怪しい会話



 桔梗は、手に持っていた湯呑みをゆっくりと卓に戻した。


 違和感を拭いきれない。

 誠二はこのような、人を脅して追い詰めるようなことを言う人だっただろうか。


「……誠二さん、何か、焦っていますか?」


 慎重に問いかけると、誠二が目を見開いた。


 記憶の中の誠二はもっとおおらかで人がよく、いかなる場面でも淡々としていた。結婚生活の中でほとんど感情の起伏が見られなかった。

 その彼が、まるで桔梗との結婚に執着しているかのような口ぶりで迫ってくることに、どうも合点がいかない。


「何か、ご事情があるのですか?」


 誠二の瞳が揺れる。

 悪いことを叱られた子供のように、その体は硬直して動かない。


「ずっと聞きたかったのですが、誠二さんは何故……私のような者に、結婚を申し出てくださっているのですか?」


 藤山家の次男ともあろうお方ならば、もっと他にも相手がいるはずだ。

 なのに、会ったこともない桔梗に急に結婚話を持ち込んできた。一番最初の人生でも、桔梗にとってそれだけが腑に落ちなかった。


 誠二は躊躇いがちに口を開き――しかし、すぐに閉じてぐっと口角を上げた。


「もちろん、桔梗さんがお美しいからですよ。それに月宮家であれば、家格としても申し分なく、家族も喜ぶかと思いまして」


 顔面に無理やり貼り付けたような、不自然な作り笑いだった。

 それを見た瞬間、桔梗は気付いてしまった。

 前の人生で誠二が桔梗に向けていた表情と全く同じだ。本物の笑顔ではないことに何故ずっと気付かなかったのだろう。


「私としたことが、桔梗さんに惹かれるあまり、返事を急いてしまいましたね。忘れてください」


 誠二はあの結婚生活の中で、ずっと作り笑いを浮かべていた。


 誠二が個人的なことに踏み入らせないような世間話ばかりするので、料理の最後の品である寒天寄せの和菓子が運ばれてくるまで、桔梗は聞きたいことを何も聞けずに終わった。



 ◆



 料亭の玄関を出ると、夜の空気がひんやりと肌を撫でた。門前の石畳には、行燈の灯りがぼんやりと映っている。

 誠二は深く頭を下げ、静かな声で言った。


「家までお送りできず申し訳ありません」


 どうやらこの後予定があるらしく、誠二とはここで別れることになった。

 この後予定があるのは桔梗も同じなので早めに解散できて好都合だ。


 桔梗はかぶりを振った。


「いえ、お気になさらず……。今日はありがとうございました」

「また、近いうちにお目にかかれますでしょうか」


 誠二がずいっと顔を近付け、次の約束を取り付けようとしてくる。

 桔梗は一瞬、躊躇うように視線を落とし、やがて小さく頷いた。


「はい……また、お食事でも」

「それはよかった。またお誘いしますね」


 誠二は満足げに言って先に身を翻し、闇の中へと歩き出す。

 桔梗はその背を見送った。

 誠二の姿が路地の向こうへ消える。桔梗はそっと息をつき、夜風に揺れる楓の葉を見上げた。

 その刹那、背後から静かな足音が近づく気配がした。


「お客さま、こちらをお忘れです」


 振り返ると女将が立っていた。手には、黒漆塗りの煙草入れが握られている。


「あ……」


 誠二の忘れ物だ。卓の脇へ置いたままだったのだろう。

 女将にお礼を伝えて胸元の袂に煙草入れをしまい、軽く頭を下げる。


 今ならまだ追いつけるかもしれない。

 桔梗は誠二が去っていった路地を小走りで通り抜け、誠二の姿を探した。

 しかし、彼は既にどこかへ歩き去ったようだった。


(誠二さんとはまた会えるし、次に会った時に渡そう)


 そう思い、来た道を戻ろうとした時。

 人気のない夜道の向こう、風に乗って、微かな会話の断片が耳に届いた。


「月宮の娘は近いうちに手に入るんだろうな?」


 月宮。己の家名が出てきたことが気になって、桔梗はその声の元へとそっと進む。

 路地の奥では二つの影が揺れていた。

 遠目に見れば、そのうちの一人は誠二だった。目立つ着物を着ているのですぐに分かる。

 その傍に立つもう一人は――桔梗もよく知る、藤山家に昔からいる住み込みの下男だった。荷物運びや薪割り、庭仕事などをしてくれていた男だ。昔女中たちがよく話題にしていたのを覚えている。


「頼む、もう少し待ってくれ。女の方から断ってくるのは想定外だったんだ」

双極鬼そうきょくき様にはどう報告するんだ。この後ここへ来るんだぞ。お前、まさかあの娘のことを庇っているんじゃあるまいな。やはり同じ人の子の方がよくなったか? ん?」


 普段誠二に対して恭しく振る舞っていたはずの下男が、気安い口調で話していることに驚く。

 暗闇の中、誠二が慌てた様子で下男の袖に縋り付いた。


「違う! 私が好きなのはお前だけだ! 信じてくれ、たとえ鬼であろうと、私が好きなのはお前しかいない!」


 声が出そうになり、桔梗は自分の口を自分の手で塞いだ。


(……好き? 誠二さんが、あの使用人のことを? しかも、鬼?)


 ぐらぐらと視界が揺れる。

 理解が追いつかなかった。


 異性間の恋愛尊重の気風が高まっているとはいえ、男同士で愛し合うことも珍しくはない。けれど、まさか自分の夫が男色を好んでいたとは思わなかった。


「ならそれを証明してみせろ。僕のためなら何でもするんだろ? 僕の望みは双極鬼様に気に入られることだ。そのために月宮の娘を手に入れろ。いいな」


 下男の低く押し殺した声に、ぞくりと背筋が冷たくなる。


 藤山家にいた頃もそう深く関わっていたわけではなかったが、庭で会った時には優しく微笑んでくれていた人の良さそうな使用人だ。

 あんな声を出す人ではない、と、桔梗は思っていた。


 あの屋敷は嘘だらけだったのだ。

 桔梗の中の藤山家での思い出が黒く塗り潰されていく。


「できる。私は必ずあの女を手に入れる。お前のために」


 誠二のその言葉と共に、ゆっくりと影と影が重なり合った。目が暗闇に慣れてきたおかげで、誠二と下男の唇が触れ合っているのが見える。


 長年夫だった誠二が他の者と。それも鬼と口付けをしている。

 桔梗はその光景を目にしてただじっと立ち尽くすことしかできなかった。

 理解が追いつかず、けれど目を逸らすこともできず、指先が震える。



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