第3話 見逃された罪

 極秘と言われたので私服へと着替えた。捜査車両も使わない方がいい。目的の場所は思ったより近場だったので、電車で移動する事にした。


「早く、早く」


 人混みではぐれないよう、駅のホームで繋いだままの手をグイッと引っぱられる。愛生ちゃんの足どりは軽快な物だ。それに代わってわたしの足どりは重たかった。


「愛生ちゃんは、パパが好きなんだね」


「うん。いつも褒めてくれるもん」


「……そうなんだ」


 でも好かれた父親は、今その手を握ってはいなかった。たった一人で逃げている。不確かで柔らかい、こんなにも小さな手を掴まないままに。そう思うとわたしの足も次第に早く動き始める。


 そんな姿を見て、無邪気に微笑まれた。


「こないだもね。お巡りさんに褒められたことを言ったら褒めてくれたの。ママにはないしょって言われたけど、言っちゃった」


「そうなの、いい事したものね」


 愛生ちゃんは拾った財布を交番に届けてくれた。そのせいで母親とはぐれて迷子になってしまったのだけれど、その行い自体は褒めてあげるべきだとわたしは思う。


 母親が秘密にしようとしていたと聞き、チクリと胸が痛んだ。やっぱり、あれは。いや、と頭を振った。子供が迷子になったのを隠したかっただけかもしれない。父親が厳しい人だと、言いたくない事もある。


「愛生ちゃんのパパは、どんな人なの? 何をしている人なのかな」


「パパはね、先生だったの。お塾もしてたけど、やめちゃって。セールスマンもして。今はなんだろう。わかんない」


 教師、塾の講師だろうか。何れにせよ、教鞭を取っていたらしい。聞いていた話と少し違った。博士や教授なら関係者になるかもしれないけれど、教師はどうだろう。


「でも、だからね。褒めるの得意なんだ。悪いことしたらしかられるけど、あたしはしないもん。ママは時々おこられるけど。ママ……」


 母親の事を思い出し、顔が曇っていく。ゆっくりと背中をさすってあげ、大丈夫よと励ました。愛生ちゃんは手で瞳を拭って、ちがうのと溢した。


「ないしょって言われてたのに言っちゃったから。ママは、あとでしかられちゃって。パパも出ていっちゃって。それで、それで」


 背をさすっていた手がピタリと止まる。バクバクと鼓動が胸を打ち、息をする事も満足に出来なかった。息も唾も一緒くたに無理やり飲み込んだ。それじゃあ、これはわたしのせいじゃないか。


 あの時わたしは愛生ちゃんを連れ、母親とはぐれたという交差点へ向かった。すぐに母親と思しき人影は見つかった。道行く人たちに声をかけ、走り回っている女性に近付くと、その人は通行人とぶつかった。


 お互いの荷物が道へと散らばり、母親は平謝りしていた。手早く荷物を拾い上げ、通行人は怒りながら急ぎ足で去っていく。わたし達も急ぎ、母親の元へと合流した。事情を説明し、愛生ちゃんを引き渡して、すぐに去ろうとする母親を呼び止めた。


「その財布は、あなたの物ですか?」


 目を見開く母親の持つバックを指差す。わたしは見ていた。母親がその財布を拾い上げる所を。自らのバックに入れる所を。


「ごめんなさい。気が動転しちゃってて。そう、さっきの人が落としていったのよ」


 パッと差し出される。難しい所だった。判断に困る。通行人は足早に立ち去って、母親は子供を見失って気が動転していた。魔が差したように思えるが、交番に届ける気だったと言われたらそれまでの話だ。


 声かけのタイミングを誤っただろうか。後悔と反省が入り混じる中、愛生ちゃんと目があった。少し怯えている風に見えた。無理もない。先ほどまでのわたしと顔つきが違って見えているだろうから。


 短く息をついた。


「交番まで、ご一緒にお願いできますか。拾得物の書類を作りますので」

 

「あの、困ります」


「あ、待って」


 財布を地面に置き、母親は愛生ちゃんを連れて逃げ出した。あの時、しっかり説明していればこうなっていなかったのでは。もしくは罪を認めさせた上で反省を促し、家族にも事情を伝えていれば防げた事じゃなかったのかと、自らを責める。


 わたしが罪を見逃したからこんな事に。


 夫婦で口論になったタイミングを考えると、財布の騒動が無関係だとは思えない。愛生ちゃんの発言から母親の行動が明るみに出てしまったのではないか。そんな事、言えるわけがなかった。再びさすり出した手のひらは、わたしの心に取っても必要な物であると思えた。


「ここ、みたいだね」


 落ち着きを取り戻したわたし達は、父親がいる場所へとたどり着いた。大通りから外れた雑居ビル。住居というわけではないだろうから、恐らく務め先になるのだろう。入り口にあったビル案内板で行き先を探していると、声をかけられた。


「あい、ちょっくらごめんよ」


 ガラガラと台車を押しながら、清掃員の男が横を通っていく。じろりと頭の先からつま先までを見られていた様な気がした。目が合った拍子に尋ねてみる。


「あの、すいません。ここの四階にある、セリシアルズという会社は何の会社なのかわかりますか」

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