第22話:貴方のために①




 早朝の森は、幻想的で美しい。

 太陽の光がまだ弱いこの時間は、木々の色が薄くなっていて、いつもより優しい情景となって目に映る。朝靄がかかった小道も、まるでおとぎ話に出てくる神秘的な森みたいで昔から大好きだった。


 母が生きていた頃、ちょうど朝の数時間だけ見ることのできるこの不思議な空間をよく歩いた。母曰く、人工建造物のない森を散策していると、故郷である日本に帰ったような気持ちになれるのだそうだ。


 思い出しながら小道を歩いていると、少し先の開けた場所に大きな泉が見えた。

 あの泉にもたくさんの記憶の欠片がある。昔、先代や両親たちとバーベキューをしたり、ヴィートと釣りなんかもした。じっと待っていることが壊滅的に苦手なヴィートは、よく釣り竿を放り出して自分が湖の中に入って遊んでいたが、それで一度溺れかけ、二人して怒られたこともあった。


 しかし――――。


『この湖はそんなに大きくないが、別の場所にある大きな湖と地下の深い場所で繋がっているから、溺れれば遺体すら上がらない。危ないから二度と入るな』


 まさか、あの時先代に忠告された言葉が、こんなところで役に立つとは思わなかった。人生とは本当に不思議なものだ。


 湖の水際まで足を進めたセイが、そっと中を覗き込む。

 水面は美しく透き通っていて、十メートル下まではっきりと見ることができた。だがその奥は、どんどん暗くなっていくばかりで底がまったく見えない。水深が深すぎて陽の光が届かないのだ。


 そう、ここならば――――ここならば決して遺体は見つからない。


 母と手を繋ぎながら何度も一緒に覗いた思い出の湖を見つめ、下唇を小さく噛む。

 こんな選択をして、エドアルドはきっと怒ることだろう。

 我儘を通す形で番になってもらったというのに、次の日に姿を消すのだなんて裏切りもいいところだ。



 けれど、これが全てを丸く納めるための最善の方法だった。

 ヴィートは、セイとエドアルドが番契約を結んだことを絶対に許さない。真実を知れば即座に、言い訳すら聞くことなくエドアルドに鉄の鉛を撃ち込むはずだ。例えそれが後々になってマイゼッティーファミリーの人間に糾弾される結果となったとしても、彼は少しも気にしない。それどころか『自分の大切なファミリーを慰み者にした』と正当性を突きつけて相手を黙らせてしまうことが目に見えている。



 だが、セイがエドアルドの番になったという証拠がなければ――――。

 そう、これがセイの決意した人生最後の計画だった。



 マフィアの世界の掟には、『明確な証拠なしに相手に罪をなすりつけ、殺してはならない』というものがある。これは無駄な殺し合いやファミリー間の抗争を防ぐためのものであり、やはり破れば厳しい制裁が科せられるのだが、この律に従わなければならないヴィートはセイが見つからない限り、エドアルドに手を出すことができない。


 ヴィートは掟を重んじる人間であると同時に、古くからこの世界に名を残す名家の長。そんな人間がファミリーの破滅に繋がる恐れのある愚行を犯すはずがない。いや、犯すことができないと言ったほうが正しい。

 だから自分はこの道を選ぶのだ。この深い湖に身を投げれば、一生ヴィートに見つからない。エドアルドを殺すための物的証拠は全て消滅する。


「ごめんね、エド……」


 ここにいない最愛に、小さく謝る。

 朝、目を覚ましてセイが隣にいないことに気づいたら、彼は不安になるだろうか。どこを探しても見つからないことに、心を痛めるだろうか。エドアルドの性格から考えて酷く落ちこむことを予想して、心苦しくなる。


 でも――――大丈夫だ、きっと辛いのは最初だけ。彼だってファミリーを束ねる長なのだから、時間はかかってもいつか『これでよかったのだ』と納得してくれるはずだし、アルファはオメガと違って番を失っても他のオメガを迎えることができる。そう、セイがいなくてもちゃんと生きていけるのだ。


 彼が自分の知らない誰かに愛を囁く未来を想像すると、飛び込む前に心臓が止まりそうになるくらい辛くなるけれど。


 ――――これでいい。


「ありがとう、エド。僕と出会ってくれて……」


 最後にそっと自分の項を撫で、礼を告げる。その言葉が風に溶けると同時に、セイは大きく一歩踏み出した。

 次の瞬間、ザパンッ、と水面に派手な飛沫が上がる音が立つ。だが耳に届いた音はすぐに籠もったものとなり、内耳が薄い圧迫に包まれた。


 春の水は心臓が冷え上がるほどではないが、それでも一瞬で体温を奪うほどで、たちまち全身の皮膚感覚がなくなる。そんな中、薄目を開けると水の上にある白い光が視界に入ってきた。いつの間にか水中で身体が反転していたらしい。


 ――――綺麗だ。


 死が目前にあるというのに、降り注ぐ日差しがまるで光のカーテンのようで思わず感動を覚えた。


 最後に見られたのが、こんなにも美しい光景でよかった。セイは水の冷たさに固まった口角をやんわりと上げ、そして最期の覚悟を決める。

 そんなセイに突然の変化が起こったのは、肺に水を入れるため口を開こうとしたその時だった。




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