第33話 心の声に耳を澄ませて

あきらは、言葉を失った感覚と共に旅を続けながらも、心の中で少しずつ新しい道を見つけようとしていた。老紳士との出会いが彼に与えた気づきは大きく、もう一度自分の心と向き合い、見つからなかった言葉を探すためのきっかけになった。


次の目的地は、自然豊かな温泉町だった。山々に囲まれ、静かな雰囲気の中で、あきらは再び自分の心に問いかける時間を持とうと決めた。温泉町に到着したあきらは、山の中にひっそりと佇む古い旅館に宿を取った。


旅館の女将は穏やかで、まるで長年知っている人のように親しげに接してくれた。「お疲れのようですね。ここでゆっくりと心を癒してくださいね。」その言葉にあきらは少しだけ救われるような気持ちになり、荷物を部屋に置いた後、温泉へと向かった。


温泉は町の高台にあり、そこからは美しい山々が一望できた。温かい湯に身を沈めながら、あきらはしばらくの間、何も考えずにその風景に見入っていた。温泉の湯気が立ち上る中で、彼は自分がこれまで旅してきた日々、出会った人々、そして失われた言葉について考え始めた。


「僕は、何を求めているんだろう。リナとの旅が終わってから、どこかで空虚さを感じている。けれど、旅の中で出会った人たちは、皆、自分の心と向き合っていた。僕もそうしたいけれど、まだ何か足りない気がする…。」


その思いを胸に抱えたまま、あきらは温泉から上がり、旅館の静かな廊下を歩いていた。すると、女将が彼を呼び止め、旅館の裏手にある小さな神社に案内してくれた。


「ここは、地元の人々が心の拠り所として大切にしている場所なんです。悩みや迷いを抱えた時、ここに来て静かに心を整えるのです。あなたも、ここで少しの間、自分自身と向き合ってみてはいかがですか?」


あきらは女将に感謝を述べ、静かに神社の石段を登った。そこには、風に揺れる木々の音と、鳥のさえずりだけが響き渡っていた。あきらはベンチに腰を下ろし、神社の前でしばらくの間目を閉じ、心の中にある言葉を探し始めた。


「僕が本当に伝えたいことは何だろう?感情日記を通じて、これまで多くの人と心を通わせてきたけれど、僕自身はまだ自分の心を完全には理解していない気がする。失われた言葉を探している。でも、もしかしたら言葉ではない何かを見つける必要があるのかもしれない。」


そのとき、ふと心の奥底から声が聞こえてきた。


「自分を許し、感情そのものを受け入れることが大切なんだ。」


あきらはその言葉に驚き、自分自身に問いかけた。「僕は、自分の感情を言葉にしようとするあまり、その感情をしっかり感じることを忘れていたのかもしれない。言葉にできない感情があっても、それは無意味なことではない。言葉にできないものをそのまま感じることも、大切なんだ。」


この気づきはあきらにとって大きなものであり、彼は深い呼吸をしながら、これまで感じてきたすべての感情をありのままに受け入れようとした。心の中にあった焦りや不安、迷いが少しずつ消え、代わりに温かい安心感が広がっていくのを感じた。


その夜、あきらは旅館の部屋で感情日記を開き、今日の気づきを書き留めた。


「今日は、言葉にできない感情も大切だということを学んだ。言葉にできなくても、感情そのものを感じることが大切なんだ。それを無理に言葉にしなくてもいい。自分の心を素直に感じること、それが自分を理解するための第一歩だと気づいた。」


あきらは、日記に書きながら心が少し軽くなったのを感じた。自分が感じていた空虚さは、言葉にできない感情を無理に表現しようとしていたからこそ生まれたものだった。これからは、その感情を無理に言葉にしようとせず、感じることを大切にしようと決意した。


翌朝、あきらは温泉町を後にする準備を整え、女将に別れを告げた。


「この場所で大切なことを学びました。ありがとうございました。」あきらは深く頭を下げた。


女将は微笑んで、「それは何よりです。心が軽くなったのなら、また新たな旅を楽しんでくださいね。」と送り出してくれた。


あきらは再び旅に出た。自分の心に生まれた新たな気づきを胸に、彼は次の目的地に向けて歩き出した。これからも多くの人と出会い、感情日記を通じて自分自身と向き合い続けていくことを信じていた。


あきらの新たな一歩は、また一つ確実に前進していた。言葉にできない感情を感じることで、彼はこれまで以上に自分自身を理解する力を得た。そして、その感情が彼の未来を照らす光となり、これからも多くの人々に勇気と希望を届けていくことを信じていた。

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