第8話 トラウマ

「コギトさん、大丈夫そうですか?」

「まあね、声は全然聞こえない。何だったら、二人で買い物してていいよ。買い物終わったら、出てすぐの……あのベンチ辺りに集まろう」

「分かりました」


 聞こえないそうだが、もしベスタが近くにいるから大丈夫、という意識が働いていたのなら聞こえるようになるんじゃ。

 おれと同じ心の状態なら、聞こえても平気ではあるんだろうけど……心配だ。


《では、遠慮なく》


 ベスタはコギトにカートを渡すと、こちらの手を引く。


「ベスタ様、仕事中なのにいいんですか?」

〈コギトさんなら大丈夫です。私が見守っていますと伝えてあるので。それに仕事中でも、楽しめる時は楽しまないと!〉


 ベスタの心配をする度、その心配がすぐに打ち崩される……。


 その後、ベスタの野菜目利き自慢を聞き、コギトが買い物を終えたことをベスタが察知し……無事にコギトを家まで送り届けた。

 玄関口を挟み、コギトを見上げる。

 少し目尻に寄るシワが減ったというか、顔つきが明るくなっていた。


「二人ともありがとう。外っていいね。気持ちが明るくなったよ」

《何かあったらいつでも呼んでくださいね》

「フィル、キミも頑張り屋だね。キミに負けないようワタシも頑張るよ。ありがとう」


 ──体がゾワッとした後に、ギィィッとドアが閉じられる。

 何だ? この異様な不快感は。


「ちょっとトイレに行きます」

〈行ってらっしゃい。そちらを真っ直ぐ進めば、通り沿いに公園のトイレがありますよ〉


 曇り空の下を駆け抜け、トイレの個室に入る。

 ありがとう、その言葉を向けられた瞬間に毛が逆立ちそうで堪らない。

 ……吐き気が。


「オ゛ェ゛ェ」


 何も出ないけど、胸がムカムカする。

 便器に屈んで水面に映った顔は、ひどく焦燥している。

 そして髪は浮かび上がり、毛は膨らんでいた。

 別に、こんなのは生理現象だ。

 人に見られるのは構わない、でもベスタには不要な心配をかけたくない。

 ……いやいや、よく考えれば見られているのか? だがトイレだし覗くような真似、ベスタならしないだろう。


 トイレ内に明かりが差し込んでいく。

 頭上には、透明で分厚いモザイクガラスが張られている。

 つい上を向いてしまったが、ベスタは他人の視界を共有できるんだっけ。

 ……第一感か。

 ベスタの方がよっぽど、おれについて分かっているのかもしれない。


 しばらくして気分が収まり、髪と身体を手で軽く毛繕し、外へ出た。

 公園の砂場では、ベスタが黒いクマ種や白いウマ種の子供と一緒に遊んでいる。

 ベスタがおれに気付き、駆け寄ってきた。


《フィルさん、フィルさん》

「……何でしょうか?」

《コギトさんの件、大活躍でしたね!》

「おれは何もできてませんよ」

《いいえ。私がああできる流れを作ったのはフィルさんですよ? フィルさんの力なしでは、どうにもならなかったことです》

 

 パチパチパチ……


 堂々と胸を張るベスタに対して、いいや、おれにだろうか。

 砂場の子どもたちが拍手を送っていた。

 おれも拍手する。

 おれが賞賛されていると思えば、また毛が逆立ちそうに思えた。




 体のどこかに残る悪寒を洗い流すつもりで、神殿の風呂へ入る。

 結局、コギトのことはベスタが助けたようなものだ。

 ファミレスでもお客さんから感謝を述べられた時に悪寒は感じていたが、あんなヤツに感謝されて耐えきれなくなるとは。


 ──ガララっと脱衣所に繋がる戸が開く。

 ワースだ。

 なぜか体はホコリでボロボロに汚れている。


「どうしたんだワース、その姿」

「よくあることだ」


 ザアアッっとシャワーの音が浴室に響く。

 体の汚れを洗い流すワースに近寄ると、彼は耳をパタパタ動かした。


「何か用でも?」

「いいや、雑談でもしたくてさ」

「フィル。今日は風呂が早いんだな」

「あ、ああ」

「アンタも体が汚れたか?」

「別の理由だよ」


 ワースはシャワーを止め、シャカシャカと石鹸をその体に擦りあて始める。


「……なあ、ワースはどういう仕事をしてるんだ?」

「オレが答えるより、見た方が理解は早い。これから暇だろう。知りたいのなら付いてくるといい」


 ワースはササッと体を泡立て、再びザアアァっと、シャワーで身体を洗い流す。


 付いていくと、ワースは行き止まりにあるドアを開けた。

 そして、おれが先に入るのを待つ。

 先は随分と小洒落たエレベーターのようで、鉄の柵と、柱に操作板がついてる。

 おれが進むと、ドアが閉じて暗くなった。

 カチッという音と共に、背後から白い光が差す。

 ワースが懐中電灯を持ち、エレベーターを操作する。


 ガシャン! ガガガ……


 音を立て、エレベーターが降っていく。


「こんな風に信獣を閉じ込めてるのか?」

「信獣の中でも危険な奴らだからな」


 ワースは懐中電灯を目の位置と水平に持っている。

 この持ち方といい、さっきのドアへの通し方といい、バトラーっぽい気品さがあってカッコいいな……。


 ガシン、とエレベーターが止まる。

 鉄柵の先には重そうな鉄扉があった。

 柵がキキキッと開くと、ワースは腰の毛から鉄の輪にかかる鍵束を取り出しながら進み、扉の鍵穴に鍵を一つ差し込んで捻る。


 カチッ。ギイイッ……


 音を立てながら、扉は開いていく。

 開くのは自動らしい。

 先にはもう一つ扉があり、おれがその前へ立つと、ワースは背後の扉に鍵をかけた。


「随分と厳重だな」

「中には犯罪歴のある者もいる。無闇に近付かないことだ」


 そんな奴らまでベスタは助けてるのか?

 扉が鍵で開かれると、その先は白いカーペットの敷かれた、青水晶の壁と床の長い通路だった。

 照明がないにも関わらず明るく、水晶の向こう側には白い紙のようなものが貼ってあり、壁にはドアが取り付けられている。


「牢屋を想像してたけど、ここもあの地下と同じ水晶か」

「この青水晶には、神類の力を溜める性質があってな。中の奴らは全員軽い催眠状態に陥っている。ここから直接外へ連れ出さない限り、催眠は解けない」

「なんか怖いな。おれもそのうち、ここに閉じ込められるのか?」

「オレたちのような獣人とここにいる奴らは、脳の構造、心の働きが違う。相当な事故に遭わない限り、オレやアンタが入ることはない」


 ワースがドアの一つを鍵で開けた。

 中には、イノシシ顔で体中に剃り込みと刺青のある、ガタイのいい男が椅子に座り込んでいる。

 室内はトイレとシャワー室があり、家具もあり、永遠と引きこもっていられそうな場所だ。


「このイノシシ族はだな、血の気が多い」

「だれが殺人鬼だ。オラはヒト殴ったことねェ」


 喋るのか……少しビクッとしてしまった。


「この信獣は若い頃、不良同士の喧嘩で頭突きし、牙で相手を貫いた。それからは更生施設で暮らした後、連続殺傷事件を起こしてここにいる。調べによると、幼い頃に親から虐待を受けていたらしい」

「……飯はいづだ? 来たんなら飯くれや」

「まあここに閉じ込めておけば、ベスタの力の影響で徐々に治る。ただ、脳の構造自体が変わることはない」


 ワースはイノシシを無視して続け、部屋から出てドアを閉じ、鍵をかける。


「会話しないんだな」

「この部屋はそうだな。ここへは飯を運びに行くくらいだ、他の部屋では経過を見るために会話することがある。……催眠状態にあるここの奴らは自分で部屋の掃除をするし、あまり世話はいらない」

「……それならあんな埃だらけにはならないような」

「神殿の裏に塔があるだろ。あそこの空き部屋を掃除していたが、主な仕事場はここだ」


 そういうことか。

 青水晶の通路を出て、扉に鍵が掛かる。


「それだけ青水晶の力がスゴいのに、出入り口の扉は厳重なのか」

「オレとベスタ、メイド長以外はここにいる奴らの事情も青水晶の機能も知らない。部外者が入ると困るんでな、厳重にしてある」


 ワースは大事な場所を任されてる訳か。

 ベスタが右腕と呼ぶだけある。

 ガタッと、エレベーターに乗り込む。


「オレたちは、ああいった信獣たちも社会で生きられるようにするためここにいる。……兄貴も生きていれば、地下で世話を受けていただろう」

「え? プライスは、あのイノシシとは違って……落ち込むことはあっても人懐っこくて明るい、ベスタに近い性格だったぞ。それにプライスは人を殺したりなんてしてない」

「心に傷があるのは同じだ」


 それはそうかも知れないし、コギトも同じなのだろうが……認めたくない。

 おれが助けたいと思えるのは、やはりプライスのようなヤツだけだ。


「フィル」

「……何だよ」

「そういえばベスタから聞いたぞ。コギトを一人自立させたと。短期間でどうやった?」


 ワースの声が少し明るい。

 なんか、褒められてる気分だ。


「おれじゃなくてベスタがやったよ。なんか見下されて、お前ができるならワタシにもできるってな感じで勝手に自立した」


 思えばパルサもそうか。

 アイツもおれをバカにしてた。

 他人をバカにしてよくなるような、そんな奴ばかり助けて何になるんだが。


「不満そうだな。どんな形でも助けになったのなら、それでいいだろう」

「どうだか。やなヤツだったぞ」

「そうか。だが成長への一歩を踏み出させた。しかし救えてはいない、コギトが必要としているのは父と母がいた頃と同じ環境だ。いいや、永遠の子供時代とでも言うべきか。そこを変える力を他人は持っていない」


 ガコン、とエレベーターが止まり鉄柵が開く。

 助けにはなったけど、救えてない……か。


「おれがしたことって、意味なかったのか」

「いいや、誰かが一人を救い恩人になるというのはできない。ベスタが既にやり尽くしている以上、最後は本人の力で変わるしかないという話だ。それにフィル。アンタも変わったはずだ。少なくとも、自分の状態を自覚した」


 ……そうかもしれない。

 コギトから感謝された時、あれは喜ぶような場面だった。

 代わりに悪寒が感じられたのは、自責の念が原因なのだろう。

 思えばプライスが死んだことはおれのせいだと、それに報いるつもりで人と関わるのを避け、自分を心の中で責め続けてきた。

 おれがこれをやめて前向きにならなければ、プライスの死について……ベスタから教えてもらえはしないのだろうか。

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