11−5 紫焔

「この絵はやろう。二人で話すと良いよ。こちらとあちらは時間の進みが違う。それに、我々と人間の時間の進み方が違うことも、よく覚えておくと良い。手段を隠してはいけない。無理に閉じ込めても、逃げ出されたくないだろう」


 紫焔の強張った顔が、宗主の言葉に間違いはないと示していた。


 華鈴には、帰る方法はなかった。紫焔は曽祖父の絵があることを知らなかったのだから。

 ただ、黒い影がいれば、帰る方法を見つけても、危険があるとは繰り返し口にしていた。


 どうしてそんなことを?


 それは問わず、華鈴は曽祖父の描いた家を見つめた。懐かしい我が家だ。そっと触れれば、紫焔は怯むように萎縮する。


「ひいじいは、何も言わず帰ったんですか?」

「そうだよ。自分の絵を燃やして、さっさと帰ってしまった」

「でも、紫焔さんは会いに行ったんですよね。その時に、何も聞かなかったんですか?」


 体を強張らせる紫焔。問うことができなかったとでもいうように。

 どうして,そんなに怯えたような顔をするのだろう。

 聞くのが怖かったのだろうか。


 どうして、逃げるように去ったのか。そう思ったからだろうか。それとも、こちらにいることがつらかったのでは、と心配したのだろうか。


 けれど、紫焔が曽祖父を追って会った時、曽祖父は紫焔を受け入れなかったわけではないだろう。華鈴と会って話をしたのならば。


「ひいじいは、いつかは紫焔さんに会いにいくつもりだったと思いますけれど。だって、こちらで描いた紫焔さんの絵を、わざわざ持って帰ったんでしょう? 会う気がなかったら持って帰らないと思います。会いに行こうと思えば会いに行けたけれど、紫焔さんが会いにきたから、必要なかったんじゃないかな」


 絵はこちらで描いている。曽祖父はそれを持ち帰り、ずっと大事にとっておいた。表装してまで保管していたのだから、捨てる気などなかったはずだ。

 どんな気持ちであの絵を持っていたかはわからない。ただ、家に帰れるとわかった後、戻るために紫焔の絵を持って、急いで帰ったのではないだろうか。


 こちらで描いた絵を破棄したのは、悪用されないためだけだ。景色だけの屏風は、そのまま残しているのだから。

 何も言わずに出て行ったのは、すぐに戻ってくる気だったからではないだろうか。紫焔の絵を持って帰れば、紫焔の元に戻って来られる。


 だが、あちらの時間を知って、曽祖父は簡単にこちらに戻ることはできなくなった。

 あちらは長い時間が失われていた。曽祖父には、紫焔の元に戻る余裕はなかっただろう。結局妻が死に、子とは離れて暮らすことになったが、再び子を置いて去ることもできなかったかもしれない。


「紫焔さんは、ひいじいに何度か会っていたんでしょう?」

「会いにいっていたよ。君が養子になった後も、何度か会いに。会うたび、源蔵はどんどんおいぼれていったけれどね」


 人間の成長の速さと、あちらとこちらの時間の違いは如実で、曽祖父が急激に老人になったかと疑うほどだったようだ。

 紫焔も衝撃的だったのかもしれない。

 曽祖父が戻って来られるわけがないと気付いただろう。だから、なぜ出ていったのか問えなかったのだろうか。


「ひいじいは家に帰れたけど、孤独だったと思います。奥さんと暮らせてもすぐに亡くなって、子供は家を出てしまった。結局一人になって、寂しい思いをしていた。紫焔さんが会いにきてくれたら、ひいじいは喜んだでしょう。ひいじいの息子さんが亡くなって、今度は私がひいじいの庇護に入った。そうでなければ、きっとこっちに帰ってきていたんじゃないでしょうか」


 曽祖父からこちらのことは聞いたことはない。それも当然だ。その頃には紫焔に会っていたのだから。懐かしんでも紫焔と話せば良いこと。華鈴に思い出を語る必要もない。同じ時間を共有した友人がいるのだから。

 あちらでも異形の対処をしていたのだから、その力を忌んでいたわけではない。宗主はあちらで曽祖父がどうやって生きていたのか知らない。だから、こちらを嫌がって逃げたかのように思ったのかもしれないが、それは確かではない。


「紫焔さん。家に帰っていいですか」

「華鈴!? 僕は君を離す気はないよ!」


 紫焔が泣きそうな顔をして飛びついてきた。ぎゅっと抱きしめる。しかし、その姿はまるで、子供が怯えて縋るようだった。


「ひいじいの家が心配だし、お葬式の後そのままこっちに来たので、一度は戻らないと。あっちには、紫焔さんの姿絵があるし、こっちにはこの絵があるでしょう。そうしたら、行き来できるんじゃないでしょうか。あの家はひいじいにとって大切な家なんです。ひいじいのためにも、ちゃんと管理したい」

「華鈴、」


「私は必要ないって、ずっと言われてきました。曽祖父はそれでも私を育ててくれた。私はずっと何の役にも立たなかったのに。私はこちらでもただここにいるだけで、何もしていない。役に立っていません」

「そんなこと。なんの問題でもないよ。僕は君がいてくれたら、それで嬉しいのだから」


「紫焔さん。私は最初、この力が紫焔さんの利益になるから、ここにいていいのだと思っていました」

「違うよ。その力に囚われたのは確かだけれど、君にその力を利用する気はない。君が自分を守る分には構わないけれど」

「だったら、帰るのを許してください。私は紫焔さんも大事だけど、ひいじいも大事なんです。ひいじいもそうだったと思う。紫焔さんの絵を大事に取っておいたのだから。け、結婚は、よく、わからないです。けど、私もこっちにいたいって思っています。でも、あの家を守るためには、行方不明になるわけはいかないんです」


 華鈴は紫焔の紫の瞳をじっと見つめた。いつもの落ち着いた態度は消えて、余裕なく眉を傾げて口を閉ざす。置いていかれる小さな子供のようだ。


 紫焔は、こちらでは特別だった。周囲に興味がなくなり無気力になるほど。それは異質で、はみ出たモノなのかもしれない。

 孤独で、誰にも心赦さない、無気力な存在。


 なにも知らない曽祖父が、その存在を見付けて、助け出した。紫焔は自らを助けた曽祖父の力の強さに惹かれたと思っているようだが、そうではなかったのだろう。

 その相手を失うと思った時、紫焔は初めての経験に恐れを為したのだ。

 失うことを恐れる。大切なものもなく、失ったことがない紫焔だからこそ。


(紫焔さんはそんなこと、気付いていないのだろうけれど)


「帰ってきてくれるの?」

「帰ってきます。だから、待っていてください。心配になったら、迎えにきてくれてもいいですよ。それとも、一緒に行きますか? それなら安心でしょう?」


 紫焔は呆気にとられるような顔をした。初めて見る、惚けた表情。感情の乗った、人間らしい顔。


「一緒に行って、いいのかい?」

「構いませんよ。なんの問題もないでしょう? 紫焔さんはこちらもあちらも、自由に移動できるんですから。ひいじいのお墓参りに行きますか?」

「源蔵の、墓参り。僕が行っていいのならば」

「いいに決まっているでしょう。ひいじいは嫌がったりしませんよ」


 むしろ喜ぶだろう。そう言うと、紫焔は華鈴の手を取ると、優しく握りながら、静かに頷いた。

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