シノ。

 ある世に、シノと言う女が居た。


 真っ白い肌に、艷やかな黒髪、整った容貌は勿論。

 酷く色気がある女。


「違う、私は」

《変に声色何か変えやがって、謝ってくれれば良いものを、もう勘弁ならねえ。殺してやる、殺してやる!》


「いやぁああああああ!」


 そうしてスッカリ殺し終えた後、最後にふと顔を見ると。


《なっ、シノじゃない。いや、確かにシノだった》


 シノ、シノ、死のうシノ。

 美しいまま死のうシノ。


 死のう、死のう。

 お国の為に、世の為人の為、シノの為に。




「どうしてこう、敢えて物語と現実を混ぜようとするんでしょうか」


 山岡先生の描いた女主人公が実際に銀座で働いていた、ウチの夫を取られた、と。


 いえ、仮に良く似た人が居たとしましょう。

 ですけど、警察では無く、どうして僕ら出版社に言うんでしょうか。


『曰く、倒せば正義、だそうだ』

《ですね、ウチの、文化部の編集長も言っていましたよ。勝てば官軍、負ければ賊軍。身の回りの不満の八つ当たり、だそうで》


「なら、真の敵に。あぁ、打算、内に目を向ければ不都合。ですか」

『世には素晴らしい指南書が有ると言うのに、きっと文字が読めない何かなんだろう』

《と言うか理解、でしょうね。冗談を冗談と理解出来ぬ者には都会は難しい、理解出来ぬ事は悪だ。だなんて、何事にも限度が有る事も分からない者が本を出し、益々出版社への風当たりが強くなりましたしね》


『いやー、アレは実に酷かった。有害図書指定が入る前にと、思わず買ってしまったよ』

《鈴木さぁん、この売国奴、非国民。幾ら何でも悪しき見本が過ぎますよぉ、家が穢れる》


『いやいや、読まずに批判するな、そうした阿呆対策と。嫁と反論文を書き込んでもう、びっしりだよ』

《はいはい、仲が宜しくて結構で》

「そうした愚痴なら、幾らでもコチラに送って来てくれて構わないんですけどね」


《そうした分別の有る方は、そもそも読まない、って行動を取りますからねぇ》

『しかも、読まなくても死なないだろう本をわざわざ読んで文句を言うのは、それでメシを食う評論家だけ』


「ですけど、もしかしたら拷問に使われたり、脅されての事かも知れませんよ?」


『それは、警察案件だろうに』

「そこですよ、その拷問や脅しが記憶に無い」

《成程、そうなると確かにコチラに苦情が来るだけ、になりますけど。そんな事を家族に知られず行われる、一体どんな仕掛けですかね?》


「さー、どうなんでしょうね」

『はぁ、全く、そこに至る根気が有れば』

《良い作家になれそうなんですけどねぇ》


「無いですねぇ」


 僕らは、出版社の人間だからこそ、もし万が一を考え苦情のお手紙も読ませて頂いています。

 ただ、本当に、最後まで読まずに。


 いえ、そもそも本を手に取ってすらいないであろう方まで、苦情の手紙を書いてらっしゃる。


 正直、非常に鬱憤が溜まります。

 何処か的を射ているなら構わないんですが、本当に見当違いや、その要望の先を全く考えてらっしゃらない方の何と多い事か。


 既に海外での悪しき実験により、性的表現の一切の排除は、男性を精神的に去勢させるだけでは無く。


 時に暴力性への転化や。

 人以外への性欲の発露となり、後は塩梅や加減の問題だ、となっているんですが。


 それこそ陰謀論だ、私が不快だから排除しろ、と。


 一体、この国を衰退させれば、本当に幸せになれると。

 思っているのでしょうね、正義の反対は正義、ですし。


 いや、もしかして完全統制こそ正義だ、とか。

 若しくは最近話題の、デストピアへの、憧れ。


 確かに、最近は自由主義的で奔放な作品ばかりでしたし、型や枠組みに嵌った物も良いかも知れませんね。




『成程、デストピアと心霊、ですか』

「はい、無い組み合わせかな、と思いまして。どうでしょうか、先生」


『良いですね、書かせて頂きます』

「はい、ありがとうございます」


『と言うか、妻にも書かせたいのだけれど、どうだろうか』


「あの、確か奥様は、他と専属で」

『そうなんですが、まぁ、もう恩は返した。だそうで』


「僕らの方は願ったり叶ったりなんですが」

『正直、割合は松書房の方が良いんですよ。今までは揉め事を避ける為、敢えてお互いの原稿料や、家計も別々にしてたんですが。ね、妻が膝から崩れ落ちてしまって』


「あぁ」

『そこでお互いに話し合って、夫婦でお世話になろうかと』


「でも、他にも有りますし」

『ありがとう、けどね、最も接するのは君達担当や編集だろう。実はね、ウチのでは無いんだけれど、良い方の手紙をかなり隠されていたらしいんだよ』


「あぁ、さぞ悲しまれたかと」

『あぁ、もう怒り泣きでね、スッカリやる気を落としていたんだけれど。君の所でなら、とね』


「ありがとうございます、ですが条件は」

『構わないよ、もう家計を一緒にすると決めたんだ、僕に阿らず出してくれて構わない』


「はい、頑張らせて頂きます」


 僕は改めて、凄く、とても。

 非常に恵まれているんだな、と思いました。


 信頼して下さる先生方。

 応えられる様に補佐してくれる同僚、会社、取材協力して下さった方々。


 皆さん、本当に良くして下さって。

 僕は1度だって、怒り涙、悔し涙を流した事は無いですし。


 そう叱られてしまったり、泣かれてしまう事も無かった。


 なのに、何も悪くない先生方が、被害に遭われている。

 物語を紡げる方が、物語を紡げない者に虐げられ、吸い上げられ養分にされる。


 不幸です。


 とっても不条理で理不尽です。

 凄く、嫌です。




『林檎ちゃん、そろそろお水飲んで頂戴』


「明宏さぁん、何でですか?どうしてですか?」


『だーかーら、立場を分かって無い、若しくは直ぐに忘れる。先が見えてない、考えてない、考えられない馬鹿で阿呆なの』


「何でです?大概は大学を出たりしてるんですよ?」


 本当に、可愛いわね林檎ちゃん。


『はぁ、道理って言うのは身に付くもんなの、身に付いて無いからなの』


「何でです?」

『そう言うお星様の元に生まれちゃったのよ』


「何とかならないんですかぁ?」

『出来たら国が苦労しないでしょうが、そんな事を思い付けたら、こんな愚痴は聞いて無いわよ』


「すみません」

『分かるわよ、理不尽で不条理って本当に嫌よね。けれど有るの、今アナタのココに有る様に消せない、悪と同じなのよ』


「あぁ、表裏一体なんですね」

『そうそう、真理の裏は不条理や不合理、悪。だから私達は嫌なのよ』


「ずっと、戦う事になるんれすね」

『あー、お水お水、明日が辛くならない為のお水よ。はい、飲んで』


「ふぁい」


『はいもう1杯』

「ふぇい」


 本当に、可愛いの。

 けれど、コッチじゃないのよね、残念。


『早く良い奥様が見付かると良いわね』




 ずっと愚痴を言ってたのは覚えてます、そしてココが明宏さんの家だと言う事も。


「あの」

《あら、おはようございます、妹のシノです》


「えっと」

『あら凄い寝癖じゃない、芸術的ね』


「あ、おはようございます、すみません深酒してしまって」

『良いのよ、愚痴りたい気持ちも良く分かるもの。コレでしょう、言っていた出版社』


 明宏さんから差し出された新聞には。

 件の出版社に監督官庁が立ち入り検査と同時に、業務改善命令を下した、と。


《それ、大事ですよね?》

「はい、とても凄い大事です」

『コレで、少しは理不尽さが和らいだわね、だって確実に評判は下がったんですもの』


「ただ、本に罪は無いので」

『分かってるわよ、本も先生方も被害者、よね』


「はい、そうなんです、本当に。良い本も、いっぱい出てますから」


 それなのに、一括りにして全てが悪い、と短絡的に批判する者が必ず現れる。

 そして果ては、本来被害者だった先生方すらも、加担していたのだろうと。


《先ずは、お味噌汁は如何ですか?》


「わぁ、納豆汁ですか?」

《はい、山形名物納豆汁です》

『ウチの子の料理は最高よ、さ、先ずは食べましょう。戦う為にも』


「はい!頂きます」

『はい、召し上がれ』




 シノ、シノ、死のう死のう。


 一緒に死のう、死のうシノ。

 会社が潰れた死のうシノ。


 僕は悪くないけれど、死のうシノ。

 もうお終いだ、死のうシノ。


『シノさん、ご自分で歌いますか』

《あらだって、良い音階の流れじゃない?》


『良く分かりません、西洋音楽の方が好きです』

《アレは図形にすると特に面白いものね、ふふふ》


『そうなんですね』

《そうなの、だからきっとアナタが好きな音楽も、素敵な絵になる筈よ》


『実験が完了したそうです、どうぞ』


《あぁ、本当に怖い毒ね。幻覚、妄想、幻聴。開発者を殺しましょう》

『ですね、研究機関も全て』


《そうね》


 死のうシノ、僕はもうダメになった。

 死のうシノ、この世の終わりだ。


 死のうシノ、一緒に死のう。


『本当に酷い歌ですね』

《本当にね、ふふふ》




 大会社の騒動の発端は、重役が横領し、銀座のシノと言う女に金を注ぎ込み。

 歪みが下へ下へと生じたに過ぎず、その上は未だに健全で有り、その他の愚行は全て一部の者がしでかした事。


 とても酷い言い訳でした。


 会社の体制がある程度はしっかりしているなら、全く秘匿した状態での悪行は不可能なんです。

 必ず、原稿ですら、最低でも2人は確認を。


 そこから、そこからなんですか。


「はぁ」


《僕の顔がそんなに不満かい》

「すみません、凄く不満です」


《今日の夕刊の内容は非常に不快だったけれど、会長を信じよう、既に何か策を講じているかも知れないよ》


「ですけど、大きくなるって怖いなと思うんです」

《そうだね、扱う数が増えれば不良品の出も多くなる。けれど、検品の人数を増やせば良いと思わないかい》


「あ、切られた方の雇用ですか、成程」

《忙しくなるだろうけど、体に気を付けて》


「はい、もう暫くは。あ、明宏さんにお礼に行かないと」

《深酒でもしたのかい》


「はい、そこで初めて妹さんに、しかもシノさんって言うんだそうで」

《ほう》


「ダメですよ、先に僕が見付けたんですから」

《だとしても検品はさせて貰うよ、不良品なら僕が貰う》


「過保護ですね本当に」

《失敗ばかりだったからこそだよ。さ、お礼の品を探しに行こうか》


「ですね」

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