バチカン奇跡調査官

藤木稟

解放のファンタズマ 1-①


      1


 カラビニエリ(国家治安警察隊)のオフィス。

「ふぬぅ……」

 アメデオ・アッカルディ大佐は今、右手にツィザーを構え、左手に手鏡を持って唸っていた。

 ちなみにツィザーとは、毛抜きである。

 どうも今朝から鼻がむずむずすると思い、身だしなみの為に持ち歩いている手鏡を覗いてみると、中途半端な長さの鼻毛が一本、息をする度、右の鼻の穴から出たり入ったりしているのが映っていた。

 そこでアメデオはデスクの引き出しに常備している日用品の中から、ツィザーを取り出し、鼻毛と格闘を始めた。

 だがこの鼻毛、ツィザーの先端を近付けると、ひょいと奥へ引っ込んでしまう。

 そこでアメデオは長く息を止め、不意に勢いよく息を吐くことで鼻毛を出現させながら、そいつを丁度いい角度でキャッチできるよう、右手を細かく動かした。

(よし、捕まえた!)

 アドレナリンが一瞬、脳を駆け巡る。

 だが、ここで焦りは禁物だ。力任せに引き抜こうとすれば、毛は途中で切れ、鼻腔の粘膜に更なる刺激と痒みをもたらす可能性がある。

 アメデオは慎重に角度を探りながらツィザーを操り、鼻くそが少し絡んだ頑丈な鼻毛を抜き去ることに成功した。

「ふう……」

 ティッシュでツィザーの汚れを丁寧に拭き取り、手鏡を閉じてチェアの背にもたれる。

 満ち足りた気分でオフィスを見渡すと、壁に飾られた数多の表彰状や記念写真、飾り棚に並べられた大小様々の表彰盾が目に入った。

 そのどれもがアメデオの輝かしい功績を讃えたもので、イタリア各地で起こった数々の不可能犯罪を解き明かしたり、極悪な組織犯罪を解決したり、密輸や麻薬取引を阻止したりした証である。

『解けない難事件はアメデオ・アッカルディへ』とまで謳われる彼の名声は、カラビニエリ内のみならず、ローマ警察、地方警察、財務警察等にまで響き渡り、町を歩けば市民から記念撮影を求められたりもする。

 精鋭の部下達を率いて、治安維持にあたる日々。

 プライベートもまずまず順調だ。

 公私共に順風満帆と見えるアメデオに、問題があるとすれば、これまで彼の業績とされてきたあらゆる諸事件を本当に解決してきたのが、若きハッカーであり脱獄犯でもあるローレン・ディルーカだという事実ただ一つである。

 ローレンとの出会いは、厄介な連続殺人事件にカラビニエリ中が奔走する中、事件の真相と犯人を示唆するメールが彼から送られてきたことに遡る。

 それ以来、時にはメールで、時には直接彼に会って問題解決の指導をされることで、アメデオは大手柄を立て続け、気付くと今の地位にいた。

 ローレンという男が天才であることは疑いようがないが、つくづく不思議だと思うのは、彼が出世や社会的評価といったものにまるで無頓着という点である。

 加えて家庭や愛情といったものにも、関心が無いらしい。

 それでは人生のほとんどを損しているのではないかと、アメデオは時々、疑わざるを得ない。

 薄らそんなことを考えていると、ノックの音もそこそこに、ガチャリと正面の扉が開いた。

 そこに立っていたのは、四つ星の階級章を付けたベルナルド・ デガーニ中将と、ローマ警察本部長のカスト・マヌリッタ長官である。

 アメデオは慌てて立ち上がり、背筋を伸ばして敬礼した。

「デガーニ中将どの、マヌリッタ長官どの。わっ、わざわざお訪ね頂くとは恐縮で……」

 緊張に顔を赤らめながら挨拶したアメデオに、デガーニ中将は小さく掌を振った。

「堅苦しい挨拶は抜きだ、アメデオ君。急に訪ねて来たが、構わなかったかな? 忙しくしていたのではないのかね」

「いえ、滅相もございません」

 アメデオは至極正直に答えた。

 実際のところ、今のアメデオは現場に出る必要さえ殆どなく、大概の事件は有能な部下達が解決してくれている。アメデオの仕事といえば、彼らが纏めた報告書にサインを書き入れるだけと言っても過言ではない。

「それなら宜しい。一つ、君に頼みたいことがあるのだ」

「はっ」

「君も知っての通り、私とマヌリッタ長官とは懇意の仲だ。その彼が、君を見込んで話があるそうで、普段の君の仕事ぶりの視察も兼ねて、ここへお連れした次第だ」

 デガーニ中将の言葉を聞きながら、アメデオはデスクの隅に置いていたファイルの山を、さりげなく身体の前に移動させた。

 マヌリッタ長官が顎鬚をひと撫でし、胸を反らして咳払いをする。

「久しぶりだねえ、アメデオ大佐。ローマ警察本部を代表して、君に賞状を贈った日以来だろうか。アメデオ大佐の高名はローマ中に、いや、イタリア全土に響いておる。

 そこでだ。そんな君に、我々が主催する年次研修会での講演を頼みたいのだよ」

 アメデオはぐっと息を呑んだ。

「……講演……ですか? 私に出来るでしょうか……?」

「出来るに決まっておるだろう。何しろ君は数々の難事件を解決してきた逸材にして天才だ。その捜査の進め方の極意であるとか、高度な犯罪を解き明かす思考方法などを、我々にもレクチャーして欲しいのだよ。

 研修会には、イタリア各州の警察トップを始め、ネット犯罪課や特殊警察の有志なども参加する予定でね、開催は一カ月後だ。過去のプログラムや研修会の概要などの資料は、ここに用意してきた」

 マヌリッタ長官は、鞄から分厚いファイルを取り出した。

「実に名誉なことだ、アメデオ君」

 デガーニ中将が横から言った。

「引き受けてくれるかね?」

 マヌリッタ長官はそう言いながら、既にファイルを差し出している。

 アメデオは受け取らざるを得なかった。

「しょ、承知致しました」

「そうか。それでは準備を頼んだよ。また連絡させて貰う」

 満面の笑みを浮かべたマヌリッタ長官は、デガーニ中将と共にオフィスを去った。

 アメデオはどっさりと椅子に倒れ込んだ。

(……講演だって? 捜査の極意だって? 一体、何を話せばいいってんだよ……)

 そもそも捜査の極意など、話せる訳がないのだ。ローレンにお願いして、まるで魔法のように解決して貰うのだ、などとは。

 ひとまず考えられるのは、過去の事件の経緯や捜査の手順といったものを詳細に述べることだろう。

 だが、過去の事件の詳細など、もう殆ど覚えていない。

 アメデオは溜息を吐き、マヌリッタ長官に渡された資料をめくった。

 資料の二頁目に書かれた当日のタイムテーブルには、アメデオに用意された講演時間が三時間(質疑応答を含む)とある。

「くそっ……!」

 アメデオはテーブルに突っ伏し、頭を掻きむしった。

(このピンチを一体、どう切り抜ければ……)

 こんな問題を相談できる相手といえば、不本意ながら一人しかいない。

 ローマ警察の犯罪プロファイラー、フィオナ・マデルナだ。

 彼女はローレンに心酔している変人で、心底イカれた女だが、ローレンの指揮の下、何度もタッグを組んで難事件を解決してきた相手である。

 アメデオはスマホでフィオナを呼び出した。

 長い呼び出し音に舌打ちをしていると、ピッと通話の音がする。

『……はぁ……い』

 昼間から酔っているのか寝惚けているのか、フィオナの陰気な声が応じた。

「よう、俺だ。アメデオだ。一寸ちよつとした相談があってな」

 そこまで話した時、フィオナの声が明るく弾けた。

『大佐、久しぶり! どうしたの? 又、事件? ボク、又、マスターに会える?』

「そ……れが何というか、ローレンじゃなく、お前のボスに関係する話なんだ」

『ボクのボスって誰なのさ。マスター以外に誰がいるんだよ』

 フィオナは不機嫌そうだ。

「さっきローマ警察のマヌリッタ長官が訪ねて来たんだ。それって、お前のボスだろう? で、俺にお偉いさん相手に、高度犯罪捜査の講演をやれって言うんだよ」

『ふうん。名誉なことじゃない。やってみれば?』

 フィオナは面倒そうに答えた。

「頼むから真面目に聞いてくれよ。長官は俺に、捜査の極意とか、犯罪を解く為の思考方法を話せって言ってるんだぜ。一体、何を話せばいいと思う?」

 すると電話口から笑い声が聞こえた。

『あははは。それは確かに、難問だね』

「そうだろう?」

『でもさ、大佐。あれだけマスターの手際を側で見てきたんだから、やろうと思えば出来るかもしれないよ』

「いやいや、見てきたからって、それを言葉で説明するのは別だろう。第一、講演の原稿なんてもの、俺には絶対に書けない。いいか、絶対にだ」

『そんなこと自慢されてもね』

「お前だって、数々の難事件を共に解決してきた、俺のパートナーみたいなもんだろう? 頼むから協力してくれ。なっ、頼む! この通りだ!」

 アメデオはスマホに向かって頭を下げていた。

『ボクだって忙しいんだけどなあ……。分かった、少しなら手伝ってあげるよ。

 まず、過去の難事件の報告書一式を大佐の手元に用意して。ボクがそこから講演映えしそうな事件をピックアップするから、あとは大佐の部下にでも……』

「恩に着るぜ! すぐにそいつを届けさせるから、お前はこっちへ来てくれ!」

 アメデオは、フィオナの台詞もそこそこに、急いで通話を切った。

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