【ビューザ】【第3章:感情の量子場】

 ビューザとダンが次に足を踏み入れたのは、まるで宇宙空間のような広大な領域だった。ここでは、様々な色彩を持つ粒子が飛び交い、時に波のように広がり、また一点に収束していく。


「ここは……」


 ビューザが言葉を発する前に、ダンが説明を始めた。


「感情の量子場だよ。ここでは、喜び、悲しみ、怒り、恐れといった感情が、粒子と波の二重性を示しながら、人間の心理的経験の基本構造を形成しているんだ」


 ビューザは目を見開いた。科学者としての彼女は、すぐさま疑問を投げかけた。


「でも、感情を粒子や波として捉えるなんて……そんな理論は聞いたことがないわ」


 ダンは肩をすくめた。


「既存の理論にとらわれすぎているんじゃないかな? アインシュタインの言葉を借りれば、『想像力は知識よりも重要だ』。ここでは、君の想像力を全開にして観察してみて」


 ビューザは口をとがらせた。


「もう、ダンったらいつも名言で返してくるんだから」


 しかし、その言葉に少し照れているのが分かった。ビューザは深呼吸をし、改めて周囲を観察し始めた。


 突然、鮮やかな赤い粒子の群れが彼女の周りを舞い始めた。


「これは……怒りの感情?」


 ダンは頷いた。


「鋭いね。でも、よく見て。怒りだけじゃない」


 ビューザが注意深く観察すると、赤い粒子の中に小さな青い粒子が混ざっているのが見えた。


「悲しみ……? 怒りの中に悲しみが含まれているの?」


「その通り」


 ダンは嬉しそうに答えた。


「感情は単純ではない。一つの感情の中に、他の感情が入り混じっているんだ。これがエクマンの基本感情理論を超えた、感情の複雑性というものさ」


 ビューザはまたもや魅了されていた。しかし、すぐに批判的思考が働き始めた。


「でも、ダン。これじゃあ感情があまりにも複雑すぎて、科学的に分析できないんじゃない?」


 ダンは意外な反応を示した。彼は大きく笑い出したのだ。


「ハハハ! そこがポイントなんだよ、ビューザ。感情の複雑性こそが、人間を人間たらしめているんだ。でも、それを理解しようとする努力こそが科学なんだよ」


 ビューザは少し困惑した表情を浮かべた。


「でも、それじゃあ……」


「いいかい」


 ダンは真剣な表情で彼女の目を見つめた。


「科学は全てを説明できると思い込むのは危険だ。むしろ、説明できないことがあると認めることこそ、真の科学者の姿勢なんだ」


 ビューザは黙って考え込んだ。彼女の中で、科学者としての厳密さと、人間としての直感が衝突していた。


「ねえ、ダン」


 彼女は少し恥ずかしそうに口を開いた。


「私、今すごく……興奮してるの。これって、どの感情なのかしら?」


 ダンは優しく微笑んだ。


「自分で見てごらん。君の周りに漂っている粒子を」


 ビューザが自分の周りを見ると、淡いピンク色の粒子が、きらきらと輝きながら彼女を取り巻いていた。


「これは……」


「そう、好奇心と喜びが混ざった感情だね。そして……」


 ダンは少し意味ありげな表情を浮かべた。


「少しばかりの恋心も」


 ビューザは顔を真っ赤にした。


「もう、ダン! からかわないでよ!」


 しかし、彼女の心の中で、確かに何かが芽生え始めているのを感じていた。ダンに対する、これまでとは違う感情。


 ダンは軽く咳払いをした。


「さて、次は感情の相互作用を見てみよう。人間関係における感情の流れがよく分かるはずだ」


 ビューザは我に返り、真剣な表情で頷いた。しかし、彼女の心の中では、科学的興味と個人的感情が複雑に絡み合い始めていた。


 彼らは感情の量子場をさらに深く探索していった。そこで目にしたのは、感情が干渉し合い、新たな複雑感情を生成する様子だった。それは、まるで新たな心の宇宙の誕生を見ているかのようだった。


「ねえ、ダン」


 ビューザは少し躊躇いながら口を開いた。


「この体験を言葉で表現するのは難しいわ。でも、これを何らかの形で他の人にも伝えたい。どうすればいいと思う?」


 ダンは意外そうな表情を浮かべた。


「へぇ、人に伝えたいって思うようになったんだ。最初は全部を自分で理解しようとしていたのに」


 ビューザは少し照れくさそうに笑った。


「そうね。でも、この素晴らしい体験を独り占めするのはもったいないって思えてきたの」


「それは素晴らしい進歩だよ、ビューザ」


 ダンは嬉しそうに言った。


「科学者として、発見を共有することの重要性に気づいたんだね。ニュートンの言葉を借りれば、『もし私が他の人よりも遠くを見ることができたとしたら、それは巨人の肩の上に立っていたからだ』ってね」


 ビューザは目を輝かせた。


「そうね。私たちの発見が、次の世代の巨人の肩になるかもしれないわ」


 そう言いながら、彼女はふと気づいた。自分がダンのことを「私たち」と表現していたことに。彼女の中で、ダンはもはや単なる案内人ではなく、共同研究者、そしてもしかしたらそれ以上の存在になりつつあった。


「さあ、次の探索に進もうか」


 ダンが優しく声をかけた。


 ビューザは頷き、感情の量子場を後にした。彼女の心は、科学的発見への興奮と、ダンへの複雑な感情で満ちていた。


 そして、彼らは次なる冒険へと歩みを進めていった。

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