昔会った少年



 桔梗はごくりと唾を飲み、先生の次の言葉を待った。

 先生は恐る恐るといった風に立ち上がり――物凄い勢いで腰を直角に曲げた。桔梗から「えっ」という声が漏れる。

 戸惑う桔梗へ、先生は謝罪をした。


「疑ってすみませんでした。その鬼から僕を守ってくれようとしたでしょう。そもそも、曲がったことが嫌いな桔梗さんが、鬼と組んで人を襲うなどありえないことでした……。教え子の性格くらい把握していたはずなのに、本当にすみません」


 そして、ゆっくりと姿勢を戻して曖昧に微笑む。


「守ってくれてありがとうございました」


 桔梗はほっと胸を撫で下ろした。

 先生はふうと息を吐き、ハンカチで汗を吹くと、椅子に腰をかけて改めて書物を手に取る。


「先程の様子から察するに、桔梗さんは、この書に書かれている支配の奇術を扱えるということのようですね」

「……はい。ただ、完全に使い方が分かるというわけではなくて。これまで扱ってきたのも、たまたま使えたという部分が大きいです。なので、正しい扱い方を知りたくて……」

「事情は分かりました。人命がかかっているというのは事実なのですね? 鬼と一緒にいるのも、何か理由があってのことなのですね?」


 先生が桔梗に探るような視線を向け、低い声で確認してきた。

 桔梗は胸を張って、凛とした声で答える。


「はい。決して、人を傷付けるために鬼と一緒にいるわけではありません」


 しばしの沈黙が走る。

 先生はじっと桔梗の目を見つめた後、「分かりました」と小さく呟いた。


「しかし、これは本当に危険なものです。お役人に見つかったらどうなるか……。桔梗さんが知りたいことだけ一晩かけて訳すので、その後はすぐに燃やしてしまいましょう。長く持っていては危険ですからね。明日、また来てください。――というか」


 そこまで言った先生は、にやりと不気味な笑い方をした。

 先生の目の奥で熱い炎が燃えている気がした。


「こんな貴重な書物は滅多にお目にかかることができませんからね。本当は見てはいけないものなのですが正直解読するための言い訳が欲しかったところなのです。己の欲望に負ける言い訳がね。いやはや、こんな貴重な書物をこの目で拝める日が来ようとは……! 紙の質、墨のにじみ、筆致の流麗さ、どれを取っても尋常ならざる逸品ですよ……! まさに平安の世の息吹を、そのまま閉じ込めたかのようではありませんか! これは単なる書物ではない……時を超えて我々に語りかける、歴史の生き証人そのもの! このような品を手にすることができるとは、感無量です……!」


 天を仰ぎ、興奮気味に早口で訴える先生。

 呆気に取られ、桔梗は口をぽかんと開けたまま返事をすることができなかった。


「……で、では……お言葉に甘えて、お任せします」

「はい。任せてください。それと、鬼のお方」


 引き気味にお願いした桔梗に大きく頷いた先生は、次に桔梗の後ろにいる清影に目を向けた。


「桔梗さんをよろしくお願いします。どうか、先程僕にしたように、傷付けないように」

「傷付けるか傷付けないかは俺が決めます」

「それはいけません。弱き者に乱暴をするものではありません。僕だったからよかったものの、桔梗さんのような華奢な方は、乱暴に扱えばすぐ壊れてしまいますからね」

「はあ……」


 清影は興味なさげにいい加減な返事をする。

 しかし、先生は折れなかった。


「鬼は人を食うことしかしない恐ろしい生き物と言いますが、僕はそうは思っていません。強大な力も、要は使い方次第でしょう。その強さで人を守ることだってできるはずです。僕が昔会った少年も同じことを言っていました。鬼が守ってくれたのだと。それは貴方のような、目鼻立ちの整った男の子でした」


 清影が一瞬、動きを止めた。そして先生を凝視する。


 ふと時計を見れば、次の授業の時刻が迫っていた。清影が何か言いたげに口を開く前に、桔梗はその腕を引っ張って部屋を出た。これ以上先生の時間の邪魔をするわけにはいかないし、清影に失礼な物言いをさせるわけにもいかない。


「先生、本当にありがとうございました。また明日、訪問させていただきます」


 深々とお辞儀をする。清影にも小声で「〝頭を下げて〟」と命令すれば、清影の背が勢いよく曲がっていた。



 澄みきった秋の空の下、柔らかな陽ざしが街並みを照らしている。

 女学校を後にした後、清影は無口だった。

 何か考えている様子でずっと黙っていたかと思えば、坂を下りた辺りでゆっくりと口を開く。


「あの教師、以前僧侶をやっていませんでしたか?」

「え? いえ、そんな話は聞いていないけれど……。ああ、でも、実家はお寺だって言ってたわ」


 そう言うと、清影はまた口を閉ざす。


 川沿いを歩き、屋敷へ向かう帰り道、清影はずっと静かだった。



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