。
そして仏の前で祈るように、小さく頭を垂れるのだった。
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