松書房、ハイセンス大衆雑誌記者、林檎君の備忘録。

中谷 獏天

第1章 松書房、月刊怪奇実話の林檎君。

第1話 名家の酷い男と、虐げられていた妻。

 玄関先には、見知らぬ男が。

 いや、確か彼は。


『君は確か、林檎君、だったか』

「はい、松書房の林檎です。奥様のお見舞いにと伺わせて頂いたのですが、もしお忙しい様でしたら、コチラだけでもお受け取り下さい」


 手持ち付きの籠には、艶の有る真っ赤な林檎が。


『コレは、君が産んだ林檎かな』

「いえいえ、ですが近いですね、実家から届いた林檎なんです。なので特に美味しそうなモノを選んで籠に入れたので、奥様に喜んで頂けると良いんですが」


 雑誌社の者とは、あまり会いたくは無いんだが。

 彼自体は善人、そして関わっている雑誌の評判も、上々。


『個人的だと言うなら、受け取らせて貰うよ』

「勿論ですよ、決して無許可では何も載せませんよ、そんな事をしては取材先が減るだけですから」


『少し、上がっていってくれないか、実は妻が少し不機嫌でね。幾ばくか相手をしていて欲しいんだ、林檎を剥き終えるまで』

「はい、喜んで」


 彼との最初の出会いは、結婚する前、か。


『入るよ、アヤメ』

「失礼します、以前にお世話になった、林檎ですが」


『すまない、淋しかったかい』


「あの」

『まだ不機嫌なままらしい、すまないね。あぁ、コレは林檎君が林檎を持って来てくれたんだ、直ぐに剥いて来るから林檎君に愚痴でも言っていなさい』


 彼女がこんなにも不機嫌なのは、珍しい。

 あぁ、林檎君には会った事が無いから、警戒しているのか。


「黒木さん」

『林檎を剥く間、すまないけれど妻を頼むよ』


「あ、はい」


 妻のアヤメが素っ気ない態度を取るには、理由が有る。

 そもそも俺が籍だけでもと結婚した直後、いや、最初から間違っていたからだ。


 何もかも。




「宜しくお願っ」


 妹は清楚可憐、片や姉の方は貧相ながらも淫乱売女。

 その淫乱売女が、結婚を避けていた俺の妻となった。


 華族の長女が騒動を起こしたとして、身一つで嫁がされる事に。


 祖父に、家を継ぐには自分が選んだ相手と結婚しろ、と言われていたが。

 出来るだけ結婚はしたくなかった、親戚筋から養子でも貰えば良いと言ったんだが、こうなってしまった。


 だからこそ、牽制と苛立ちから彼女に冷めた茶を掛けたが。


『まだ、コレでも化けの皮が剥がれないか』


「最初から、何も被ってはおりませんが」

『だと良いんだが。目障りだ、下がれ』


「はい」


 何もかもが間違いだった、全て。




《奥様、お風呂を沸かしてありますので、お使い下さいませ》


「では、頂きます」


 ご当主様が結婚を嫌がってらしたのは、存じていました。

 何かに付け、お見合いすら避けてらっしゃいましたから。


 ですが本来はお優しい方、身内が亡くなれば忌引もキチンと頂けますし、お見舞い金まで下さる。

 怒鳴り散らす事も無く、穏やかな方なのですが。


 やはり、ご両親の事が尾を引いてらっしゃるのでしょう。


 ご長男様としてお坊ちゃまが産まれて直ぐ、旦那様が妾を作り家には寄り付かなくり。

 奥様は荒れ、お坊ちゃまに当たり散らす様になり、先代様が引き取る事に。


 そして、それからも苦難は続きました。

 先代様の教育は非常に厳しく、父親や母親の様になれば家を追い出す、と。


『アレは、風呂に行ったか』

《ご心配なさるなら、お茶など掛けなければ宜しかったんですよ》


『癇癪持ちかどうか確かめる必要が有った』


《ですけど、あの手荒れでらっしゃいますし》

『どうせ、手の込んだ小細工だろう、薬液に漬ければ俺でも手は荒れる』


《あぁ、まぁ、そうかも知れませんけど》

『軟膏を渡しておけ、それから飯を、部屋に運ぶかどうかも尋ねてやれば良い』


 ほら、やっぱりお優しいんですよ坊ちゃまは。

 現に苦々しい顔をしてらっしゃる。


 ですが、奥様のアヤメ様には伝わりませんで。


「なら部屋で頂きます」

《あの、坊ちゃまはお優しいんですよ、本当は》


「ですが、目障りにはなりたくないので、それに実家からも大人しくしている様にと厳命されていますので」


 それから奥様は部屋に籠もりきりで、厠にお出になる以外は、ずっと。


《あの、今は坊ちゃまはいらっしゃいませんし、お庭をお散歩し》

「いえ結構です、ありがとうございます」


 偶に坊ちゃまが一緒に運べと差し出す、高等そうなご本と食事だけしか受け入れては貰えず。

 そうして5日程過ごした頃、でしょうか。




『お前は、何をしているんだ』

「何もしてはおりませんが」


『風呂にすら入っていないらしいな』

「はい」


『何故だ』


「目障りだと仰られたので、控えておりましたが」

『風呂に入るなとは言っていない』


「目障りでしょうから控えておりましたが、以降はどの様に致せば宜しいでしょうか」


『好きにしろ』

「畏まりました」


 そう伝えれば、少しはボロを出すかと思ったんだが。

 再び、5日籠もり。


『一体、何がしたいんだ』

「有りもしない噂を鵜呑みにされ水を掛けられ罵られたくは無い、ですね」


『有りもしない、と』

「はい、ですがお確かめになるのは難しかったのでしょうね」


『火の無い所に』

「本当に、そうお思いでらっしゃいますか。良いでしょう、医師と産婆に診て頂きますから、是非立ち会って下さい」


『いや、そこまでは』

「潔白を示す為なら自決も厭いません、どうぞ、宜しくお願い申し上げます」


 綺麗に土下座した彼女の所作に、気付くべきだった。

 噂とは違う、と。


 だが疑心暗鬼だった俺は。




『分かった、だが俺の立ち会いは』

「いえ、私が医者や産婆を誑かした、等と言われない為にも必ず立ち会って頂きます」


 坊ちゃまと奥様は口論の末、お医者様と産婆さんを呼び、清いかどうかご確認頂く事に。


《坊ちゃま》

『良い機会だ、土壇場で逃げ出すか謝るか』


 ですが更に5日後、坊ちゃまの狙いは外れました。


《こりゃ新品だね》

『はい、ですね』


『そうか』

「そうか、では無くご確認をお願い致します旦那様」


『だが』

「アナタは私の夫なのでしょう!見なさい!」


 大人しい奥様に気圧され、坊ちゃまは覗き見る事に。




《あら、ご存知かしら奥様、お隣さんに来られた方々》

『あぁ、お医者様と産婆さんが来られたそうだけれど、お目出度かしら?』


《それが、どうやら、乙女かどうかの内診だったんですって》

「あらじゃあ、どうなったのかしら」


《それが、乙女だったんですって》


『まぁ、じゃあ噂は嘘じゃないの』

「いえ、寧ろ逆、なんだそうですよ」

《あぁ、妹さんの方が、なのね》


『あぁ可愛らしい方だそうですしね、成程ね』

「嫁いでらした方を見れば、まぁお察しですしね」

《そうよねぇ、一目見ましたけれどまぁ、声を掛ける男なんて大して居ないでしょうね》


『お顔が良いと、よりどりみどりでしょうからねぇ』

「まぁ、そう言う事、でらっしゃるんでしょうね」

《ですけどお隣さんは、以外と硬派でらっしゃるらしいわね》


「あぁ、ですけど奥様がアレですし、妾候補を探しているそうですよ」

『まぁまぁ、良い情報だわね』

《ふふふ、やっぱり、所詮はただの男よね》


「ですわね、長居しましたわ。用事を頼まれてまして、失礼しますね」

『ご機嫌よう』

《ご機嫌よう》


「ご機嫌よう」


《ねぇ、今の方って、最近来られた方よね?》

『そう?私は見た事が有る気がするのだけれど』


《そう、かしら》

『ほら、お隣のお隣の使用人に似てるじゃない?』


《あぁ、そう言えばそうね》

『それか、あぁ、そう言えば知ってらっしゃる、お向かいの……』

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