通学路

兎鞠

 叔父の背中が、今日はやけに小さく見えた。


 日差しが強く、瞬きをすると汗が目の中に入って染みて、もう一度瞬きをする。目線を戻すと、叔父は僕よりも少し先を離れて歩いている。


 僕は置いていかれないように歩みを早める。


 夏の日差しが、いや、これは『夏』と呼んでいいのだろうかーー僕は、地球上の全ての生き物を殺すために作られた新しい兵器みたいにーーあの憎い大きな光の球を見つめる度に思うのだ。こんな物があってもいいのか、と。


 目を落とすのを忘れていて、大きな石ころを蹴飛ばした。危うくバランスを崩して転けそうになるのを何とか堪え、僕は左肩にずしりとのし掛かっている荷物を、持ち直した。


 僕は十キロが限界なのに、叔父は左肩に十五キロ、右手に十キロの荷物を持って、坂道を悠然と歩いていく。


 いつもその背中だった。その変わりのない、大きくて頼りがいのある、威風堂々とした揺るぎないその背中に、僕は密かに畏敬の念を抱き続けていた。子供の頃から、今日に至るまでずっと。


 それなのにどうして、今日はこんなにも、目の前を歩く叔父の背中が小さく感じられるのだろう?


 どうしてその背中がとてもか弱く、脆く、今にも崩れ落ちそうな不安感に満ちて見えてしまうのだろう?


 昨日、妹が酷い咳をして、熱を出した。村に流行っている病かもしれず、僕達家族は皆、慄然とした。数年前に父さんを奪っていったその病が、この夏にまた訪れようとしている。この村の全てに。


 僕らは、何か悪いことをしたのだろうか?


 右手には、登ってきた崖道の下に僕らの住む村がある。平坦で、陽の光を真正面に受けることになる、嵐の時は家を捨てて崖下の洞穴に隠れ、離れた所にある水源の川は時々氾濫して村中を浸す。


 ……荷物が重い。肩も痛い。


 僕は、この村のことが好きなのだろうか? それとも、嫌い?


 ……いつも、この道を毎日通る度に、そうやって自問自答を僕は繰り返していた。そうすることで少しでも荷物の重みや、坂道を歩く苦しみ、陽に対する憎しみや、人々を襲う病のことを忘れられるようにと。その感覚を思考で上塗りするような、願いのような意識で。


 でも結局、思考はこの村や、家族のことに戻ってくるのだ。どんなに気をつけていても、僕の意識は、いつもここ、この崖と川に挟まれた乾いた大地の上の小さな村の所へと戻ってくる。家族の元へと。そうして今も、こうして、荷物を運び続けている。思考が中断する。僕は今、何を感じていた? 何を思おうとしていたっけ?


 左肩が痛み、さすがに一度荷物を下ろして、右肩に担ぎ直そうと思い始めた時、目の前の叔父が立ち止まって、こちらを見ているのが見えた。


 僕は驚いて、肩の痛みも忘れて思わず言った。


「どうしたの? 叔父さん」


 叔父は最初、何も答えようとしなかった。何も言わずに、じっと僕の事を見返し続けていた。僕と叔父の眼が合った。その光を帯びるような一瞬があった後、叔父は僕から目を逸らし、それから一度口を開きかけて、やめ、それからもう一度口を開いて、言った。叔父の声が聞こえた。


「お前、しんどいんじゃないんか。それなら俺が担いだるけえ」


 叔父がそんなことを言うなんてありえない、とその時の僕は思った。あり得ない、あり得ない、と。僕の意識の一部が声高にそう繰り返し続けていて、僕は凄く動揺した。


 叔父は僕が荷物を運ぶようになってからというもの、一度も僕に手伝うような事を言ったことはなかった。担ぐ荷物は、それぞれが責任を持って最後まで運ぶ。それが決まりだ、と。叔父は良く父さんにそう言っていたし、その眼は僕が聞いている事を期待していた。


 あ、と、僕は口を開きかけ、やめた。それから何を言えばいいのか分からず、頭の中がぐちゃぐちゃになりながら、それでも陽のことは陰で憎みながら、何とか慌てながらも言葉を紡ごうとした。でも、


「もうええ」


 叔父はそう言い捨てるように言うと、再び汗まみれの銅色の顔を向こうに向けて、またゆっくりと歩き始めた。もう見えている頂上に向けて、またあの着実な歩みを再開した。


 僕はありがとう、大丈夫だよと言おうとしたんだ。


 西陽。本当だよ。嘘じゃないんだ。西陽。


 僕は首を捻って陽を睨んだ。額から垂れてきた汗が睫毛を伝って、染みるので僕は仕方なく目を瞬いた。


 振り返ると、叔父はもう左に折れる最後の坂を登り切ろうとしていた。その背中が見えなくなる前に、僕は右肩に荷物を担ぎ直して、もう一度力を振り絞って、歩き始めた。



 一度だけ、テレビというものを観たことがある。


 小さな箱の中に沢山の光が閉じ込められていて、その中で色々な劇が行われていた。言葉にするのはとても難しいけれど、とにかくそれは、僕にとっては未知との遭遇だった。箱は小さく、外装はボロボロだったけれど、父さんと叔父に連れられて初めて隣町の市場に出た時、屋台の一つにレンガのように積み上げられた中古のテレビ達の姿を見たのだった。


 子供達がその前に座って、何かの映像を見ていた。当時の僕はそれが何なのか分からなかったけれど、後でそれが日本の『アニメ』と言うのだと知った。


 アニメの中で、とても高価そうな綺麗な服に身を包んだ若い男が自転車を必死で漕いでいて、突き当たりで急に出てきたトラックにぶつかりそうになっていた。そのシーンで子供達が大笑いしていた。僕も意味が分からないなりにも、ちょっと含むようにしてから、笑えた。


 男の子はとても急いでいるらしく、口に四角い茶色のパンのようなものを加えて、必死の形相で自転車を漕いでいる。


 その後ろから、スクーターに乗った、今度は別の衣装を来た、でも雰囲気の似た服の女が登場して、男をチラッと見てから、そのまま腰に巻いた布を風で揺らしながら通り過ぎていった。へとへとの男がその背中に何かを言って怒っていた。


 僕は気付けば一番前に立って、その映像を見ていた。尻を棒で突かれるまで、僕は自分がそうしていると気づいていなかった。お兄ちゃん、邪魔だよ。邪魔しちゃだめだよ、皆のだから。露店主が笑って「お前らのじゃないよ」と言う声が聞こえてきた。


 それから、わあわあと騒ぎながら子供達と一緒に僕はその映像を見続けて、その男の行く先を見届けた。


 男は、学校に向かっていたのだった。



「夢見るんじゃねえよ」


 叔父は服を脱いで布で汗を拭いながらそう言った。父さんは苦笑いを浮かべて、僕らの様子を見ようか見ないでいようか迷っているような素振りを見せている。


 叔父は変わらない口調で続けた。


「学校に行かせられる金があると思うのか? 明日食う物も困る有り様だってのに。馬鹿見てねえで、早く寝る支度しろ」


 明日も早えぞ、とは叔父は言わなかった。僕はもう殆ど毎日二人に付いて荷物を運んでいたから、もう言う必要がなかったのだ。



 そう、思い出した。


 世界は広いんだ。


 荷物が重い。日差しが憎い。汗が垂れて鬱陶しい。喉が乾いた。もう休みたい。辛い。


 あんなものを見たから、僕は今辛いのか? いや、違う。


 僕は、叔父がどうして急に優しい言葉をかけたのか、その理由が分かってしまったからだ。その理由を知ってしまったからだ。


 重たい汗が瞼に垂れ、一瞬、視界を覆い隠す。瞼を閉じて、目で汗を食べるようにしてからもう一度目を見開く。西陽が地面を光らせている。赤い土が削れている。先が掠れた足跡が左向きに続いていて消えている。


 急に肩が軽くなって、驚いて目を上げると、そこには朗らかな表情を浮かべた叔父がいた。「良くがんばったな」と言って、僕から荷物を取って、そのまま奥のトラックの方へと歩いていった。ここまで運んできた荷物は、この山の頂上から一斉に、向こう側の街へと車で送り届けられていく。今日の荷役で、僕らは二日分の食料代を得るのだ。


 でも、妹を医者に見せられるだけのお金は得られない。


 叔父は荷物をトラックの荷役係に受け渡し、手を叩きながら僕の元へと戻ってきた。


 叔父は膝に手をついている僕の肩にゴツゴツとした手を置いて、よくやったな、とだけ言った。


 僕は膝に手をついたまま、何も言わなかった。


 目を上げると、西陽が地平線の彼方に今にも沈もうとしていた。その微かな輝きが、目の奥に張り付いて離れようとしなかった。


 その輝きの先に、あの世界があるような気がして。


 青紫色の輝きが地平線を中心に雲を染め上げて、最後に地平線が閃くように白く光った後、急激に暗くなった。


 僕は膝から手を離して体を起こし、右肩を手で揉んだ。


 静かになった世界の中で、僕は独りで、思った。


 あの輝きを忘れられることは、二度とないのだろうと。




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