残り香.

「透夏ー、出掛けるんだけど一緒に来る?」

「行くぅ」

 何か部屋の奥でガサゴソと支度をしていた日向に声を掛けられて、僕は振り向きざまに大きな声を上げた。

「電車?」

「うん。あの、透夏が最初に居た辺り」

「らじゃ」

 僕が立ち上がると、日向は顔を輝かせて嬉しそうに笑った。


 電車に揺られながら、モニターに映し出された路線図を見上げる。あとひと駅で目的地のようだ。

「うわ、怖」

 日向の声で顔を上げると、モニターに映るのはニュースに変わっていた。

《⬛︎⬛︎県の山中にて身元不明遺体発見、警察が捜査中》

 なんてことない、いつもの僕なら「ふぅん、物騒だな」なんて言って目を逸らすだろう。でも、なんだかその画面からは目を離せなかった。もうないはずの鼓動が、どくどくと波打っているような気さえする。

「透夏?どうしたの?」

 日向が僕に小声で声を掛けてくる。その声が、まるで壁の向こうから聞こえてくるみたいに遠く感じた。

 冷汗が静かにこめかみを伝う。

「……ひゅう、が」

 何とか絞り出した声は、自分でも情けなくなるほど震えていた。

「あのニュース、ネットで調べられる?」

 日向が少し疑問を浮かべた表情になった後頷いて、スマートフォンの画面をスワイプし始める。それを見ながら、僕は何とも言えない胸騒ぎを感じていた。



 それから、1週間ちょっと経った頃だろうか。

 テレビに映るニュースに、僕の顔が出ていた。

《⬛︎⬛︎県の山中にて発見された身元不明遺体は、近くに住む高校生、森畑柚月さん17歳のものと分かりました。遺体は死後2週間程が経過していると思われ……》

「……これ、透夏だよね」

 日向が愕然とした調子でぽつりと呟いた。

《森畑さんの頭部には殴打痕と見られる傷があり、警察は事件と事故の両面を視野に捜査を進めています》

 僕の呼吸が浅くなっていく。

 怖い。寒い。痛い。苦しい。逃げたい。

 僕の頭の中に、いつかの僕の声が反響する。

 嗚呼、そうか。僕は、僕は──


「透夏」

 日向の声で我に返った。

「大丈夫? 顔真っ青だよ」

「……幽霊に顔色なんてあるの?」

「あるよ、特に透夏ははっきり視えるからよく分かる」

 弱々しく笑った僕の顔を覗き込むようにして、日向が一言、訊いた。

「……何か、思い出した?」

「……うん。大体、全部」

「そっか」


 僕の本名は、森畑柚月。

 両親は、僕が小学4年生になった頃に揃って蒸発して、僕は遠い親戚の家に預けられた。夫婦が住むその家で、僕は本当の息子みたいに育てられた。表向きには。

 その家の男は酒が入ると暴力を振るう人で、奥さんや僕を殴ったり蹴ったりすることが多かった。奥さんは奴の暴力に怯えて、罵られ殴られる僕を見て見ぬふりをした。遠い親戚が捨てた子供が、邪魔だったこともあるのだろう。学校には行かせてもらえて、話ができる友達もできたけど、彼に脅されていたから助けを求めることはできなかった。文字通り生き地獄を歩くような毎日だった。

 そんな毎日が、7年ほど続いた頃だろうか。

 あの夏の日。あの日は、8月だというのに比較的涼しくて、日が暮れた後は肌寒いと思うくらいだった。

 家に帰ると、男の怒鳴り声と何かが壊れるような音、更に奥さんの叫び声が聞こえて、またかと思いながら僕は与えられた物置みたいな部屋に籠った。

 何分ぐらい経っただろうか。

 奥さんの只事じゃない悲鳴が聞こえて、僕は思わず声がした方に足音を忍ばせて向かった。

 悪気はなかったのだ。ただ、何が起こったのか少し気になっただけで。

 薄暗い廊下を通って、声がした方の部屋に向かう。蛍光灯の灯りが廊下に漏れて、床が白く光っていた。

 引き戸の隙間から覗いた部屋の中では食卓に並べてあったはずの食器が床に落ちて割れていて、部屋の隅っこで奥さんがへたり込んでいるのが見えた。

「……おい、言ったよな、勝手に出てくるなって」

 突然、男の声が僕の耳に届いた。冷汗が伝って、床に落ちる。

 油断していた。

 いつも一通り暴れた後、奴は外に出ていくことが多かったから。家の中が静かだったから、てっきり今日もそうだと思い込んでしまっていた。

「すみません、大きな音がしたので、心配になって」

 奴の手がぱっと伸びてきて、僕の胸ぐらを掴んだ。彼の顔が噛みつきそうに僕に近づいてくる。酒の匂いが鼻を突いた。

「勝手に部屋から出てきて、こそこそ覗き見しやがって。いつからそんなことが出来るほど偉くなった? お前をここまで大きくしてやったのは誰だ。言ってみろ、お前が野垂れ死ぬことなく、何の不自由もなく、ぬくぬくと育ったのは誰のお陰か!」

 腹の底から、何か熱いものがせりあがってくるような気がした。

 今考えると、どうしてそんなことを口走ってしまったんだろうと思う。きっと疲れていたんだろう。

「……のけものにされて、暴力を振るわれ続ける生活の、どこが何の不自由もないんですか?」

 薄暗闇でも分かるくらい、目の前に迫った顔が真っ赤になるのが見えた。勢いよく突き飛ばされて、柱に強かに背中と頭をぶつけた。視界がぐわんと揺れて、息ができなくなる。

「……もう良い、ここまでだ。殺してやる」

 奴が握っていたビール瓶を、逆手に持ち直すのが視界の端に映った。

 自分の目が信じられない。信じたくない。力の入らない足をなんとか動かして、廊下の端に身体を押し付けた。

 ばくばくと波打つ鼓動を感じながら、必死に頭を抱えて蹲る。後頭部に当てた手をぬるぬると濡らしていく、生温い感触が気持ち悪かった。

 足音が聞こえて、何か硬いものが空を切る音がすぐ側に聞こえた。震えながら、ぎゅっと目を瞑る。

 怖い。寒い。痛い。苦しい。逃げたい。だけど、逃げても、きっと──

 頭に衝撃が走って、僕は短い声を上げて崩れ落ちた。奴の怒鳴り声が遠ざかっていく。自分の鼓動を聞きながら、意識が遠のいていくのを感じた。

 あぁ、死ぬのかな。まぁ良いけどさ。

 どうせ生きながら地獄を歩いているような日々だったのだ、特に後悔も未練もないけど。でも、強いて言うなら。

 血縁じゃなくていい。ただ、心から信頼できて、安心できる家族が、僕の名前を優しく呼んでくれる人が、もしも隣にいたならば。もう少し心穏やかに、逝くことができたんだろうか。

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