ペット探偵花岡正治 ――土佐闘犬轢き逃げ事件――

柿月籠野(カキヅキコモノ)

第1話 ぺにゃぺにゃエアーベント

『夜間救急動物病院はなおか』の一日は今日も、夕方から始まる――。

「はいほい、おりおり、たたみたたみ」

 ――ご機嫌に謎の即興そっきょうソングを歌っているのは、動物看護師の志賀しが悠生ゆうせいである。

 天気の良かった日中に干しておいたタオルが、洗濯物の山から志賀の膝に移され、顔のわりにごつい両手に畳まれて、新しい山の頂上に乗る。

 彼と同じ動物看護師の佐々木ささき理香子りかこは、その新しい洗濯物の山からタオルを取って、畳み直す。

 ――なにせ、元の洗濯物の山と、志賀が作った洗濯物の山は、全く同じ見た目をしているのである。

「たたみたたみ、たおるたおる、ふんふふん」

 ご機嫌に洗濯物を移動させている志賀の歌を聞きながら、佐々木は小さな溜息ためいきを漏らす。

 人類は大昔、複数の個体で構成されたグループで狩猟や採集をしていた時代には、オスは拠点の外で狩りなどをして、メスは拠点の近くで採集をしたり、拠点で家事や子育てをしたりして、生きていた。それは、「全員がある程度なんでもできる」、ではなく、「それぞれが得意分野を持って効率の良い役割分担をする」という、限られたエネルギーを使って生き残るための戦略の一つであった。

 そのため、現代に生きる人間の男女にも、男性の方が方向感覚や運動神経に優れている、女性の方が細かい作業が得意、子供の些細ささいな顔色の変化に気付きやすい、といった、身体や脳の様々な能力差があるのだ。もちろんこれは傾向の話であって、個人差や例外は確実に存在するし、性別がこうだからこうあるべき、という意味では決してないが。――という話を、佐々木は聞いたことがある。

 志賀は、男だからという理由によってかどうかなど分かるはずもないが、細かい作業は得意ではない。タオルも畳めないのに、実技試験もある動物看護学科をどのようにして卒業したのかと、佐々木はここに勤め始めた当初は疑問に思っていた。

 しかし志賀には、切り替えの速さと集中力の高さという強みがある。普段はぺにゃぺにゃしていても、怪我や病気をしている動物を目の前にすれば、彼は一瞬で愛玩動物看護師になる。丸い童顔に乗っかった眉をぎゅっと寄せて、モニターの数値を見、獣医師の花岡はなおかの指示を聞き、怯える動物をすみやかに保定ほていして、注射針をさばく――。

 ――佐々木の先刻の溜息は、あきれから出たものではない。

 無駄や不正確さを徹底的に排除すべき動物医療の世界で、洗濯物を移動させているだけの志賀は、佐々木にとって大切な、小さな空気抜きなのである。

「理香子ちゃん、考え事?」

 気付けば志賀が、洗濯物を移動させながら佐々木の顔を覗き込んでいる。

「はい」

 志賀には、何を誤魔化ごまかす意味も無い。佐々木はタオルを畳み直し続けつつ、素直に返事をする。

なんの考え事?」

 志賀は丸い目をぱちぱちとまたたかせ、純粋に質問をする。

 何の考え事かとかれると、何の考え事をしていたのか、はっきりと意識していたわけではないことに気が付く。ただ、答えるとするならば――。

「志賀くん、今日はジムに行っていたんですね」

「えっ! わあ、なんで分かったの!」

 当たりだったらしい。

 志賀は嬉しそうに叫ぶと、子供が作った粘土細工のような形に丸まったタオルを佐々木の隣の山に置き、また別のタオルを手に取り――。

「なんで? なんでーっ!」

 ――大量のタオルが、大量の埃を生み出しながら、山から山へと移動する。

 志賀の趣味は、キックボクシングである。

 志賀が出勤前にキックボクシングジムへ行くと、ジムでの大きな動きを引きずるのか、細かい作業がさら下手へたになる。――と、分かっているのだが。

「秘密です」

 そう答えておく。

 別に、誤魔化したいわけではない。

「うひょあ! 理香子ちゃんの魔法⁉ サイコパワー⁉ スーパー超能力パワー⁉」

 また叫んだ志賀は洗いたてのタオルの両端を持って顔の高さにぴんと張り、そこにあまり彫りの深くない顔を押し付ける。

「んばんばんばんば」

 志賀の声に合わせて、タオルに浮き出た彫刻の口がぱくぱくと開閉する。

 ――志賀くん、あなたは一体何をしてるの?

 あと、何? スーパー超能力パワーって。

 ――佐々木が時々ときどき志賀で遊ぶのは、志賀から発生する奇妙奇天烈きみょうきてれつな言葉と動きが面白いからである。

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