第32話 レイニーデイ・ドリーマー—③
嘘がバレたからなのか。
眼前に佇む彼女は、ほんの僅かに唇を噛んで、だらんと垂らした右腕の肘を、左手で握っていた。
ざあざあと絶え間なく降り頻る雨の中、何かを待っているようだった。
いや、何かじゃない。
きっと待っているのは俺の言葉なのだろう。
根本が真面目な先輩のことだ。きっと自分のしでかした事の、その断罪を望んでいるのではないのだろうか。
だが。
実のところ、俺はさっぱり彼女への悪感情をほとんど抱えてはいなかった。
もちろん、あの過去を踏み台のように使われた事に対する不満はある。
だけどそれ以上の困惑と疑念が体の中を渦巻いていて、それどころではなかったのだ。
すなわち、先輩はどうしてそこまで俺に執着したのか。慣れない嘘までついて、それで俺を手に入れようとした理由は。
……けど、きっとこれは聞くのも野暮な話なのだろう。人が人を好きになる理由なんて。
だから俺は代わりにこう問うた。
「どういう関係だったんですか?」
先輩と二階堂。まるで線の繋がりが見えない二人だったのだが。
能三先輩は「うん」と小さく声を放ち、そして回歴するように目を閉じて話し始める。
「半年前、くらいだったかな。元々二階堂さんの作品が好きだったのもあって、勇気を出して話しかけにいったんだ。そうしたら、意外と気があって」
それを語っている時の先輩の表情は、少しだけ和らいでいた。まあ二人とも聡明で文学が好きときたら、馬が合うのも理解できる。
しかし意外だった。俺が二階堂を部活に誘った時は、先輩に対して名前を知っている程度といった様子だったが……あの時はもう、この絵図を描くことを決めていて、一芝居打っていたということか。
「話していくうちに分かったよ。二階堂さんが一宮さんを好きって事が。……だからね、本当は諦めようとしたんだ。宮樹村での話こそ出てこなかったけど、あの子は昔から一宮さんを知っている風だったから」
勝てないと思った。争うのも烏滸がましいと思った、と。先輩はそう語る。
どこか自罰的で、そして痛々しい。自分に自信が無い、というのが言葉としてしっくりくるか。
「だけど、」
ふう、と一度先輩は息をつく。
話の空気が、変わる。
「ある日、私の一宮さんへの好意がバレちゃってね。それを知った二階堂さんはこう言ったの————なら、一宮クンの事はお願いしますって」
そしてアイツは語る。
宮樹村で起きたあの地震と、それからの傷心の日々を。共に親を失った男の子と女の子のお話を。
「初めは理解できなかった。どうして私をって。そこまで思うなら自分が付き合えばいいのにって。だけど、あの子から理由を聞いたら……少なくとも私は文句を言えなかった」
「理由……って」
「どうかなー。それは多分、私からは言っちゃいけない事なんだと思う」
そう語る先輩の目は真剣だ。どうやらここであいつの理由を明かしてくれはしないらしい。本人に問い詰める事がまた一つ増えた。
そんな事を考えている間にも話は進む。先輩は、苦しそうに胸に手を当てながら言葉を紡いでいた。
「どうすればいいか分からなった。確かにその椅子は私の欲しいもので、それを譲られていて……だからこそ! 私は場違いなんじゃないかって、そう思って……」
だけど、最終的にはその椅子に座った。座ろうとした。
二階堂の描くあまりにも整った、運命的な出会いのお話。彼女の才能を遺憾なく発揮した、嘘だらけの恋。それに身を預けた。
仕方がなかったのだろう。
目の前に糸がある。手繰り寄せれば希望へと繋がるか細い糸。
それが手元にあるのなら、使わない理由はない。
恥を押し殺して、後悔を捨て去って、自らの恋心を叶えるために、先輩は二階堂の描く夢物語の主人公となったのだ。
「そんな事をしなくても、先輩なら大丈夫でしょうに」
「怖かったんだよ。私も一宮さんと同じ。恋ってものが、人を好きになるっていうのがどうすればいいのか……どうしたらいいのか。それが分からなかったから、明確な指標に頼っちゃったんだ」
そして、また世界から音が消える。
抱えていた言葉を語り尽くしたのだろう。もう話せることはないと言ったように、先輩は目を伏せていた。
それを、その様子を眺めながら思う。
俺は——どうすればいいのだろう。
確かに先輩は嘘をついた。それは歴然たる事実だ。覆しようがない。
だけど、それでも先輩の抱えていた好意は全くの本物だ。
つまり俺には義務がある。
日曜日に投げかけられた告白の言葉。その返事をする義務が。
「…………俺は」
先程も述べたように、この嘘は俺にとって瑣事に過ぎない。
散々と土足で過去に足を踏み入れ続けてきてくれた誰かさんのせいで、もうあの過去に対して大きすぎる感情を抱いてはいない。
……ここまであいつの計算尽くだとしたら末恐ろしいが、流石にそれはないだろう。そうあって欲しい。
故にここで重要となってくるのは俺の心だ。先輩の事を好きか、そうではないかという。
その二択を提示された時、俺は迷いもなく好きだと思う。それも、恋愛的な意味で。
だが。
だけど、だ。
だからと言ってこの告白に対して、何の躊躇もなく首を縦に振ることが正しいのかと問われれば——それには否と唱えずにはいられない。
だって、色々ありすぎた。
人の恋路を整えるお節介に、それに乗っかる嘘つき。そして、いまだに過去を清算できていない俺。
あまりにも,歪だ。
「もう一度」
「…………?」
突如として俺の口から放たれた言葉の予兆に、先輩はこちらの様子を伺う。
それを見留め、続く言葉を放つ。
「もう一度、やり直しましょう。二階堂のやつから真意を聞いて、俺もあの日の出来事に区切りをつけて——まあ、あとは出来ればもう一度先輩から告白を受けて。答えを決めるのは……決めていいのは、きっとその後です」
「…………いいの?」
目を見開いているその様子は、まるで予想だにしなかったチャンスが転がり込んできたとでも言わんばかりだった。この嘘が露呈した事で、嫌わられると思っていたらしい。
俺は肩を竦めて笑う。それが返事だった。
「何はともあれ二階堂のやつと話をつけてからです。……多分放課後かな」
長話が祟ったのか、校舎にはぽつぽつと人の影が増えつつあった。込み入った話だし、今から二階堂を待ってとなると中途半端なところで会話を切り上げなければならないだろう。
部活動を抜け出して三人で話し合うのが最適か——そう考えていた時だった。
「…………多分、今日は来ないと思う」
「え?」
先輩の言葉に思考が止まる。
来ないって、それは二階堂がって事だよな? でも、どうして……。
「言ってたの。席は譲るけど、それでもやっぱり堪えるから——その日は一人でいようと思うって」
「…………あいつは、本当に」
なんで一人で勝手に気を回して、身をすり減らして、心を痛めているんだ。
そんなのは一度だって望んじゃいない。なのにこれじゃ、こっちが悪いみたいじゃないか。
ああ、いけない。
何だか腹が立ってきた。
上から目線で人に施すその態度も、内側の苦しみを隠したまま一人で何処かに行くその身勝手さも。
いつも、こっちが苦しい時は勝手に土足で入り込んでくるっていうのに。
そっちが苦しい時は踏み入れさせないなんて、そんなのはおかしな話だろう。
「…………ちょっと、行ってきます」
「心当たりはあるの?」
どこに、とも。どうして、とも言わなかった。好きだというだけあり、俺の事を理解してくれているらしい。僅かな照れと喜びが心を温める。
ああ、そうだ。
この好意に真正面から向き合うためにも、あのズレたお人好しと話をしなければ。
「二階堂は——あいつはあれでセンチメンタルなロマンシストですから。こういう時、家の中に引き篭もってるというよりは、むしろ——」
自らの想い人を誰かに奪われる日。
その時、二階堂が自らの心を慰めるために向かう場所の心当たりは、たった一つしかなかった。
そこはあれから一度も訪れた事のない場所であり、そしてきっと俺の、俺たちの一つの原点とも言うべき場所。
荷物をまとめる。
窓の外の雨は少しずつおさまりつつあった。もしかしたら、到着する頃には止んでくれているかもしれない。
「行くの?」
「そのつもりです。学校サボることになるけど、まあ昔の俺に戻ったと思えば。……ああ、そうだ」
ふとした思いつきで、俺は部室からちょっとした備品を借り受ける。
使う機会は訪れないかもしれないが、持っていて損はないだろう。
「じゃあすいません。行ってきます。行って、あの馬鹿と腹を割って話してきます」
「…………うん、行ってらっしゃい」
どこか寂しげな先輩の言葉を背に受けて。
そうして俺は歩き出す。
何でも見透かしたような顔でいる、どうしようない小説家の下へと。
◆
廊下を歩いていく彼の背中を、私は小さく手を振って送り出していた。
……頬に伝った水滴は,彼にバレてはいないだろうか?
「ホント、妬いちゃうなー……」
私が二階堂さんの提案に乗った理由。
その答えの一つは彼に話した通りだ。二階堂さんの、ボクではいけない理由に納得してしまったから。
だけど。
あと一つ。この胸の内側に抱えた醜い理由は、本当にシンプルだ。
「勝てる気がしないよ……二階堂さん」
話せば話すほど、観察すればする程理解してしまう。
二階堂さんと話している時の一宮さんは、いつもと違う。無愛想でもなく、慣れない敬語で取り繕っているわけでもなく、本当に自然体に、楽しそうにしているんだ。
だから、あの提案に乗った。これ以外にチャンスはないと思ったから。
だけど、この結果がこれだ。私の、私たちのついた大嘘はバレて、夢想家は死んだ。
後に残された私は未来を想う。
きっと、もう勝率なんて微塵もない。私の嘘を彼は気にしていないようだったけど、それとは別のところで、私は二階堂さんに勝てるとは思えなかった。
彼らは、深い部分で強く結ばれているのだから。
だから。
だから。だから。だから。
両手を合わせて強く願う。
……神様。
こんな嘘つきの願いを——いや、こんな嘘つきの願いだからこそ、これだけは聞き入れて欲しい。
「どうか」
どうか。
どうか、一宮さんの心に、確かな色が戻りますように——と。
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