第6話
動じてばかりもいられない。ヴェルニアは散らばっていた砂に手をかざした。砂はさらさらとほんのかすかに擦れる音を立てながら、床の上で複数の四角や丸といった図形のほか、それらをつなぐ細い線を作り上げていく。
十秒も経たずに、王宮の敷地をかなり簡略化した地図が出来上がった。
「リオンが魔獣を見たのは、父さまに薬を届けてからここに向かってる最中だよな?」
ヴェルニアの問いに、ダンドリオンが地図の中でもひと際大きな長方形をかたちが崩れない程度に杖で軽くつつく。杖の先はそのまま長方形から伸びた道を示す線を辿り、いくつかの分岐を経てから不意に横へ外れ、そのまま真っすぐ工房を表すごく小さな正方形まで進んだ。ヴェルニアたちが普段ここに来るまで歩いているいつもの経路である。
「僕が魔獣を見かけたのはこの辺だ」
ダンドリオンは杖の先を最後に通った分岐の地点までつつっと戻した。この付近の上空で目撃したのか。脇に逸れず道なりに進んだ先には国内随一とも謳われる広大な庭園が広がっており、魔獣はそちらの方向から飛んできたそうだ。
「初めは怪我でもしてんのかと思ったんだ、飛び方がかなり危なっかしくて今にも落ちそうで。けどよく見りゃあ
「そうと分かったんならその時点で魔獣を落とせば良かったのに」
「さっきも言っただろ、魔獣が出たって説明するにはこの状態で連れてきた方が手っ取り早い。捕まえるにしても距離がちょっと遠かったしな。無理に落っことして死にでもしたらこっちが呪われるし、それはごめんだったんでね」
魔獣は角を失えばもとの動物に戻る。幻獣と違って心臓があるからだ。
角を破壊せずに心臓を止めてしまうと、魔獣の体を覆っていたり体内に溜めこまれていた魔力は行き場を失い、危害を加えた張本人を新たな宿主とするように襲ってくる。多くの場合は魔力に全身を蝕まれて命を落とし、遺体にはその証拠に黒い斑点が無数に浮かび上がる。
これを〝呪い〟と名付けたのは大叔父――母方の祖父の弟だと聞いている。
とはいえ呪われれば誰もが死ぬわけではない。魔術師や幻獣であればその体に流れる
「魔獣は庭園の方から飛んできたのか」
「そうとも限らねえよ。あっちにふらふら、こっちにふらふらって感じで実際にどこから飛んできたのかは分からねえ」
「ひとまず庭園の方向――東からと仮定しよう。あのあたりの防御術は三日前くらいに見回ったが、破れや綻びの異常は見当たらなかった」
神力による防御術はヴェルニアと母が手分けをして施したものだ。術自体は無色透明で人の目には視えないが、上空から城壁に沿って天幕を降ろすように敷地全体を覆っている。範囲が広いため全体を二、三日かけてほぼ毎日点検しており、魔獣や魔力の影響を受けて術が弱まっている箇所はつど修正していた。
三日前の記憶を振り返ってみたが、これといった問題はやはり無かったように思う。目立たない位置にごく小さな亀裂でもあっただろうか。そこを魔獣が攻撃したことで侵入を許すだけの隙間が出来てしまった恐れはあった。
どこかで「今日も術に問題は無い」と気が緩んでいたのかも知れない。ヴェルニアは前屈みになって机に頬杖をつき、下唇に軽く歯を立てた。
「魔獣がどこか目指してる風だったというのは、なんで分かった」
「ふらふら飛んでるわりに進路は真っすぐだったっつーか……ほら、街中に酔っ払いがいるだろ。酒飲み過ぎて足元はだいぶ怪しいけど、家に帰る道は体が覚えてるから進んでいける、みたいな。あれに似てたんだ」
ダンドリオンが右腕を広げ、よろよろと体を左右に揺らす。
「で、あとはさっき言った通り。魔獣が向かってきてくれたおかげで捕獲できたし、姫さんも無傷で済んだ。落ちたところに運よく植え込みもあったから魔獣も死ななかったし、ルニが角も除去した。万事解決だ」
「そんなわけがあるか。魔獣は自然に発生するものじゃない。必ずどこかに作成主がいる」
「幻獣ほど作るの難しくねえもんなあ。魔力のこもった角をそのへんの動物にくっつけりゃ、あっという間に魔獣の出来上がりだもんよ」
粘土をこねるような仕草をしてから、ダンドリオンはぱっと右手を広げた。
「覚えてるか? 何年か前に地方行った時に『動物を操ることが出来る不思議な角ですよ』っつって普通に売ってる婆さんがいただろ」
「あれか、薬草を採取しに行った時の。宿の近くの裏路地で商売してた」
老婆は由緒ある魔術師の末裔を自称し、ボロ布を敷いた上に様々な品を広げて通行人を相手に商売をしていた。顔が映りこむほど美しく磨かれた石や、火をつければかぐわしい香りが立ちのぼる木の枝などを「災いから身を守ってくれるお守り」とそれらしい売り文句をつけてすすめてきたのだが、その中に魔力のこもった角が紛れ込んでいたのだ。
魔獣は通常の動物より強靭な力を持っている。魔力の操作さえ身に着けてしまえば魔獣を使役し、人間には過酷な肉体労働も任せられるのだ。しかし魔獣は力と引き換えに理性を失っているため屈服させるのは難しく、成功例は限りなく乏しい。さらに魔獣の作成は罪に問われ、悪質さが認められると極刑もあり得る。老婆はそれを伏せて、上手い話だけを慣れたように語っていた。
「あの時の親父、すごかったよな」
拍手の代わりか、ダンドリオンは爪先でリズムを刻むように床を何度も叩く。
薬草採取の旅は休暇も兼ねており、ヴェルニアとダンドリオン、さらに両親がそろっていた。老婆は商売相手を完全に見誤ってしまったのだ。
「あっという間に婆さん捕まえて、角の回収にもすぐに取りかかってさ。どれだけ出回ったかはっきりしねえから、ちゃんと全部回収出来たのか今もよく分かんねえらしいけど。ルニって婆さんの取り調べしたんだっけ」
「したいのはやまやまだったが止められた。あとから父さまに『本人は魔力を宿していなかった』と聞いたような覚えはある。『何者かから魔力のこもった角を買いつけ、売り捌いていたようだ』と」
「それで口封じに殺されたってことか」
身柄を拘束された翌々日、老婆は牢の中で死んでいたという。衣服はびりびりに破れて、肌には呪われた時と同じ斑点が浮かんでいた。髪は全て抜け落ちて口から覗く歯は肉食獣のそれに変化していただけでなく、手足の爪は黒く変色して尖っていたそうだ。
魔力に耐性の低い状態で魔力を大量に流しこまれると、人間も魔獣に変化するのだ。髪と爪はその名残である。衣服が破れていたのも、体が何倍にも膨張して布が耐えきれなくなったからだ。老婆は魔獣として暴れ回るより先に体が限界を迎え、命を落としてしまったらしい。そうなるのを分かっていて、老婆に角を売った何者かは、自分に捜査が及ぶ前に手を下した。老婆を切り捨てたのだ。
「結局あの時の黒幕はまだ見つかってねえみたいだし、懲りてなけりゃ今もどこかで角を売ってるはずだ。今日の魔獣もそういう経路で流れた角が取り付けられたのか、もしくはまた別の誰かが意図的に作ったのか、可能性はごまんとある。ったく、だから最初っからそういう捜査は
「仕方が無いだろ、魔力がらみの事案で真っ先に疑惑を向けられるのはうちだ。下手に動けば関与が疑われかねない。取り調べの同席を断られたのもそれが理由だ」
「くそ、本当に余計なことしやがって、あのジジイ」
ほとんど吐き捨てるように呟いて、ダンドリオンは杖の頭にあごを乗せていた。
魔力は嫌悪や憎悪、怨恨や憤怒など負の感情が源になっている。それを初めに発見し、自在に操ったのは〝あのジジイ〟もとい大叔父だった。大叔父は動物だけでなく人間まで――よりによって、当時は王子だった現国王までも操り、最終的に反逆罪で投獄され、多くを語ることなく自害した。
ゼクスト家はその凶行を見抜けなかった、あるいは知った上で見過ごしていた嫌疑がかかったのだ。母が現国王の兄に嫁ぎ、宮廷魔術師にも任命されたことでゼクスト家の潔白は証明されたようなものではあったが、貴族の多くには不信感が残ってしまい、事件から三十年以上の歳月が流れた今も続いている。
しん、と静かな闇が工房内に満ちて、互いの表情すら暗がりに溶けこんで曖昧になる。ヴェルニアは指を振り、工房の壁に取りつけてある燭台に火を灯した。光は小さくほのかだが、柔らかな温かみが心地いい。
「――確認だが、魔獣が出たことについて母さまにはまだ報告していないんだな?」
「真っすぐにここに来たからな。姫さんにもカラスが魔獣だったとは伝えてねえし、魔獣のことを知ってるのは僕とルニ、あとはカラスを魔獣にした誰かさんだけだ」
「了解した。ある程度調べられるまでの間、この件は俺とリオンだけでどうにかしよう」
「お袋になにも言わないまま?」
「母さまが事態を知れば、魔獣の侵入を陛下に伝えるはずだ。それを聞きつけた奴らが責任だなんだと騒ぎを起こしてみろ、対応している間に作成主に逃げられでもしたら厄介だ。殿下の訓練に割く時間を取れなくなるのも、俺が目を離している隙に殿下に危険が及ぶのも困る」
魔獣の出現を
それを承知した上での提案に、ダンドリオンはいたずら心丸出しの子どものような笑顔でうなずいていた。
「とりあえず術の確認だけ今からしに行く」
ヴェルニアは立ち上がってローブを整え、気絶したままのカラスを抱き上げた。外に出るついでに茂みにでも置いてやれば、いつ目覚めてもどこへなり飛んでいくだろう。
「リオンはどうする。一緒に来るか」
「僕はいいや。ただでさえ王都まで来るのに疲れたっつーのに、神力まで使ったからもう動きたくねえ」
ダンドリオンは普段ゼクスト家の屋敷がある地方で暮らしているが、そこから王都まで来るには馬車で三日前後かかる。広くなったソファにぐったりと寝転ぶ姿はだらしがない。疲労を感じているのは嘘ではないようだ。汚れるから止めろとヴェルニアが苦言を呈しても、素知らぬ顔で「ルニが戻ってくるまでこれでも読んどくわ」と古めかしい本を開いて顔の上に掲げていた。ヴェルニアが工房に戻った時に顔の上に置いていた本だ。
「お前に読書の趣味なんてあったか? 字を読んでると眠くなるっていつも言うのに」
ヴェルニアの問いに、ダンドリオンはなぜか小さく噴き出してくつくつと肩を揺らす。なにがそんなに面白いのだろう。ひとしきり笑ったあと、目元には涙まで滲んでいた。
「趣味じゃねえよ、図書館に入る口実が欲しくて適当に借りただけ。もっとも選んだのは僕じゃなくてラサラスだけど。昔話とかいっぱい収録されてる本だって姫さんは言ってたな。子どもの頃に読み聞かせてもらったんだとさ」
「へえ。王妃さまに?」
「多分サラーラだと思う」
名前を口にした一瞬、ダンドリオンの声がか細く震える。切ない痛みをどうにか堪えたような震え方だ。
サラーラはナギカの世話をしていた侍女だ。ヴェルニアより三つ年上で、ナギカとダンドリオンは親しみをこめて彼女を〝サラ〟と呼んでいた。
ダンドリオンはそれ以上なにも言わず、本の中の世界に飛びこんでしまった。ぱさり、と器用にページをめくる音が耳に届く。ヴェルニアは集中力を妨げてしまわないよう、なるべく音を立てないように工房の外へ出た。
――さて。
ヴェルニアは星々が瞬く頭上を仰いだ。月は厚い雲に隠されているようで、どこに浮かんでいるのか分からない。ピアスを揺らす風は少し冷たく、夏のような湿気が無いぶん気持ちよくはあるが、そこに混じる枯草と土のにおいがどこか物悲しい。
手近な茂みにカラスを横たえて、まずはダンドリオンが初めに魔獣を目撃した地点へ向かう。上空の防御が破られた様子はなく、これといった収穫は無い。そのまま庭園へ続く道を進むが、さすがにこの時間は夕食時とあって誰ともすれ違わない。難癖をつけられることもなく快適だ。
――もし庭園の近くの術にも問題が無ければ、別の地点も確認しに行かなければ。
のんびりしていたのでは日付が変わるどころか夜が明ける。素早く丁寧に、かつ母たちが違和感を覚えるより早く異常を見つける必要があった。
庭園には庭師もいない。日が落ちる前に水を撒かれたようで、湿った土のにおいと花々の芳香がふわりと漂っている。ヴェルニアはその中を通り抜けて城壁へと近づいた。子どもの頃ははるか遠くに見えていたそこも、今では五分とかからずたどり着ける。早歩きならなおさらだ。
城壁に到着してすぐ、ヴェルニアは防御術に手を伸ばして神力を使った。ナギカと訓練をしていた時と同じ赤い光がわらわらと地面から湧いて、すうっと城壁に吸いこまれていく。異常があればその場所だけが光るはずだ。
しかし。
「……どういうことだ」
どれだけ待てども、地点を変えて同じことを試しても、防御術は光らない。正常に張られている証だから、それはそれで良いのだけれど。
「だとすれば、あの魔獣はどこから来た……?」
母がいち早く術のほころびに気づいてすでに直してしまったか。であれば報せが来ていないのも、泡を食ったような騒ぎになっていないのもおかしい。
時間をかけて見回りを終え、東の空が薄明るくなってきた頃にヴェルニアは工房に戻った。ダンドリオンは数時間前と変わらない姿勢のまま胸の上に閉じた本を置き、ふうふうと寝息を立てて眠っている。
「おい」ダンドリオンの頬をべちべちと叩いて無理やり起こし、不満げに座り直した彼の隣にどっかりと腰を下ろす。「防御術はどこも破れていなかった」
「はあ……?」
寝ぼけまなこであくびをこぼしていたダンドリオンの目が、言葉の意味を理解するにしたがって大きく見開かれた。
「それってつまり――」
ああ、とヴェルニアは机に肘をつき、組んだ指の上に顎を乗せて自身の見解を絞り出した。
「魔獣は外から侵入したんじゃない。王宮の敷地内で作られた可能性が高い」
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