幻影

霜原 佐月

迷子.

 人間の技術が発展して、真の暗闇は少なくなったと言う。

 確かにそうだ。

 今の時代、夜道を歩けば大抵の道は街灯に照らされている。都会に出れば出るほど、その傾向は顕著になっていって、例えばそう、大都会なんて、ネオンとかビルの明かりに照らされて、夜の方が明るいんじゃないかと思うくらいだ。

 僕はいま、世界的に有名な某スクランブル交差点のど真ん中に立っている。

 前を見ると、人。後ろを見ても、人。左右を見ても、人。こうも人間がうようよしていると、なんというか気持ちが悪くなってくる。じゃあどうしてこんな所に居るんだと言われてしまいそうだけど、そう言われても困る。僕自身、なんでここに居るのか分からないのだ。

 そんなことを考えながら僕が前を向くと、真っ正面から人が歩いてきた。まるで僕の姿が見えていないみたいに、すうっと僕に近づいてくる。ぶつかる──

 そう、思ったのに。

 その人は幽霊みたいに、僕の身体をすり抜けて行ってしまった。

「え?」

 声を上げたのも束の間、今度は僕の目の前に突然人の後ろ姿が現れた。この人も、僕の身体をすり抜けて後ろからやってきたのだろうか。都会って幽霊しかいないんだろうか。

 僕には、そういう霊的な存在が視えた経験など存在しない。なのに、どうして。

「どうなってんだよ……」

 思わず顔に手を当てて呟いてから、気が付いた。

 僕の手の向こう側に、人混みが見える。

「……え?」

 自分の手を目の前に掲げても、煌びやかな人工の光は遮られることはなかった。

 莫迦げた考えが頭に浮かぶ。

 莫迦げているけど、もしもそうなら、全て辻褄が合うじゃないか。


 さっきの人たちが、幽霊だったんじゃなくて。僕の身体をすり抜けて行ったんじゃなくて。


 幽霊は、僕だ。

 僕が、僕自身が、あの人たちの身体をすり抜けたのだ。


 走って交差点を抜けて、景色が反射しているショーウィンドウの前に立つ。


 僕の姿は、どこにも見当たらなかった。



 夏の夜風に通り抜けられながら、僕は溜息を吐いた。

 交差点から適当に歩いて行って見つけた、登り階段。その踊り場の手すりに乗ってアスファルトの路面を眺めていれば、誰か声をかけてくれるかもしれないと僅かな望みを抱いて待つこと、30分。これは、本格的に幽霊になってしまったと考えざるを得ない。

 どうしよう。

 何か食べたい気もするけど、幽霊だからかお腹が空かない。

 家が分からない。寝る場所もない。

 まぁ幽霊だから、適当にネカフェでも忍び込んで寝れば良いんだけど、良心が疼く。あと、寝てる時に勝手に入って来られると(見た目無人の部屋だから仕方ないんだろうけど)すごく嫌。

 階段を降りて、駅の方に戻る。俯いて足を引き摺るようにして歩いているのに、全く自分の足音が聞こえないのを奇妙に思った。

 都会の喧騒の中って、なんだか寂しい。

 音は沢山鳴っているのに、それはどれも僕に向けられた音じゃなくて。

 このまま夜の闇に沈んで溶けて、いつの間にか消えてしまいそうな、漠然とした不安が、心の中に巣食っていた。


 駅舎の外壁に寄りかかって、座り込んだ。僕がこんなところに座っていても、見咎める人は誰もいない。楽だけど、なんだか虚しかった。


 寂しい。虚しい。辛い。暗い。

 いっそのこと、誰かに取り憑いてしまおうか。道行く人をぼんやりと眺めながら、そんな風にとりとめのない考えを頭に浮かべていた。

 だから、彼と目が合ったときは、気のせいだと思った。誰もいないところを、なんとなく彼が見たにすぎないと。

「ねぇ、独り?」

 彼が僕を見て、確かにそう訊いてきた。

「……僕?」

「うん、君。独り?」

「……独り」

 僕はそう答えながら、耳からイヤホンを外す彼に向かってそっと手を伸ばした。僕の手は、彼の身体をすり抜けて空を掴む。

 人間だ。

 この人は、生身の人間だ。

 視える人間、というやつだろうか。

「どうしたの? 帰らないの?」

「……帰れない、かな。迷子」

「そっか。名前は?」

 どこかふわふわとした掴みどころのない様子で、彼が尋ねてくる。

「な、まえ?」

「うん」

「………覚えて、ない」

「そう。じゃ、来て」

「え?」

「俺ん家、来て。行くとこないんでしょ?」

「……うん」

 名前も分からない出会ったばかりの人(しかも幽霊)を「行くところないんでしょ」とあっさり家に招き入れる彼の真意が分からずに呆然とする僕に、彼が振り向いてにこりと笑いかけた。

「ほら、早く。俺が空気と会話するヤバい人みたいだから。ちょっと電車乗るけど勘弁してね」

「……ありがとう」

「いえいえー」

 てくてくと歩き始めた彼の後ろを、僕は静かに歩いて行った。

「名前は?」

 僕がそう問いかけると、イヤホンを耳に戻しながら彼が答える。

「ひゅうが、だよ。灯下日向」

「日向さん。よろしく」

「日向で良いよ。よろしくね」

 彼が──日向が、にっこりと笑った。


「はい、どうぞ」

 アパートのドアを開けて、日向が横に退いた。

「いや、僕すり抜けられるんだけど」

「それはなんか気持ち的に嫌だ。良いから入って」

「……お邪魔します」

 足を踏み入れると、部屋の中はきちんと整頓されていた。

「1人暮らし?」

 訊くと、日向がこくりと頷く。

「うん、1人。だから遠慮なく居てもらって構わないよ」

「ありがとう」

 今まで起きた全てのことを理解してはいないし、日向がどんな人間なのか全然知らないけど、見知らぬ幽霊を家に招き入れてくれたのはとにかくありがたかった。

「ねぇ、君……なんかな。名前、覚えてないんだよね?」

「うん」

「じゃあ、俺が付けてあげよう。名前があった方が呼びやすいし。良い?」

「うん、良いよ」

「よし、じゃあ少し待たれよ、考える」

「……適当で良いのに」

 僕の声を無視して、日向が背の低いテーブルに向かった。僕はといえば、どこに居たら良いのかよく分からなくて、床に座った日向の横に膝を抱えて座った。

 心地よい静寂が空間を支配し始めて、30分程経った頃だろうか。

「できた」

 日向の声で、座ったまま船を漕いでいた僕はハッと顔を上げた。

「寝ててよかったのに」

「いやいやいや。ごめん、人ん家で」

「良いよ良いよ。ほら名前、考えたよ」

 コピー用紙と思われる白い紙に、シャーペンで沢山の名前が書かれている。

 その中の1つが、丸で囲んであった。

「……とう、か?」

「そう、透明に夏で透夏。綺麗な名前じゃない? どうかな?」

 透夏。爽やかな夏の風が吹き抜けるような、綺麗な名前だ。僕に似合うのかは、よく分からないけど。

「透夏。良い名前だね。ありがとう、気に入った」

 僕がそう言うと、日向が嬉しそうに笑った。

「良かった。じゃあ透夏、改めて、よろしくね」

「うん、よろしく、日向」


「日向はさ」

「うん?」

 お風呂から帰ってきた日向に声をかけると、頭にタオルを引っ掛けたまま日向が振り向いた。

「僕みたいなのが視える人なの?」

「うーん、そうだね。なんとなく、そういうことは多かったかなぁ。でも、こんなにはっきり視えるのは透夏が初めてだよ。最初は人間かと思ったし」

「そう、なんだ」

「そう言う透夏は、どうなの? 視える人だったの?」

「ううん、僕には視えたことないかな」

「ふぅん。ところで透夏さ、こんなにはっきり視えるってことは、幽霊になったばっかりじゃない?」

 突然の踏み込んだ質問に驚いて日向の方を見ると、僕と彼の目がぱちりと合った。日向の目を見たまま、ゆっくりと口を開く。

「……よく、分かんないんだけどね。今日の日没直後ぐらいかな。気がついたら、あそこの交差点のど真ん中に立ってて」

「……それはまた、すごいところに」

「うん。で、何人かが僕の身体をすり抜けて行ったから、急にそういうのが視えるようになったのかと思ってたんだけど……身体が透けてるし、鏡にも映らないから、あれ? 僕幽霊になった? って」

「ねぇ、それって……2時間前とか?」

「うん」

「幽霊なりたてじゃん!」

 幽霊なりたて、とは。こうも不名誉なリアクションがあるだろうか。

「……まぁ、そうだね。認めたくないけど」

「へえ、すごい偶然だね。あそこで俺が透夏を見つけるって。めちゃくちゃ確率低いんじゃない?」

「そうだね。ありがとう、見つけてくれて」

にっこりと笑いかけると、日向も少し照れたように笑った。

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