第二章 セントロザリオ学院の変事①


   1 真夜中のパトロール


 八時半に図書館が閉館すると、セントロザリオ学院の警備員、ジェームズの足は遊歩道へ向かった。

 そこには寮の部屋を抜け出して集まってきた少年達が、草陰にかくれてたむろっていた。彼らは緊張感に満ちながらうずくまり、文字盤を囲んで魔法のじゆもんを唱えているところであった。


 イーブメン イスピライチウン エスムーティクン


 そうして黒いマスクをかぶった少年が二本のろうそくに火をともし、それを地面に立てる。

 皆は真剣である。マスクの少年が呪文を何度も口中で唱え、そっと文字盤の上に描かれている矢印の上に両手を置いた瞬間だった。

 その蠟燭の光にジェームズが気づいたのだ。

「こら! 誰だ! そこでなにしてやがる」

 ジェームズの声にはじかれるようにして少年達はばらばらになって駆け出した。

「待て!」

 ジェームズは一人の少年の腕を捕まえたが、少年はそれを振り切ってすごい勢いで走っていった。

 生徒が走り去った後、ジェームズは地面につばを吐いた。

「……ったく、何が『おぼっちゃま学校』だ。悪ガキどもめ。今時の子供はしつけがなっちゃいねえな。あいさつもロクにしやがらねえで、俺を化け物みたいに見やがって! 馬鹿にすんなよ!」

 ジェームズは憤慨しながら手帳と胸ポケットの煙草を取り出してライターで火をつけた。そうして煙草を吸いながら、あらためて周囲を懐中電灯で照らした。

 かしの木があり、生け垣がある。生け垣の向こうに、古めかしい納屋が立っていた。老朽化した納屋には不要なガラクタと特別な工具が格納されているだけで、人の出入りも滅多にない。

 納屋……。

 そこで行われている悪徳について、ジェームズは充分承知している。彼はぶるりと身体を震わせた。

「い……忌々しいクソ納屋の事なんざ、俺には関係ねえ……そうさ……」

 ジェームズは足早にその側を通り過ぎた。

 風が強くなってきた。いやな夜だ。

 ジェームズの夜警は、裏門脇の警備員小屋から始まり、高塀沿いに構内を半周して正門に出る。前庭をチェックし、教会の表扉の戸締まりを確認し、また構内を半周して裏門に戻る。次に、回廊を通って中等部校舎、教会内部、高等部校舎の順で見回り、最後にグラウンドを一巡するというものだ。これを午後九時、午前零時、午前三時の三度、繰り返す。

 朝七時になると、昼間の警備員が出勤してくる。するとジェームズは警備員小屋で食事を取って、帰宅して眠りに就く。午後七時に昼間の警備員と交代すると、ジェームズの仕事が始まる。

 完全に昼夜が逆転した生活だ。安い給料の中から借金を返すと、手元に残る金は微々たるもの。住居と食事が支給されている点が救いだが、孤独で楽しみのない仕事だった。

「陰気な建物ばっかりだぜ……。見てるだけで気がってきやがる」

 ジェームズは高塀沿いに進み、尼僧院の外壁をチェックした。手にした懐中電灯の無機質な光が、闇の中に黒い光沢を放つ悪魔の顔を浮かび上がらせる。蝙蝠こうもりの耳をした忌まわしい顔だ。

 ジェームズは冷たい足で背中を歩かれたようなおぞけを感じた。思わず懐中電灯の灯りを素早く上下させる。

 電灯のスポットライトの中に、フードを被った修道士や王冠を頭に載せた鼠の化け物の顔などが次々現れる。グロテスクな彫刻に彩られたガーゴイル(吐水口)だ。

 ジェームズは舌打ちした。ここでは、不気味な物を厭というほど目にする。就職して四ヶ月、慣れてきたとはいえ、夜な夜な肝試しをしている気分だ。

(畜生、酒が飲みてえ……。酒さえありゃ、怖いもんなぞねえんだが……)

 ジェームズは心中で愚痴った。のどの渇きを覚え、唇をめ回す。

「いけねえ。飲んじゃいかん酒の事を考えると、ますます飲みたくなってきやがる」

 彼はいらちながら、適当に懐中電灯を振り回した。足早に進み、正門の戸締まりを確認する。

「異常なし」

 事務的につぶやいて振り返ると、樫の老木の真上に赤い月がぽっかりと浮かんでいた。教会のせんとうが月を切り裂いているように見える。

(忌々しい夜だ……。酒が欲しい。十杯でも、百杯でもやりたい……)

 同じ愚痴が頭の中で渦巻き、耳からあふれんばかりの雑音になる。

 ジェームズは頭を激しく振った。あのこうこつとした感触の記憶を、そら彼方かなたに吹き飛ばそうといたのだ。

(駄目だ。酒のことは考えるな。もう一度ヘマをやったら人生おしまいだぜ!)

 ジェームズは自分に強く言い聞かせた。

「ジェームズ君、君のようなアル中に、これ以上仕事は任せられんよ。うちは信頼がモットーの警備会社だからね」

 嫌味ったらしくそう告げた、前の職場の上司の顔が脳裏によみがえる。鼻のあなを膨らませ、憤慨している上司の顔。ジュードウ五段といつもうそぶいている男。ごついたいと脂ぎった顔。威圧的な態度でいつも部下をいじめて喜んでいる、そういう最低の男だった。

 そんな上司からさげすまれる事に、ひどい屈辱と苛立ちを覚えた。

「この事件の責任は取ってもらうからな」

 頭に白い包帯を巻き、しようぜんうなれたジェームズに向かって、上司は妙にうれしそうに言ったものだ。

 当時のジェームズは警備会社の同僚と二人で、都心のオフィスビルを夜警していた。その際、酒を小瓶に入れて持ち歩き、ちびちびとやりながら各階を見て回るのが常だった。

 強盗事件など滅多に起こる訳がない。朝までビル内を歩き回るだけの暇な仕事だ。だから、多少酒をんでいたとしても、仕事に差し支えるはずはなかったのだ。

 だが……確かにその夜は、少しばかり量が多かったのかも知れない。寒い二月の事だったから、少し多めに吞んで暖まろうとした記憶がある。しかし、いつ意識を失うほど度を過ごしたのだろうか? その点については、まったく覚えがなかった。

 いつの間にか泥酔していたジェームズは非常階段で転び、階段の鉄の手すりに頭をぶつけた挙げ句、そのまま寝ていたのだ。

 同僚が彼を見つけた時、ジェームズは後頭部をまみれにしてうめいていたという。そして助け起こそうとした同僚に酒臭い息を浴びせながら、手足を振り回して暴れたらしい。

 ジェームズの後頭部の頭頂に近い場所には、今でもその時のきずあとが残り、髪も薄くなっている。しくじりを思い出す度、今もビリビリと痛む。

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