第3話 今後を決めました。
「旦那様、私、記憶を失いまして」
旦那様に時間をいただき、そんな話を切り出してみた。麗かな日の午後。
「は?」
旦那様がワンテンポ遅れて返事をした。普段の倍くらい開いた瞳は宝石のように輝いて見える。こうしてまじまじ見るのもそうないなとぼんやり思っていると、旦那様は持っていた茶器をがちゃがちゃ音を立たせて置いた。
「——————何の、話をしている?」
「何って、記憶を失った話です。実は随分前に転んで頭を打ちまして、その時に記憶を失ったのですけれど、そのうち戻ると思い旦那様にはお伝えしておりませんでした」
私はそう言って紅茶を口に含む。旦那様は惚けた顔をしているが、気にせず続けた。
「旦那様はお気付きにならなかったので、問題ないと判断しました。特に問題はなかったでしょう? もう半年も前のことなんですよ」
「え……?」
「ほとんどお屋敷にいますから、複雑なことは知り得ませんでしたけれど、お屋敷にいる皆から聞いた話や、外で聞いた話から、私の立ち位置を確認しておりました」
旦那様の顔色がすっと悪くなる。何を言わんとしているのか、想像できているだろうか。
「私は「わたし」がどうして旦那様とこの生活を続けているのか、疑問に思っていましたの。周囲から耳にすることや旦那様との対話も鑑みて、なぜ「わたし」はこのお屋敷から出ようとしないのかしらと」
皆が旦那様と「わたし」の関係を知っている。そしてそれは、心配と怒りの反応が多かった。
「皆、離婚しないのか、いつまで我慢をするのかと心配をしてくれていたので、私もどうして離婚しないのか疑問だったんです」
旦那様は青白い顔のまま、ぐっと唇を噤みその唇を青紫色に変化させた。
「けれど、「わたし」の日記を見つけまして。ベッドの棚に隠してありました。これには、こちらに嫁いで来て「わたし」が記憶を失う前まで、毎日の出来事が書いてありました」
「………何と、書いてあったのだ?」
「大奥様に厳しく躾けられる中、失敗したことが書いてありました。それから旦那様が少しずつ会話をしてくれなくなったこと、けれど周りの皆は「わたし」を応援してくれたこと。社交界の話も書いてありましたね。パーティへの参加はせず、お茶会も行かぬようにする。旦那様には表に出なくて良いと言われた。など」
日記には日々の出来事とその時に記憶された言葉、その時の状況が簡単だが記されていた。証拠を残すかのように忘れることなく書かれている。
私もそうするだろうな。と思うのは、さすが同一人物というところか。
感情的にならないためには、全て記して読み返す方がいい。その時には気付かなかったことが後で見ると分かることがある。
自分の感情を連ねることはしない。忙しかったや気分が悪いなどの短い文はあるが、その時の心情は詳しく書いていない。しかし、旦那様には思うことがあるようなので、顔色は青白いままだった。
「大奥様がご病気になり看病につきっきりになった話も書いてありました。その際に、大奥様から謝罪があったようです」
「母上が? 謝罪…?」
「ええ。厳しくしたこと、大奥様を看病させたこと。それから、家の繋がりのため、旦那様に私を結婚相手として強く勧めたことについて謝罪が」
旦那様はぐっと唇を噛み締めた。視線を床に落としてテーブルの上で握り拳をつくる。
「大奥様は侯爵家の夫人の立場を大切にしたかったようです。夫に尽くし夫を立てること。夫のために屋敷をまとめ夫のために…。旦那様のために生きる立場でしょうか。どこのお屋敷も同じでしょうが、侯爵家はその傾向がとても強いようです。大奥様もお嫁に入りとかく厳しくされたとか。
その妻に対して夫も同じように接するのが侯爵家のようですね。お互い支え合うことが前提と言うことでしょう。
ですが、大奥様は旦那様と「わたし」の仲に不安を覚え、旦那様がお屋敷にいない間はそれについて考えないように、尚更「わたし」への仕事を増やしたそうです。そして大奥様は病気になり、「わたし」には看病という仕事も増え、旦那様はお屋敷に戻ることすら少なくなってしまった。そこで提案があったようです」
屋敷の皆は厳しくされた「わたし」の元気がなくなり旦那様が離れていったと言っていたが、大奥様はそれに対し旦那様への寂しさを紛らわすために、もっと仕事を与えたわけである。
だが、本来夫のために尽くすがモットーの大奥様でも、その夫が妻に愛想を尽かしたのならば、何に尽くせばいいのかと、大奥様自身も困惑したのだろう。
そして、亡くなる前に提案をしてきた。
「………提案とは、何を提案されたのだ?」
「大奥様が亡くなったら、自由にすれば良いとのご提案です」
「どういうことだ……?」
私は旦那様に手紙を見せた。日記に挟まれていた大奥様からの手紙である。
手紙には大奥様名義の土地や残っている持参金などの譲渡と、大奥様が亡くなった後離婚しても良いと言う提案が記されていた。大奥様の土地に住み自由に生きるのも構わないし、その土地やお金を使い好きなことをしても良い。
大奥様は侯爵家のために厳しくしたことを後悔されていた。そのせいで旦那様が屋敷にほとんど戻らないことを気にしていた。
「「わたし」は迷っていたのかしら。だから記憶を無くしたのかしら。うふふ。ですからね、旦那様。私、旦那様と離婚…」
「しない。絶対にしない!!」
「………するかすまいか、相談しようと思っていたんですけれど、理由をお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「それは……、」
旦那様は口籠もる。理由を言えないならばそれでも構わない。
「理由がないようでしたら」
「君が! 君が、後悔していると分かっていたから…」
「後悔ですか? どんな後悔を? すみません。私は記憶がありませんから、どんな気持ちであるか分かりません。旦那様は「わたし」がどのように思っていたとお考えなんでしょうか?」
「——————っ。結婚を、後悔しただろう。私が無理に君を娶ったから」
「そうなんですか? 旦那様からの希望だったとか大奥様の勧めだとかは聞いていましたが、どちらにしても「わたし」は結婚当初喜んでいたようですけれども? まあ第三者から見て、幸せそうにはとても見えないですけれど」
「君の父君に結婚を願って無理に結婚したのに、母上は侯爵の妻として当然と君へ厳しくあたった。あまりに早く私が侯爵を継いだため、母上の言い分を鵜呑みにし放置した。そのせいで君には笑顔がなくなり、私も侯爵としての責務を担うために懸命に仕事をしているうちに、ほとんど話すことがなくなり、気付いたら君との会話もどうやって行っていいのか分からなくなった。距離が離れたと思った時にはもう遅く、その上母上が倒れられ…」
「つまり、自分のことに手一杯で「わたし」をフォローする余裕がなかったと言うことですね」
はっきり言うと、旦那様はびくりと肩を揺らした。ぐうの音も出ない。旦那様はぐっと堪えるようにして俯いた。
「ちなみに、なぜ「わたし」を娶ろうと思ったのですか?」
「そ、それは…」
旦那様は顔を上げるとなぜか顔を赤くさせた。真っ赤になりすぎて熱でもあるのかと思うほどだ。
「幼い頃、君は私の姉のような人だった。子供の頃はずっと君の後をついて…」
「そうだったらしいですね。幼馴染だったとか。弟分のような旦那様を連れ回したと聞いています」
詳しく聞いたところによると、あまりに「わたし」がお転婆すぎて、旦那様は大変だったとか。木に登るのは当たり前、かけっこ競争を強いて旦那様を森の奥に置いてけぼりは普通。湖に突き落とし、チャンバラごっこでは旦那様の頭にこぶをつくったとか。
聞けば聞くほどお気の毒な仕打ちをされていた旦那様である。むしろ恨んでいるのではなかろうか。
「恨んでなどいない。そうではなくて、だから…」
しどろもどろ。旦那様はもじもじして、いつもの凛とした顔は終始ヘタレ気味である。
「幼い頃から姉のように慕っていたが、アカデミーに入る前には、幼いながら結婚の約束をしていた。そう約束して別れたのに、デビュタントで再会した時には、君はその約束を全く覚えていなかった」
それはやはり、恨み案件ではなかろうか…?
「君は、結婚の約束が何だったのか、よく理解していなかったのかもしれない」
「それは、申し訳ありません…」
お転婆娘。花を手渡され将来を誓いたいと言ってきた旦那様に、適当に返事をしていたらしい。覚えていないと知った旦那様は相当ショックだったようだ。
「だが、デビュタントを終えた君を狙う者は私の周囲にも多く、だから、その、焦って、無理を言って、君と話すこともなく、結婚の申し出をした」
「何も覚えていなかった「わたし」でよろしかったのですか?」
「当然だ! 君はとても美しくなって、幼い頃以上に魅力的な人に…っ」
立ち上がりそうな勢いでそう言って、旦那様ははっと気付くとしなしなと椅子に座り込む。
「つまり、デビュタントをした私に一目惚れだったと」
旦那様の真っ赤な顔から湯気が立ち上がりそうである。これはあれだ、お風呂に入ったお猿さんだ。
「記憶を失って客観的に「わたし」の立場を見るようになり、私は気付いたことがあったのです。帳簿を見て私への費用が多いなと。使いもしないのに私に振り当てられる金額が多い。それからお部屋もそうですが、お部屋から見えるお庭の美しさは素晴らしいものでした。旦那様のお部屋より余程良い景色です」
それだけを見れば、とても愛されているような境遇だった。
旦那様は「わたし」を大切にしようとしていたのだろう。それが分かる対応になっていた。
「ですが、理由がどうであれ、私に対しての誠意がなかったことは間違いないと思われません?」
「——————っ。すまな、」
「私は記憶がありませんので、旦那様に未練が全くございません」
「エラ、私は、君を愛している! 母上の暴挙を放置し君を苦しめたことは分かっていた。屋敷では常に母上が見張り、一人になることも少なかったほどだ。だから、屋敷の仕事が忙しく外に出れないほど疲労していたのを見て、パーティやお茶会に無理に出席しないでいいとも言った。
だが、パーティで他の女性たちに同伴を依頼したのは、君に愛想を尽かしたわけではないし、君を嫌ったわけでもない。君は元々そう言ったことに無関心だったし、それで問題ないと思っていたからだ」
「侯爵夫人として、その立場の者として、その後相手にされぬ者になると考えもしなかったと言うことでしょうか?」
「そんなつもりはっ! —————いや、取り返しがつかなくなったと気付いた時には、もう遅く…。だから、久しぶりに笑顔を見せてくれたのなら、パーティに連れていっても大丈夫ではと」
「それで放置されているのですから、反省するつもりはないと言うことですね」
「そういうわけではっ。その、隣を離れて悪かった。あの時は、殿下や他の者たちにもからかわれて。その、殿下は君に対する私の気持ちを知っているから」
どうやらずっと殿下やその他の仲間たちに、やっと妻を連れてきたとからかわれていたらしい。しかも、今まで散々お悩み相談をしていたようだ。殿下にである。
妻との不仲をどう解消するか相談していたので、殿下が意味ありげに私を見てきたのだ。なるほど。
「だから、離婚だけは。これから、君への態度は改めるし、君の社交界での名誉も覆せるように努力する!」
旦那様は懇願した。涙目の力一杯の懇願である。
「私は第三者です。「わたし」に対する行為は、今の私には過去のものですらありません。旦那様の人となりは今の私が見知った程度です」
旦那様は黙って聞いた。記憶がないのだから、判断は周囲の反応を見て確認するしかない。概ね反対意見が多いことは分かっている。あとは旦那様の対応が判断基準だ。
「ですので、最初からやり直しませんか?」
「——————エラっ」
「ただ、周囲は離婚しろと言ってますし、オスカーにも家に帰ってこいと言われているので、一度実家に帰り時間を得ると言うのもどうかなと」
「か、帰る必要なんてない! 屋敷に残り、私が誠意を尽くすのを見てくれ! 実家には戻らないでほしい!」
「どうしましょうかしら。他の者たちにも相談して———」
「え、エラ。頼む、ここに残ってくれ!」
一生懸命懇願する旦那様は、からかいで言っていることにも気付いていない。これ以上からかうのはさすがに意地が悪すぎるか。
旦那様は何度も謝罪し、関係を改善するのに最大限の努力をすると約束してくれた。
「知らなかったか? 他の女性に対する、こいつの塩対応を」
「そうなんですか? それは存じませんでした」
「殿下、変なことを言うのはおやめください」
王宮の庭園、静かな場所でのお茶で、殿下が茶目っ気たっぷりで旦那様の話を教えてくれる。
パーティに同伴する女性を選ぶのに、何度か殿下が助言していたらしいが、途中から旦那様は逆に誘ってくる女性をただの好意と思って同伴させていたらしい。
好意って、男女の好き嫌いではなく、ただのお手伝い程度に認識していたと言うことだ。
「夫人以外を女性と思ったことがないのだから、どの女性を連れようがどうでもいいとは言え、面倒になると考えていないところが呆れるだろう」
「それは、呆れますね」
「殿下。エラまで!」
「当然だろう。お前は女性関係がありそうに見えて、全くないのだから。いつも澄まして何でも分かっているかのような顔をしているくせに、女性のことになるととんと理解が及ばない。女性の機微を感じようともしない。だからこんなバカなことになるんだ。夫人、今からでも遅くない。相手は選んだ方が良いと」
「殿下! さすがに怒りますよ!」
旦那様と殿下の応酬に、ついくすくす笑ってしまう。仲の良いお友だちのような関係を見ていると安心する。
旦那様は案外擦れずに育ち、殿下が足りない部分の面倒を見てくれていたようだ。
「またバカな真似をしたらすぐに私に言うといい。私は夫人の味方だ」
「ありがとうございます」
旦那様はぶすくれたが、殿下の申し出はありがたく頂戴しておきたい。
「エラ。殿下の冗談は聞き流してくれ」
「さあ、どうしましょうかしら」
「エラ」
旦那様は困ったように馬車へのエスコートをする。先に座った私の隣に座ると、そっと手を握り、その甲に口付けた。
そんな仕草が似合っていると言いたいが、どこか恥ずかしそうにするあたり、女性に慣れていないのがよく分かった。旦那様は意外に照れ屋である。
「ぎこちないですね」
「相手が君だからだ」
そう言うとぷいっとよそを向いた。ほんのり頬が赤いので、慣れない真似が恥ずかしいのだろう。まったく、からかいたくなる人だ。
「その、エラ、一つだけお願いがあるのだが…」
旦那様はよそに向けた顔を恥ずかしげにこちらへ向けて、頬を染めながら微かな声を出してくる。
お願い事をする小さな子供みたいで可愛らしい。
「何でしょうか? 旦那様」
「そ、その。私は、君のことを愛称で呼ぶが、その………」
言いたいことは分かった。旦那様は最後まで言うことなく真っ赤になって口籠る。
旦那様は女性に不慣れというか、極度の照れ屋であることは間違いない。しかし、最後までお願いを言わないのなら、聞く必要ないだろう。などと、意地悪なことを考える。
「何ですか。旦那様?」
最後を強調すると、旦那様は、キッとこちらに顔を向けた。そう、勇気を持ってほしい。
「わ、私を呼ぶ時も、旦那様でなく、名で呼んでほしい!」
「お名前でいいんですか?」
「い、いや。愛称がいい!!」
握り拳をつくって勢いよく言ってくる。世間ではクールで冷静な男と言われているらしいが、その雰囲気は全くない旦那様だ。
「え、エラ。どうだろうか…?」
黙っていたら今の勢いはなくなって、しょんぼり耳をおろした捨て子犬の顔をしてきた。
可愛すぎてきゅんとする。
「どうしましょうか。うーん。どうしましょう。私、そもそも旦那様のお名前呼んだことすらありませんし」
「な、なら、名前でもいい!」
「名前でいいんですか?」
「うっ。いや、愛称が……」
可愛すぎてこちらが悶える。幼い頃からお転婆娘を発揮していた「わたし」が求めていたのは、これではなかろうか。
「分かりました。ラファ」
その呼び方に、旦那様は花を背負ったみたいに喜びの笑顔を見せてくれた。
実は「わたし」の日記にはしおりが挟んである。
オスカーによると、子供の頃旦那様にもらった花を押し花にするのが趣味だったらしい。お転婆娘にもそんな趣味があったわけだが、その押し花をしおりにして日記に使っていたのだ。
まあ、これは旦那様には内緒にしておこう。
そのしおりには文字も書かれていた。
『永遠を誓います』
忘れたと言うのは、きっと嘘でしょうねえ。
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