川と歩く。

@DojoKota

全話

 心が病んでいる、なんて、見ず知らずの男に言われたくなかった。なので、素通りする精神科病院。交差点を抜ける。信号待ちをしている間にわだかまってしまっていた人混みからいち早く抜け出そうと、早足になる。ペットショップ『獣姦』の前を横切り、ラブホテル『Lincoln』の手前で方向転換をする。

 随分と前から、私は、川に懐かれていた。川の名前は、ハゴロモ川。この地方小都市ハゴロモ市に流れる最大河川だ。といっても、川幅四メートルくらいの、河川敷もないような小さな川なんだけれど。

 私が、歩くと、私の後からハゴロモ川がついてくるのだ。私が振り向くと、恥ずかしそうにそっぽを向いたり、あるいは、嬉しげに尻尾を振ったりするのだ。その時々だ。あまり、激しく尻尾を振ると、洪水になるから、やめてって伝えると、悲しそうに、川幅を狭めるのは、いつものことだった。

 なので、今も、私の後を、ハゴロモ川が泳いでいる。私が、立ち止まると、ハゴロモ川も進行を止めるし、私が急ぎ足になると、ハゴロモ川も置いていかれまいと速度を速める。だから、交差点を抜けるとき、何人かの人たちは、ハゴロモ川に飲み込まれて水浸しになっていた。悪いことしたな、って思ったけれど、いつものことだから、みんな許してくれた。ごめんね、私のハゴロモ川が。いいんだよ、いつも畑に水撒きありがとうね。お礼されちゃった。急にありがとうなんて、恥ずかしくなって、その場を走って逃げ出したくなったけれど、走ったら、尚更大変なことになるだろうから、赤くなる顔をうつむかせでゆっくりと歩いていく。

「ハゴロモ川」

 返事なんてない、ハゴロモ川は、川だから。川は喋らないのだ。

 ハゴロモ川を叱ろうと思って、口を開いたのだけれど、よくよく考えてみたら、全て、私が悪いんだよな。私が、誰かを追い抜いたり、しようとするから。これからは、まるで乳母車を押すおばあちゃんみたいに、ゆっくりゆっくり、歩いて行こう。だから、私は、自転車も乗れないし、自動車や新幹線は、もってのほかだった。

 ラブホテルLincolnを左折すると、地方都市にしては、華やいだ街並みはそこで終わりを告げ、あたり一帯田園地帯が展望される。いつもの散歩道。散歩道、というか、こうして、町中を歩き回ることが、私の仕事みたいなものだった。耕運機の轍を踏み越え、歩き慣れた、盛り土の上を私は進む。その後を、川幅を狭めながらハゴロモ川がついてくる。狭い田圃道を落っこちそうな、ハゴロモ川だったけれど、落っこちてしまえば、いいのだった。落っこちたハゴロモ川のかけらが、小さな支流となって、田畑に染み込んでいくのだ。

 平日の、真昼間だった。青苗を植え付け、ひと段落ついたのか、田畑には、人一人いない。何十反にも及ぶ田畑が、右に左に、はるか前にに広がっている。とはいえ、見渡す限り田畑ってわけでもなく、はるかかなた田んぼの途切れた先に、私が物心つく頃から打ち捨てられた廃工場。途切れ途切れの民家。国道を、豆粒ほどのサイズで走る自動車。ハゴロモ小学校の灰色の校舎。が見えた。その背景には、ハゴロモ連山。ひときわ高い山は、羽客山という。羽客とは、仙人のことだそうだ。もちろん、仙人なんて住み着いてはいないけれど。明日か明後日か明々後日には、そのハゴロモ連山も踏破しなくちゃいけない。しばらく、雨も降らなかったし、そろそろ山も乾きを覚える頃だから。猿猪熊鹿が、水を求めて、町中にさまよい出てきても、困るだろうから。

しばらく、歩いた。

 田んぼと田んぼのちょうど中心地点に、小さな広場があって、農具や飼料を保管する小屋と小さな祠がある。そこには、いつも、特大のおはぎが三つ備えられている。置手紙が一つ。『あかり様へ』。手紙っていうのかな。宛名のみが書かれた簡素な文。でも、それで、用をなす。あかり、というのは、私の名前だから、つまり、私へってことなのだ。別に神様というわけでは、ないのだけどな、と心の中で訂正しつつ、おはぎの一つを口に含む。甘い。

 三つも食べきれない。量も多いのだけれど、時間もないのだ。私の背後には、ハゴロモ川が流れている。ここで、立ち止まってしまったら、ハゴロモ川の流れが、私の足元で滞るのだ。初めは、小さな池になり、次第に、ハゴロモ川まるまる一つ分の、大きな湖ができる。畝が崩れ出す前に、私は、散歩を再開する。残り二つは、本物の神様が食べればいい。私は、かじり跡のついたおはぎを手に、もぐもぐやりながら、歩速を緩めず田んぼを抜ける。そのまま、右折。国道脇の歩道を歩く。

「おいしかった。ごちそうさま」と言った後で、しゃがみこんで、餡子のついた右手をハゴロモ川につける。撫でられたと思ったのか、嬉しそうに彼は流れを早める。こらこら。私の足元まで水浸しじゃないか。はしゃぐなってば。甘いものを食べて、喉が渇いたので、ついでとばかりに、ハゴロモ川から水を掌で掬う。口に含んだ瞬間は、その清水はハゴロモ川なのか、じゃれつくように舌に巻きついた。でも、それも長くは続かない。切れた蜥蜴の尻尾みたいなものなのだ。しばらくすると、動かなくなりただの水になる。そうなった後で、ごくごくと飲み干していく。ミネラルウォーターの味がする。


 国道をそのまま、まっすぐ、歩いていく。


 空を見るのが、好きだって、男の子がつぶやいていた。男の子の名前は、嘘太郎と言った。格好悪い名前だから、私は、いつも、彼のことを、うーくんと呼んでいる。本人もその方が、気が楽なようだ。うーくんは、国道脇の歩道の真ん中で、仰向けに寝転がって、カッと目を見開いて、じっと雲ひとつない動かない青空を見つめていた。で、人が歩み寄ってくる気配を察知すると、気分が悪いのか、とか、どうしたのか、とか、聞かれたり、無言で救急車を呼ばれるのが嫌だから、独り言として、空を見るのが好きなんだ、って呟くのだった。いつものうーくんだった。

「うーくん、どないしたん。私だって。私だってば」私は、私の方など見向きをしないで、空を一心に見つめているうーくんへ呟く。けど、うーくんは、反応を示さない。瞬きひとつ、身じろぎひとつせず、じっと空を見つめているのだ。「うーくん、そこ、邪魔」人一人が通れるほどの歩道に、人一人横たわっているのだ。しかも、大の字に、手足伸ばして。

「紅、うるさいわ」というのが、うーくんの返答だった。

「うるさいとかないんちゃうん」

「うるさいものは、うるさい。俺の研究を邪魔するなや」うーくんは、こう見えて、私とほとんど年齢が変わらないくせに、年間一億円の国家予算をもらう自然科学者だった。三百六十五日、二十四時間、こうして空ばかり眺めて、空のことを考えて、研究しているのだ。で、四年に一度閏年の閏月の閏日の一日、手だけ動かして、四年間ひたすら眺めて気がついた空についての諸々を論文にまとめて国に提出するのだ。彼のおかげで、ほんの少しだけ、気象予報の確度が上がったらしかった。異常気象のいくつかも、予測できて、未然に防げているそうだった。

「そんなんゆうとったら、ハゴロモ川に沈めるで」けど、邪魔なものは、邪魔なのだ。

「沈めれるもんなら、沈めてみい」

「ああ、沈めたるわ」

 売り言葉に買い言葉って、わけではなくて、私とうーくんのいつものやりとりだった。一字一句おんなじってわけではないけれど、だいたいいつも、こんな風に、喧嘩っぽい言葉のやり取りを繰り返すのだ。

 私は、彼の上を、ひらりと跨ぎ越える。さらさらと、彼の上を流れるハゴロモ川。口と鼻先がちょうど浮かぶくらい、彼は浸水する。

「ひどい事をするなあ」とうーくんは呟く。冷水に浸されて、かっかしていた頭が冷やされたのだろう。口調が少し柔らかい。

「これも、うーくんのためやろ」私は、ちょっと恥ずかしくなって、棘っぽいもの言いになってしまっただろう。

 うーくんは、植物人間だった。頭の後ろから、アスファルト下の土中へにょきにょきと巨木の根っこが生え伸びているのだ。そんなわけだから、彼は、この場から動くことができず、活路を見出した先が、気象の研究なのだった。

「うーくん、気持ちいか」

「気持ちいいわ」うーくんの根っこが、ごくごくとハゴロモ川のすする音は、聞こえないけど、想像に浮かぶ。

 ハゴロモ川は川幅こそ、細いけれど、全長四、五キロに及ぶ長い長い川である。このまま、うーくんを跨ぎ超えて進み続けるとうーくんは、小一時間、ずっと水浸しになる。ちょっとひどいことしている気がするけど、うーくんは、それでいい、それがいいって言っている。

「今日の天気は?」折角なので、この世で一番天気に詳しいうーくんに尋ねておく。

「晴時々豚」

「豚が降ってくるんか。危のうてやれんわ」

「大丈夫やって。さっき、自衛隊に連絡しといたから。上空1キロメートルの遥か彼方の空域で、対空ミサイルで迎撃予定や。だいたい蒸発しとるやろうし、蒸発しとらんでも、たかだか、血の数滴やろ。カラスの糞に当たるより確率低いわ」

「そうなん?」

「そうや」

 うーくんのお陰で、私たちは、空振る豚たちに、圧し潰されずに済んでいるみたいだ。うーくんは偉大だな、って内心思った。言葉には、言いあらわさなかったけれど。

「うーくん」

「なんや」

「パンツ見たらあかんよ」

「見とらんわ」

「ならいいわ。けど、女の人がうーくんの上を通るときは、ちゃんと目え瞑るんやで」

「ちゃんと瞑っとるわ」

「じゃなきゃ、泣きわめくキチガイ婦女子に、黒目のところだけ、チクチクと針で型抜きされるで」

「そんな怖いことゆうなや」

「キチガイは何するかわからんからな。キチガイつうのは、不幸の別言なんや。不幸な人間は、平気で酷いことするんや」

うーくんに水を遣るという名目で、私は、車道と歩道とを垣根するガードレールにもたれて休んでいる。ただ、たわいもない話をうーくんと話していたい、というのが本当の理由だったけれど。

 少しずつ少しずつ、足元に水たまりができ、ハゴロモ川がわだかまっていく。うーくんの目と鼻と口より水位が上昇したら、急いでこの場を離れなくちゃならない。けど、それまでは、私とうーくんの自由時間だ。

「うーくん」

「うん?」

「私ら、いつか、学校とかに戻れるんかな」

「急になんや」

「ふっと思ってさ」

「無理やろう」

「なんでや」

「実際俺は動かれん。やったら、学校の方を俺の上に建てるしかないやろ。でも、そんなんいやや。狭苦しい。俺の方から、お断りや」

「でもなあ」

「それに、お前だって、教室行ったら、教室大洪水やろ」

「そこまでやないわ」

「けど、階段が川まみれやったら、滑って危ないわ」

「手すりがあるやろ」

「そういう問題やないやろ。同級生が溺れるやろうし、お前だって溺れるやろ」

「そういう問題やないけどさ。でもさあ」

 ううう。言葉が途切れてしまう。仕方がないってことはわかっているから、これ以上言葉を繋げば、ただの不満の吐露になってしまうな、って予感する。

 けど、もうすでに、そうなってしまっているかもしれない。かっこ悪いのは嫌だから、言葉が喉にスパイダーのように張り付く。スパイダーってなんだ。

 いややろ。そんなんいややろ。いややろ。言葉がボールで、誰かちっちゃい人が喉の中にいて、言葉のボールを喉の壁にぶつけて、一人ラリーを楽しんでいる。

「大丈夫やって」うーくんが気安く気休めをいう。

「何がや」

「学校行かんでも、あかりはみんなから必要とされとるやろ」

「たかが、畑の水遣りじゃ」

「あかりにしかできんやろ」

「ハゴロモ川が勝手に流れとるだけじゃ」

 不貞腐れてるな、って自分で思う。どこかでブレーキを踏みたい

「なあ、うーくん。ごめんな。これじゃ、ただの愚痴や。でもなあ。私、うーくんと話ししとかっただけなんや」

うーくんは、私の変調に対応しかねたのか、口を開いては、閉じ、開いては閉じる。目を白黒させることは、天気を観察する者として、許されないのだ。だからか、口をパクパクさせている。

「ああ、うう。うん、別になあ。そんななあ」

「なあ、うーくん。なあ。うーくんは、どこへも行かんよなあ」

「動かれんからなあ。きっと、死ぬまで、ここに植わっとるんやろ」

「でも、国立気象台の麓に植え替えて遣るとか国に言われた、ひょこひょこ行くんやろ」

「行かんわ」

「でも、火星の気象調べて欲しいとかゆわれて、火星まで運ばれてな。火星に植え付けられたりするんやないか。月でもええけど」

「大丈夫やって。あかりを残したりせんわ」

「約束?」

「約束、は、できんけどなあ」歯切れが悪かった。

 それからしばらく、うーくんと一緒に、空を見上げていて、でも、私は、うーくんと違って、根っこが生えていないから(根気がないから)、飽きてしまって、気がつくと、トイレでも我慢してる子供みたいに、足踏みをしていた。足元でハゴロモ川がびちゃびちゃと波紋を立てた。潮時だな。潮時やね。って心の中で納得するための会話を行なった。

「それじゃあね」

「うん、またな」

「三日後くらいに、また来るからな」

「大丈夫やで、今週は雨やから」寂しいことをゆうなや、と思うけれど、あまり、水を遣り過ぎても、根が腐るのだ。

「じゃあ、雨が上がる頃に、また来るわ」

「それじゃあな」

「それじゃなあ」


 うーくんを後に、その場を立ち去る。十歩をほど行って、振り返る。たかだか数メートルの距離なのに、うーくんは、川に没してもう見えない。

 いつものことなのだ。ハゴロモ川が、私の景色を、書き換えてしまう。私の後には、川しか見えない。

 うーくんは、今も、あそこで、上空を見上げているんだろうか。あの、ちょこんと見える肌色が、うーくんの鼻先なのだろうか。自信が持てない。

 この道は、うーくんが寝そべっていることもあって、私が散歩道に使っていることもあって、人通りが少ない。国道なのに。もったいないな、という気もするけれど、私たちにとっては、ありがたいことなのかもしれない。私たちの、積年の努力で、不法占拠してしまった道なのかもしれない。

 国道だから、車が通れれば、それでいいんだ。時折、よその県の人が私たちにびっくりして、車を止める。でも、それも、今日はない。私がこんな風になって、もう何年。うーくんがそういう風になってもう何年。みんな慣れてくれたんだろう。

 今日はこれから何をしようか。

 何もすることないな。

 畑の水遣りも済んだ。

 立ち止まると、足元がハゴロモ川に没する。うーくんとの立ち話もそう長くは続けられない。歩ける道も、歩道の広い国道や県道だけ。つまらないな、っておもわず呟きそうになる。

 呟いたところで、現状が変わる訳じゃない。

 ヴェネツィア公園に、戻ろうかな。


 ヴェネツィア公園は、初めから、ヴェネツィア公園だったわけじゃなくて、私がそこに住み着くようになってから、ヴェネツィア公園になった。そう、呼ばれるようになった。

 だから、公園の入り口には、大森公園って石彫りの看板が立てられている。

 でも、それは、古い名前で、苔むしていて、誰にも顧みられることがないのだった。

 私が眠っている間に、どんどん、ハゴロモ川はこの公園に流れ込んでしまう。ハゴロモ川はハゴロモ湖になって、滑り台も、ジャングルジムも、ブランコもどんどんどんどん、水に没していく。水の都ヴェネツィアみたいだって、何処かの誰かが思って、みんなもそうだなあ、って同意したんだと思う。別に風光明媚でもなんでもなくて、ただ、大洪水の後のように、遊具たちが半身を覗かせているだけなんだけれど、名前だけでも恰好つけようって、見栄を張ったんだ。

 だから、ここは、ヴェネツィア公園って呼ばれている。

 いつも水没しているから、草一本生えない、泥だらけの地面を一人ポツポツと歩く。くっきりとつく足跡に、染み渡るハゴロモ川。大丈夫、こんな泥だらけで、錆だらけの公園で遊んでいる子供は、まずいない。溺れさせてしまうことも、ないだろう。

 公園の真ん中に小高い丘になっているところがあって、そこまで向かう。その丘の周辺だけ、樹木や草花が生えている。

 普段は、よく懐いた猫みたいに、私の足元までじゃれつくハゴロモ川だったけれど、私が眠るときは、遠慮してか数メートル離れた先に蟠るのだ。だから、私が眠りつくその丘の周辺だけは、例外的に、草花が生き残っている。

 そこに据えられた屋根付きの四角い机とベンチが、私の家だった。不法占拠ってやつなのだけれど、もう何年も使っているから、何かしらかの権利が発生しているはずだった。

 私がハゴロモ川に好かれるようになってしばらくの間は、私だって、生まれ育った家に暮らしていた。でも、三日と経たずに、土塀が崩れ、柱は腐り、溺れた油虫がぷかぷか浮かんで。これはもう、無理なんだなって、誰の目にも明らかになって、私は、一人、毛布と枕と懐中電灯を抱えてここまで来た。この公園を選んだのは、ただ単に、家から歩いて五分の場所だったから。毛布を抱えながらの徒歩は、もう少し時間がかかったけれど。ぐっしょりと濡れ切った毛布と枕をベンチの上に天日干すことから、私の新生活は始まった。

 だんだん草花が枯れていく様は、かわいそうだったけれど、他にはないんだって、自分に言い聞かせて居座った。

 私がいつも眠りについているベンチの上に、女の子が一人座っていた。見知らぬ顔だった。ぼうっと空を見上げていた彼女の視線と私の視線がぶつかった。びくっと彼女は体を震わせたけれど、視線はそらさず、じっと見返して来た。私に用があって来たのだろうか。スニーカーを泥だらけにしてまで。

「こんにちは」と女の子が呟いた。

「こんにちは」と私も返事をした。

 学校の制服を着ていなかったから、見た目で判断するしかなかったけれど、私と同い年くらいの、子供だった。染めたように真っ黒な髪で、背中にかかるくらいまで伸ばしていた。きっと、意図的じゃない癖毛が毛先を散乱させている。柔らかそうなほっぺたをしていた。笑ってもいないくせに、優しい感じのする顔つきをしていた。知らない顔だったし、知らない人だった。

 こんな真っ昼間に、どうしてこんな錆び付いた公園にいるんだろうかって思った。私には、もう曜日感覚とか日付感覚というものがなくなっているのだけれど、今日は、祝日とか休日とかいう日なんだろうか。その割りには、出かけた先で、子供を見かけなかったけれど。

「えっと、あのさ」って私はいった。「もうすぐ、ここ水没するよ」一応警告しておこうと思った。もしかしたら、私のこと、よく知らない人が、たまたまこの公園に迷い込んだだけかもしれない、と思ったからだ。「水没したら、なかなか出られんから」

「大丈夫、大丈夫」無表情のくせに、朗らかにいう。

「そう。なら、いいけど」

 思わず立ち止まっていたけれど、私は我が家に帰って来たのだ。不法占拠でも、我が家なのだ。だから、この子に気兼ねする必要はないんだ、って自分に言い聞かせる。ベンチまで歩いて行って、彼女からちょっと離れた位置に、腰を下ろす。

「いつも、嘘太郎がお世話になっています。嘘太郎の母です」

「嘘だあ」だって見た目が若すぎる。

「うん、嘘です。私は、空気女です」

「いきなり訳のわからんことゆうなや」と答えつつ、実は、言葉ほど、訳がわからないとは思っていない。なぜなら、理由は簡単で、私は、ハゴロモ川を引きずる女だし、うーくんは、アスファルトに根をおろす植物人間だから。空気女ってフレーズは初耳だったけれど、そういう存在もありかな、ってためらいなく思うのだ。けど「意味のない嘘をつくな」

「ごめんなさい」素直に彼女は謝ってしまう。でも、謝るときも、無表情で、形式的なお辞儀をするだけ。「なんとなく、つながりが欲しくなってしまったんです。嘘太郎くんの義理の母親とか、そのくらいの薄いつながりがあればいいなあ、ってふと思ったんです。この場に、嘘太郎くんはいないし、言い張ったら、通るかなって。いきなり、赤の他人として、紅ちゃんに話しかけるより、友達の義理の母として話しかけた方が、親しみを持ってもらえるかなって、思いついて」

「そうゆうものなのかな」

「うん、そういうものですよ」

「私には、よくわからないけれど」

 この子は何をしに来たのかなって思った。ただ、私に嘘をついて、その嘘の言い訳をするために、来たのだろうか。ハゴロモ川はどんどん、ヴェネツィア公園に流れ込んで来ており、丘の麓にわだかまり始めている。今なら、学生幅跳び選手なら、ギリギリ飛び越えられる川幅だった。でも、彼女は帰る素振りも見せない。

「私は」って彼女は言った。「空気女なんです」

「うん、さっき聞いた」

「小谷って知ってますか」

「うん、知ってる」

「彼に、ベリベリと生皮を剥がされたんです」

「痛そう」

「うん、痛かった。でも、すぐに痛みは、私と分離しました。なぜなら、痛覚は、中身の方に属するから。生皮の方には、痛点はあっても、痛点から発せられる信号から痛みを感じる受容体は存在しないのです。反対に、肉だけになった私も、痛点からの痛み信号が途絶えたため、やがて痛みも感じず、茫然自失の体でした」

「そうゆうものなんだ」よくわからないから、歯切れの悪い頷きをする。

「私は、風天小鞠と言うのですが、小谷に生皮を剥がれた風天小鞠の生皮の方なのです。小谷は、風天小鞠をベリベリとベリベリと、つま先から頭頂部まで、綺麗に、裂け目なく生皮を剥いだんです。そうして、風天小鞠を、内側の肉の部分と、外側の皮の部分に分けたのです。そして、私は、外側の方」

 風天小鞠(皮)は、そこでようやく、口角を上げて、笑いらしき表情を浮かべた。自嘲ってやつなのだろう。ひゅうと言うため息交じりの笑いだった。

「皮になって、へたっている私と、肉だけになって恥ずかしそうにうずくまっている私を小谷は、見下ろしてオナニーをしていました」

「まあ、あいつは、快楽殺人やからなあ」

「噂に違わぬ、ひどいやつでした」

「ひどいよね、小谷」

「うん、ひどいです。肉の方の風天小鞠は、ショックで、自宅に閉じこもっています」それで、正解だと思う。真っ赤な血肉が街を出歩いていたら、少なくとも初対面の人は驚いてしまうだろうから。「私は、たまたま、その場にいた、用務員のおじさんに人工呼吸で、空気を吹き込んでもらい、ほらこの通りです」彼女は両手を広げて、自分の体を私に示す。

「空気女?」

「うん、その通りです」

 悲しい話を聞いたな、って思った。でも、彼女は朗らかに無表情。きっと、笑顔を作るための筋肉が欠如しているからだろう。本来なら、笑っているのか顔をしかめているのか、わからないけれど、彼女はずっと、穏やかな無表情で通している。

「それにしても」と私は呟く。「どうして、私に会いにきたん?」

「皆まで言わせますか」と風天小鞠は、ため息でもつくみたいに、ひゅうと息を吐く。

「皆まで言わんでもいいよ」わからないことには慣れている。わからないまま済ますことも可能だ。

「こんな話を」と風天小鞠。皆まで言うみたいだった。「嘘じゃないって信じて聞いてくれる人ってそうそういないから」

「うーくんだって、話くらい聞いてくれるやろ」

「あの人は、始終忙しそうだから」

「それもそうやなあ」ドライアイになりそうなほど見開いたうーくんの目を思い出す。うーくんにとって気象の研究は、人間であるための存在証明なので、なまなかな理由では中断できないだろう。私は、ちょくちょくお邪魔しているけれど。「家族には、どう話したん?」

「家族は殺しました。説明するのが、面倒臭かったので」

「そっかあ」

「うん。いま家には、肉の方の私が、肉になった家族たちと一緒に閉じこもっています。皮になった私の方に、買い物や学校を任せきりにして、気楽なもんです」

 気がつくと、ハゴロモ川は、公園全域を浸していた。まだ、まだ、納まり切らないのか、入り口の石門のところから、ちょろちょろとハゴロモ川の尻尾が流れ込んでいる。沼沢から湖へ。少しずつだけれど、水位が上昇している。

「泊まってく?」そう言っても、大したもてなしの用意があるわけでもないけれど。

「いいんですか。嬉しいです。でも、大丈夫です」

「帰れるん?濡れちゃうよ」

「濡れちゃいませんよ。私、空気女だから」

「そういうものなん?」

「そういうものですよ。見ててください。ほらこうやって」って彼女は、大きく息を吐く「まずは、酸素と二酸化炭素とを吐き出すんです。それからね」すぅぅうって彼女は大きく息を吸い込む。「こんな風に、吐き出した酸素たちの代わりに窒素を吸い込むんです。窒素ってほら、空気より軽いから。これを繰り返すと、どんどんどんどん、体が軽くなって、最終的に浮かび上がることも可能なのです。浮かんだが最後、風に揺られるままですが、今日くらいのそよ風なら、気持ちの良い空中遊泳が楽しめそうです」

 楽しいのなら、それはそれは、良いことだった。早く飛び上がらないかな、ってわくわくしながら、彼女を見ていた。けど、一向に飛びあがらなかった。彼女は、息を吐いて、しぼんでしまった。

「でも、真昼間から私が飛び上がると、きっと、みんなは驚きます」

「あ、確かに」

「驚かせるのは、あんまり好きじゃないんです」

「まあ、うん。だよね」時折、私も、他県の人から指さされてとやかく言われることがあるけれど、決して気持ちが良いものじゃないなって思い返す。

「大げさに驚かれれば驚かれるほど、いずれみんなが私に慣れてしまいそうで」

「そういう理由なんだ」

「ありきたりになるのってなんだか嫌じゃないですか。私は、ずうっと空気女で、ずうっと特別なのに。見慣れたというただそれだけのことで、飽きられて気にもとめられなくなる。そういうのって、ひどい感じがする」

 ハゴロモ川の入水が完了していた。漣ひとつ立たない鏡面のような湖が四方に広がっている。私の暮らすこの丘は、言ってみれば、ハゴロモ湖に浮かぶたった一つの孤島であり、内緒話をするには、うってつけの場所なのだとふと思う。きっと、彼女が能弁なのは、このシチュエーションが関係しているんだろうなって思った。

「夕暮れになるまで、ここにいていいですか」って彼女が尋ねてきた。「夕暮れになったら、人目を忍んで、飛んでいくから、それまで、ぼんやりお邪魔しててもいいですか」言ってるそばから、お邪魔しているけど。

「お邪魔も何も、公園はみんなの場所やからなあ。まあ、もてなしはできんけれど」この小さな島には、生活必需品しか存在しない。寒くなったときの焚き火に火種、寝袋にチャッカマン。懐中電灯。乾パン類の非常食。誰かが訪れることなんて、想定していなかったから、茶菓子ひとつ用意していないのだ。「ごめんなあ」ふっと、お昼に食べたおはぎの味が思い出される。食べてしまったものは、消化される一方で、分け与えることは叶わない。謝ったって仕方がないなって思った。

「ここは落ち着くから好きです」まるで私の謝罪なんて聞いていないみたいに、思ったままを呟いている。初めてきたくせに。

「最近、どう?」って私。

「最近とは?どうとは?」きょとんと首をかしげる風天小鞠。

「この世界」端的すぎたかな。尋たいけれど、あまり深くは聞きたくない。そういう感情があってか、訥々と、端切れ端切れな言葉になってしまう。それじゃいけないな、って思って、すぐ付け加える。「私が抜け出してからの、あの世界。小谷は相変わらず、元気みたいやけど。他のみんなは、どうなんかなって」

「曖昧ですね」

「だって、記憶にないんだもの。私の場合は、七歳だったか、八歳だったかの時から、ずっとだよ。名前も顔も覚えとらんもの」だけど、気になる。

「同じですね。私も、こうなって初めて、ふっと紅さんや嘘太郎くんのこと思い出しました。自分自身が当事者になるまで、赤の他人を通り越して、無色透明の空気でしたよ。まあ、紅さんのことは時折、川を引き連れて歩いているのを、見かけましたけど、でも、あんまり学校のそばを通ってくれないから」

「だって、邪魔になるやろ」

「まあ、そうかも」

「できるだけ、人のおらんところを通った方がいいやろ。だって、川なんやから」

「あまり気にしすぎること、ないですよ」

「それは、空気女になった後やからゆえることや」風天小鞠は、喋りながら、両足をベンチの下にぷらぷらさせてる。もしかしたら、体重が軽すぎて、地に足がつかないのかもしれない。

「何はともあれ」と風天小鞠。遠い目をしている。ふと、思ったのだけれど、彼女にはなぜ、目があるんだろう。肉の方の彼女には、目はないのだろうか。だとしたら、大変だな。いきなり肉になって、いきなり盲目だなんて。「特に変わりはないですよ。いつも通り、これまで通りに、皆さん過ごしています。大きな変化といえば、翠蔭小学校から、翠蔭中学校へ、みんな揃って進学したことくらいですか。別に、みんな仲良しってわけでもないのに、誰も私立や国立にいかなかったのって、ちょっと驚きです。別に、みんな仲良しってわけじゃないのに。でも、それだって、他の小学校からも、中学に上がってきていたから、少し同級生が増えたくらいのものです」口調は朗らか。まるで、殺人事件をアナウンスするニュースキャスターのように、何事も意に介さない穏やかさ。

「そっか、もう、そんな年齢なんや。私たちって」

「今気づいたの?」

「うん」考えたこともなかった。「ずうっと、小学生気分やった」今度、うーくんに教えてやろう。私たち、もう中学に上がる時分なんやってって。大して驚かないかもしれないけれど。

「私は、これから、ずうっと中学生気分なのかも」

「大人な感じ」

「そう?」

「私に比べたら」気分が小学生の私にとっては、中学生って、憧れの対象だったから。急に、彼女のことが、格好良く思えてくる。永遠の中学生、格好いいなって。不思議な気持ち。

「うーん」納得がいかないみたいに、小首を傾げている。

「ずうっと中学生って、ずうっと小学生たちの憧れの的やろう」

「おばあちゃんになっても、中学生って嫌ですよ。いつまで落第しているんだって感じで。みんなから、馬鹿にされそうで」そんな嫌そうでもなく、彼女は答える。

 今日は早くに帰ってきたから、まだまだ、あたりは明るくて、日の光がぽかぽかと気持ちがよい。もしかしたらだけれど、彼女がさっきから、地に足つかずにぷらぷらしているのは、その陽光によって、彼女の中の空気があたためられて、体積を増して、いまにも浮かび上がりそうになっているからなのかもしれない。指先をベンチに引っ掛けているのは、海底に没した錨の役割。

「手え繋いどこうか」

「手?」

「体が軽うなっとるんやろ」

「うん、少しだけ」

「なら、私が手えもっとくよ」押さえておくよ。

「いいよ。触られたくないから」はっきりとした拒絶。でも、すぐにぶんぶんと首を振って。「その、触られたくないっていうのは、嫌いって意味じゃないのです。圧力が加わっちゃうと、私が私じゃなくなっちゃうから。中身が抜け出してしまうのです」

「そっか。なんかごめんな」

「ううん」

「そう?」

「うん」

 いらないお世話だったのかなってちょっと思った。ちょっと沈黙。

 しばらく沈黙。

「また、来てもいいですか」って彼女は呟いた。「明日とか」

「うん、いいよ」だって、ここは、私が住み着いたってだけで、元々は公共の公園だ。誰がいつ、訪れたって構わない。私が気軽に許可するのも、変な気がするけれど。「でも」言おうとしてやめる。言わないほうがいいだろうって、言葉にしかけて気がついた。

「なんですか」

「なんでもない」

「そんなことないでしょう」

「そんなことあるよ」

「あるんだ。やっぱり、何か言いたいことがあるんだ」

「その、ある、じゃないから」

「当ててみましょうか」

「何も考えていなかったのだから、当てるも外れるもないやろ」

 でも、そうは言って切り捨てたものの、本当のところは。本当に、私が言いたかったことは、私とあなたは違うやろってことだった。

 空気女、皮だけになってしまったところで、そう、見た目が変わるわけでもないのだ。私となんかとかかずり合わずにこれまで通りの生活、これまで通りの日常に埋没して、自分のことなど忘れてしまえばいいだけだろうって内心思っていた。私の場合、学校へ行くと、同級生が溺死するのだ。でも、空気女ならば、そうはならない。少なくとも、人は死なない。誤って水素と酸素を大量に吸い込んで、即席爆弾にでもならない限りは。

「ひどいことを思われている気がします」

「気のせいやって」

「迷惑、ですか。こんな風に、いきなり訪ねて来たり、また、会いに来たり」

「迷惑やないよ」

「なら」

「別に、会いに来ていいよ。でも、でもさ」無理やり言い繕うみたいに、私は続ける。「でも、今週は、雨なんやって。うーくんがゆってた」思いつきの言い訳だったけれど、効果があったみたいで、彼女は、そうかあ、そうやったなあ、って残念そうな困ったような顔をする。

「雨かあ」

「雨降りの中、わざわざ、会いにくるような女じゃないよ。私は」ちょっと大げさな言い草だな、って内心思う。

「そんなこと、ないですけど」彼女の言葉はしりすぼみだ。「でも、雨の中の移動は、空気女にとっては、危険です。ざざ降りだと、身体中が雨滴で凹んで、空気が抜け出しちゃうし、傘を捧げる筋力も、空気女にはないですから」

「誰でも、得手不得手はあるよ」

 慰めになったのだろうか。彼女は、斜に構えて、ふへ、と笑うだけ。


 しばらくして、彼女の帰る時間。

「楽しい時間をありがとうございます」

「いや、こっちこそ」

「あの、ひとつお願いがあるのですが」

「なあに」

「私、これから窒素を吸い込んで浮かび上がるから、そうしたら」

「うん」

「バレーボールの要領で、私を打って欲しいんです。浮かび上がった私が、向こう岸まで届くように」

 同級生を殴るなんて、嫌だなって思っている私に。

「大丈夫、痛くないから。ただの空気の詰まった袋ですから。痛くないから」

 ぽーん、っといい音を響かせて、彼女は飛んでいった。電線にぶつかりそうになったところで、彼女は、ふうぅと息を吐いたのだろう。急降下。しぼみながら、地に足がつく。まるで影のように地に伏す。やがて、少しずつ、少しずつ、呼吸を繰り返し、体積を取り戻す。ばいばい。またね。あたりは、もう、薄暗くなっていて、彼女が無事に帰れるか不安。大丈夫だろう。大丈夫だよね。


 私は眠ることにする。


 夜風が冷たそうだ。そんな冷たいところおらんで、こっちへ入りいよ。寝袋の口を開ける。ひゅううと夜風が入りこむ。ほうら、あったかいやろ。


 朝、目覚める。私は、寝ぼけていたみたいで、上半身寝袋から飛び出している。石ころみたいに冷たくて、石ころみたいに動かない両腕である。身体中冷え冷えしている。体の奥の方、心臓の付近だけ、ほのかに暖かいのみである。寝袋の中も、夜露にびっしょり濡れそぼっていた。半分脱皮して、力尽きて、そのまま死んでしまった蝉の半幼虫ないし、半成虫みたいだなって思う。腹筋だけで上体を起こすも、完走ランナーにまとわりつくゴールテープ、無人島に打ち上げられた漂流者にまとわりつく海藻みたいな両腕だった。


 何もできやしない。

 焚き火を熾そうにも、両腕がだらしないのだ。

 肉で温めようにも、肉体全体が、大理石でできた塑像状態である。

 日向ぼっこをしようと空を仰ぐも、うーくんの予報通り、本日はいまにも雨降りそうな曇り模様である。

 やれやれ。


 力尽きたランナーや漂流者のように、横倒れに倒れこむ。低くなった視界には、ハゴロモ川はまるで海のようで、公園を取り囲む民家は、ばかみたいにでかく見える。


 しばらくすると、雨が降り出してきた。このところ、晴天続きで、ハゴロモ川が縮んでいたことを思い出した。ごめんねハゴロモ川。うっかり君に水やりを忘れていた。ごくごくと威勢良く雨滴を飲み込むハゴロモ川。飢えた獣のようだ。湖面は一挙に漣打ち、まるで天に舞い昇る勢いで、雨滴を捕食していく。雨滴が湖面に触れる寸前に、ぱっとミルククラウンが形成され、蕾が閉じるようにして、雨滴をミルククラウンが包み込むのである。一般のミルククラウンとは、形成順序に微妙なズレがある。もう、何年もハゴロモ川とともにいて、眺めている光景なのに、未だに不可思議な気持ちになる。未だに不可思議な気持ちになることに不可思議な気持ちになる。未だに不可思議な気持ちになることに不可思議な気持ちになることに不可思議な気持ちになる。どうして、未だに見慣れないんだろう。こんな不可思議な光景に見慣れる方がへんてこだろう。水位が徐々に徐々に嵩増していく。「雨の日はなあ。ハゴロモ川が荒れるから、いやや」って台詞を言おうとしたのだけれど、舌が痺れていて、もつれていて。「ああああああ、あああああああら、ややや」みたいになって、ちょっと恥ずかしくなった。誰も、聞いていないんだけれど。


 私は、目を閉じた。何もできなくて、退屈になったから。


 誰も聞いていなかったのでは、なかったのかもしれない。


「なあああああん?」(何しとるん?)

「見てわからんけ?」

「わああああああん」(わからんよ)

「遊んどるんや」

「うおおおおおうん」(嘘やろう?)

「嘘や。ほんとはなあ」

 目を開けると、女の子が一人いた。私より、はるかに背が小さくて、はるかに肉が薄くて、つまり、私を半分に折りたたんでアイロンでもかけたみたいな子供だった。遠く遠く。けど、近く近く。叫ばなくては、声の届かない距離。けど、明らかに、何かの境界線を大きく踏み入った距離。ヴェネツィア公園の入り口と、私が横たわる丘とのちょうど中間地点に彼女はいた。つまり、肩くらいまで、ハゴロモ湖に没していた。

 見知らぬ子だった。

 私は、吠えることに疲れ、だらしなく垂れ下がっていた。

 本当は、危ないで、そんなところで、そんなことしとったら、死ぬかもしれんし、死なんかもしれんで、って台詞を言いたかったが、それをいう前に、一眠りして、疲労を解消したかった。垂れ下がる私の垂れ下がる瞼から透かし見えるのは、その子が、裸であることと、前髪と後ろ髪とが、不揃いにざっくばらんに切られていることだった。水中に下半身が没しているので、もしかしたら、パンツくらい履いているのかもしれないけれど、少なくとも、小さなピンク色の乳首が見えた。綺麗だった。そう思うとすぐにこんな妄想が浮かんだ。

 とある薄暗い店内で。

「おう、にいちゃん、文入れてくれや」とやくざのおじさん。「へえ、どんな絵にいたしましょうか」と彫師のおじさん。「見てくれや。俺の乳首めっちゃ桜色で綺麗やろ。この乳首をな、桜の花びらに見立てて、俺の腹から胸にかけて、ごっつ立派な桜の大樹をほってくれや。ちんちんは地面から浮き出る根っこの一部に見立ててくれや」「へい。お安い御用で」「これが、かの有名な遠山の金さんである」とナレーション。

 痛そうだな、って思った。

「ほんとうはなあ」と女の子が叫んだ。

「おおおおおおおおん」特に意味はなかった。聞いているよ、って頷きのつもりで、無意味に、私は吠えた。ちょっと疲れた。

「ほんとうは、なあ」なぜだか、泣き出しそうな女の子だった。もしかしたら、泣いているのかもしれない。雨に濡れそぼって、判然としないけれど。もっと、こっちにきたらいいのに、って私は思った。そうしたら、お互いに、そんなに叫んだり吠えたりしなくて済むだろうに。でも、女の子は、その場に埋まってしまったみたいに、動こうとしない。女の子は、大きく息を吸い込んだ。「うおおおおおおおおおおおおおおお。もう、やってられんわあ」怒号をあげた。天地がひっくり返るかと思った。「うぎゃああああああああ。わああああああああああ。がああああああああ」って続けた。

「なああああああん」

「じゃあああああああああ。ぐぎゃあああああああ。がぎゃあああああああ」彼女を中心に津波が起こった。

「こおおおおおおん」(こっちきてえや)って言った。ほんとうは、(こっち来てえや。そんな遠くで怒ってても私には何もわからんよ。何があったん?どうしたん?寒いやろ。とにかく、こっち来てえや)って言いたかったのだけれど、長い台詞を吠える元気が私にはなかった。彼女の吠え声の前で、私の吠え声は、羆と狐くらいの差があって、私の吠え声、聞こえているかな、って不安になった。というのも、彼女は、ほとんど休みなく、吠え哮り続けているからだ。

しばらくしたら、疲れて、彼女の猛りも収まるのだろうか。


 彼女は、ずっと吠えていて、私も、時折吠えていた。


 彼女の声が、徐々に徐々に掠れて来た。振り回す両腕も、発条仕掛けのおもちゃのように、少しずつ、緩慢になってきた。


「なんでじゃああああ」と女の子は言った。「もういやじゃあ」って。

 相変わらず降り続けていて、屋根の下にいる私まで、反射する雨に濡れそぼっていた。

「疲れた」って女の子が言った。私だって、疲れた。

「おおおおおおん」

「あのな。そっちいってもええのん?」女の子が訊いてきた。さっきから、そうしなよって言っている。私の吠え声は、十分には、伝わっていなかったのだな、って反省した。

「おおおおおおん」

「ええの?」

「うん」

 ばしゃばしゃばしゃ。地に足がつかなくなって、泳ぎ始める。すいすいとクロール泳ぎで進んでくる。達者なものだった。やっぱり。パンツなんて履いていなくて、全裸だった。

 丘のふもとまで来ると、逡巡したように、泳ぎ止まる。

「(水の)外、寒そうやな」

「うん」

「寒いの好きじゃない」服、来てくればよかったのに。

「そう」

「でも、大したことやない。どうせ、あたしは死ぬから」そう言って、彼女は陸に上がる。

「そう」

「さっき、病院でなあ。なんとかいう病気で、あんたこれから死ぬでって診断されたんや。それで腹たって暴れとった」

「うん」めっちゃ元気じゃないか。

「嘘や」

「うん」

「ほんとは、なあ。今度生贄になるんや。あたし」私のそばまで歩いて来た。濡れそぼった体から、ぽたぽたと水滴がこぼれた。屋根の下までくると、ふるぶると体を揺すった。水滴を飛び散らせる。「人柱ってゆうらしい」

「うん」よく、ある、話だった。

「人柱になる前には、禊っちゅうのがあってなあ。ちめたい水にじゃぶじゃぶ浸かるんじゃ。そいで体中ちめたくしてなあ、感覚を麻痺させるんじゃ。その予行演習を、あたしはしとった」もはや、寒さに慣れてしまったのか、身震いもしないで、女の子が、裸で、私の前に立っている。全身、ブラウン運動を起こすほど、ちくちくもぞもぞ鳥肌が立っていたけれど。このまま、再び水中に没したならば、その栗肌の律動によって、ゾウリムシのように、すいすい泳ぎ行ってしまいそうだった。

 私は、何か答えようと思って、でも、何も言いたいことがないことに気がついて、開けた口に

空気だけ詰め込んで、

閉じた。

「でもなあ。いくら水浴びてもなあ、全然感覚はなくならんでなあ。このまま、コンクリ詰めにされて、土中に埋められるんかと思ったら、腹が立って来てなあ。暴れとった。でもなあ、暴れても暴れてもなあ、なあんにも変わりそうにないんじゃ」女の子は、まだまだ腹が立っていたようだったけれど、もう、暴れるのはよすみたいだった。「なんで、あたしなんじゃ。なんで、あたしなんじゃあ」

「あの」って私は言う。私は、凍えていて、もう小声でしか喋れない。喉も相変わらず痺れていて、不明瞭と明瞭の境界というさらに不明瞭な発語を、意志の力だけでなんとか維持する。「あの、なあ」

 何日間も意識を失っていた病床の老人が、ふっと目覚め、何かつぶやき始めた時の血族たちのように、少女の目が一瞬丸くなって、なんかゆっとるぞこいつって顔になって、ぐって私に顔を寄せる。そんな凝凝しく見つめないでよ。見つめるくらいなら、耳を向けて。

「ひ、とつ。なあ。お」

「うん」彼女の頷きによって、線香の煙のよう吹き飛ぶ、私の台詞。まだ、喋ってる途中だったのに。気を取り直して、再度言う。

「お、願いがあるんや」

「お願い。あたしにできるかなあ」

「火。焚き火。つけて。寒い。死ぬで」

 それから、しばらくして、彼女はなんとかチャッカマンを見つけ出して、湿ったチャッカマンを何度めかに着火させて、その小さな炎だけでも、少しだけ暖かくて、安心して、新聞紙が燃えるまでしばらくかかって、横雨と彼女が飛び散らした水滴に濡れた木材が燃えるまでしばらくかかって、燃え出してしばらく、もくもく煙って、死ぬかと思って、でも、やがて、その水煙も風に流され、湿り気も蒸発しきって、


 パチパチ


 焚き火の爆ぜる音。


 と、


 内心の拍手喝采である。


 パチ


「ふう、生き返るう」焚き火の周りには、不揃いな石ころで、かまどが作られており、ごった煮の野菜じるががグツグツと煮立っている。鉄皿にとりわけた、それを、私は、すすっている。

彼女は、私の予備の服を身にまとい隣に座っている。にこにこしてよかったよかったって顔をしている。額や手のひらや、いたるところが煤で黒くなっていて、そこが却って魅力的に思える。

 雨の日は、ロビンソウ・クルーソーの気持ちになる。激しく降るときは、特にそうなる。でも、その気持ちに流されすぎると、今回のように、本当に疲弊して、死にそうになる。彼女がいて、よかったな、って私は思う。

「あったかいってええな。気持ちようなる」と彼女。焚き火の前で、手をかざして、串刺したよもぎまんじゅうを炙っている。もらい物だった。

「そうやなあ」

「すべてが、どうでもようなる」それは、暴れ疲れて、寒さに疲れただけなのかもしれないけれど。

「焦げとるで」

「あ、ほんとや」でも、とろんとした目で、言葉でしか反応しない。

「まあ、焦げとるのも、美味しいけどなあ」

「燃えろ。燃えろう」

「そりゃ、あかんやろう」

「だって、面白いんじゃ」

「面白いんか」私には、わからなくて、首をかしげる。饅頭の燃える、甘い匂いに、腹がすく。つられて野菜じるをごくごくと飲むけれど、もっと何か、肉と餡子の食べたい気分になった。あいにく、肉は切らしている。他人は、滅多に肉をくれないし、肉をくれても、保存する場所もないから、すぐに食べ尽くしてしまうのだ。私も、饅頭を焼こう。

「あのなあ」結局、燃え尽きるのは、惜しかったのだろう。彼女は、ぶんぶんと串を振り回して、火の粉を払う。表面が膨れ上がって、破けて、どろっと餡子の飛び出したよもぎ饅頭だった何かだ。「そいえば、禊中は、何も食べたあかんのやった」

「でも、予行演習やったんやろ」ぎゅっぎゅと竹串に饅頭突き刺す私。食欲がとめどなく溢れてきて、一個、二個、三個、四個めを刺そうかどうか迷う私。そうだ、野菜も食べよう。白餅、草餅、大福に、輪切り茄子、ちょっと不揃いなバーベキュー。和風っぽくていいな、と思う。

「予行演習もちゃんとできんかったら、本番もちゃんとできんやろ」

「そういうもんなん?」

「でもなあ、食いたい」

「食べよ。食べよ」

「うん」

 ぱく。ごく。

 飛び出した餡子に、口の端を汚す。しばらく、彼女は、放心したように、口の中をもぐもぐさせたあと、はむ。もぐ。

 やがて、私も、はむ、もぐもぐ。

「お茶が欲しいね」


 それから、しばらく、ぼうっとした。特別に、やることは、なかったから。急激な糖分摂取に頭の中がぼうっとしただけかもしれないけれど。


 雨の日の薄明は、ずっと夜明けか、夕暮れのようで、時間が止まったような感じがする。本当は、五時間も六時間も、そこで、そうしているだけなのに、まるで一秒も経過していないような気分になった。だから、それは、ただ、時が止まったのではなくて、私たちの意識がスロウモウになっただけなのだ。けど、スロウモウになった意識と、相変わらずな時の流れを見比べて、まるで時が止まったようなだ、と感じる私はどこの誰なんだろう。そんな確信犯的な誤りをする私は。そんなとりとめのないことを、とりとめもなく考えていた。


 ぼうっとしてた。


「あたしの名前は、山田オブプリンセスっちゅうんじゃ。お姫様の山田という意味じゃ」


「大兄ちゃんは、山田オブキング。王様の山田じゃ。小にいちゃんは、山田オブ右大臣。右大臣の山田じゃ」


「父ちゃんはな。山田オブゴッドなんじゃ。神の山田じゃ。でもな、母ちゃんはな。山田桐花なんじゃ。嫁にきたからな。山と田んぼと桐の花じゃ」


「こないだ父ちゃんが飼い始めたニシキヘビは、山田大蛇(ヤマダノオロチ)じゃ」


「変な名前」

「変じゃないわい。源頼朝や藤原定家だって、の、があるじゃろ。古式ゆかしいんじゃ」彼女は、訥々と自分のことを話し始めていた。ずっと黙り込んでいるというのは、性に合わないのだろう。あるいは、ずっと誰かに喋りたかったのかもしれない。

 私に、私に女の子が生まれるとしたら、もっと可愛らしく、やさぐれない名前にしよう、ってそうっと思った。

「ひめちゃん?いや、ひいちゃんかなあ」口の中で反芻する。オブちゃんもプリちゃんもプリンちゃんもないよなあ、彼女の呼び名である。

「お主は、紅灯じゃろ」

「そうだよ」よく知ってるなあ。

「有名じゃからな」まあ、それもそうなのだろう。名前まで知っているかは微妙だけれど、長々と川を引き連れ歩いている子供など、この街で、私を除いて一人もいないのだ。私に直に会ったことがない人でも、私のあとを遥か悠々と流れるハゴロモ川に進路を遮られた経験くらいあるだろうから。「あかりはな、神様なんじゃろ」

「違うよ」誰がそんなこと言ったのか。

「でも、みんな、ハゴロモ川に賽銭投げたり、饅頭流したりしとるやろ」

「あれは、まあ、カンパなのかな」変に信心深い老人もいるのだ。反対に、川にションベンをかける子供もいるらしい。昔、うーくんが目撃したそうだ。

「そっか」期待していたものが、しぼんでしまったみたいに、小声になる。「あのなあ、あかり。あたし、なあ。今度生き埋めになるんじゃ」

「知ってる。さっき、叫んでいたもの」

「父ちゃんの会社がでかなってな、新しい社員のために社宅がいるそうじゃ。その基礎工事中に、あたしを埋めてな、そうしたらな、丈夫でご利益のある社宅になるんやって」

「そっか」よくある話だった。私がまだ、小学生だった頃、同級生の何人かが、ふっとある日いなくなって、近所をぶらぶら散歩していると、立派な建物の前に、彼や彼女らの銅像が建てられているのを発見したことがある。新設した市民病院に、新興住宅地に、高等学校校舎に。

「本当はなあ、あたしには、贄子と贄男ってゆう生贄用の妹と弟がおってなあ。本当は、彼らのどっちかが埋まるはずやったんやけど、いややゆうてなあ。贄男のことは嫌いやけど、贄子のことは好きやからなあ。贄男が生贄になるんやったら放っといたんやけど、贄子の番やったからなあ。あたしなあ、ついうっかりなあ」魂が抜けるようなため息ひとつ。「でも、やっぱり、いややあ」

 なんて答えたらいいのか、わからなくて、ぼんやりと黙り込む。今日一日雨だとしたら、今日一日、わたしはここで過ごすことになる。大雨の日のハゴロモ川は気性が荒く、うっかり散歩に出かければ、町の人たちを飲み込んでしまうこともあるからだ。このまま、水位が上がり続けたら、彼女だって泳いで帰れなくなる。きっと、このまま、雨が止むまで、ずっと一緒に過ごすのかもしれない。その間中、言葉が見つからずに、ずっと黙り通しというのもいやだなあ、と思った。いやだなあ、と思っても、どこかからひょっこり、彼女を慰め、私も罪悪感にかられない言葉が現れることもなかったけれど。つまり、ずうっと、漣打つハゴロモ湖を眺めていた。ここまで水位が上がってしまうと、ヴェネツィアというより、ただの孤島と湖だ。

「綺麗やなあ」

「何が」

「ほんとに、ヴェネツィアみたいや」

「そう?」行ったことないから、わからないや。

「あの、錆びついた滑り台とか特に。風情がある」

「お姫ちゃん(おひいちゃん)は、風流人なんやな。私には、わからんわ」

「あたしは、初めて見る光景やからなあ。一入感動するんやろ。子供の頃から不思議やったもん。なんで、大森公園は、夕暮れになると、もっこり水で満たされるんやろうって」

 私は、外側から見た、この公園を想像して見る。考えてみれば、私はいつも中心にいるから、外からハゴロモ川だとか、ハゴロモ湖だとか、ヴェネツィア公園だとかの外観を知らない。まるで窪地でもない公園に、まるまると盛り上がるハゴロモ湖。ゼラチンのように固いのかと思えば、サラサラと漣打っている。それは不思議な光景だろうなあ、と思った。私にとっては内側からみるその展望よりも、その外観の方が、不可解で綺麗で胸打つのだろうかと思った。

「やから、いっかい中に入ってみとかったんや。これで、夢が一つ叶ったわ」

「なんか、寂しいなあ」

「思い残すことは、少ないほうがええからなあ。きっと」

 他に、何がしたいのだろうか、と思った。お姫ちゃんは、喋れば喋るほど、疲れ果てるようで、もうこれ以上は何もしたくないって風に、蹲っている。

 私のお家には、何もない。家電は雨に濡れればいちころなので、懐中電灯とか、寝袋だとか、まるで登山家か修験道者みたいな、必需品と空白で埋め尽くされた空間でしかない。

「あのなあ、お姫ちゃん。逃げちゃえば」

「あたしがおらんなったら、贄子が」

「贄子と一緒に」


 雨は一日中降り続けていて、今頃、うーくんびしょ濡れで、あっぷあっぷしとるやろうなあと想像したり、肉の方の風天小鞠は、全身すっぽり、レインコート長靴に身を包んで、散歩を楽しんでいたり、逆に皮の方の風天小鞠は、どこにも行けずに膨れて天井にぷかぷか浮いているのかな、と想像したり、小谷のことを想像したりして過ごした。


 あっという間に時は過ぎた。


 彼女の好きな歌や好きなタレントや嫌いな先生や気になる同級生や習字教室の綺麗な先輩のことや贄子の好きなお菓子や怒った時の口癖や最多縄跳び記録や背丈や体重を知った。

 なんだか、すごく表面的な会話ばかりしているなって、悲しくなったけれども、それでも、ふっと気になったことを尋ねたり、答えたりした。


 雨は止んだ。でも、夜になっていたから、二人して眠った。小さな体の子供だから、一つの寝袋に一緒に入って眠れた。袋詰めにされた人参の気持ちになった。眠っている間に、成長ホルモンが分泌されて大人になっていくらしかったけれど、今夜だけは、その成長をやめて、ちっこいままでいなくちゃ、と思った。暖かかった。


「朝になったら、一緒に遊ぼう」

「急にどうしたん」

「寂しくなったんや」

「寂しくなったんか」

「こうして一緒におるんやけど、それだけじゃ、嫌になったんや」

「そういうもんなんか」

「もう、何年も、誰とも遊んでいない気がしてなあ」

「もう何年も」

「うーくんは地べた貼り付いとるだけやしな。時折、会いに来てくれる人たちも、私と話したら、満足してどっか行っちゃうんや」それは、それで、いいんだけれど。

「あたしも、そうなんかもしれんなあ。楽になったもん」

「楽になったんか。そりゃ嬉しいけど、なんだか、寂しい感じもするな」

「どんな感じに寂しいん?」

「泣きたくはないんやな。逆に、涙が、すうっと奥に引っ込んでしまう感じやな」

「引き潮やな」

「引き潮」

「あのなあ、明日。家に工務店の人がくるんや」

「うん」

「あたしの身長とか、体重とか測って、埋める穴のサイズとか色々決めるんや。だから、明日は、朝一番に帰らなくちゃならん」

「そっか」

「でもなあ、お昼からは暇なんや。もう、あと、半年くらいやからなあ。自由にしててええって」

 朝になって「さようなら。またね」


 朝ごはんも食べずに、寝て起きてすぐなのに。


 ざぶざぶと渡っていく彼女に、「待ってやあ」と私。私も、湖面に両足を突っ込み、沈みかけの彼女のそばへ駆けていく。すると、さぁあ、とハゴロモ川は、私の周辺だけ、捌けていくのだった。相変わらず、地面は、泥だらけで、田んぼのような踏み心地だけれども。

「すごいなあ。魔法みたいや」

「私が出かけるときだけは、どいてくれるんや」じゃなかったら、邪魔で邪魔で仕方がない。濡れそぼらなくちゃ外出できないなら、私は冬の間どこにも行けなくなる。「一緒に行こう」

 大森公園と書かれた石板の前。改めて、「さようなら」


 さて、これから、何をしようかな。空を見ながら考えるけれど、神様からのカンニングペーパーが揺蕩っているわけでもなく、雲が綺麗なだけ。


 昨日、雨が降ったばかりなので、特別に、水を欲する土地などあるわけもなく、じゃあ、できるだけ広い道を、川が一本流れ出しても邪魔にならないような広い道を、と私は選んで歩いていく。早朝だったから、人通りはまばらだった。

 でも、空には空気女が何人か飛んでいて、時折目が合うと、おはよう、おはようと、挨拶を交わしていった。

 空気女というのは、案外たくさんいるみたいだった。小谷のやつ、また見境もなく、人を殺しているんだな、って想像すると、寂しくなった。私たちが、特別だった時代は、とっくの昔に過ぎ去ったのかって。

 人間生皮を剥がれると、肉の方は、恥ずかしくなって人目を避けるみたいだった。あんなに浮かんでいるのに、肉の方とは一人もすれ違わなかった。

 みんな、じゃぶじゃぶとハゴロモ川を渡っていく。もう、慣れたもので、大抵の人は、長靴かブーツを着用している。

 私を起点に、この街のファッションが規定されている。そう考えると、少し嬉しくなるけど、表現を格好良くしただけだな。すぐに申し訳なくなる。

 新しくできた建物や、子供の頃に立ち入ったことのない建物の前を通ると、立ち止まりそうになる。この中は、一体どんなふうになっているんだろうって。知ってどうするんだとも思うけれど、気になるのだった。お姫ちゃんが下敷きになって建物ができても、好奇心がむくむくと湧きだすんだろうか。

 私の中で、お姫ちゃんは、生贄になることが決まったんだろうか。贄子ちゃんと逃げ出してしまえ、って言っておいて。私の台詞は本気ではなかったのか。二人が逃げ出したら、贄男くんが埋められるんだろうか。会ったことも無いけど、ちょっとかわいそうだな、って思う、三人で逃げ出したなら。でも、贄男とは仲が悪いってお姫ちゃん言っていたな。二手に逃げればいいのか。でも、逃げた後で、どこへ行けばいいんだろうか。県境は、魔物たちの巣窟だし、逃亡した生贄専門の探偵だっているそうだ(いまもほら、通り過ぎた立て看板に広告が描かれている)。

 逃げる、というのは、現実的ではないのかもしれない。でも、当の現実が、生き埋めになるしかない、というのなら、そんな現実否定したくなる。

 うがあ、おがあ、あがあ、と吠え立てていたお姫ちゃんを思い出す。吠えるほか、どうしようもなかったのだな。でも、吠え疲れた今、何をどう、変えて行けばいいっていうんだろうか。


 私は、立ち止まることができない。立ち止まってもいいのだけれど、せいぜい、一、二分間の間だけか、ヴェネツィア公園っていう特別な場所でだけだ。一度、歩き始めたら、行き場がなくたって、どこまでも歩き続けるしかない。


 田舎には、魔物がうじゃうじゃといる。というのも、県境は、ことごとく魔物の巣窟であり、県境というのは、海浜の都市部から遠く離れた山間部と、相場が決まっているからだ。野を超え山を越えた、山間の里山には、県境から滲み出た魔物がぽつぽつと出没するのだ。このあいだ、ラジオの地方特集で、そう紹介されていた。時折、人を食うらしい。人も魔物を食うらしい。

 ハゴロモ市もこの街も田舎といえば田舎だった。田んぼとビルと何もない空き地。雑木林。山。山。山。片田舎って言葉がちょうどぴったり当てはまる地方都市。寂れているわけじゃない。でも、もともと華やかに繁栄していたわけではない。栄華必衰とはいうけれど、栄えなければ、衰えようがないから。この街は、昔から少しも変わらない。

 だから、たまに、この街にも魔物が出る。

 久しぶりに、魔物を見た。

 正面には『僕は、大丈夫』背中側には『絶対安全』と書かれた袖口の引きちぎれたTシャツ。濃いインディゴブルーのダメージジーンズ。つま先からつむじまで、全身肉や衣服が食い込むほど、細長い鎖でぐるぐる巻きに巻かれている。人とぶつかりそうになるたびに、シャアアアッという獣じみた声を発しながら、いそいそと土下座している。

「なにしとるん?」

「ごめんなさい。ごめんなさい」

「いや、謝ることはないんやけどなあ」

 思わず、声をかけてしまった。

 髪は明るい茶色に脱色しており、右耳には、細いピアスを一つつけていた。長靴を履いていないところを見ると、この土地には疎いみたいだった。

 さっきから、ずっと土下座している。だから、私が彼の前で立ち止まると。ぶくぶくぶく。ハゴロモ川に水没した。

「ぶはぁあ。なんじゃなんじゃああ。シャアアアアッ」

「あ、ごめんな」

「いえいえ、悪いのは、僕なんです。ごめんなさい。ごめんなさい」ってまた土下座する。

 頭の低い魔物だった。

「いや、悪いのは、私やろ。ごめんな、水浸しにして。そんな土下座ばっかしとったら、ずぶ濡れになるで」

「いえ、いえ。そんな。そんな」って洗顔はしていないけれど、両手をハゴロモ川につけて、縮こまっている。

「魔物なん?」

「ええ、まあ。はい、そうです」

「珍しいなあ。魔物さんがこの街にくるなんて」

「ええ、まあ。はい、そうですね」

 魔物は、相変わらず、膝を折って、両手をついている。なにを答えていいのか分からず、目を白黒させている。思わず、そんな彼のことをつつきたくなる。嗜虐心ってやつなのかもしれないけれど、興味がむくむくと湧いてくるのだ。

 赤の他人の魔物なのに。

 立ったらええのになあ、と内心思っている。だけど、ここで、立ったらええのに、と私が言って、彼がそのまま立ってしまうと、なんだか私が命令を下したみたいで、きまりが悪いな、と思う。

 口の端がもごもごとむず痒そうに波打ってしまう。

「観光なん?」

「就職です」

「この街に?」

「はい、ペットショップ『獣姦』ってところで」

「ああ、駅前の」道わかるかな。ちょうど散歩道だし、案内してあげようかな。「あそこの、店員さんになるんだ」

「いえ、そこで生体展示してもらえないかな、と。販売していただけないかなあ、と」

「それ、就職やないよ」

「まあ、正確には。ええ」

「売られても金になるんは、ペットショップやで」

「ええ、まあ。でも。魔物ってこの辺りではまだ珍しいし、大切に飼われるかなって」希望的観測だった。「人間界でいえば、それって就職みたいなもんかなって」

「うーん。まあ、それは、分からんけど」それはそうと。私は、できるだけ自然を装って話題を変換する。「まあ、それはともかく、ペットショップ獣姦は、こっちやないで。反対方向や」

「あ、そうなんですか」

「うん。ちょうど、道すがら通るし、案内したろうか」

「あ、それはありがたいです。俺、魔物だから、この街どころか人間の街に疎くて、正直道、全然分からなくて」そういって、彼はすっと立ち上がる。

 私は、内心ガッツポーズをとる。よし、自然な流れで、彼を立たせることができたぞって。立ち上がると、彼は、私より頭一つ分くらい背が高かった。私が、成長途中の子供だってせいもあるかもしれないけれど、スタイルの良いしなやかな肉体の魔物だった。これなら、高く売れるのかもなって、相場なんて全然知らないけれど思った。そもそも、どんな人間が、魔物なんて買うんだろう。想像を試みるけれど、心の中にもくもくと湧いた白い靄が、やがて境界線の曖昧な人形を形成しただけだった。顔も人柄も性別も想像の範囲外。私の知らない世界の住人。

「こっちや」

「こっちですか」じゃらじゃらと、垂れた鎖を引きずりながら、彼はついてくる。じゃらじゃら。じゃぶじゃぶ。

「今更やけど、ごめんなあ」

「なにがですか」

「水浸しや」

「いえ、これは俺が勝手に濡れただけだから」

「そうゆったって、相手が私やなかったらなあ」

「いえ、案内までしてもらって。そんな気遣ってもらって」しどろもどろに頭を搔く。

「たんに暇なだけや。案内ゆったって、大した距離やないしなあ」私の気遣いに気を遣われると、更に気を遣わなくてはならないので、却って面倒だ。ざっくばらんに行こうと思った。とは言ったって、水浸しにしたのは、私なんだって事実は変わらない。「面白い格好しとるなあ」

「面白い?」

「うん、面白い。初めて見るわ」鎖は所々結び目があり、解けないようになっている。絡まり合い、肉体の可動域を極端に狭めている。歩きにくそうだなって思う。

「人前に出るから、少しは見た目に気をつけようと思って」

「これから、売られるんやしなあ」

「そうそう。よく知らないけど、他の動物だって、毛を整えたりするくらいだし」ラブホテル『Laocorn』の前を通過する。なぜか知らないけれど、この街は、ラブホテルが多い。普通のホテルよりも、きっとラブホテルの方が多い。滅多なことで外来の客などこないから、ホテルは寂れ、ラブホテルは栄える。非日常な感じがする場所が、一つや二つ必要なのだろう。ラブホテルの前を、男女で通ると、少しだけ、緊張する。直接の利用客ではない私にまで、ピリピリとした刺激をラブホテルは与えてくれる。「魔物って人間に嫌われやすいみたいだから、せめて見た目だけでもフレンドリーにって思って」

「努力家なんやなあ」どの辺がフレンドリーなのかは、分からなかったけれど。

「そこまでじゃ、ないけれど」照れたように笑ってる。


 私の目の前で、魔物くんが、切られた。突然に切られた。右肘から先を切り取られた。そういう生き物みたいに、びちゃんびちゃんと、右腕が跳ねた。


「痛いです」そりゃ、痛いだろうなあ。ぴゅぴゅぴゅうとシャワーのように血が溢れている。でも、よく見ると、上腕骨からはじわりじわりと白っぽい骨髄が溢れ、ぎっしり詰まった筋肉からは、肉が動くたびに、じょぼじょぼと血液や肉片が溢れ出し、肉中核に位置する動脈からは、壊れた水道管みたいに血が迸り出て、肉全体を覆う静脈からは、閉め忘れた蛇口のようにだらだらと血が零れ落ちていた。いろんな液体が欠損箇所から溢れ出し、彼は急速に干からびて行く。右半身が軽くなり、おとっとと左足へと体が傾く。


 日本刀を持った男が、私たちの目の前にいて、「警察を呼ばなくちゃ」血に滴る刀をさっと空振りする。ラブホテルの壁面に、半月型に血飛沫が付着する。「大丈夫ですよ。このくらい」ハゴロモ川が赤からピンクに。嘘太郎の首が撥ねられた時のことを思い出した。「警察やなくて、市役所やろ。害獣は駆除せにゃ」男が言った。そんな台詞聞いちゃいない。「警察の前に救急車や」血が、血が。


「だから、大丈夫ですよ」

 残った左手で、ぽんぽんと私の肩をたたく。たたく、と言っても叩くという感じではなく、優しく触れる感じのたたくだった。

「よくあることです。慣れています」

「魔物のくせに、何人間の街をうろついてんや」

「就職をしに」

「おのれ何寝ぼけたことゆうとんや」それもそうだ。

「僕は、魔物ですが、人間に危害を加えません。牙だって抜いてきました。僕は、大丈夫。絶対安全です。ただ、この街で暮らしたいだけです」そう言って、慣れた動作で土下座をした。

「ああん」凄んでいるけれど、日本刀の男は困惑したように、二の足を踏んでいる。「魔物が散々人間を食いもんにしとるんは知っとるんやからな」

「でも、僕はしません。僕がこの街で暮らすことを、どうか許してください」


 男は、しばらく、私たちの周りをうろうろと徘徊して、なにも言わずに立ち去った。


「大丈夫、また生えてくるから」って魔物くんは言った。

「でも、痛いやろ」

「痛みも、ふうはあ、すぐに治ります」深呼吸でごまかしている。

 彼は、フルマラソンの完走者のように、ぜぇはぁと呼吸が荒く、今にも倒れてしまいそうだった。

 それでも、立ち止まるわけにはいかなかった。少なくとも、私は。

 ハゴロモ川の流れは、どんな劇的な出来事にも動揺しないから。

 右手には住宅街、左手には雑木林。どちらにしたところで、浸水させちゃいけない場所だった。家族の団欒を、唐突なインスタント洪水でめちゃくちゃにしたくはなかった。家族の団欒というのは、意外と、この世界で、とても大切なもののように思われた。庭につながれた犬は、なす術もなく溺れ死んでしまうかもしれなかった。雑木林だって、ハゴロモ川の氾濫で土石流を起こしちゃ、植物が、かわいそうだ。

 筏か何かが、あればいいのにな、と思う。そうしたら、それをハゴロモ川の上に浮かべて、彼を寝かせることができるのだが。

 でも、そんな便利なもの、持ち歩いていないんだよね。


「よくあることなん?こうゆうこと」

「魔物ですから」と彼の返答。すでに、血は、止まりつつある。

「そうなんだ」魔物も大変だな。デリケートな話題かと思い、後半の台詞は、心の中だけにとどめておく。もっと優しい人なら、もっと優しい台詞しか思い浮かばなくて、思ったことを素直に口にするだけで、場が和やかになって、いろんな傷が癒されていくのだろうと想像する。私の中で、悲しさよりも、驚きや興味の方が、優っている感じがありありとした。少し自分が嫌になった。

「魔物も人間、食べるからさ。人間も魔物を襲ったり、食べたりするんだ」

「話にだけ、聞いたことあるよ」

「昔、俺も、食べたことあるけど」

「あるんだ」ちょっと、恐ろしくなった。

「俺、虚弱体質なのか、うまく消化できなくて吐いちゃった。悪いことしたなって思った」

 言い訳くさい、台詞だと思った。信じる気持ちに、ならなかった。信じたところでなににもならない。魔物なんだから。魔物は、人間を食べる生き物なんだから。

「どうして、人間の街にきたん」魔物のくせに。

「死にに」

「死ぬんだ」

「いや、死なないけど」

「なにゆうとん」

「でも、結局、死ぬのかも」

「ようわからんよ」

「どうせ、死ねって思われてるかも」

「誰に」

「みんなに」

「かわいそうや」確かに、魔物だけれど。

「最近、田舎の人間がどんどんどんどん減っているんだ。過疎化っていうのかもしれないけど」うん、と私は頷く。私がまだ、普通だった頃、テレビで流れていた廃村のニュースを思い出す。あの頃から、なにも変わっていないんだな、って思う。魔物が人間を食べ過ぎただけかもしれないけど。「このままじゃ、人間を主食にしている魔物もやっていけないらしいんだ。このままじゃ、魔物もやっていけない」

「あのさ、それってつまり」

「うん、まあ、そういうことかも」ため息混じりに、彼は呟く。「僕は要らない魔物らしい」

 なんて答えたらいいのかわからなくて、頷こうか首を振ろうか迷っているうちに、数十秒。歩こう。何も言わずに、歩き続ける。


「死なない方がいいよ。一緒に、生きて行こうよ。大丈夫だよ」これは能天気な台詞だろうか。

「うん、死ぬつもりはないから」魔物は、足元に転がっていた空き缶を蹴飛ばそうとして、やっぱりやめて、空き缶を拾って、どうしようと、手に余らせる。置いておきなよ。無理に、優しい人っぽいことを演じることもない。たかが、空き缶ひとつだ。からんころんからんころん。くしゃくしゃと踏み潰す。

「あ、うう、見ん方が良かった」思わず、本音が出た。真っ赤な切断面から、高速再生した植物の発芽のように、人差し指と薬指がにょきりと生え出していた。爪はまだ生えていなくて、シワひとつなくって、赤ちゃんみたいに、小さくて、肉の詰まった指先だった。傷口がきゅっと円錐形にしぼって、その先に、二本の指先が生えてるのだ。何か別の生き物みたいに、握ったり開いたりを繰り返していた。

「あまり見せない方がいいよね」私の右隣から左隣へとさっと移動する。

「いや、そういうわけじゃ、見慣れなくてな、びっくりしてしまってなあ」しどろもどろの言い訳だ。傷ついただろうか、傷ついていないだろうか。魔物の表情は読めない。

「一日もすれば、だいたい腕の一本や二本、生え揃うんです。人間は、違うらしいけど」

「すごいね」ちょっと感心してしまう。さっきは、ぎょっとしてしまったけれど、今となっては、好奇心の赴くまま、じっと観察してしまいたい気持ちだった。今まで見たことがないから。魔物の手が生え変わる瞬間なんて。あの赤ちゃんみたいな指先が、どう大人の男の二の腕へと変化していくんだろう。気になって仕方がない。「アピールポイントだ」

「何の?」

「ペットショップで飼い主を探す時とか」ポップに、腕を切り落とされても一日で生え変わります、と書くのは、ちょっと生々しいかな。

「こんなことで、就職できるの」

「就職、ではないやろうけど…。珍しい物好きの人っているから」

「そうなんだ」

 小さな街だけれど、田舎の街なので、建物と建物の間に、大きく間隔が空いている。何もない空き地だってある。山や雑木林も点在している。だから、馴染みのペットショップへゆくのにも、歩いてだと、だいぶかかる。

 途中、見知らぬ人間に襲われることもあったけれど、彼が謝り倒すと、そそくさと退散して行った。いきなり、匕首で彼の手首を切り取って、ムシャムシャとその場で咀嚼し始めた女子高生にはびっくりしたけど、お腹が空いていただけみたいだった。お昼に食べようと思っていたお饅頭を渡すと、手首を返してくれた。返されても困るけれど。生活に困っているってぼやいていた。薄汚れた格好で、やつれた顔をしていた。あげるよ、と彼は彼の手首を彼女に差し上げた。

幸いなことに、両足を切り取られることはなかった。だから、まだ、こうして歩いていられた。

「そういえば、名前なんてゆうん」

「名前ですか」

「そう。みんなからなんて呼ばれとるん」

「それ、とか、あれ、です」

「それって名前なん」

「人数合わせみたいなものだったから。おい、とか、お前、とか」

「そっか」名前がないと不便だ。ふっとしたときに、彼のことを思い出そうとしても、あの魔物とか、あの時の魔物とかじゃ、もやもやとしてしまう。きっと、飼い主から適当な名前をつけられるだろうから、そのうち、教えてもらおう。「私は、紅あかりってゆうんや。ヴェネツィア公園ってところで野宿してるから。暇なときでも会いに来てや」

 もう、ペットショップは目の前なのだ。考えてみたら、初めて立ち寄る。動物ってそんなに好きでも興味もなかったのだ。だから今だって、私は中へは入らない。「じゃあね、ここだよ」


 五百円をもらった。ペットショップのおばあさんから。私がもらっていいのだろうか。よくわからない。知らない。


 こんな年齢不詳な、おばあさんがこのペットショップを営んでいたんだ。知らなかった。私には、知らないことがたくさんある。特にこの街のこととか。この街の、内側のこととか。


 お金を手に入れるのは稀だ。私みたいな生活をしていたら、そりゃそうなるよ。


 かといって、使い道ってなかなかない。ハゴロモ川が付いて回るのだ。店には、入れない。屋台や出店の前を通るのも、遠慮してしまう。さて、誰にあげようか。この五百円。


 振り返ると、くちなしれんか、がいた。「何か、あった?」

「なあにもないわ。いつもと変わらん」そう私が答えたのは、条件反射みたいなもの。魔物の就職斡旋していたなんていうと、気分を悪くする人もいるだろうからって配慮したのだ。でも、今の、くちなしれんか、になら、別に気を使う必要はなかったかもしれない。

「ピンク、色、やで」くちなしれんかは、ハゴロモ川の突端を指差す。拡散し切らず、魔物の血、というか繊維の残余が無数にあって、くるりくるりと渦巻いている。その回転が、あまりに早いから、川はその先端だけ、うっすらとピンクがかって見える。「ちと、におう、で」においは、私にはわからない。

「久しぶりやなあ、くちなしれんか」

「久しぶり、なん?どっかで、あったん?てか、なあ。この、納豆、くさっとるで」くちなしれんかは、何もない空中を指差す。「変な、におい、するもん」くちなしれんかは、納豆殺人事件の殺人犯だった。

「そこに納豆はないで」

「そう、なん」くちなしれんかは、不定期納豆認知症で、三日に一度くらい、この世のすべてのものが納豆に見える。「やっぱ、そう、かあ。納豆にしては、すかすかしとる、と、思っとった、わ」すべてのものが納豆に見えるってどういうことなのか、私にはよくわからない。想像がつかない。でも、くちなしれんかのことを、みんなそう説明する。だから、くちなしれんかは、私のことも納豆だと感じていて、でも、納豆ではないかもしれない、人間かもしれない、と思って、とりあえず、話しかけているらしい。実は、正常なときのくちなしれんかは、私のことを知らない。少なくとも、話しかけらたことはない。

「空気やからなあ」

「教えてくれて、ありがと」

「私も、納豆やないからな」

「そや、納豆は、喋らんわな」くちなしれんかは、ずっと昔、人間を納豆と間違って殺害してしまったことがある。その際、取り調べで、『かき混ぜてしまえば、みんな同じ』と発言したため、猟奇殺人犯だと目されていたが、病気だとわかって、無罪になった。しばらくの間、施設病棟に留まっていたけれど、たとえ納豆に見えても、食べない、かき混ぜない、納豆じゃないかもしれない可能性を考える、の誓いを立て、社会復帰したそうだ。社会復帰というか、小学校に戻ってきた。何事もなかったみたいに。

 どこまでが、本当か知らないけど、そう聞いている。

 みーんな、幼かった頃、家族から聞いた、噂話だから。

「でも、おいしそう、やな」

「褒められても、なんも出ないからな」

「納豆も、でんのか」

 今の私なら、納豆くらい、買うことができる。近くの子供に頼んで、五百円をあげる代わりに、コンビニで納豆一パック買ってきてもらえばいいだけだから。でも、くちなしれんかにとって、納豆を差し出す私の腕も、納豆なのだ。いくら、これだよ、これが、納豆だよって、指差しても、その指の先も納豆なのだ。納豆一パックの体積より、私の体積ははるかに大きいから、確率的に、私が、食べられてしまう可能性の方が高い。昔、そういう事件が、起こったのだ。

「出せないなあ、ごめんなあ」

「お腹、空くわあ」

「もう少しの辛抱や。不定期納豆認知症は、そんな長引かんのやろ」

「知らん、わあ。時計も、納豆。太陽も、納豆、なんやで」

 抱きしめて、安心してもらおうにも、私も、納豆だ。手を繋いでも、それは納豆だ。糸を伸ばされる。私は、彼女のことをかわいそうだと思うけれど、自分の腕を引き延ばされたくはなかった。それは、怖かった。納豆だと思って、糸を伸ばされ、両腕の関節をことごとく抜かれた子が、昔いたから。

「みいんな、納豆なんやもんなあ」

「そうや」みんな納豆だらけの世界の中で、自分だけは、納豆ではないのだ。どうして、自分が納豆でないと言えるかといえば、自分の意思で動いたり動かなかったりするからなのだろうか。我、動くがゆえに、我、納豆ではないってことなのだろうか。「別に、納豆は、好きなん、やけどな」自分以外が全てが納豆って、少し、ちょっと、というか、かなり、寂しい感じがする。寂しいだろうな、と思う。ただの、想像だけれど。

 本当のところは、私にはわからない。

 でも、納豆認知症のくちなしれんかは、小声で、かすれた声で話す。実は、普段の彼女は知らない。話したことも、話しかけたこともない。声も聞こえない遠くの方から見かけたことが数度あるくらいだ。だから、普段の彼女と比べてどうこうだなんて、なんともいえないのだけれど、今の彼女は、いろんなことに疲れ果てているように見える。

「つめ、たい」しばらく立ち止まっていたから、彼女の足元まで、ハゴロモ川の川幅が広がったのだ。「なんや、これ。つめ、たいし、ピンク、色、やし、変な、匂いやし。おかしな、納豆や」そう言いながらも、彼女は慎重な動作で、ハゴロモ川を足先でかき混ぜる。万が一、人間だったり生き物だったりした場合、殺傷し得ないほどの緩慢な力のこもらない動作で、ハゴロモ川を蹴立てる。起こる波紋も、すぐに流れにかき消されるほどのものだ。

「私、そろそろ、行かんとなあ」

「そう、なん、か」

 天も地も、右も、左も、納豆な彼女には、誰かと一緒に歩くということが原理的にできない。ただ、本当に、ただ、さまよい歩いているだけだ。もしかしたら、本人の気分では、自室から一歩も出ていないのかもしれない。車通りの緩やかな田舎だからできることなんだろう。

 だから、私が、歩き出せば、彼女とははぐれてしまう。

 また、どこかで出くわすかもしれないけど、納豆一粒一粒の識別は、彼女には、まだできない。そもそも、彼女の見る納豆一つ一つに、個体差があるのかわからないけど。だから、私と今の状態の彼女が再び、今日の何処かで巡り合っても、新しい納豆が、ぬわっと現前するにすぎないんだろう。

 あたりを、見回す。彼女の母や父などが、遠くの方から見守っているわけでもない。母や父だって、彼女にとっては、納豆なのだ。居ても居なくても、変わりがない。だから、彼女にだけ、別れを告げる。

「さようなら」

「さよう、なら」

「また、どこかで出くわしたら、よろしくな」何をよろしくなのだ。

「うん。かき混ぜん、から、安心、してな」

「うん。それがいい。冷たあして、ごめんな」

「これ、あなたの、せい、なん」

「うん」

「そう、かあ」何か考えているみたい。「これ、なんなん?」

「川」

「本当や、ちょっと、流れとる、感じする」

「川やからなあ」

「納豆ではなく、川なんやなあ」彼女の顔が少し明るくなる。「川ん中やったら、人間、おらんから、歩き放題かもなあ」

「だめ」咄嗟に、私は、否定する。「それも、だめ。危ない。やめて」うーくんがかき混ぜられてしまう。

「それも、そう、やなあ。釣り人も、おるかも、しれんし」

「ごめんなあ」

「あなた、の、せいや、ないから」しょんぼりと、肩を落とす。

「さようなら」私は改めていう。長居をし過ぎた。脛の辺りまで、水位が上がって居た。返事を聞かずに歩き出す。

「なんで、わたしが、納豆の、気持ち考えて、納豆の、ために、配慮して、納豆の、ために、行動を、制限されな、あかん、のや」気持ちの沈んだ彼女が、呪詛のようにつぶやいた。

「だって、納豆やないもの」

「わたし、には、納豆に、見える」

「納豆やないもの」

「嘘や」

「嘘やない」

「そう、なん、やろうけどさ」遠く離れた彼女は、緩慢な動作で、ハゴロモ川から這い出して、緩慢な動作で、靴を脱いで、靴下を足の上から押し絞る。靴が靴だとわかるように、脇に挟んで離さない。彼女にとって、履いている靴だって納豆のはずで、手放してしまえば、無数の納豆の中に埋没して見失ってしまうのだろう。

「わたしは、なあ。納豆のこと、大好き、なんや、けどなあ。食べられん、納豆は、なあ。好きでも、嫌い、でも、なんでも、無うなる」

「そっか」私と彼女との間は、もうそれなりに距離が離れている。もう、しばらくは、会わないだろう。


くちなしれんかは、背中までの黒髪、丈の長いスカートも、ゆったりとしたブラウスも、ニーソックスも、革靴も、黒一色で、しばらく歩いて、振り返ると、二足歩行する蟻のように見えた。


 彼女のことは嫌いではないけれど、ちょっとだけ怖くて、二足歩行の蟻になった彼女に、ほっと一息ついた。


 私は、実は、そんなには寂しくないのかもしれない。

 この街には、様々な人がいて、彼らは様々な事情によって、こんな川を引きずる女の子にも、話しかけてくれる。うーくんに、風天小鞠に、お姫ちゃんに、魔物に、納豆女に…。でも、いろんな人と話をしても、寂しい感じはする。お互いに、分かり合えないんだねって、そういう気分になる。

だから、というわけではないけれど、納豆女と別れからは、人通の少ない方、人通の少ない方を、選んで歩いていた。取り壊しの決まったスーパーマーケット。家主が引っ越して行って草木が茫茫と生い茂る廃屋。桜の木や南天の木が、かつてそこに人が暮らしていたことを意識させる。この家に、もう一度人間が暮らすことはあるのだろうか。案外好きだ。誰も暮らさない民家って。

 もしかしたら、何処かの誰かがこっそり住み着いているんじゃないかな、って想像を巡らしたりする。窓ガラスの曇った、半ば自然と一体化した廃屋なのだ。妖怪の一人くらい住み着いていればいいのに。魔物が、いるのだから、妖怪くらいいればいいのに。楽しいだろうな、ハゴロモ川に、河童と水虎と川女が住み着いたら。もう、畑の水遣りはできなくなるな。少なくとも、きゅうり畑は。それは、困るな。数少ない、私の存在価値が、薄らいでしまう。どうやって、生計を立てようか。河童たちと相談せねば。空想の中に、河童が住み着いた。

 川を下ってくる人がいた。ぴちゃぴちゃと、長靴で川底を蹴りたてるように、歩いていた。途中から、走り出したようだ。蹴立てる音が大きくなったから、そうだとわかった。妖怪ではなかった。遊びに来たよ、って彼女は言った。狭いようで広い、田舎の街。でも、長い長い、ハゴロモ川。どこかで、見つけて、辿ってきたらしかった。

「なんだ、お姫ちゃんか」

「なんやようやっと見つけたのに」不満そうに、唇を尖らせる。

「妖怪かと思った」

「なんやそれ」私も、そう思う。妖怪とお姫ちゃんとどちらと出会いたかったんだろう。どちらと出会えば、どれだけ幸せで、どちらと出会えなかったら、どれだけ寂しい感じがするだろう。お姫ちゃんには、また、会いたいな、と思っていた。妖怪には、会って世間話してみたいなって思っていた。もしかしたら、どちらでもよかったんだろうか。

「河童がな、ハゴロモ川に住み着いたらええのに、って考えとったんや」

「なんやそれ」お姫ちゃんは繰り返す。口癖なのかもしれない。

「なんか、箔がつくやん。川として」

「ブランディング、ちゅうやつやな」

「なんやそれ」私も使ってみる。「難しい言葉しっとるなあ」

「父ちゃんがよく使っとるんじゃ」

「横文字好きそうやもんなあ」一度も会った事ないけれど。

「ハイカラなんじゃ」

 よくわからないけど、おかしくなったから、笑う。お姫ちゃんは不思議そうに私を見上げている。私はゆっくりと歩く。お姫ちゃんは、ちょうど、私の半分くらいの幼年期なのだ。子供になったつもりで、歩く。

「別に、大山椒魚とかでもええんか」と、思いついたようにお姫ちゃんがつぶやく。

「なにがや」

「河童やのうて、大山椒魚」天然記念物。文学的や。

「河童の方が強いなあ」

「日本川獺」

「河童」

「水子」

「は、怖いなあ」想像してみた、青白い女の子たちが、川面にゆらゆらと揺られていた。「仲良くなれたら、怖くなくなるんかな」

「カモノハシに、ビーバーに、ヤマタノオロチ」

「山田大蛇とかええなあ」関係ないことを思いつく。強そうな山田だ。

「カモノハシは、ほとんど河童やと思うんや」

「そうやな」

 よくわからない会話だった。雑談なんてみんなそんなものかもしれない。お姫ちゃんと話すのは楽しかった。

 普通の友達関係なら、ここらで、喫茶や軽食屋にでも立ち寄るのかもしれないけれど、私とお姫ちゃんには、それはできない。そもそも、お金もないし。台詞と台詞の間も、休むことなく歩き続ける。時折、ハゴロモ川が私たちに追いついて、ちゃぷちゃぷと踵を濡らす。昨日は、ヴェネツィア公園だったから、のんびりお話ができたのだ。でも、今は、昼日中だから、公園に、帰る気分じゃない。まだ、何かしたい。それが何かはわからないけれど。

「ねえ、お姫ちゃん」

「あのなあ、あたし、もうお姫ちゃんやないんや」

「なんやそれ。お姫ちゃんは、お姫ちゃんやろ」お姫ちゃんの背かっっこうで、お姫ちゃんの洋服着て、お姫ちゃんの顔貌で、お姫ちゃんの声で喋るこの小さな生き物は、お姫ちゃんじゃなかったのか。私は、驚いた。

「名前変わったんや」

「そんなことあるん?」

「あるんや」

「でも、お姫ちゃんではあるんやろ?」

「まあ、そうやけど、それは、もう古い名なんや。今はな」彼女は、小さく肩をすくめる。「贄子」

「贄子ってあの」会った事はない。

「妹の。名前をトレードしたんや。父ちゃんが」

「そう。変なの」

「山田オブプリンセスは、必要なんやって。将来、嫁入りする娘が贄子って名前やあかんから」

「そうかも知れんけど」オブプリンセスならいいのか、とも思う。「そんな事できるん?」

「戸籍ごと交換したからな。あたしは、今じゃ、贄子、六歳、山田家次女なんや」

「それは、悲しい話なん?」

「いや、事実の報告」

 着々と進行していっているようだった。お姫ちゃん、じゃなくて、贄子ちゃんの生贄。

「てことは、もう昔の贄子ちゃんが生贄になる心配はないんやな」

「そうやろうな」

「てことは、あとは、今の贄子ちゃんが逃げ果せるだけやな」贄男のことを、欄外に置けば。

「うん、まあなあ」しょんぼりと元お姫ちゃんはつぶやく。

 元お姫ちゃんが、どこか遠い国まで逃げ延びて、たまに、私宛に手紙でもくれたら嬉しいなあ、って無責任なことを、私は思う。その願望を言葉にしようと開けた口の中に、自制心やら要らぬ気遣いやらを詰め込んで黙り込む。

「なあ、お姫ちゃん」

「だから、あたしは、もう贄子なんやって」

「そっか。じゃあ。贄贄」

「贄贄…」ちょっと不服そうだ。そのうち慣れるだろう。

「私の、ハゴロモ川に住む?河童のふりして。誰にもバレないくらい、自然な河童になりすましてなあ」

「無理やろ」

「でも、生き延びる方法を考えなくちゃ。何事も練習次第。もしかしたらうまくいくかもしれんやんか」

「あたしは、カッパジャー」贄子は、ガニ股になって、猫背になって、白目をむいて、頭を左右にゆっさゆっさと揺らす。よくわからないけど、それっぽい気がした。

「いいよ。贄贄」

「いいんかあ?これで」うん。

「贄贄はなあ。私の中では、生け贄じゃないからなあ。逃げて。生き延びて。逃げて。どこかでまた会おうよ」


 お昼は、とっくに過ぎたみたいだった。お腹が減っていた。


 遥か上空で、豚が降っており、それを自衛隊が光線銃で蒸発させているなら、それはとても勿体無いことのように思えた。私に食わせろ。その豚。って思った。上空五千メートルから、100キロ近い豚が降ってきたら、ひとたまりもないだろうけど。


 贄贄に五百円玉を渡し、コンビニで惣菜パンを買ってきてもらう。歩きながら、二人で食べる。美味しかった。


 空をぼんやりと眺めて歩いた。空は今日も飛んでいた。たまには、休めばいいのに。


「そういえば、贄贄は、空ちゃんのこと、あまりよう知らんのと違う?」ふっと尋ねてみた。

「知っとるよ。あの人のことやろ」と頭上を指差す贄贄。


 空は、

 空ちゃんは、私と同級生である。しかも、生まれた日も、生まれた場所も同じときている。生まれた日が同じなのは、完全なる偶然で、生まれた場所が同じなのは、この街で出産といえば、ハゴロモ市民病院だから。だから、大した偶然じゃない。空ちゃんが生まれた時のこと、私は赤ん坊だったから、全く記憶にない。人づてに聞いた話。空ちゃんは、生まれたとき、一声も泣かなかった。空ちゃんの母親のあそこから、空ちゃんが溢れ出して、分娩室じゃ狭すぎて、病院中が、青一色に包まれた。その光景の美しさに、人々は泣いた。泣いたら、その涙から虹ができた。それまた美しくて、また泣いた。私は、そんなことつゆとも知らずに、母のおっぱいをしゃぶっていた。町中から、鳥という鳥が、とことこと歩いてやってきて、ハゴロモ市民病院までやってきた。鳥たちは、窓を突き破って、院内に侵入すると、病院内に充満していた空ちゃんの中を縦横無尽に飛び交った。男の子ですか、女の子ですか、という空ちゃんの父の問いかけに、助産婦と産婦人科医は目を白黒させた。助産婦、看護師二人、医者、夫、の五人で、広がり切った空ちゃんをなんとかくるくるまとめて、空ちゃんの母の胸元まで差し出した。空ちゃんに体重なんてないから、大した労力などかからなかったそうだ。空ちゃんの内部を飛び交っていた鳥たちは、カアガアと不平を漏らしながらも、大人しく母に抱かれた空ちゃんを取り巻いていた。空ちゃんは、ちゅうちゅうと母のおっぱいを吸った。乳を吸うにつれて、空ちゃんは紺碧から、乳白色へと変貌し、曇天になった。一挙に大雨になって、病院の二階部分まで浸水した。

 全然、記憶にないけれど、私が生まれた日、私が生まれたこともみんなの記憶から飛んでしまうほど、大変だったそうだ。


「何見てるの?」と贄贄。

「空」と私。「空ちゃん、相変わらず美人やなあ、って思って」

 確かに、普通の人間とは容貌が全く違う。だから、空ちゃんは一般的な美人とは言い難い。でも、空ちゃんは、空ちゃんで、人間だし、なおかつ、空ちゃんは美しいのだから、美人といって何も問題はないだろう。

 と言いつつ、美人な人を美人というのも、問題はないのと同様、美人じゃない人を美人というのも、問題がなかったりするけど。


 空ちゃんは、小学二年生まで学校に通っていたけれど、それ以降、学校というか社会の枠組みに収まらなくなっていった。巨大すぎたことが第一点。また、学校の窓という窓が割れるほど、風が吹きすさぶこともあったし、連日雨が降り続き学校を浸水させることだってあった。鳥たちは、相変わらず空ちゃんのことが大好きで、空ちゃんの中を飛び交っていたし、曇天になると、目の前が見えないほど見通しが悪くなった。物思いにふけると、ぷかぷかと浮かび上がるし、怒ると雷や稲妻が走った。いじめとかがあったわけじゃない。けど、だんだんだんだん、空ちゃんの方から周りの子供達や大人たちから距離を取り始めた。学校にも来なくなった。家にも帰らなくなった。気がつけば、あんな遠くの上の方に、一人たゆたっている。鳥には相変わらず愛されているから、寂しくはないのだろう。


「そういえば、贄贄は空ちゃんが生まれる前を知らんのやなあ」と私。

「うん」とお姫ちゃん。やっぱり、贄贄より、お姫ちゃんの方が可愛くていいな。

 私たちは、相変わらず、とぼとぼと歩いている。古い民家が立ち並ぶ。そのうち何軒かは、もう住む人もいなくて、カーテンの取り払われた窓ガラス越しに、擦り切れた畳が見える。花瓶だったり、座椅子だったり、取り残された家具が仄白く浮かんで見える。この辺りは、人通りも少ないから、ハゴロモ川を引き連れて歩くには、うってつけの場所だった。

「まあ、私も大して知らんのやけど。大変だったらしいよ。大抵いつも薄暗かったし、太陽も、空じゃなくて、じかに地面を走っていたから、毎日何十人かはうっかり焼け死んでいたらしいから。毎日が、大惨事。嘘太郎ってゆう植物人間が寝転んどる国道あるやろう。あれは、もともと、太陽の通り道で、朝になると端の方から、ごろごろごろごろガーターを走るボーリング玉みたいに、太陽が転がってたんだよ。一度、幼稚園でも小学校でも遠足で見にいって、マシュマロを焼いた。美味しかったけど、めちゃくちゃ暑くて、日焼けした皮膚がすごう痛とうなった」

「そうなんや」実感のこもらないお姫ちゃんの相槌。私と違って、思い出す記憶がお姫ちゃんにはないのだ。思い出の共有って難しいんだなって、私は思う。

「そうなんや。ある晴れた日の遠足でなあ、空ちゃんがうっかり太陽を丸呑みして、それ以来空ちゃんの体内を行ったり来たりや」痛い熱いと空ちゃんは泣き喚いて、この街は半分水没した。

 そんな思い出話をしながら、私たちは歩いた。

 今は、頭上には、空ちゃんの青と白の肉体が浮かんでいるけれど、空ちゃんがまだ小さかった頃は、見上げるとそこには背の高い大人たちの顔や建物の上階しかなった。自分たちより背の高いありとあらゆるものが犇めき合っていた。大人たちの顔や民家のベランダや桜の枝葉などが、銘々ぐにょんと間伸びして視界一面に広がっていた。

「ほら、あのハゴロモ商店街に面した県道あるやろ。あれは、月がごろごろ転がとった道なんや」ちょうどスーパーマーケットが一つ取り壊しになってできた空き地を挟んで県道が見える。指差して、伝える。

「月ってあんなにでっかっかったん」

「うん、四車線分」

「なんで車通り少ないのに、あんな幅広なんやろうって思っとった」ちょっと感心してくれる。お姫ちゃんにとっての素朴な謎だったんだろう。

「あそこも、遠足の定番コースでな。転がる月利用して、押し花作ったり、道に染料を流して、月を虹色に染めてみたりして遊んでた。そんな月も空ちゃんがうっかり呑み込んじゃったけど」

「月も呑み込んだんや」呆れたようにお姫ちゃんは呟く。

「まあ、子供やったし」

「食いしん坊なんやな」

「体が大きいからさ。お腹もすくんやろうな」だから、今でも、空ちゃんのお母さんとお父さんが日に牛十頭と豚十頭を、大砲に詰め込んで空ちゃんめがけて発射している。大食漢の空ちゃんがひもじくならないように。空ちゃんは、飛んでくる牛や豚を器用に口でキャッチしているそうだ。時折タイミングが合わず、取りこぼしてしまうこともあるけれど。

「消化しきれとらんけど」月も太陽も。

「石やから硬いんやろ」


 空ちゃんを、ぼんやり、二人で眺めながら、歩いていった。会話が途切れたり、ふっと喋りたいことが浮かんだりした。

 私たちは、年齢も境遇も違うから、共通の話題って案外なかった。片一方が、ふっと喋りたいことを、喋りたいだけまくし立てて、もう一方が、それに聞き耳を立てる、そんなことをお互い様にやりあった。私の方から、訊けないことがたくさんあって、お姫ちゃんの気まぐれに任せきりだった。

 いつになったらお姫ちゃんが生贄に捧げられるのか、とか。お姫ちゃんの今後の生活とか。他県へ逃げても生き延びる自信がないこととか。どうせ生贄に捧げられるなら、その前に、とんでもなくひどいことをやらかしてしまいたい、なんていう薄暗い希望だとか。思いついたときに、思いついただけ、お姫ちゃんは喋った。


 私の側は、何を喋ったのだろうか。

 覚えていない。

 いつも通り。

 いつも通り、私は、町を眺めていただけ。

 町を眺めて、まるで、観光ガイドみたいに、町についての注釈を述べるだけ。しかも、どこか情報の古い。

「ここがな。子供ん頃、私や小谷や嘘太郎が暮らしとった住宅地なんや」今は、空き地。


「なんというかなあ、いてもたってもいられん気持ちなんじゃ。今」ってお姫ちゃん。

「なんやそれ」と私。まるで理解できないから、相槌もぞんざいだ。

「頭が変になりそうな気持ちなんじゃ」

「その割に、平然としとるなあ」

「うん。我慢しとるからなあ」

「我慢せんかったらどうなるん」

「ねずみ花火みたいになあ、くるくる回って、ぱあと爆ける」

「なんかそれ、楽しそうやな」

「他人事や思うて」


 私たちの足元に、生首が転がっていた。豊かな長髪だが、額の部分が禿げ上がっている。落ち武者である。

「こらこら、君たちここは立ち入り禁止なんだよ。今、合戦をやっている最中なんだ」とまだ首の繋がっている侍が教えてくれた。

「あ、そうなん?知らんかった」

「そうだよ。合戦国内プロリーグ昇格試合の最中なんだ。危ないから、家へお帰り」侍のおじさんは、親切に帰り道を指差し示してくれる。

 民家と民家の隙間を駆け抜ける忍び装束。長槍片手に隊列を組む足軽部隊。捕らえられた女戦士と武将たちが裸になってくんずほぐれつしている。

「面白そうやな。ここおっちゃあかん?」

「だめだよ。十八歳以下入場お断りなんだ。Rー18ってやつなんだ」

「なんや、つまらん。大人ばっかりずるいわ」

 お姫ちゃんが、私の腕を掴む。

「ここおっちゃあかんみたいやし、帰ろうや」

「大人ばっかずるいよ。楽しそうなことして」私は生首を蹴飛ばした。

 そもそも、ここは、私が昔暮らしていた場所だった。今は寂れてしまって、空き地と空き家ばかりになってしまったけれど。もともといたのは私の方なのに。

「君たちも、大人になったらわかるさ」と侍は、知った風な口を叩く。何を知っているというのだ。「楽しいことばかりじゃない」


 駄々をこね続けていたら、お土産に生首をもらった。

「これ、あげるから、もうお帰りよ」と侍のおじさんが、私の頭を撫でながら優しくつぶやくのだ。侍らしい、大きな掌。

「うん、まあ、じゃあ」

 蹴飛ばしながら帰った。


 触ってみなければ、それがプラスティック製であることがわからないほど、精巧に生々しく作られた生首だった。


 お姫ちゃんと別れた。特別な理由はなくて、「そろそろ、家に帰った方が良い気がする」ってそれだけの理由で、お姫ちゃんはさよならを言った。

 本心を言えば、もっとお姫ちゃんと一緒に居たかった。特別な会話とか、目的とかなくても一緒に居たかった。

「一人はやはり寂しいなあ」と私はつぶやく。お姫ちゃんは遠い影。生首は、ハゴロモ川に浮かべた。プラスティックなので、ぷかぷかと浮かんだ。夕暮れだったから、お姫ちゃんの影は、伸びに伸びて、本人が去った後も、なかなか消えなかった。もう、どこからが胴体で、どこからが首で、どこからが頭なのかわからないほど、一本の長い長い棒か紐のようになっていた。バタン、と家の扉を閉めたのだろう。一瞬にして、影は消えた。振り返ると、私の影も、長々と伸びて、ハゴロモ川の端の方まで覆っていた。


「生首。生首は要らんかねー。できたて焼きたてホカホカの生首だよー」


「生首掬い楽しいよー。一回三百円。トイが破れるまで掬い放題だよー」


「生生首、一つ五百円だよ。生きがいいピチピッチだよ。美味しいよー」


 合戦場の近くだからだろう。生首出店が軒を連ねている。おじさんたちが、眠たそうな声で客引きをしている。ビニール詰された生首、鉄板で焼きあがったばかりの生首、蜜蝋の塗られた生首、串生首、水桶を流れる生首、薄くスライスされる生首、ここまで生首だらけだと、せっかくもらった生首も有り難みが失せてくる。やっぱり、もっと粘ればよかった。生首なんてどうでも良いから、私も遊びに混ぜて欲しかった。

 子供達が、至る所で、生首を投げ合ったり、生首を踏み砕いたりしている。生首には、十個に一個の割合で、金の脳漿が入っているらしかった。緑や黒の脳漿の生首は、要らないや、とハゴロモ川に投げ捨てられた。割れた生首が絡み合ってもつれ合った。生首を買えない貧乏な子供達が、時折ハゴロモ川に捨てられた生首をさっと掠め取って、なんだ、緑か、とまた捨てた。街灯がぽつぽつと灯って、却って、夕暮れを強調した。

「帰ろうかな」って独り言。冬は夜更けが早くて、どんどん風も冷たくなっていく。ヴェネツィア公園に帰って、秋の間に備蓄したどんぐりでも齧って眠ろう。密かに、牛乳を腐らせて、手に入れた乳酒を飲もう。私は、子供だからすぐに酔っ払ってしまえる。一口の乳酒でぐでんぐでんに酔っ払って、味覚を狂わせて、うまいうまいと思いながら、焼きどんぐりを齧ろう。


 信心深いおばあさんが、今日も、ヴェネツィア公園の入り口に、お饅頭とちくわの磯辺揚げとみかんとタッパ入りの手作りあんこを紙袋に入れて下げておいてくれた。実をいうと、実際にあったことはない。おばあさんっぽい字で、震える筆跡で、「あかり様へ」と書かれている。私の死因は糖尿病だろうか。何かの拍子にふっと亡くなってしまったなら、私の血に群がる、蟻、蟻、蟻。かき氷のシロップがわりに使われる、私の尿、血液、脳漿、リンパ液。『甘いよ、甘いよ。重度糖尿病患者のおしっこのかかったかき氷だよ』ってかき氷屋のおじさんが客引きをするのだ。屋台の上に、これ見よがしに、横たえられた私の裸体。力なく、垂れ下がる脹脛と両腕。お客が来る度に、屋台のおじさんは私のお腹周りを揉みしだくのだ。そして、臍下を全体重をかけて一押し。すると、じょぼぼぼぼと死体だから、温かみの失せたおしっこがとろとろとかき氷に降り注ぐのだ。レモンシロップみたいに綺麗な黄色。練乳が欲しい時は、私のおっぱいを揉みしだいて搾り取って、塩味が欲しい時は、瞼を開けて、眼球とさっとこすったり、鼻の穴をほじくり回す。でも、そんなお店にお客が来るわけなく、おじさんは、手持ち無沙汰に、煙草を吹かしている。


「死ぬのなら、夏、かき氷屋の屋台の前で」呟いて笑って、見ず知らずのおじさんに恋心を抱く。「今の私はどうかしとる」


 気がつけば、いつもの丘の前で、もういいやって、バタンと草地に倒れこむ。何をしたわけでもないのに、歩き疲れて、へとへとだった。秋草はしっとり濡れていて、体が凍えてくる。芋虫のように這い進んで、震える手でマッチを擦り、くしゅくしゅに丸めた紙袋に着火。不定形に燃える炎を、朝方組んでおいた細技の上へ投げ落とした。ほっぺたを地面にくっつけたまま、はじける枝を眺めて過ごす。頭がぼうっとしてきて、一酸化炭素中毒なんだろうな、と想像を巡らせる。空気が焚き火へ吸い込まれて、その見えない流れがこそばゆい。生きなくちゃって思って、むくむくと、芽吹く茸類のような動作で、起き上がった。オットセイのように、両手つき、あたり見回す。何もない。


「お腹空いたな」

 磯辺揚げを口にくわえて、葉巻のようにぷらぷらさせた。


 どんどんどん。

 遠くの方で夜襲の音。合戦ナイターが始まったのだ。鬨の声。観客の歓声。

 今年も、合戦のシーズンが、始まったのか。遠いようで近い合戦場。見渡す限り誰もいないのに、こだまする人の声。一人ぼっちなのに、一人ぼっちじゃない感じがするから、夜の合戦は好きなのだ。たくさんの人が、勝手に命を燃やしていく。

 とくとくとく。と、ハゴロモ川はヴェネツィア公園に流れ込む。その流れは、やがて私が座る丘へとぶつかって、行き場なく渦巻いてしまう。浮かんでは沈んで、沈んでは恨めしげに湖底から覗き上げて、しばらくして浮かび上がる生首たち。生首たちの中でも、かち割られず、手持ち無沙汰にただ投棄されたものたちは、口元や顎先から、真っ白なひげ根を生やしつつある。なんとかして、生き延びようとしているのだ。そんな彼らは、根付く地面を探しているのだろうけれど、湖中だからな、うまくいくかどうか。しまいには、ひげ根とひげ根が絡み合い、幾頭もの生首が組み合って、ボルボックスやクラミドモナスのようになっていく。お互いがお互いに、養分を吸収しようと画策して、やがて、弱いものから、青白く血の気引けていく。

 ハゴロモ川の尻尾の方は、まだ合戦場を流れているみたいで、流れ込むハゴロモ川がかすかにピンク色を帯びていく。何人かが討ち死にして、とくとくと流れ出した血がハゴロモ川に合流したのだ。人間の血が、薄められて、薄められて、桜色になる。その桜色に投下される、街灯のオレンジ色。

「きれいやなあ」

「そうかあ」

「きれいやないか。きらきらと」

「そうかもなあ」

 これら全て、独り言。

『やっちまえええ』遥か遠くの方から、観客の応援。応援なのか。

「そんな物騒なこと言わんとき」

『ぶち殺せえ』

「殺したら死ぬんやで。やめとこうや」

『うおおおおおおおおおお』

 ナイターの日は、話し相手に困らないから、好きだ。

 法螺貝の音。そして、観客はしんと静まりかえる。

『我こそは、』倍音なく朗々と響き渡る大音声。見栄を切っているんだろう、一拍間が空く。『山田オブキング、王の山田なり。いざ、尋常に、』

「お姫ちゃんのお兄ちゃんか」

『勝負いたせ』

 法螺貝がなりひいびて、観客達の感極まった喚声。『うぎゃらららららううおうおうおうおううううううんんっまっまっまっまるううううううううるるるるるるるるるろろろろろろのののののらんらんらんらんたたったったたたぶぶぶぶぶぶぶぶちちちちちちちくくここここころろろせっせせ』何百人という人が好き勝手に叫んでいるから、もう言葉には聞こえない。

 ナイターの日は、寂しくはないけれど、うるさいな、とは思う。

「夜泣きする子供かよぅ」ってちょっと愚痴る。喚声に打ち消されて、勝負の行方は杳と知れない。

 オットセイの姿勢から、寝袋を枕にして、ごろりと寝転がる。空ちゃんが紫色に変色している。顔色悪いよ、大丈夫。空ちゃんは、大きな体の割りに、体が弱く、夜の寒い時間帯になると、どんどん顔色が悪くなる。しまいには、全身ぶつぶつの発疹まみれになり、その発疹が、ちかちかと明滅してきれい。私は、寝転がりながら、磯辺揚げをぷらぷらさせ、べったんべったんと、鼻先と顎先を磯辺揚げで嬲りものにする。これが今夜の蛋白源かと思うと、おいそれと一口では食べきれなかった。しゃぶり尽くして、噛み尽くして、吞み込もうと決める。

 新しい、生首が、ぷかぷかと、ハゴロモ川に乗って流れ込んだりした。

 切りたてほやほやなんだろう。目をぎょろぎょろと輝かせていた。

「山田オブキングさん?」

「んーん」首がうなりで答えてくれる。

「そっか」オブキングは生き延びているのだろうか。どちらでも良かった。

『合体!我ら、手長足長兄弟の攻撃受けてみよ』どこかの誰かが叫んでいた。

『変幻自在剣!』別の誰かが叫んでいる。

『疾風風神拳!』別の誰かが叫んでいる。拳で何ができるっていうんだろう。

「また、来てしまいました」

「えっと」

「風天小鞠」寝転ぶ私の頭上から、女の子が一人、スカートをひらひらさせながら、はるか上空から、舞い降りた。地上一メートルくらい。私の頭上に。

「忘れてたわけじゃないよ。ただ、驚いちゃって」

「忘れててもいいですよ。忘れた頃に、思い出させに舞い戻ればいいだけですから。簡単なことです」彼女は着地もせずに、私から一メートルくらい上空を、ぷかぷかと浮かんでいる。だいぶ、空中浮遊に上達したようだ。日がな一日練習を積んだのかもしれない。この先、ずっと空気女として生きていくのだから、空気女としてよりよく生きる方法を模索しているのだろう。「今夜は、賑やかですね」

「ここ、合戦場のすぐ近くやから」

「もう、そんな季節でしたね。子供の頃、よく見に行ったなあ」

「私は、あんな野蛮なもんみちゃあかんって、テレビ中継も見せてもらえんかった」

『やあやあ我こそは!』叫び出す何処かの誰か。その誰かに感化されて、『うぎゃらぴっぴのくらくままろげええええええええろろろろおおおおおげげええええええええろろろろおおおおおおお』観客達が叫び出す。

 二人揃って「うるさい」「うるさい」声が重なってしまい、二人して思わず笑ってしまった。彼女の足をさっと掴もうとする私。上空へさっと逃げる風天小鞠。

「実際、野蛮ですよ。あえて野蛮なことをやっているから、ウケているんです」

「みんな、すごい喜んどるもんね」歓声はまだ、続いている。楽しそうだな、って思う。私も、混ぜて欲しいなって。「降りてこないの」

「降りて来ましたよ」

「お饅頭、食べる?」寝転んだままの姿勢で、お饅頭を探り当てる私。

「食べない」

「そっか」

「空気女は、空気以外を食べないのです」ダイエットってわけでもないみたいだった。そういう、自然の摂理なのだ。私は、遠慮なく、お饅頭に齧り付く。焚き火は、パチパチとはじけて、暖かくて、口の中は甘ったるくて、楽しげな叫び声があたりに満ち満ちていて、夜なのに、知り合いが遊びに来てくれて、これは、なかなか、幸せな状況だなって、ふっと思う。甘い。暖かい。嬉しい。楽しいなって気持ちが、むくむくと膨らんでくる。疲れ切っていなかったら、その場で踊り狂っていただろう。でも、今は、ただ、心地よく眠たくなるだけだ。

「どうしたん」眠りに落ちる前に、私は声を絞り出す。「こんな夜更けに、どうしたん」

 空気女という生き方に座る、という動作は必要ないのだろう。少しずつ、少しずつ、彼女の下半身はしぼんでいく。最終的には、腰から下は、空気が抜け皮だけになり、ぺしゃんこに潰れている。地面から、いきなり女性の上半身が生えているみたいな格好になる。可愛いくて綺麗な女の子が、一人、土筆のように生えているだけ。

「そんな夜更けじゃ、ないですよ。ただ、散歩に出かけたくなっただけ」

「女の子一人の散歩って危なくないん」

「空を飛んでいくから、平気ですよ。それに、肉のない私には、性的魅力などあるわけないですし」

「そういうものなん」

「そういうものでしょう」

 私たち二人とも、襲う側の人間ではないから、半信半疑だ。他人のことなんて、よくわからない。いや、風天小鞠は、家族を殺したことが、あったけれど。でも、襲うのと、殺すのとでは、だいたい同じだけれど、少しだけ違う気がする。

「合戦、今、面白いところなんかな」さっきから、ずっと、歓声が止む事がない。

「追い討ちタイムなのかも知れません」

「追い討ちタイムってなんなん」

「片一方が逃げて、もう一方た追いかけるんです」

「それ、楽しいん」

「たくさん首が飛ぶから、観客は興奮するんです」

「見た事ないから、わからんなあ」とどのつまり、そういう事だ。想像で補おうにも、情報が少なすぎるのだ。名乗り合って名刺交換したり、みんなが肩を組んで叫びあったり、時には、殴ったり蹴ったり喧嘩もして、追いかけっこしたりして、みんなんで交友を深める姿を思い浮かべる。で、時折、なんの脈絡もなく首が飛ぶのだ。ポーン、と。なんで、首が飛ぶんだろう。まるで、よく、わからなかった。「風天小鞠」

「なんですか」

「風天小鞠」呼んでみただけ。

「なんですか」

「風天小鞠も、眠くなったりするもんなん」

「そういう時もありますよ」

「空気女でも眠くなるん」

「人間ですもの」

「そっか。私、今、すごい眠いんや」

「お暇しましょうか」

「そうやなくて、眠くて、寝たいんやけど、風天小鞠とも一緒にいたいんや。おしゃべりしてたい」でも、眠いなあ。

「寂しいんですか」

「そうかもしれんな」体がどんどんどんどん動かなくなって、だけど、このまま眠り込んだら、夜のうちに凍死してしまうと、いそいそとダンボールを敷いて、拾ってきた毛布を広げる。寝袋に潜り込んだままの私が、ごろごろと丸太のように転がってゆく。毛布の上に停車できなくて、焚き火に少し焦げてしまう。これで、いつ眠りこけてもいい、安心して虚脱する。カタツムリか巻貝のように、片手だけ寝袋から突き出して、もらってきたお饅頭と餡子の入ったタッパーを引き寄せる。お饅頭に餡子を塗りたくって、泥団子みたいにして、手近な枝に串刺して、焚き火で炙る。表面の餡子が溶けるように焦げる、いい匂いがあたりに充満する。

「いい匂いですね」と風天小鞠。

「うん。この匂いが、私は好き」

「食べてもいいですか」

「あ、え」これは、私の。

「この匂い」

「いいよ。減るもんじゃないし」

「いただきます」って手を合わせる風天小鞠。彼女はいつだってそこそこ礼儀正しい。お饅頭周辺の空気を両手で掬うと、湧き水でも飲むみたいに、口元へと運んでゆく。吸ったり吐いたりしている。私たち肉体を持つ人間に例えると、摂食と排泄を間断なく繰り返していることになるのだろうか、ぼんやり私は考える。風天小鞠は、少し恥ずかしそうに、両手で顔を覆っている。

「おいしいん」

「うん」

「よかった」風天小鞠は笑う。

 また、貝のように左手を伸ばす。ダンボールで作った小物入れを探り当てる。くじ引きでも引くみたいに、中をごそがさと漁っていく。あった。

「これも吸う?」ずっと昔に、拾った葉巻を見つけだした。「湿気てるかも、しれんけど」

「私、まだ中学生だよ」

「でも、空気女やろ」

「まあね」って風天小鞠は不敵につぶやく。ナイフも小物入れから探し当てた。先端を切って、焚き火にさっと通す。じくじくとけぶりだすシガー。

「静かになったね」

「何がですか」葉巻を両手で口元にあてがう風天小鞠。

「合戦の音」

「きっと、勝負がついたんですよ」

「そっか」

「うん」

「あっけないものやね」少し焦げ付いて、表面が地割れした餡子饅頭を私は掴み取る。ぶんぶんと串を振り回して、熱をとりかぶりつく。それでもまだ熱くて、はひい、はひい、と舌先がオットセイ。饅頭のかけらを舌端に転がす。心配した風天小鞠が、夜風をさっと吸い込んで、私の口元に吐きかけてくれる。ありがたいけど、それはうんこだ。

「人にうんこをかけてしまいました」

「気にしないよ」

「ごめんなさい」

「気にしないよ」

「ごめんなさい」

「気にしないよ」

「ごめんなさい」

 それからしばらく、私は、お饅頭を少しずつかじって、風天小鞠は、葉巻の煙を、吸っては吐いてを繰り返した。太陽は、完全に沈んでしまって、あたりは暗闇。

「今夜は泊まってく?」

「いいんですか」

「いいよ、夜道は危ないからね」

 私は、頑張って起き上がって、湖畔に流れ着いた生首をいくつか拾い集めて、寝袋の足元に詰め込んだ。野宿に慣れていない風天小鞠が、夜、寒くないように。まだ、生暖かい生首は、湯たんぽの代わりになる。生首を拾い集めるついでに、ハゴロモ川の水で口を漱いだ。ハゴロモ川も、わかったもので、にゅるにゅると私の口内をのたうち回り、細菌から微細な食べかすまで、取り除いてくれる。「ハゴロモ川、ありがとう」って私。「おやすみなさい」って私。まず、寝袋に、私が潜り込んで、しばらく葉巻の残り香を楽しんだ後で、風天小鞠も、萎みながら寝袋に潜り込んできた。寝袋の出入り口、私が顔を出すその周辺には、風天小鞠の排泄物である、シガーの心地よい香りが揺蕩った。「ごめんなさい」「謝ることじゃないよ」空気女に、肉体のある人間の常識は当てはめられない。


 空気女じゃなくて、空気少女の方が可愛くいていいなあ、とふと思った。思っただけで、口にはしない。


 吸いさしの葉巻は、燃えさしの燠火へと投げ込まれた。もわもわと烟草のいい匂いと外装の燃える焦げ臭さが渾然と漂った。人体に悪影響のあるものまで燻り出されているんじゃないかとも思ったが、詳細は知らない。吹きさらしの丘の上。全ては風に流されて行く。


「おやすみなさい」言い忘れていた、というように、彼女はそう呟いた。私は、眠ったふりをしようかと思ったが、思わず寝返りを打ってしまった。


 私も、再び「おやすみなさい」


 夜は暗く、何時間にも亘って暗い。この間、全ての人間が眠っているのだろうか。この街の全ての人間が眠る瞬間ってあるんだろうか。そんな瞬間があったとしたら、ふっと明滅する信号機が、なんで、誰も彼も眠っとるのに、わたしゃ明滅し続けとんや、とか自我を持ち出したりしないのだろうか。その瞬間だけ。自動販売機なんかも、同調したりして。けれど、そんな瞬間にそんな彼らが行うこととは一体なんだ。

 なんてことを、私は夢の中で考えて、私は目覚めた。


 目覚めてすぐやることはキスである。ぺしゃんこになった風天小鞠をずるずるとベンチの上まで引きずっていった。破かないように慎重に道を選んだ。ベンチの上に皺のよらないように広げるとキスをした。キスをする前に思い切り空気を肺に溜め込んでおき、キスと同時に、ふううっと息を送り込む。目や鼻や耳の穴から空気が逃げ出そうとするから、鼻から上の部分はまとめて握っておいた。風天小鞠の喉仏のあたりが、ぷっくり浮かんで、もう一度空気を送り込むと、そのぷっくり浮かんだ部分がちょっと縦長になって首元まで広がった。もう一度。もう一度。もう一度。途中疲れたから、空ちゃんを仰いだ。空ちゃんは、湿疹も治り、仄白く輝いていた。空ちゃんが毎朝飲んでる美味しい牛乳が空ちゃんの透明な体内を揺蕩っていた。空ちゃんの食道は、大抵いつも、西から東へ伸びている。太陽は空ちゃんの肉体を焼き焦がし穴開けながら好き勝手に転がっている。月は太陽が開けた穴を太陽の後を追うように転がっている。何をしているのか忘れてしまった。俯くと風天小鞠がいた。自力で呼吸を始め、さっきよりも少し膨らんでいる。急いで、鼻から上を握っていた左手を放す。なんだか、ひどい暴力を振るっていたような感触が左手にあった。しわしわだった鼻から上が、少しずつはりつやを取り戻して行く。中学生にしては妙に大人っぽい風天小鞠の顔貌が回復して行く。

「おはよう」

「おはよう」風天小鞠は、おはよう分、小さくしぼむ。

「あのさ」

「なに」

「いい天気だね」空ちゃんの両親にお金がなく、空ちゃんが好きなだけ美味しい牛乳を飲めなかったのだ。そう考えると、ちょっと空ちゃんがかわいそうだった。

 でも、二日間もいい天気が続いたということは、嘘太郎に会えるということだった。その前に、ハゴロモ連山を散策してもいい。久しぶりに羽客神社で遊ぶのもいい。

「朝ご飯にする?」と私。

「ごめんなさい。もう食べてます」と呼吸を繰り返しながら風天小鞠。

「それもそうだね、食べよ」食べる前に、ハゴロモ川で口を漱いで、それから、屋根付きのテーブルの上においた木箱から鯵のヒラキを取り出した。ずっと前に、おばあちゃんからもらったものだ。再び、焚き火を熾して、それを炙る。美味しそうな匂いにつられて、浮かび上がった風天小鞠が、こちらまで流れてくる。「あのさ」

「なに」

「小鞠ちゃんは、なにをしてるの」

「なにってなにですか」

「空気女になった今、普段なにしとんのかなって思って」風天小鞠はちょっと固まった。聞いちゃいけないことだったのかなって一瞬思った。アジだけじゃ、お腹が減るから、片手を伸ばし、漬物壺から、胡瓜を摘まみ上げる。保存食が中心だから、塩辛いものばかりになってしまう。ご飯が欲しいけれど、あるのは堅焼きのパン。堅焼きパンを薄くスライスして、フランクフルトのウィンナーのように胡瓜を挟んで食べてみようか、と思案する。思いついたことは試したくなるから、事故が起きるまで進んでしまう。風天小鞠に、持っててとアジを渡し、胡瓜を咥えながら、堅焼きパンをナイフで肉厚に切り取った。挟んで食べた。「なんですか。それ」と風天小鞠。「ふふふ」と私。

 なんの話をしていたんだろう。

「なにも、していませんね。空に浮かんでみたり、ビルの屋上からビルの屋上へ散歩してみたり、肉の方の私と口論したり、中学校の校門まで行ってみたり、いろんなことに飽きたら家でテレビを見ていたり、駅前でただ行き交う人を眺めてみたり、そんなところです」

「いろいろしているんやね」

「退屈なんです。あとは、ハゴロモ空気人間協会ってのがあって、そこに挨拶にいったり、職業安定所で仕事を探したり」

「空気人間協会なんてあるんや。知らんかった」

「普通の人間が来ないように、高い、高いところにあるから」

「ふーん」見上げる私。あっちです、と風天小鞠は指差してくれる。指さされても、よくわからない。あの、小さい点みたいなのだろうか。

「でもね」と風天小鞠は言った。「みんなで集まったからといって、特別やることはないんです。ただ、おしゃべりをするだけ」

「私たちみたいやね」

「うん。まあ」

「それが嫌なん?」

「嫌じゃないけど」

「うん」

「つまらない」

「うん」

「でも、よくよく考えてみたら、空気女になる前も、なった後も、このつまらなさは、変わらないんです」やっていることは、同じですから。

 結局、漬物は、漬物で、堅焼きパンは、堅焼きパンで、軽く炙って食べることにした。どちらも美味しかった。混ぜると危険だった。

 食べ終わると、生首を寝袋から取り出して、その場その場に転がして、寝袋はベンチの上に干して、私もベンチの上に寝転がった。私の食べかす目当てに、毎朝、雀や鳩が飛んでくるので、それを横目で眺めやった。捕まえて焼いて食ったら美味しいんだろうか。もう二度と、ここには来なくなるのだろうか。

「仕事、行かなくちゃ」と風天小鞠。

「あ、働いんてるんや」

「うん、この間、職業安定所からもらってきたんです」

「すごいなあ、もう働いとるんや」感心半分、引け目半分。私は、ただ散歩しているだけなのだ。それで、おじいちゃんやおばあちゃんたちからの貰い物と拾い物で生きている。

「退屈だから」そう言って、ぷかぷかと浮かび始める。この間みたいに、私の力は必要ないみたいだ。ゆっくりとだけれど、意志を持った進路を進んでいる。「また、遊びにきていいですか」

「いいよ。大抵、夕方と夜と明け方は、ここにいるから」

「それじゃあ、また」

「またね」

 彼女は手を振った。その勢いで、すっと、飛んでいった。


 私は、しばらく、ベンチの上でまどろんだ。朝日が、ちりちりと肌に当たる感じがした。焚き火の炎も暖かかった。私の生活空間はさして広くなくて、ベンチの上からでも、手を伸ばせば、大抵のものが手に届いた。堅焼きパンに再び手を伸ばして、小さく齧った。目覚める理由が思いつかなくて、頭がどんどん重たくなった。取り落としたパンに、群がる鳩。雀。女豹。象。ジャガー。あ、夢が混じってる。


 私は、このまま大人になって、大人になっても、ここで、こんな生活を続けているのかな。

 別に、それは、それで、悪くはない。慣れた暮らしだ。快適な暮らしだから。

 でも、背は、これ以上伸びて欲しくない。百五十センチか、せいぜい百六十センチどまりがいい。もし仮に、私の成長期が終わりを迎えず、二メートルくらいになったりしたら嫌だ。二メートルの私が、ヴェネツィア公園で暮らしている未来が嫌だ。二メートルの私が、ハゴロモ川を引き連れている未来が嫌だ。


 再び目覚めると、空はすっかり明るくて、まだ、ヴェネツィア公園でまどろんでいる事実にうんざりして、起き上がって、着替えをして、脱いだ服をハゴロモ湖で洗って、ベンチに干して、トイレをすませて、食べ物類を、物入れに押し込めて、厳重に重石を乗せて猫や犬に食われないようにして、焚き火が消えているのを確認して、ハゴロモ湖を抜けて、ヴェネツィア公園を後にする。


 畑と田んぼに、水やりに行こうと思った。他にも、嘘太郎に会いに行こうと思った。久しぶりに。二日ぶりだっけ。よく、覚えていない。日常的に行なっている行為なので、普段から意識にのぼらないのだろう。できるだけ、さぼらないようにしている。できるだけ、天気のいい日には行くようにしている。それだけのことだった。私の意思はあまり関係ない。上空には、雲一つなくって、青々とした空ちゃんが一人浮かんでいた。時折、鴉が、空ちゃんと遊びに、舞い上がる。かあかあがあがあと空ちゃんに向かって鳴きわめくのだが、私には、彼女が空ちゃんになんて言っているのかわからない。そもそも、彼かもしれない。性別なんて意識ないのかもしれない。鴉には。雄の鴉に言い寄ろうと思って近づいたら、実は、自分も雄だったことに後から気がついて、気まずくなったりするのかもしれない。雌の鴉を襲おうとしたら、自分も雌鴉で、自己嫌悪に陥って、電信柱に頭を打ち付ける鴉だっているのかもしれない。いなさそうだな、と思う。見たことがない。


 ヴェネツィア公園の出入り口に、子供っぽい字で『あかりさまへ いろいろ よろしくおねがいいたします』と書かれた手紙と麩菓子が二本置かれていたから、一本もらった。色々ってなんなのか、よくわからなかったけれど、麩菓子は好きだった。黒糖味だった。もらった一本はポケットに詰め込んで、残り一本は、帰ってきた時に拾っておこうと、置き去りにした。もらった以上、私も何か、例えば、世界が平和になるための活動でも行わなくちゃならないのかな、って思ったけれど、責任感がまるでわかなかった。こんなものもらわなくちゃ良かったと、麩菓子を捨てたくなったけれど、その場に捨てて、踏みにじって、唾棄するのは、かわいそうな感じがした。でも、麩菓子一本で、世界平和の実現なんて、釣り合いが取れていない気がした。


 振り返ると、

 ハゴロモ川には、拾い残された生首が一つ浮かんでいた。一晩水に浸かって腐り果ててしまったのだろう。どす黒く変色し、ふやけて膨らんでいる。歩いても、歩いても、緩やかな流れに乗って生首が追ってくる。つけられているような気がして、気分が悪い。そんな恨めしい顔で見ないでほしい。そんなどろりと眼球がこぼれ落ちた顔で見ないでほしい。だから、わざと、電信柱と民家の塀の間をするりと通り抜けた。ハゴロモ川は川幅を狭くしながら、私の後を健気に追ってくる。生首はその隙間にすっぽりとはまり込む。ハゴロモ川は、はまり込んだ生首に、一瞬堰き止められ、淀んで、でも、すぐに、乗り越えて私の後についてくる。さようなら。生首にとっても良かったろう。もしかしたら、嘘太郎みたいに、この場に、根づいて、生き延びられるかもしれない。あそこまで腐り果てていたら、難しそうだけれど。一抹の可能性はあるのだ。私は私で、憑き物がとれた感じがした。住宅街を抜けた。山をただくり抜いて作っただけのバイパスだから、左右には何もない。そんな道を一人で歩いていく。


 住宅街。バイパス。少しだけの繁華街。空き地。チェーン飲食店。空き地。スーパーマーケット。空き地。ポツンと一軒家。空き地。ガソリンスタンド。空き地。バス停留所。空き地。ファミリーレストラン。空き地。空き地。本屋。ゲームショップ。空き地。パチンコ屋。空き地。スーパー銭湯。私は歩いていく。空き地や、意味なく広い駐車場に嵩増しされた、この街を歩いていく。この嵩増し具合が、私は嫌いじゃない。ふやけたカップヌードルみたいなもの。ふやけたカップヌードルは、かえって味がしみ込んでいて、美味しいのだ。

 少しだけの繁華街を抜けると、また、住宅地が広がっている。家。空き地。家。田んぼ。家。駐車場。家。空き地。家。公園。家。小川。家。家。家。散髪屋。田んぼ。空き地。和菓子屋。家。駐車場。畑。誰も管理していない田畑も多くあって、そういう場所にも、気が向くと水をまくことにしている。ハゴロモ川も適度に放水させて痩せさせないと、連日の雨天などで大変なのだ。私の暮らす丘が、どんどん侵食されてしまうから。

 ヴェネツィア公園から国道沿いの田園地帯まで、意外と距離がある。歩いて一時間半くらいだろうか。私の主だった勤務先なのだから、もっと近場で暮らせば良いのだが、子供の頃の私は、生家からなるべく離れたくなかったから、ヴェネツィア公園に住み着いてしまった。父母も戻ってくるかもしれなかったし、一人で遠くに出かけるとそれだけで迷子になってしまったように心細かったから。公園や空き地はいくらでもあるのだから、好きな場所へ移り住めばいいじゃないか、とも思う。でも、今となっては、ヴェネツィア公園を日々水没させ、草木も育たぬ荒廃した土地にしてしまった手前、今更他所へ移るのも気が引けている。他の、公園や空き地にも、私みたいな人が、住み着いていることもあるし。新しい、土地へ移ったら、その土地の木々や草花を水没させて腐らせてしまうのだ。それは少し、かわいそうな気がする。


 女の子が一人いた。私と同じくらいの背丈で、私と同じように、伸ばしきった髪を後ろで束ねて、多分、私と同じようにちょっとつまらなそうに唇を尖らして、あたりを見回していた。彼女は、電信柱の中程までよじ登って、目をすがめて、四方に首を巡らしていた。遠くから歩いてくる私と一瞬視線があって、すぐにそらして別の方角を眺めやった。初めてみる、女の子だった。

「何をしとるん」

「結婚式」

「そんなところで、式あげるん?」

「結婚式場探し」

「新婦さん?」

「まあ、そんなところだ」

「まだ、子供やろう」

「大丈夫、私エロいからな」

「エロいんや」

「だから、結婚してもいい」言い切るように彼女は言った。言い切られたら、仕方がない気がした。

「式場、見つかりそうなん?」

「うん、見つかった」

「早いなあ」

「私、目がいいから」

 私は、話している間も、歩き続けていて、もうすぐ彼女がよじ登っている電信柱の下を通り過ぎる。彼女とは、初めてあったばかりだし、そんなに長話をしている理由ってなかった。

「それじゃあ、また」

「それじゃあ、ね」

「結婚式、開いたら、私も呼んでよ」振り向きながら、私は言った。下半身は、一定の動作で歩速を緩めず、上半身だけで彼女と向かい合っていた。彼女がこれから降り立つ地面はハゴロモ川で水浸しだ。ちょっと悪いな、と思った。

「いいよ」

「いいんだ」

「こうして立ち話をしたのも縁だからな」

「立ち話っていうのかな」

「そんなの、なんだっていいんだよ」

「結婚式は、いつ開くの?」

「三日後」

「すぐやね。友達も呼んでいい」

「いいよ」彼女はするすると電信柱を降りていき、残り一メートルくらいのところで、じゃぽんとハゴロモ川に飛び込んだ。彼女の半身が飛沫で濡れた。でも、そんなことまるで御構い無しに、彼女は私とは反対方向へ歩き出す。ヴェネツィア公園のある方角だ。

「ばいばい」

「ばいばい」

 名前も住所も式場も聞いていないから、もう二度と、会うことはないかもな、と思いながら、私は振り向くのをやめて、前だけを見て歩き続ける。


 田んぼを歩くのは、やはり好きだった。畦道を進むのは、やはり好きだった。明らかに、川幅より細いこの道を転がり落ちないように私の後を追うハゴロモ川は、どこまでも健気で、可愛かった。後ろ向きに歩いてばかりいるから、私は時折よろめいて、その度ごとに、ハゴロモ川も私の後を追ってよろめいた。なんとかあぜ道にすがりつこうとするハゴロモ川を私は笑う。馬鹿にしている訳ではないのだ。はじめに転んだのは、私の方なのだから。ハゴロモ川は、畦から転がり落ちる度に、乾いた土に吸収されて、田畑を、稲や南瓜や茄子やきゃべつを潤していく。私も何度か、転がり落ちていて、もうすでに、全身、泥にまみれている。今日は、ハゴロモ川と遊びたい気分だった。特に理由はないだろう。もうすぐ、収穫時だ。真冬になれば、私がここに来る理由もほとんどなくなるんだろう、そう思って、少し寂しくなっただけかもしれない。

「あはは」って笑ってみる。

 転がった先に、生首があって、目があった。

 転がった私に、覆いかぶさるように、ハゴロモ川が流れ込んできて、濡れて冷たくなるのは嫌だから、私は急いで畦道へと這い上った。生首が、嫌いだったわけじゃない。別に、怖くはない。生首は、生首だから。

畑には、生首が点々と植えられてあった。特別な盛り土が施されているわけではなく、たまたま野菜が途中で枯れて、空いてしまった隙間だとか、いつもは道として使っている畝と畝との間だとか、特別耕された後もない、踏みかためたられた地面の上に、生首が寒そうに、転がっている。

 昨日の、合戦で大量収穫したようだ。私は、よく知らないが、合戦では、最後に、負けた方のサムライたちを、観客一同追い立てるのだ。

 落ち武者狩りタイムというのがあるらしい。そこでは、農家のおじいさんやおばあさんや子供や孫が、大活躍する。鎌を手に手に、侍たちの首を狩るのだ。農業で、普段、刃物に手馴れているから、他の観客より一日の長がある。彼らは、すっぱりすっぱり、一撃で、侍を打ち倒し、抵抗をなくしたところで、すっぽりすっぽり生首を抜いて行くのだ。実際に、見たことはないけれど、そんな情景を、昔、誰かから聞いた。鮮やかだそうだ。子供や孫より、やっぱり、おじいさんやおばあさんのほうが、老練の技術で、鮮やかだそうだ。おじいさんやおばあさんも参加できる、オールエイジな市民スポーツそれが合戦なのだ。

 収穫された、生首は、獲った人それぞれ、自由に使用する。金魚鉢に入れて飼育を試みる人もいるそうだし、キャッチアンドリリースと言って、元の持ち主に返却する良心派もいる。農家だと、大抵の場合、潰して肥料に混ぜるそうだが、眉目秀麗な生首、たとえそうじゃなくても、おばあさんたちの好みに適った生首は、こうして畑で育てられる。育てたところで何にも実らないけれど、観葉植物と同じ、観賞用なのだ。生首によっては、男らしい、いい匂いのするものもあるそうだが、私にはわからない。

 さっき目があった時だって、土の匂いの方が、激しく感じたくらいなのだ。

 生首たちは、もともと侍や武将のものだから、大抵の場合、すでに顎髭口髭頰髯などを伸ばしている。そうした髭たちは、さらにうねうねと伸びてゆき、地面にぶち当たると、鋭く尖ったヒゲの先端で、土中への侵入を試みる。うまく、根付くのは、三つに一つだそうだ。髭の硬さって、人それぞれだそうだから。

 せっかくだから、私は、生首の前を通るときは、一秒、二秒、三秒と、しばらく立ち止まることにした。やはり、私も、眉目秀麗な生首のことは好きだし、どうせなら、根付いて冬になってからもここにいて欲しいのだ。ハゴロモ川をいつもより流入させ、少しでも、地面が泥っぽく、掘削しやすくなれば良いのに、と思う。大差はないかもしれない。すでに、根付いた生首の前では、そんなことはせず、足早に通り過ぎる。根付いた根を水流が押し流しては、可哀想だからだ。

鴉たちがやってくると、生首たちは泣き喚く。だから、鴉除けにもなるのだ。

「やめてくれえ」「啄ばまないでくれえ」「助けてくれえ」「助けてくれえ」

 中には、声帯模写を試み、鴉を追い払おうとするものもいる。

「わん」「わんわん」「うー」「や、やめてくれえ」「助けてくれえ」

 鴉たちは、固く固く閉じられた生首たちの眼球を啄もうとするのだ。海鳥が貝殻をこじ開けるように、執拗に、時に時間差を交えつつ攻撃を続けている。雀達が、来ても同様だった。おばあさん達の特別のお気入り達は、サングラスを掛けており、涼しい顔をしていた。私が歩を進めるたびに、鴉達は、バサバサと飛び立ち、私から数メートル距離を取る。鴉から解放された生首達は、「かたじけない」「かたじけない」と私に感謝の意を述べるが、私は、ただ、歩いていただけなのだ。後ろめたくなる。私が、この畑を突き抜ける頃には、鴉達も舞い戻ってくるに違いない。「そばにいてくれ」とか「どこにもいかないでくれ」とか、おそらくきっと、生首達も、自身の容貌の美しさに自信があるんだろう。しきりに、そんな口説き言葉を私に投げかけてくる。ずっとここにいてもいいけれど、水没するよ、って内心呟く。水っぽく囁いてくる連中は、ことごとく、年若くて、きっと私とそんなに年齢の変わらない生首達だった。いわゆる小姓と呼ばれる連中だろう。武将達に可愛がられていたくらいだから、眉目秀麗で、農家のおばあさん達の心をくすぐるのも当然だ。小姓は、髭が伸びにくく、育てにくい生首なのだけれども、よくもまあ、こんなに根付いたものだな、とおばあさん達の執念に感心する。きっと、男性ホルモンを注射したり、口まわりやや頬を撫で回ったりと刺激を繰り返したのだろう。喋りかけてくる小姓達は、顔は童顔なのに、髭は土中に埋まるほどにぼうぼうだった。優遇されているのだ。

 まだ根付けず、栄養を土中より吸収できない生首達は、省エネ対策で、沈黙を続けているのだ。鴉に啄ばまれても、せいぜい「うーうー」と唸るくらいで、全精力を、髭の伸長に費やしている様子だった。

「や、やめてくれ。サングラスは取らないでくれえ」どこかの生首が泣き喚いた。鴉だもの。学習するのだ。

 鴉が、鴉を呼び寄せたのだろう。彼らは、意外と仲間思いだから。だから、初めはしんとしていた田畑も、まるで、春先の蛙の合唱のように、賑やかになる。鴉達も、興奮したのか、かあがあと鳴き喚いている。ちゃんと覆いをしてあげないと、生首達は、鴉の餌食になってしまうのだなあ、と学んだ。いつか、私が育てるときは、時代劇で尺八吹いている人がかぶっているような籠を、用意してあげよう。

 おばあさん達も不用意だな。でも、もしかしたら、自分たちの好みの色の義眼でもはめ込みたいのかもしれない。青い目の侍とか、緑の目の侍とか、琥珀色の目の侍とか。あるいは、片目だけえぐらせて、眼帯でもつけたいのかもしれない。独眼竜とかって言って。

 私が、公園に置き去りにした生首達は、大丈夫だろうか。彼らのこと、考えていなかったな。


 そうして、私は、阿鼻叫喚の生首地帯を通り抜けた。


 ここは静かである。風に揺られる稲穂の音しか聞こえない。生首のない、田んぼだって、時にはある。


 遠くの方で、後ろの方で、鴉の悲痛な叫び声喚き声。生首たちの高笑い。哄笑。何かの拍子に、鴉の足でも、生首が食いちぎったのだろう。復讐心というものがないのだろう。鴉たちが一斉に羽撃く音。逃げ去る音。侍たちの勝ち鬨。ばっさばっさと私の頭上を通過する一羽の鴉。ぽたぽたと、赤黒い血が滴り落ちてくる。その一羽だけ、群れを逸れて、遠くへ遠くへ飛んでいく。


 しばらく、歩く。さっきから、ずっと同じこと。私は、歩いているだけ。


「や、やめてくれえ」

「た、助けてくれえ」

「後、後生だあ」

「おっかつぁあん」

 三歩歩いて全てを忘れた鴉たちが、再び生首を襲来したのだ。


 そんなの知らない。

 知らないことにする。

 聞こえなかったことにする。

 例えば、うっかり毛虫を踏み潰した幼い記憶に心的外傷性ストレスを感じないのは、なぜなのか?なんて事を考えながら、田んぼを抜けて、畑を抜けて、再び田んぼを抜けて、国道へ。


 海岸線や山間の工事現場でよく転がっているU字のコンクリートブロック。それを六つ、ただ積み上げただけの階段。もう、それらがここでこのようになってから、何年経つんだろう。ところどころひび割れ、そのひび割れには、隙間なく稠密に泥が埋まり、うっすらと苔が生えている。ナメクジが這い進んだ跡だとか、ダンゴムシが齧りついた跡だとか。触ってみないとわからないような凸凹。最下段は、半分くらい、土中にめり込んでいる。トンネル状になったその隙間にも、雑草は生い茂っており、鬱蒼としている。きっとそこには、何か得体のしれない生物が身を潜めているはず。知らないけれど。

 その階段を踏み越えて、一段高くなった先が、国道である。


 三段めとアスファルトまで少しだけ距離があり、ぶち抜かれたガードレールに両手を伸ばし、体重を引っ張り上げるようにして、這い登る。もしかしたら、ここは、ただいらないブロック置き場で、階段じゃ、ないのかもしれない。


 階段を登る際、一瞬視線が上向いて、「空ちゃん綺麗やなあ」、あいかわらずの青空。


 国道のことは、好きじゃない。

そもそも、好きとか嫌いとかの対象ではない。でも、この道を歩くときは、少し浮き浮きする。

 嘘太郎に、会える。これから。


 嘘太郎。

 うーくん。

 嘘太郎。


 タンクトップと褌のみをみにまとった、肉付きのいい男たちに嘘太郎は囲まれていた。何しとるんだろう。タンクトップからはみ出した、隆々たる広背筋。タンクトップと褌を取り外したら、筋肉がどんどん膨張を始め、ビッグバンでも起こしそうなほど、ぱっつんぱっつんである。彼らのさりげない動作一つ一つに、大陸のような筋肉が隆起する。ふっと腕を組んだだけで、その背中は張り裂けそうなほど膨らむし、重心を右足から左足に変えただけで、ぼんぼんぼんと音立て、左尻、左腿、左脹脛、がひと回り、ふた回りも巨大化する。その風圧で、褌がはたはたとはためく。

 なんて声をかけたらいいんだろう。今は、取り込み中なのだろうか。また、一度立ち止まって、私の足元までハゴロモ川が浸水するまで佇立していて、一歩進んで、また立ち止まって、私の足元までハゴロモ川が浸水するまで佇立していて、また一歩。

 数えてみると、男たちは、四名いた。その筋肉量ゆえか、常人を遥かに凌ぐ存在感を感じさせ、彼らの輪郭が曖昧に霞んで見えた。指折り数えた後も、絶対、もう五、六十人いるだろうと、そう思った。それだけの肉量があったし、一騎当千という言葉が脳裏に浮かんだ。もしかしたら、何十人の男たちが、肩車を組んだり、くんずほぐれつしているところに、人型の着ぐるみをかぶせたのが、彼らの正体なのではあるまいか。あの、筋肉一つ一つの裏側に、大の男が一人潜んでいるのだ。くんずほぐれつ絡まり合って、昔見た江戸の滑稽画みたいに、一つの全体を織りなしているのだ。遠目だから、思わず、一個の人間として認識してしまうが、スーラの点描画と同じ方法論なのだ。一歩、一歩、近づいてみたら、なんのことはない、いやらしく絡み合う男女の集合だったりするのだ。


 一歩。


 一歩。


「うーくん?嘘太郎?うーくん?」声が小さかったのか、届かない。「嘘太郎」届いた。

「紅?来とったん」

「来とったんやないわ。えっと、あの、その、なんやこれ」

「何やって何や」

「なんか大騒ぎしとるけど」

「喚いとるのはお前やろう」

「そうかもしれんけど」確かに、肉肉しい男たちは、始終黙り通した。時折、はたはたと褌がはためくくらいで、私が黙れば辺りは静寂だ。あああ。ハゴロモ川がまた、私の足元で蟠っている。

「鴉がなあ」と嘘太郎。「鴉が襲来しとったんや。大変やったわあ。んで、助けてもらとった」男たちのグローブのように膨らんだ指の肉に見え隠れしていた。首折られた鴉たち。「ほんと困るわあ。今回は、万事休すかと思った。まつげ何本か抜かれたし」植物人間じゃなかったら、きっと、やれやれと肩をすくめているんだろう。嘘太郎は、大げさに、ため息をついた。「合戦の度毎に、畑に生首うめんとってほしいわ。俺んとこまで鴉がくるからかなわん」

「そりゃ、災難やったなあ」

「眼球は、商売道具やから、もっと他のとこつついて欲しいわ」

「そう言う問題なん?」

「優先順位の問題やわ」


「嘘太郎」

「ん?」

「会いに来た」

「うん」

「邪魔やったら、このまま引き返すけどなあ」

 私の後を流れるハゴロモ川の上をじゃぶじゃぶと渡っていくと、私の前を流れるハゴロモ川と私の後を追うハゴロモ川の流れとが正面からぶつかり合い、波と波とが打ち消しあい、一見ハゴロモ川の川面は静止するだろう。流れのない川というのは、見慣れなくて、なんだかむず痒さを感じる光景が出来上がる。

「別に、邪魔やないよ」

「そっか」


 うーくんは、ありがとうありがとう、と言って、褌たちに帰ってもらった。見せしめのように、何羽かの鴉が、ガードレールにぶら下げられている。しかも、柱と横板の隙間に、カラスの頭部を無理にねじ込むと言うぞんざいなぶら下げ方で。男たちは姿を消した、と言っても、路肩に止められいた、黒塗りの乗用車へ退散しただけだ。肝心の車はエンジンさえかけられておらず、今もそこにいる。私は、先ほどまでそこにいた彼らの肉厚分、うーくんから距離をとって立ち止まっている。

「誰なんあの人ら」友達では、ないのだろうけど。

「国家公務員」

「ふーん」

「気象庁の役人なんや」

 うーくんは、いつものように、じっと空を眺めている。そんな見つめては、空ちゃんが恥ずかしいだろうに。

「俺の身の回りのこととか、いろいろやってくれるんや」

「そっか」あまり深くは聞かないほうがいいかな、と自重する。下の世話とかあるだろうから。私の知らないことが、色々あるだろう。

「とても助かっとる」うーくんは、彼らのことが、割と好きなのだろう。嬉しいような、寂しいような。男の友情とか、仕事仲間とか、そういう感じ、なんだろうか。

「なんで、褌なん」

「制服なんや」

「国家公務員の」

「気象庁の」

「寒くないんかな」

「いつでも、どこでも、褌のはためき具合から、風向き風力がわかって便利なんやって」他人事みたいに、うーくんは言った。「嵐の中も日照りの中もあれでいくんや。心の底から尊敬してる」小声で、付け足すように、うーくんは言う。私も、同意する。声や台詞や動作には、表さなかったけれど。

「うーくん、喉乾いとるん」

「少しな」

「そうか、なら来て良かった」距離をとったまま、私たちは話している。徐々に徐々に、私の足元でハゴロモ川がまあるく広がり、やがてうーくんの根元まで達するはずだった。すぐにうーくんの元に駆け寄ってしまっては、この場には、長くとどまれない。うーくんが溺れてしまっては、元も子もないのだから。

「でもなあ、うーくんも、気象庁の所属やなかったん。あれ、着んでええん」あれとは褌。

「俺は、嘱託研究員やから、別にええんや」

「尊敬ってなんなんや」

「自分じゃ着る気になれんもんを着とるから、尊敬なんや」適当なことを言う。「あいつらのうち一人な。いつだったか、南極の天気調べるって、南極へ行ったことあるんやって。あの姿で。真似る気はなくても、尊敬するしかないやろう」

「そんな寒いところで、あんな恰好。そんなこと、人間にできるんかな」宇宙が無風であることを確かめに、いつか、宇宙へ行くというのだろうか。

「何人かは死んで、生き残ったのはあいつだけらしいわ」

「そっか」どこからが本当で、どこからが誇張伝聞なのかわからず、私は、言葉に躊躇する。嘘太郎は、嘘をつかないから、きっと全てが本当なんだろう。悲しい話を聞いた時、その悲しい話に現実味を持てなくて、大声で笑いそうになる私がいつもいる。子供の時、参加したおばあちゃんの葬式とか。表情筋のコントロールが難しくて、早く、話題よ変われ、と思う。

「全身かちこちに凍った奴がおって、そいつは、逆さにして、南極点に頭から突き刺したそうや。遺言やったらしい」

「そっか」

「他国の旗がはためく中、この国の国旗色に染め抜いた褌が、長く長くはためいてたんやって。多分、今もな」

「ふーん」なんて言葉を返せばいいのか、わからなかった。「うーくんは、そんな危険なこと、せんといてな」

「大丈夫やって。俺に、そんな勇気ないから」

「勇気の問題かなあ」

 目の前の、二車線の国道には、まるで車通りがない。実は、ただ細長いだけのアスファルトの平原で、どこにも繋がっていないんじゃないだろうか。国道の見える限りの端の方をぼんやり眺めながら、そんなことを考える。じゃあ、なんのために、そんなものが、ここにあるんだろう。

「あのなあ、うーくん」

「なんや」

「別に、大したことやないんやけど、最近、友達っぽいもんがいくつかできたんや」

「友達っぽいんか」

「多分なあ。よく、会うし」誰のことかは教えない。「一緒におると、あまり寂しくないしなあ。楽しい感じがすることもあるし。まあ、それだけなんやけど。なんで、こんなこと言いとうなったんやろ」

「俺は知らん」

「そうか知らんか」うーくんにも、褌姿の同僚がいて、私にも空気女の風天小鞠や生贄予定のひいちゃんがいる。なんとなく、その人間相関図が寂しい感じがする。話し相手がうーくんしかいなかった時も、それはそれで寂しかったのだが、風天小鞠やひいちゃんや褌姿の気象庁職員がいる方が、却って寂しい感じがする。気のせいかもしれない。


「なあ、うーくん」

「うん」

「麩菓子食べるか」

「うん」

 二つに割った麩菓子を二つとも、うーくんにあげる。一緒に食べようかと思ったのだが、全部うーくんにあげたくなったのだ。気持ちが、ころころと変わってしまう。いつもの私だ。

「ほい。ほい」

「そんな詰め込むなや。手ぐらい動かせるわ」

「植物人間のくせに器用やなあ」緩慢な動作だけれども、持ち上がるうーくんの細い腕。麩菓子より細い。その腕が麩菓子をつかもうとするけれど、うーくんの視点は、ずっと空ちゃん一色なので、うまく距離感がつかめず、すかしている。手伝うと嫌がるかもしれないから、見なかったことにして、私も上の空ちゃん。「空ちゃん雲一つないなあ」


 私は、うーくんが傷つきそうなことを言うのが好きである。結果、うーくんが傷つかないでいると、嬉しくなる。


「空に浮かぶ雲には、二種類あるんや」とうーくん。

「そうなん」と私。やはり、空ちゃんを見上げているのだが、時折ちらりと路上へも視線を落としている。うーくんの浸水具合を確かめているのだ。まだ、後頭部が浸かったくらい。

「一つは、牛乳で、一つは煙草なんや」

「空ちゃん、喫煙するんか」

「最近なあ。ほら、曇ってんのに、雨降らん時ってあるやろ。あれ、煙草の煙なんや」

「不良や」

「そう言うのは、ようわからんが、俺は」

「不良やろ。学校行っとらんゆうても、私ら中学一年生やろ。年齢の上では」未成年である事は、確かだった。

「そんなんどうでもいいやろ」

「まあなあ」シケモクの味なら、私だって、知っているから。

「で、その喫煙がな、最近親にバレたんやって」

「最近っていつや」

「昨日」

「すぐやなあ」

 うーくんは、脇道に逸れたなって顔をした。うーくんの後頭部から生える根っこによって地割れしたアスファルトへハゴロモ川が流れ込んでゆく。小さな渦巻きができる。こそばゆそうだ。

「髪洗ったろうか」

「根っこ傷つけんといてな」

 うんわかった。返事をするのを忘れて、しゃがみこみ、川面でゆれる黒髪を手で掬う。

「誰かに、切ってもらっとるん」

「ここまでしか、伸びんのや」

「嘘やろ」

「たまに、三村さんになあ。ほら、さっき俺を囲んどった」しゃこしゃことモグラが穴掘る感覚で、流れる髪を両手の指で梳いてゆく。

「あの気象庁の」

「うん、腹筋が八つに割れとった人や」

「そこまで見とらん」

「見ものやで」

「ふーん」地肌の方を、指腹で擦る。

「でな、やから、さっきの話の続きやけど」

「何やったっけ」

「空の喫煙」

「ああ、うん」耳を餃子みたいに抑えて、耳の裏をごしごしと擦る。

「空の喫煙、親にバレてなあ。煙草は、当然取り上げられて、しかも、罰として飯抜きなんや」「そうなん」

「やから、今日はこんな晴れとんや」

「そうかあ」洗っても、洗っても、大して汚れが出てこない。さては、三村さんに洗ってもらっているのだろう。飽きたから、私は、うーくんの髪の毛から手を離す。「かわいそうやなあ」空ちゃん。

「反対側は洗ってくれんのか」

「うん、飽きた」

「そっか」

私は、うーくんから、また少し距離をとって、ハゴロモ川の流入を少し抑える。でも、大した効果はない。もうすでに、うーくんは、耳の穴まで水没している。私の声聞こえているだろうか。


 洗髪の時、気遣う必要、なかったなあ、と今更のように思う。


「うーくん」

「うん」

「私なあ、うーくんのこと好きなんやあ」

「そうなん」

「そこそこなあ、好きや。そこそこやけど」

「そうか」

「うーくんは、どうなんですか」

「どうなんでしょうか」

「どうなんやろうなあ」

「どうなんかなあ」

「はよ、答えろや」

「そこそこ好きやで」

「そうかあ」


「思いついたこと言ってええか」と私。

「ええよ」とうーくん。

「私ら、織姫と彦星さんみたいやなあ」川にはばまれているところが。ただその一点のみが。

「そんなロマンチックなものやないやろ」

「でもなあ、ほら、もうそろそろ私はいかんといけん」ハゴロモ川の水位は、うーくんのこめかみ辺りまで達している。

「そうか」

「さようならや」

「さようならか」

「また、気が向いたら来るかもしれんし、来んかもしれん」

「そうか」

「そうや」

「それじゃ」

「うん、それじゃ」

「そういうことで」

「そういうわけで」

「うむうむ」

「だから」

「またな」

「ほいじゃあ」

「さよなら」

「またね」

「ばいばい」

「うん」

「ららばい」

「それは違うよ」もう声届かんか。


 左手沿いのガードレールをこんこんこんとやる。


 しばらく、国道を歩く。嘘太郎の言葉が本当なら、しばらく空ちゃんは雨を降らさないってことだろう。ハゴロモ連山、登らなくちゃな、と思う。山が乾いてしまう。飲み水を求めて、猪鹿熊猿が下山して、車に轢かれたり、人に殺されたりするのは、あまり想像したくない。でも、私の場合、普通の登山道を登れないから、ちょっと骨が折れる。ハゴロモ連山は、そんな登山客でごった返す山ではないけれど、狭い登山道いっぱいに、ハゴロモ川で満たしても、いけないのだ。危ないから。趣味の登山中に、ハゴロモ川に足元をすくわれて老人が怪我とかいやだから。大変だな。「大丈夫だよ」独り言。これまでだってやって来たことなのだ。


 さらに、国道をしばらく進んで、歩道と車道を隔てるガードレールに切れ目ができる。その切れ目をすっと通り抜け、車道を横断。そのまま直進。国道から枝分かれした細い細い街路を行く。羽客山へとつながる道。左右には、まばらに、民家が立ち並んでいる。こんな山の梺の急勾配にまで家が建ち並んでいるのだ。開拓者って言葉が浮かぶ。別に、そういう恰好いいものじゃなくて、昔から、この地に住んでいた人々が、代替わりをしても、ずっと住み着いているだけだ。でも、はじめにこの地に住み着いた人たちは、何を思ってこの地を選んだんだろう。ハゴロモ連山で狩猟でもしていたのかもしれない。でも、いまは、普通に工場とかで働いている。家と家との隙間には、時折、こじんまりとした田んぼがある。もののついでに、と、ハゴロモ川を田んぼへ突き落とす。右手に田んぼが見える時は、道の右側ギリギリを歩き、左手に田んぼが見える時は、道の左手ギリギリを歩く。平衡感覚の保てないハゴロモ川は、ちょろちょろぼちょんぼちょんと田んぼへと流れ落ちる。アスファルトが途切れて、踏み固められた土の道。じわじわと染み込んでいき、見えない速度でハゴロモ川はしぼんで行く。


 田舎の国道だから、行き交う車はいつも飛ばしている。遠く遠く国道の方で、びちゃああん。びちゃあああん。とハゴロモ川を撥ね飛ばす音が聞こえる。


 羽客神社へとつながる石段の前を通り過ぎる。一番大きな登山口は、神社の裏手から始まっており、そこは使わないのだ。神社と羽客山へ至るための道からはみ出すように歩いて行く。藪の中。雑草をかき分けて歩く。山の傾斜面に沿うようにして歩いて行く。なぜか、打ち捨てられている軽トラックの脇を通り抜ける。サイコロ状のブラウン管テレビだとか、冷蔵庫の扉だけだとか、まるで墓標のように地面に突き立てられた傘傘傘だとか、そういう場所を歩く。さっき通り過ぎたトラックの荷台にも、黒いビニール袋で包まれた何物かがいっぱいに積み込まれていた。ギリシア風の半身像。大量のスニーカー。昔、こんな場所にも家が建っていたのだ。屋根が円錐状に凹んだ、木造の一軒平屋。平屋の前に朽ちかけたベンチが一つあって、すこしの間休憩。ぼうっと空を眺める。

「お姫ちゃん、なんでおるん」

「街中で、ハゴロモ川を見つけてな。追いかけて来たんじゃ」

「あぶないから、帰りなよ」

「いやじゃ。一緒に遊ぼうや」

「あぶないって。こんな藪ん中、一人で」

「あかりちゃんやってそうやろ」

「私は慣れとるからなあ」

「あたしは、どうせ近々死ぬ身やしなあ」

「それを言われたら、返す言葉がなくなるから、いやや」


「あかりちゃん、一緒に食べよ思うて持って来たんや」とサンドウィッチとおにぎり。どちらか一方にすればいいのに。いや、どっちも食べたい時ってあるか。

「うん。ありがと」


 サンドウィッチの中身は、卵ウインナーハムベーコン鳥の照り焼きハンバーグレタス胡瓜。おにぎりの中身は、シャケ紅生姜納豆味噌鰹節鰯の佃煮団栗。


 壊れかけの民家の目の前の山壁に、地滑りでも起こしたみたいに、草木が薙ぎ倒れ、地面があらわになっている箇所がある。地すべりの理由は、ハゴロモ川の流入で、私がいつも使っている、私と獣のための登山道だ。

「行こうか」

「うん」

「別に、別々の道から行って、頂上で待ち合わせとかでもいいんやけど」どうせ、私の方が遅くつくだろうし。

「大丈夫。一緒に行こ」

 倒れて枯死した楢の根に足をかける。地面を踏みしめ登っていくと言うよりか、左右の樹木に、両手を引っ掛け、這い上っていくと行った具合だった。リーチが短い分、お姫ちゃんは大変かな、と思ったのだけれど、体重が軽い分ひょいひょいと登っていく。

「あたしが先でいい?あかりちゃんの川で滑りそうやから」

「道わからんやろ」

「登ってけばいいんやろ」

「うん、まあ、そうやけど」前回登った時、ハゴロモ川が、すっかり地面を削っていて、だから、道標には、ことかかかなかった。

「なあ、あかりちゃん」

「うん」

「あかりちゃんを追いかけとるあいだ、ごっつい褌姿の男どもと歩道に倒れとる男の子がおったんや。思わず、車線横切って反対側の歩道通ったけど」

「ああ、あれか」

「あれってリンチとかイジメとかやないんかなあ」

「どうやろうなあ」

「どうやろうなあ」

「大丈夫。よくあることらしいから」

「でも、心配やわあ」

「褌姿にされた方も、倒れとる方も、なんとなく、両方可哀相やろ。被害者同士仲良くしとるだけやから大丈夫やって」


 歩き続けて、進み続けるほどに、二人とも息が切れてきて、会話が途切れがちになっていく。時折、休憩したり、時折ハゴロモ川の水を飲んだり、サンドウィッチとおにぎりの残りを食べたり、でも、団栗入りのおにぎりは残したりしたけれど、後は黙々と歩き続ける。私の背後のハゴロモ川のどこかで、獣たちが水を飲んで、土中に染み込んだ水が樹木の養分になったりしているんだろうか、と想像した。実は、本当に、こんなことをしていて、山のためになるか知らなかった。なんとなく、世界の役に立ちたかっただけだ。このままじゃ、手持ち無沙汰で、田んぼの水やりだけじゃ、物足りなくなって、とにかく何でもよいから始めた自己満足の慈善活動なのだ。だから、もしかしたら、ただ、山肌を削っているだけかもしれない。私はひどいことをしているのかもしれない。全て知らないことにして進む。


「なあ、あかりちゃん」

「うん」

「あたしは、生まれて、ここまで生きてきて、それから死ぬわけやけど。生きている間に、いろんなことをしていろんなことを感じていろんなこと思ったなら、死ぬ間際、気い紛れるんかな」

聞こえなかったふりをするには、長すぎる台詞だったから、何か返事をしなくては、と思う。でも、何と答えたらいいんだろう。

「なんて答えたらいいんやろうなあ」なんて答えたらいいんだろう。「わからない。知らない。考えたことないよ」投げやりにならないよう、あたかも、何か考えているかのようにゆっくりと私はつぶやいた。

「でもなあ、あたしが死ぬだろう年齢より、今のあかりちゃんの方が年上やろ。なんか知っとるんやないん。あたしにはまだわからない何か」

「無茶言わんといてや」私はほんのりと笑う。

「無茶やないわ。私より二、三年長生きなら、私より二、三年分物知りやろ。なんか知っとるやろ。隠しとるだけやろ」

「たかだか、二、三年分物知りなだけやろ」

「もう、誰とも会いたくないなあ」脈絡のないことを、おひいちゃんは言う。


 怪獣が暴れていた。怪獣が熊を食べていた。怪獣は大と小だった。親子の怪獣らしかった。まず、親怪獣らしき方が、ひょいひょいと、幼児がお手玉するみたいに、熊を放り投げ弄び、その後そのざらつく舌で弱った熊を舐め回し、熊の黒毛を全身くまなくこそげ落とす。そこまでお膳立てした後で、弱った熊を子怪獣に譲るのだ。よろよろと立ち上がろうとする熊の手足を順々に子怪獣は食いちぎっていくのだった。私たちは、そろうそろうと先へ進んだ。


 頂上までたどり着くと、藪の中とはいえ見晴らしがよかった。樹木や背の高い草花で縁取られた視界ではあったけれど、街全体を見渡せた。一体何を作っているのかわからない工場からもくもくと排煙が揺蕩っていた。人の形は、もう見えなくて、私が少し目を離した隙に、人々は、どこか、より安楽な地へ移住してしまったんじゃないかな、って思った。でも、自動車の形は、かろうじて視認できて、自動車が走り回る様を見て、ああこの街には、生物らしきものが存在するのだな、ということが推測された。線路の響く音が一切聞こえないのに、パントマイムみたいに、電車が行ったり来たりを繰り返している。不思議だな、って思う。踏切の鳴る甲高い警告音も、車両と車両と線路と車輪が組み合い打ち合うガタゴトガタゴトという音も、どれだけ耳を澄ましても聞こえない。目を閉じれば、何もないのと同じである。風が吹いたので草木が揺れたし、私とお姫ちゃんの荒い呼吸は続いているけれど。

「おにぎり残っとる?」

「もう、団栗入りのしかないよ」

「いいよ、ちょうだい」お腹が空いた。半分ずつ分けた。

 頂上に長く止まっているわけにはいかないだろう。田畑と山肌に多分に吸収されたとはいえ、ハゴロモ川の川幅は、まだ一、二メートルはある。やがてこの突端にも、小さなカルデラ湖ができて、徐々に徐々に山崩れが起こるだろう。そのまま、少しずつ陥没するに任せて、地上付近まで降っていってもいいかもしれない、と夢想したけれど、何千年かかるかしれない。お姫ちゃんが、生贄になる期日が通り過ぎるまでそうしていてもいいかもしれない。でも、お腹が空くな。いくら、勘違いをしたおばあさんたちだといっても、こんな山上まで、お供え物を届けに来てはくれないだろう。空気女の風天小鞠に、お届けを頼もうか。でも、彼女だって、仕事が忙しいだろうし。足元の灌木がぷかぷかと浮き出して、私たちは、それに腰掛けて、足元は濡れるに任せた。少しずつ少しずつ水位が上昇するに従って、視界が樹木の背丈を飛び越して、余すところなく街の全貌がみはるかせるようになった。夕暮れで、全体が紫がかって見える。工場からの煙は、どこから煙でどこからが空ちゃんなのかが判然としない。辺りが薄暗くなるにつれて、街頭が灯り、ヘッドライトがともり、却って人々の動きが明瞭になる。こんな小さな街なのに、東端の方から徐々に徐々に薄暗くなってゆく。遠く海浜に続く方には、何もなくて、本当に何もないみたいにもやもやとした闇に覆われている。時折、星なのか、船上の連絡灯なのか判断のつかない明かりが煌めく。

「そろそろ帰らんとなあ」

「うん」

足元もおぼつかない。幸い、ハゴロモ川はその大半がまだ頂上までたどり着いておらず、麓の方からちょろちょろと流れ込んでいる。でも、これ以上のんびりしているわけにはいかないだろう。

「でもどうやって帰るん」

「この木に摑まっといてな」

 私は、上体を少し傾ける。ぷっくりと浮かんでいた山上湖から、流入するハゴロモ湖へと灌木が落下する。あとは、重力と慣性に身を任せる。流れ落ちるハゴロモ川と山道を登ってくるハゴロモ川がぶつかり合って、すぐに落下が優勢となる。時折水面に没し、息ができなくなるけれど、一時的な状態にすぎなかった。川幅をはみ出しそうになるたびに、反対方向へ重心を切り、進路を微修正した。徐々に徐々に、速力が増してゆくのが面白かった。でも、速度のピークは中腹までだ。麓へたどり着くまでに徐行しなくてはならない。そのために、登りはじめは、敢えて、長く緩やかに曲がりくねる道を選んだ。緩やかなカーブの度に、敢えて迂遠に方向切り、速力を衰えさせる。見覚えのある平屋にたどり着くころには、流れるプール程度まで進度が衰えている。


「死ぬかと思った」


「慣れれば簡単だよ」


 私は、この技を習得するために、日夜公園の滑り台の上を滑り降り続けてきたのだった。

 一度めは、ただ階段を登ってスロープを滑る。

 二周めからは、ウォータースライダーである。回を重ねるごとに、ハゴロモ川は塒を巻いてゆくことになり、水量が増してゆく、勢いが激しくなる。五十周くらいすると、もう、何が何やらわからなくなる。

 今は、もうやらない。しばらく前に、滑り台が、水流の重さに耐えかねて、倒壊したからだ。私の趣味が一つ無くなった。寂しくなったけれど、過ぎ去ったことだ。あの時の感覚は、まだ残っているから、この程度の山下り、いとも容易かった。


「楽しかったな」


 私たちと一緒に、大量のハゴロモ川が流れ込んできたから、あたり一面水浸しである。打ち捨てられた平屋は、全体水没している。ベンチが少し横移動している。山の頂上だったから、まだ見えていた太陽は、今や何処かに隠れてしまった。一寸先は闇。でも、遠くの方は、きらきらと見える。藪を越えた向こう側に、ちらほらと民家。その内幾らかはもう誰も暮らしていなかったり、留守だったりするから、三軒に一軒くらいの割合で、カーテン越しに仄暗く明かりが灯っているのだ。それに、きっと誰の用もなさないだろうに、人も車も通らない国道には点々と街灯が灯っている。山の麓とはいえ、国道からしたら標高が高いのだ。見下ろす形で見通せる。私は、ふっと、吠えそうになった。理由は、今ここでなら、吠えたところで、野犬か何かだと聞き流されるだろうから。でも、隣に、お姫ちゃんがいた。


 実は、私は大量殺戮者である。

 秋の暮方だというのに、あたりは、しんと静まり返っている。

 虫という虫が溺死してしまっているのだ。

 この場を早く、立ち去らないと。


「行こうか」

「うん」

「て、どこ?」

「ここ」

「ここ、ああ、ここか」

「手え繋いどこや」

「うん、そうやな」

 夜慣れた道だから、私が先導する。ぴちゃぴちゃとお姫ちゃんが足音を立てる。

「冷とうないか」

「今更じゃ」

 投棄されたゴミを的確に避けるすべを私は身につけている。だから、zigzagに歩く。お姫ちゃんは、その迂遠な経路の理由も問わない。ぽつぽつと私についてくる。もしも、私が悪いやつで、街へ戻るんじゃなくて、何かひどいことをするための悪のアジトへお姫ちゃんを連れ込もうと企んでいたとしたらどうするんだろう、と思うけれど、最初から最後までそんなわけないことだから、ただの思いつき。

「お腹空いたなあ」

「おにぎりもサンドウィッチももうないよ」

「そうかあ」


 大した距離もなく、気がつけば、草木の生えていない踏み固められた人道へ。ちょうど帰宅途中の人数人とすれ違う。数メートル先で、ブロロロロンと発進しようとしていた、最終バスが、最終バスであるがゆえに、ついっと立ち止まり、運転手が窓から乗り出し私たちへ身振り。身振りで、私らは乗らんよ、と伝えると安心したように、バスは身震いして、ブロロロロロンと走り出す。夜目の慣れない運転手は、ハゴロモ川を見落としたのだ。バス停留所で、疲労をアピールするための体操を踊るおじさんにこんばんはこんばんはと返礼しあい、ぽつぽつと灯る民家の中身、具体的には、夕飯のメニューなどを想像しながら、横目に通り過ぎる。想像の中身は、カレーシチューハンバーグ。お寿司を食べている人だっているだろうけど。時折すれ違う人たちは、時折、うぎゃ、と叫び声をあげる。薄暗さにハゴロモ川に気づかず足を踏み入れるのだ。まるで大地に穴が空いたかのように、恐れおののき、背後で飛びのく人もいる。その度ごとに、お姫ちゃんが、さりげなく、足元ふみ鳴らしぴちゃぴちゃと音させて、事情を伝えたり伝えなかったり。


国道にたどり着く。左手に折れれば、うーくんを夜襲できる。右手に折れれば、ハゴロモ駅へ。

「家、どっちなん」

「帰りたないなあ」

「そっか」

「こんばんは」

「こんばんは」

「こんばんは」

「こんばんは」

「どなたです?」

「初めまして」

「初めまして」

「初めまして」

「初めまして」

「僕らは、こういうものでして」

「名刺なんていらんよ」

「あ、はい。僕らハゴロモ市立大の学生でして、学生新聞の記者でして、取材をさせていただけないかなあ、と」

「こんな夜更けに」

「はい、お時間空いていましたら。どうかなあ、と」

「いやや」

「え、どうして。そこをなんとか」

「そこってどこ」

「取材受けていただければ、粗品ですけど」

「ハゴロモ市立大学学内学生ケーキショップ『糖尿病』のブルーベリータルトです」

「うちの大学家政科もあるから、なかなかいけますよ」

「経営学科も協力してるんす。あ、俺経営学科」

「そう」

「というわけで、立ち話もなんですから」

「カメラ撮っていいですか。撮りますよー」

「照明オッケー」

「あざーっす」

「だから、私は」

「えっと、まず、最初の質問なんですが」

「要は、あなた、紅あかりさんと小谷の関係を聞きたいんですよね」

「あかりちゃん、逃げよ」


 全て、逃げるに限る。私の場合は、特に。

「お姫ちゃん先行って」

 私の後ろには、滔滔とハゴロモ川が流れているから、一旦引き離してしまえば、大抵の人間は、私には追いつけない。

 でも、一旦引き離してしまえば、である。怖かった。手を伸ばしたら届きそうな距離。摑まれ、羽交い締めにされ、タコ殴りにされたらどうしよう。怖い。時よ止まれ、とおもった。彼らの時だけとまれ。私は、怖さのあまり、「わおおおおおおおおおおおおおおおおおん」と吠えた。猫騙しのつもりだった。びっくりして硬直して欲しかった。その通りになった。駆け出すお姫ちゃんの後を慌てて追いかけた。私は、本当は、心細く、走るお姫ちゃんを背後から抱きしめたかった。でも、そうなると、二人して無様に転ぶことになるからやめた。そんなラガーマンみたいな熱い抱擁は私たちには似合わない。私は、お姫ちゃんのことが大好きで、本当は、抱きしめたかった。

 振り返らない。のっぽで髪が長くて、妙に笑顔で、そのくせ歯並びの悪い、横縞の長袖にジーンズに履き慣れないピカピカのスニーカー姿の二人の大学生がどこまでも追いかけて来そうで、怖かった。足音は聞こえないが、忍の一族なのかもしれなかった。

 夜の駅前になど、行くものではなかった。


 心拍数はなかなか平常には戻らなくて、急に立ち止まったから、ハゴロモ川のやつ、私を通り越して、はるか先の電信柱まで水浸しにしてしまっている。私の元へ舞い戻ろうとしては、勢い収まらず、再び通り過ぎ、三度通り過ぎ、潮の満ち引きのように行ったり来たりを繰り返している。私たちは、足元から冷やされ、冷静さを取り戻して行く。

「いやや」と私。

「なんやったんやろうな連中」

「いやや」と私。

「やな感じやったわ」

「いやや」

「やな連中やったわ」

「いやや」

「あかりちゃん帰ろ」

「うん」

 実は私は、震えていた。何か、目に見えない攻撃を一身に受けたみたいに、震えていた。ただ、話しかけられ、つまらない話をされただけだというのに。なんなんだろう、これは。電信柱を五、六本へし折りたい気分だが、そんなことしたら、私の方がへし折れてしまう。


「あのなあ、お姫ちゃん」

「なんや」

「今晩、一緒におってもろってもええかな」

「ええよ。家には、帰りたかないし」

「よかったあ」


 公園には、電信柱の下ですれ違った彼女がいた。結婚式場を探していた彼女だ。

「あ」って私。「えっと」名前を思い出そうとして、でも聞いていなかった。「エロい人」

「そうだ。私は、エロい」と彼女は言った。

「誰なん」とお姫ちゃん。

「えっと、エロい人」他に情報がなかった。「新婦さん?今度結婚するんやって」

「違うな」

「違うん」

「今度ではない、今から式をあげるのだ」

「急やなあ」

「善は急げだ。夫もいる。式場も見つかった。こうして招待客も集まった。今やらないでどうする」

「さっきは、三日後とか言っとったやん」

「気が変わったんだ」

「招待客ってあたしらのことなん」

「うん。袖触れ合うも他生の縁だ」

「やった」

 彼女は踏ん反り返っていた。きっと、これから結婚するものだから、誇らしい気持ちでいっぱいなのだろう。でも、そこは、私の寝床の丘で、彼女は気づいていないのかもしれないけれど、私が組んだ竃を踏みつけている。でも、もともとは公園だから。公共の場所だから、文句は言えないのか。

「式場ってどこなん」

「ここだが」

「公園だけど」

「殺風景さが気に入った」

「そっか。うれしい。ここ私の家なんや」


 まず、彼女に、脇へどいてもらい、竃に火を熾すことにした。夜が浸透して、少しずつ体温が奪われつつあったから。それに空腹だった。お腹が空いているときに、火に当たると、なぜかそれだけで少し満たされるから、不思議だ。炎が燃え盛るまで、私たち三人は、麩菓子を三等分にわけて、くちゃくちゃとやった。口の中が甘すぎたから、ハゴロモ川を掬って飲んだ。

「他にも、招待客って来るん」

「うん、何人かに声をかけたから」

「そうか。早めに来るといいんやがな」満ちつつあるハゴロモ湖を眺めやる。「そういえば、なんて名前なん」尋ねると、

「色子」

「色子ちゃんかあ。色子ちゃん、おめでと」と私。

「おめでと」とお姫ちゃん。

「うれしい」と色子。彼女は無邪気に笑う。そっぽを向きながら笑うくせがある。何か面白いものでも見つけたのかな、と視線を追おうとすると、笑いすぎてまぶたが閉じている。ただ、笑っているだけだった。

 私は、備蓄していた固焼きパンを拾い物のバーベキュー網に乗せ、竃で炙る。焦げ付かないように、注意を払う。宴なのだ。秘蔵していたサラミもお姫ちゃんに切ってもらい、一緒に焼いた。ひっくり返すための鋏はないから、餅つきの要領で、ハゴロモ川に両手をつける、パンとサラミをひっくり返す、ハゴロモ川に両手をつける、を繰り返した。サラミがじゅぐじゅぐと脂を滴らせ始めると、パンの上に乗せ、パンに脂を染み込ませた。見ているだけで、美味しそうだった。色子の結婚式など忘れて、ただ無心に食したいくらい美味しそうだった。

お腹、減っていたのだろう。

「こんばんは」

「こんばんは」

「おじゃまします」

「おじゃまじゃないよ。どうぞどうぞ」

 風天小鞠だった。上空から、得体の知れないまん丸いものが、ぷかぷかと沈んでくると思ったら、風天小鞠だった。「色子さん、ご成婚おめでとう」「えへへ」って笑顔で答える色子。風天小鞠も、招待客のようだった。

「あ、小鞠」とお姫ちゃん。

「山田さん」と風天小鞠。

「知り合いなん」

「又従兄弟やで」

「ふーん」世界って狭いんだなって月並みに思った。

「なあ、小鞠」お姫ちゃんが、私が訊きたかったことを言ってくれた。「太った」

「ええ。少し」恥ずかしそうに俯いている。いつまで、そんなところで浮かんでいないでよ、と私は、彼女の踵を掴み、さっと地上へ引きおろす。「ちょっと、仕事の関係で、空気入れすぎちゃって」

「仕事って何しとるん」

「人間バレーボールのボール役」

「大変そうな仕事やな」

「トスはいいんだけど、スパイクとサーブがね、痛い。それにね」風天小鞠は、それからしばらく、仕事の愚痴を言って、お姫ちゃんと私と色子はそれを黙って聞いていた。そんなに辛いのなら、その仕事、辞めればいいのにな、と内心思ったけれど、言葉にはしなかった。風天小鞠には、風天小鞠の、深い考えがあるのかも知れないから。


 しばらく、四人でぼうっとした。


 結婚式は、なかなか、始まらなかった。


「他にも、招待客おるん?」

「うん」

「誰?」

「くちなしれんかと、名前のない魔物と、嘘太郎」

 全員、私の知り合いだった。

「うーくんはこれんやろう。根っこ生えとるから」

「やっぱりそうか」

「魔物も、ペットショップの陳列棚ん中やろうし」

「そうか」

「くちなしれんかは、納豆にまみれとるやろうし」

「そっか」

 三人とも、色々と事情がある。事情があることはわかっているのだろうけれど、色子は寂しそうに俯いてしまった。「誘ったのに。来てねって」

「来るって約束したん?」

「いや、くちなしれんかは、『納豆の、くせに、結婚、するんか』って言って、魔物は『そんなことより、僕を買い取ってください』って言って、嘘太郎は『行けるわけないやろう』って言ってた。でも、私は、『絶対来てね。楽しいから』って言ったんだ」

「そっか」


 私たちは、お腹が空いていたから、パンとサラミをそれぞれ食べた。それから、手分けして、薄くらやみの中、ほうぼうに転げていた生首を拾い集めた。日中、何か、ひどい目にあったのか、生首たちは「もうやめてくれええ」「啄まないでくれええ」と懇願した。「そんなことせんわ」と私たちが答えると、みんな、ほっと一息ついた。私たちは、彼らを、ベンチの上や色子の周囲に丁寧に並べた。私は、彼らの耳元で「歌え、笑え、祝福しろ」と命じた。文字通り頭数を揃えることしかできなかったけれど、色子はにこにこと微笑み始めた。

「みんなが私のことを見てる。結婚式って感じだ」


 神父も司会者もいない。そもそも、新郎もいない。それでも、私たちは、色子を祝福する準備だけは、できている。

「それでは、結婚式を始めるぜ」と色子は言った。少し照れてるみたいに、俯きがちだった。

「おめでとう」私たちは、唱和する。まばらな拍手。

「ありがとう」

「それは何」と私は訊いた。色子はいつの間にか、薄緑色に着色された試験管を握りしめていた。色子は、愛おしげに、試験管をじっと見つめていた。今にも、舐め出したり、試験管割れるほど、抱きしめたり、頬ずりをしそうな勢いだった。

「私はね。ずっとずっと幼い頃から、多細胞生物と結婚するような浮気なことはしないって決めていたんだ。結婚するなら、恋人にするなら、単細胞生物。たった一つの細胞を、この命尽きるまで愛し続けるんだ、って決めていたんだ」

 生首たちが、ひゅうひゅうとすきっ歯で囃し立てる。

「なんていう単細胞生物なん」

「精子。Lincolnでもらって来たんだ。袋入りでくれたんだ」

「それ、多分、単細胞じゃないですよ」

「でも、めっちゃ小ちゃかったよ。顕微鏡で一人一人見比べてお見合いしたけど、ほんと、選り分けるのが大変だった。太った人、尖った人、動きの速い人、遅い人色々いたけど、みんな一様に、そこらへんのミジンコなんかと比べ物にならないほど小さかった。私は、決めたんだ。こんなに小さくて儚い人は、私が守ってやらなくちゃ」

 彼女の惚気話に、生首たちが、やんややんやと騒ぎ立てた。「妬けるぜ。こんちくしょう」などと喚く輩もいた。ただ、卑猥な言葉を並べ立てているだけのもいた。ただ騒げばいいってものじゃ、ないのにな、って私は思った。言葉にはしないけれど。生首は、生首だから。落ち武者だから。

「でもさ」風天小鞠が、何か言いかけて、やっぱりやめた。「おめでとう」さっき言った台詞を繰り返してる。

「そっか」私は、私で、それは、それで、良いのかな、と思った。彼女は、とても幸せそうに微笑んでいる。嬉しそうだし、楽しそうだ。これから起こる未来のことを想像して、一人興奮している人の顔だ。精子の寿命がどのくらいか、とか、そもそも精子って生き物なのか、とか、どうでも良いな、と思った。「よかったね」

「よかったなあ」とお姫ちゃん。

「うん、運命の出会いだと思うんだ。顕微鏡で覗いているとさ、彼だけが、私に向かってまっすぐに泳ぎ登って来たんだから」それから、彼女は、後ろ髪を束ねていたゴムどめをさっと外した。豊かな黒髪が、風になびく。彼女は、全身黒い繭のように、自身の髪でうっすらと覆われる。気がつくと、彼女は、外したゴムどめを二重におり、試験管に巻きつけていた。

「なんなんそれ」

「結婚指輪」

「ゴムでええん」

「今は、まだ、これでいいかな。暫定的だけど。それに、試験管に銀の指輪じゃ、滑り落ちちゃうしさ」

「それもそうだね」

「愛してるんですね。彼のこと」

「うん」

「末長く、お幸せに」


 結婚式ってなにをしたらいいのだろう。私たちには、わからなかった。結婚なんて、私たち誰もに、縁遠いものだったから。だから、四人して、ぼんやりと見つめあった。彼のことは頭数に入れていいのか、わからない。色子も、飽きてしまったみたいに、ポケットに入れっぱなしにして、もう話しかけもしなかった。私が備蓄していた食糧を四人で貪り食うだけだった。何をやっているのだろう私は。明日の朝、何を食べよう。あまりに刹那的に、咀嚼と消化を繰り返してた。何もかも、なくなってしまう。ただ、なんでもいいから、胃袋に収めるということが快感だった。もちの焼ける匂い。葱の焦げる匂い。何でもかんでも吸い込んだ風天小鞠は、原型なんてわからないくらい、ぱんぱんに膨れ上がっていた。私も、人のこと言えなかった。

 食べすぎて、みんなが苦しくなって横たわった。なんで、こんなに食べたのだろう、自分自身、よくわからなかった。


 色子は、それじゃあ、と言って、ハゴロモ湖を泳いで消えた。ハネムーンに出かけたのだ。こんな夜更けに出かけなくても、と思ったけれど、彼女の意思は固かった。


 空をゆうらり泳いでいた風天小鞠は、突風にさらわれて、どこか遠くへ流れて行った。


 私とお姫ちゃんは、寝袋に潜り込んで、眠ることにした。二人とも、たらふく食べた後だから、体がぽかぽかと暖かかった。お互いがお互いを湯たんぽのように、抱きしめた。生首たちに、おやすみと告げた。思い出したみたいに。朝、ほんのりと日が登る頃に、起こしてよ、お願い、と目覚ましの代わりを生首に頼むと、生首たちは、快く、微笑で応えてくれた。首肯はできないから。生首を植えると、こういう時に便利だな。烏に突かれないよう、対策を立てなくちゃならないな。これから。


 私は、夢をあまり見ない。嫌いだから、見ないようにしているのだ。見たとしても、現実の延長線上のようなものばかりで、つまらないぜ、と夢の中でいつも腹を立てている。現実世界の二番煎じの夢なんて、見るだけ時間の無駄だぜ、と思っているのだ。でも、いつも、そんな夢ばかりを見る。今日もまた、夢の中で、色子と風天小鞠とお姫ちゃんが私の元を訪れにやってきた。ああ、いつも通りだな、と私は思って、ふつふつと怒りが沸き起こるのを感じた。だから、私は、お前らとは、現実でもあっとんじゃボケカスと彼らを呼ばわって、私は彼らをことごとく殴り蹴り飛ばした。ひどいことを数限りなく行った。骨という骨を破り砕かれて、なめくじのようにのたうつ彼らに、塩を撒いたりもした。夢の中の私は、大変な力持ちで、お姫ちゃんの足首を握ってひゅんひゅんと振り回していると、うどんの生地のようにお姫ちゃんは伸びきってしまい、すぐそばに立っていた電信柱に、びゅるびゅるびゅるっと巻きついて解けなくなってしまった。風天小鞠は、インドの油菓子のように狐色に焼いたり、膨らみきったところを巨大なパテで殴りまくって、正二十面体っぽく形作ったりして遊んだ。色子は、ぎゅうぎゅうに試験管に詰めて、その圧によって、試験官をひゅるるるるるんと、天高く飛ばした。試験官は、空ちゃんの腟に突き刺さり、割れ砕かれ、中に入っていた色子の夫は、空ちゃんと受精した。空ちゃんのお腹がぽっこりと膨らんで、膨らみ過ぎて、背の高い建物や電波塔はことごとく押しつぶされた。山も削れた。空ちゃんは青みがかった透明だから、巨大な胎児と目があったりした。胎児は夢見心地でもんどりを打ち、その勢いで空ちゃんの腹は揺れ、胎児が戯れに両腕を突き下ろすと、その腕の形に空ちゃんの腹は出っ張り、さらに街は破壊された。梱包用のプチプチを潰すみたいに、胎児は、建ち並ぶ民家やマンションを一軒一軒、ぺしゃんこにしていった。胎児は、無音でケタケタと笑った。その笑い声の波動がまたまたすごく、街は破壊された。私は怖くなった。風天小鞠に砂場の砂を詰めている場合ではなかった。なんとかして胎児を殺さねば、ということで、日がな一日街を歩き回り、ポイ捨てされたシケモクを拾い集め、灯油をかけて燃やした。副流煙は、流産に効くと何処かの誰かから聞いた記憶があったからだ。風天小鞠に、煙草の煙をどうしようもないほど吸い込んで、浮かび上がり、空ちゃんのそばで吹きかけてやれ、と命じたが、風天小鞠は、いやいやと首を横に振った。拾い物のシケモクでは、ラチがあかなかった。もはや、煙ならばなんでもよいだろうと、街中を燃やして回った。庭先の柿の木が燃え、押しつぶされた山々が燃え、コンクリートもアスファルトもぐにゃぐにゃに溶けていった。電信柱もマッチ棒のように燃え尽き、巻きつきっぱなしだったお姫ちゃんが解けてぼとぼとと落下した。試験官から飛び散って、粒状になっていた色子がわっと泣き出した。やりすぎだよ、と色子は泣いた。私の周りだけ、ハゴロモ川のおかげで、猛火が及ばなかった。街中のありとあらゆる人々が、戦火を逃れに私の元へと集まってきた。風天小鞠をはじめ空気人間たちが、こんな地獄のような場所からはおさらばだと、浮かび上がろうとすると、群衆が彼らの手足にしがみついた。一人で逃げるなんてずるい。俺たちも連れて行ってくれ。うるさい。手足のちぎれた空気人間が、また一人、ぴゅううう、と穴の空いた風船のように。遠くの方で、裸の男たちが、伸びきったまんまのおひいちゃんで綱引きを始めている。


 ふう、私は、一息ついた。だから、夢なんて見たくないのだ、と思った。


 目を覚ますと、山田贄子が、心配そうに不安そうに私のことを見詰めていた。


 しばらく、二人して、黙ったまま、目を合わせたり、視線をそらせたりを、繰り返した。


「どうしたん」

「何が」

「魘されとったから」

「そっかあ。うん」

「怖い夢見たん」

「どんな夢やったかなあ」

「怖かったん?」

「そうかもなあ」

「大丈夫やで。あたしが、そばにおるから」

「安易にそんなこと言わんほうがええで」

「なんでや」

「期待してしまうから」

 お姫ちゃんは、少し悲しいのかな、目を閉じた。

 私は、夢と現実の区別がつかなくて、もし、今ここが現実なのに、夢みたいに行動してしまったらどうしよう、と不安になって、指先ひとつ動かせないまま、目を閉じた。

 実は、まだ、あたりは、真っ暗闇で夜中だった。


 野犬がぴちゃぴちゃと水を飲む音。


 朝、目が覚めると、私じゃなくて、お姫ちゃんがうなされていた。見えない何かに襲われているみたいに、首でも締められているみたいに、ぎったんばったん、硬直したり、弛緩したりを繰り返した。「お父さん」とか「殺さんといて」とか「いやや」とかそんな台詞を微かにもらした。夢というのは、途中で起こしてしまうから、記憶に残るのだそうだ。だから、私は、お姫ちゃんを目覚めさせないように、そうっと寝袋を抜け、芋虫のように、土の上にごろんと寝転がった。朝の空気は、冷たくて、眩しくて、伸びきった肉体を、十重二十重と折りたたむようにして、半身を起こした。私は、ありとあらゆる存在を愛おしく感じた。一瞬間だけ。私たちを取り囲んでいた生首たちは、すやすやと寝息を立てていた。起こしてって頼んどいたのに。

 火を熾すと、ぱちぱちと枝のはじける音で、お姫ちゃんを起こしてしまうかもな。

 私は、竃の石を少しだけ右にずらす。お姫ちゃんから遠ざける。それから、いつもの半分くらいの枝に着火する。枯れ枝が少なくなってきたな。昨日、羽客山へ行くついでに、枯れ枝拾いでもしてくればよかったな、と少し反省。昨日、食べすぎて、少しお腹が苦しくなっていて、だからご飯の前に排泄を済ませる。それから、保存用のダンボール箱の中から、食料を漁る。実は、日中、私がこの公園を空にしている時、見知らぬ人が、知らぬ間に、この段ボール箱に食料を入れておいてくれることがある。奥の方から、キャベツとレタスと白菜が見つかった。もう少し彩が欲しかった。底の方に、さつま芋の芋と茎の部分が大量に敷き詰められてあった。私は、排泄を行なったのと反対側で鍋に水を組み、ぶつ切りの芋と茎を鍋に放って、竃で蒸す。蒸している間、暇だから、お腹減ったから、竃の前でしゃがみこんで、白菜とキャベツを交互に齧る。甘かった。美味しかった。

「わんわん」

 振り返ると、昔見た魔物だった。

「わんわん」

 首輪をつけられた四つん這い魔物と手綱を握る恰幅の良い中年の男性が並んでこちらを眺めている。

「わんわん」

「魔物やんか」

「わおんわおん」

「久しぶり、なんかな。そいつ飼い主なん」

「わおおん」

「お嬢さんこんにちは。曽根崎眼鏡っ子です」眼鏡はかけていなかった。そういう名前なのだろう。おじさんに見えるけど、実はおばさんなのかもしれない。

「こんにちは。紅あかりゆいます」

「わおおおおん」

「朝、散歩をしてるとね。こいつが、どうしてもお嬢さんに会いに行きたいと申しましてね」

「わおあおん」

「そうなん。嬉しいわ」

「あおん。あおん」魔物は四つん這いのままくるくるとその場を回った。

「あの時は、本当に助けていただいてありがとうございました、と申しておりますね」

「うん。そっかあ。まあ、大したことやないから、気にしんといてって伝えとってください」あんまり、大きな声で話していたくなかった。お姫ちゃんを起こしてしまうかもしれないから。

「あうん。あうん」魔物は、べろべろと、曽根崎眼鏡っ子を舐め始める。

「こらこら。やめろやめろ」言葉に反して、にこにこと笑っている。

「よかったなあ。優しい飼い主さんに巡り会えて」

 さよならを言い合った後、私は、白菜を齧って、二人は、トコトコと歩き去った。犬の真似事をしなくちゃいけないなんて、魔物も大変なんだな、って思った。性に合っているのかもしれないけれど。


「あ。お姫ちゃん」

「よう。あかりちゃん」

「おはよ」

「おはよ。よう寝たけど、まだ眠いわ」

「さつまいもあるよ」

「さつまいも?」

「うん、さつまいもだけやけど」

 私たちは、二人して、竃の前にしゃがみこんで、さつまいもをもぐもぐとやった。舌と上顎で、柔らかくなった黄色い部分をすりつぶして飲み込んで、残った皮をくちゃくちゃと噛んだ。

「甘い。美味しい。いつまでも、こんな風にぼんやりとしていたい」とお姫ちゃんは呟く。

「そうやね」

 残り汁はほとんど味がなくて、千倍に薄めたお茶のようだった。でも、暖かくて、ポカポカするから、ひとくちひとくち、舌と口の中を慣らしながら飲んだ。


 お姫ちゃんは、諦めきっている。でも、私は、それは、嫌である。


 しばらく、ぼんやりした後で、ぶんぶんと首を振る。

「どうしたん」

「どうもせんよ」


 お姫ちゃんも、嫌なものは嫌か。諦めているとしても。


「今日、何しようかな」

「何もせんでいいじゃろ」

「そりゃ、あかんやろ。今日一日が無駄になる。何よりも、つまらん」

「無駄とか、無駄じゃないとか、私には、ようわからんけど」

「何かしたら、その分、何か起こるやろ」

「何がや」

「知らんけど」

「あ、」私はふっと声を漏らした。

「なに」

「ゴキブリ女や」ゴキブリ女がヴェネツィア公園前をササササ、と通り過ぎたのだ。這いつくばって。

「ゴキブリ女ってなんや」

「ゴキブリ女は、ゴキブリ女や。四つん這いになってゴキブリみたいに、カサカサ動くんや。明るいところが苦手なんや」

「ふーん」

「ゴキブリ女はな、ほんとは、普通の女の子なんや。いや、普通じゃないところもあるらしいんやけど、肉体の方は普通らしい」お姫ちゃんは、理解できないな、って顔で、空ちゃんを見上げている。「でもな、ゴキブリ女の影は、めっちゃ淫靡なんやって」

「淫靡ってなんや」

「淫靡ってあれやろ。インモラルみたいな感じやろ。淫らってことやろ」こんな噂話みたいなこと、ゴキブリ女の知らないところで話していいのかな、って私はふっと思った。ゴキブリ女が、あとあと知って、傷ついたりしないだろうか、と。だから、私は、話し始めておいて、だけど、口を閉じた。ぼんやり、空ちゃんの綺麗な体を眺めやる。遠くの方で、というか、ハゴロモ宇宙開発局のロケット発射場から、しゅるしゅるしゅると、白煙が立ち上っている。きっと、また、有人ロケットを打ち上げたのだろう。有人ロケットは、友人ロケットである。空ちゃんのお父さんお母さんが、いつも一人で揺蕩っている空ちゃんを寂しかろうと慮って、適当な子供を捕まえてロケットに詰めては、空ちゃんめがけて飛ばしているのだ。私も、飛ばされそうになったことがあるけれど、ハゴロモ川が邪魔になって中止になった。

 黙り込んでいる、私を、お姫ちゃんが、不審そうに見上げている。

「ゴキブリ女の話はもういいん」

「うん」

「そっか」

「あのな。一応ゆうとくけど、私は、ゴキブリのこともゴキブリ女のことも別に嫌いやないからな。ゴキブリ女のことゴキブリ女ゆうんは、侮蔑的にゆうとるんやなくて、ゴキブリみたいやから、ゴキブリ女ゆうとるだけやから。ゴキブリのこと、別に、好きでも嫌いでもないからな。ただの虫やし」

「うん」

「ゴキブリは噛んだりせんからな」

「そうやな」

「ゴキブリ女も噛んだりせんから」ふっと、ゴキブリのことを、御器齧り(ごきかぶり)とも呼ぶことを思い出す。もしかしたら、齧り付くのかもしれないなあ、って思う。でも、自分の主張に不都合な情報は、口にしない。卑怯だな、私。

「平身低頭を地でいっとるもんな」お姫ちゃんが一人納得している。結局私たちは、さつまいもとさつまいも汁を食べ終えたのに、特になにをするでもなく、ぼんやりしている。命には、限りがあって、お姫ちゃんが生贄から逃れるためには、何か策を練らなくちゃならないのに、なにもしないで、ただ息を吸ったり吐いたりして、たまに、吐き出す息に言葉を乗せてみたりして、ただそれだけのために時間を過ごしている。私たちは、しばらく、息を吸ったり吐いたりした。何かしなくちゃ、と言い出したお姫ちゃんも、ただ、息を吸ったり吐いたりしている。

「やっぱりさ」

「うん」

「ゴキブリ女の話してもいい」

「あかりちゃんが決めなよ」


 ゴキブリ女の影は、淫靡なのである。どうしようもなく淫靡なのである。一目見ただけで欲情を掻き立てるのである。男たちは、その影を性欲と切り離して認識することができない、そうである。私は、知らないけれど。ゴキブリ女の影には、なぜか知らないけれど、細長い切れ目のような穴が空いているそうである。

「そこに入れたくなるんやってさ、男たちは」

「変なの。影に穴が空いとるのも変やし、男たちも変や」

 ゴキブリ女も、昔は二足歩行していたのだが、二足歩行をしていると、影が露わになって、男たちの欲情を駆り立てるそうである。ゴキブリ女がバス停でバスを待っていると、知らぬ間に、男たちが足元で性交に及んでいるのである。もちろん、影との交わりだから、擬似的な性交で、要は、自慰行為の延長線上なんだろう、と思う。でも、いつもいつもそうなのだ。ゴキブリ女が立ち止まったり、座り込んだりする度に影に向かって男たちが殺到するのだ。教室での授業中とか、軒先で雨宿りをしている時とか、羽客山の展望台から街を見下ろしている時とか。どこからともなく、男たちが現れてズボンを下ろすのだ。

「それでな、うんざりした、ゴキブリ女は、自分の影を自分の肉体で覆い隠すように四つん這いになったんや」

「そうなんか」

「そうなんや。初めは、自分の影を覆うほどの巨大な日傘を差したり、着膨れして影の形を変えてみたそうなんやけど、効果なかったんやって。巨大な日傘には、照光器を横から当てられたり、着膨れしても、それがまたいいとかいうのもおったらしい」男は、執念深いから、とぼそっとつぶやく。私自身その執念を体感したことはないけれど、傍から眺めていてそう思うのだ。

「いろいろ、大変なんやな」

「人生工夫が必要なんや」そんな教訓めいたことを言って、なんになるんだろう。私には、わからないけれど。


 私には、目的なんてなかった。ただ、日々、生きているだけ。呼吸をしているだけ。ハゴロモ川は流れたり淀んだりを繰り返しているばかり。私は知らない。何もかもを知らない。


 今日は、雑木林を歩こうと思った。私が勝手に、そう決めた。どちらが虫食いなのか、わからないけれど、中途半端な開発の結果、街には、いたるところに虫食いができていた。まるでルールを忘れたオセロゲームのように、鬱蒼と茂る樹木の群と人間の群れとが入り合い組み合い組んず解れつしていた。昔は、この街も、全てが全て、樹木で覆われていたのかな、と思うと、恐ろしいような懐かしいような想像が広がってくる。私は、できたら、この散歩は一人で行きたいな、と思った。


 お姫ちゃんと、どこかで、さよならをしなくちゃな。


「お姫ちゃんこれから、何をしよう?」

「何をしたらいいんかな」

「いっつも何しとるん」

「いっつも何しとるんやろうなあ。あたし。何かはしとるはずなんやけど」

「何かはしとるはずだよね」

「ぼうっとしてる」

「悪くないね」

「ぼうっとして空に浮かんだ気持ちになったり、地中に沈んだ気持ちになったりしとる」

「悪くないね」

「そうや。全然悪かない。でも、ずうっと天井の下を歩いている気分になる」

「天井の下ってなんやろ」

「細長い蛍光灯があってな、五本に一本くらいちかちかしとるのがあるんや。けど、私が見上げるたびに、澄ました顔で、ちかちかやめて、ぴかーって、空元気に光り輝くんじゃ」

「ようわからんけど」

「ようわからんように話しとるからな」

「ぽっかりとした穴を、潜り、また潜り、潜る。歩くというのは、ぽっかりと空いた穴の連続体をただ、くぐり抜けるだけのことかもしれない」

「何ゆうとるんや」

「さあ」

「ようわからん」

「私も」

「昔な」

「うん」

「学校の先生は、みんな悟っとるんやろうなって思っとった。あんな偉そうに話すんやから、悟りの一つや二つしとるやろうって」

「うん」

「その気になったら、ニヤニヤしながら、その場で舌噛みちぎって、身震い一つせずに、存在を消滅できるんやろうなあ、彼らはって思っとった」

「うん」

「でも、それは、あたしの一方的な思い込みで、悪いことしたなあ、思っとるんや。過度な期待をしてしまったなあて。彼ら、あたしの期待が負担で不安やったろうって」

「うん。でも、教師って生徒に期待されるのが本望やろう」

「嘘だ」


 以上の会話のどこかで、私は、「さよなら」という言葉を挿入して、お姫ちゃんも、以上の会話のどこかで、「さよなら」という言葉を挿入した。全体として、「さよなら」という言葉を誘発する会話だったから。


 さよなら、と言っても、その瞬間、足の裏から火を噴いて北極と南極へそれぞれ別れて飛び立つわけでもない。声も届けば、視認もできる距離を揺蕩った。つまり、さよなら、という言葉の後、お互いにお互いの存在を存在せぬものとして認識した。


 私は、ヴェネツィア公園を抜けた。風天小鞠が、電信柱に引っかかっているのを見つけた。皮膚は絶縁体だから大丈夫。素通りする。


「本当に、皮膚って絶縁体だったろうか。勘違いかもしれない。でも、まあ」


 私以外の人間は、小学生だったり、会社員だったり、通学通勤時間らしく、一定の方向に流れて行く。私は、その人波に、乗ったり、乗らなかったりを繰り返す。人波サーフィンをしばらく楽しんだ後、波が止んだから、一人誰もいない住宅街で、行ったり来たりをした。ヴェネツィア公園から離れたり、離れなかったりを繰り返す。生首のことが気になったのだ。昨日のように、カラスに啄ばまれたらかわいそうだ。日時計の針のように、ベネツィア公園の周囲をくるくる回った。ハゴロモ川もくるくる回った。

「あ、いたいた」

「昨日は、どーも」

「チース」

「お話を伺いたくて探したんですよ。朝からずっと。こんなところで何やってるんですか」

「暇そうですね。お時間いただけますか。えーと、まず最初の質問は」

「いやや」

「うわ、冷た。朝のハゴロモ川は冷たくて気持ちがいいですね。でも、犬のフンとか浮かんでる。汚いな」

「小谷と初めて出会われたのは、小学校御入学の御時だったと思うのですが、その時の小谷の印象、思い当たる節、違和感などを」

「いやや、ゆうとるやろ」

「どうして嫌なんですか。僕たちは、知りたいんです。教えてくださいよ」

「初対面の時は、流石に昔すぎて記憶にないですか。確かに、なるほど。それは、僕の質問が悪かった。反省します。では、一番古い、小谷との記憶などを」

「いやなものは、いやや」

「いじわるだなあ、あかりさんも。何も、無償で、ってわけじゃないんですよ。昨日、公園に置いてあったでしょ。麩菓子」

「ふむふむ。そんなに、小谷との思い出を甦らせるのがお嫌なんですね。何かあったんですか。トラウマ的な。そこ、聞きたいなあ」

「どうして、私にこだわるん」

「違いますよ。話聞いてなかったんですか。馬鹿ですか。僕たちは、ただ小谷のことを知りたいだけ。だから、こうして訊きにに伺っているんじゃありませんか。あかりさんのことなんか興味ないですよ」

「そうです。だから、是非、リラックスして。知っていること、なんでも教えてください。きちんとした記事にして、報道いたしますから。それが、僕らの仕事なんです」

「それじゃ、写真撮りますねー。あ、意識しなくていいんで。自然に自然に。インタビュアーとの会話楽しんで」

「それでは、気を取り直して。小谷がことを起こした前と後で何か、変化って感じましたか。それとも、小谷の様子や印象に、変化はなかった?」

「そうですそうです。自然が一番。感情がよく画面から伝わってるよ。いいねー」

「何黙ってるんですか。早く。いや、記憶の整理が必要なんですよね。大丈夫です。思い出せる範囲でいいんですよ。僕ら、待ってますから。早く思い出せたら、ゆっくりリラックスして早くお話しください」


 その後、私は、殴られたり、蹴られたり、どつかれたりした。


「何、黙りこくってんだよ。クズが。ああ」

「だってなあ。話通じんやろ。私たち」


 殴る蹴る殴る蹴る殴る蹴る殴る蹴る殴る蹴る。

「大丈夫ですか。ごめんなさいね。こいつ荒っぽくて。こら。正当防衛にもほどがあるだろ。殴る時は、手加減しろ」

「蹴る時は」

「足加減だ」


 それから、しばらく、同じことの繰り返し。低予算アニメのようだ。


 私は、ぼんやりとした。幽体離脱感を繰り返し感じたり、『痛いの痛いの飛んでけー』という在りし日の母の歌声が頭の中で反響したりした。飛んでいった先はどこなのだろう、と私は思った。痛みだけの世界か。『痛いの痛いの飛んでけー』を合図に、私の痛いの痛いのから、スペースシャトルのようなエネルギー噴射が巻き起こり、私の体ごと、どこか遠くへ飛んで行ってしまわないだろうか、と想像した。今の場合、そちらの方が良い。ぼんやりするのは、嫌いじゃないけれど、強制的にぼんやりさせられるのは、嫌だなあ、と思った。ハゴロモ川が滞留しないように、蹴り転がされる。


 それから、しばらくして、そのしばらくの間が、長くてしんどかったのだけれど、しばらくして、小谷が現れた。久しぶりだった。一週間ぶりくらいだった。なんだ、大して久しくもない。

「こんにちは」

「こんにちは」

「大丈夫?」

「大丈夫じゃない」

「そっか」

 大学生たちは、私の体をこねくり回すのに熱中しており、小谷の登場に一切頓着しなかった。きっと、まるで気がついていなかった。真夏の亡霊ないしぼうふらのように、脈略なく現れるのだ。小谷は。気がついたら、そこにいて、ちょっとびっくりする。

「そっかじゃないよ。助けてや」

「助けるって何を」

「警察呼ぶとか」

「警察って俺犯罪者だからなあ」

「匿名通報したらいいやろ」

「携帯持ってないし」

「貧乏人が」人のことは言えない。

「あなたもだろ」

「私には、働けない事情があるから」

「俺にだってあるよ」

「嘘つき」

「面倒くさいんだ。ごく一般的に暮らすのが」

 そこまで言うと手近にあった岩石に腰をおろし、小谷はポケットから取り出したタバコに火をつける。中学生のくせに。携帯電話は持っていないくせに。

「大変そうだな」

「大変とか、そうゆうレベルやないって」

「確かにな。なんだか、可哀相になってきた」

「実際、痛いしなあ。そこそこ」強がってみた。そこここが痛い。

「そこそこかあ」かなり痛かった。痛烈って言葉が脳裏に浮かんだ。

「痛い痛い助けて、って泣き叫んだら、助けてくれるんか」

「うるさいな、って思うだけかもな」

「小谷には、人情ってもんがないんか」

「ないんだろうな。あったら、人殺したり、しないよ」

 小谷は、この街では名の知れた殺人鬼だった。よく人を殺す。でも、殺しても、大抵、結局、死なないことの方が多い。多いと言うか、死んだ場合を、私は知らない。空気女になった風天小鞠とか。植物人間のうーくんとか。なんだかんだで生きながらえてる。ずるいなあ、と思う。そんな好き放題をやって、ある一定の範囲で被害が収まるなんて、ずるいだろう、と思う。

「反対の見方もできる。殺そうと思って殺してみても、生きているんだ。うんざりする」

「ありがたいやろ」世の中には、その反対も、たくさんあるのに。


 結局、小谷は、見ているだけだった。

 でも、小谷がそこにいるってことが不気味だったのか、二人の人間は、暴力に飽いて、ふらふらと何処かへ去って行った。なんだかんだ言って小谷は、連続殺人未遂犯なのだ。そんな小谷とわざわざ関わりを持とうとは思わないだろう。いくら、小谷について取材している新聞記者だって、肝心の小谷とは相面したくないのだろう頑なに視線を俯かせて歩いている。彼らは、私に唾を吐き散らして、去って行く。ハゴロモ川がすぐに私を取り囲んで、私をじゃぶじゃぶと洗う。ああうーくんっていつもこんな気持ちなんかな、って思ったりする。結構気持ちがいい。今日は、暖かいから。


 殴られ蹴られ擦られて薄くなった皮膚からじわじわと血が滲んでくる。でも、次々と押し寄せるハゴロモ川に行き場なんてなくて、細い血の筋は、繭のように、私にまとわりつく。そんなに私から離れたくないなら、出なければいいのに。まるで、乳離れできない甘えん坊のようだと思う。そろそろ私は溺れそうになる。うーくんと違って、ハゴロモ川は私めがけて流入するから、水の進みが早いのだ。小谷は、そんな私の横で、スニーカーの泥をハゴロモ川で洗っている。その泥も私めがけて流入して、目に入る。痛い。

「そんなことしとらんで、助け起こしてや」

「自分で起き上がれるだろ。面倒臭い」

「助け起こして欲しい気分なんや」

「そう言われてもなあ。俺の気分はどうなる」

「知らん。他人に斟酌する余裕なんかないわ」

 小谷は、無視した。私は起き上がって、小谷を殴った。いろんなことに疲れ果てた私の体は、扇風機の羽みたいだった。びゅんびゅんとすごい勢いで回ってはいるが、幼子のの腕力でもとめられるあれだ。私は、見掛け倒しの大げさな動作で、大振りに殴り込むが、ぺしりと、なんの威力もなく小谷の肩に拳を当てただけだった。

「ひどいことをされた後は、誰かに無性に、ひどいことをしたくなるなあ」と私は呟いて。

「そうか」と小谷は応ていた。


 よくあることだった。半年に一回くらいはあるだろうし、私以外の誰かだって体験というか体感することだろう。暴力なんてよくあることだ。信号機の数ほどありふれてはいなけれど。


 いや、そうでもないか。と私は頭を振る。

 信号機が新設される頻度と、誰かが誰かを殴ったり蹴ったりするまでのインターバルとでは、どちらがより煩瑣なのだ。少なくとも、特別な発展のないこの街には、新しい信号機も新しい道路も新しい横断歩道も新しい陸橋もひとまずは必要ないだろう。


 小谷は、よく人を殺そうとする。私には、なぜ、そんなことをしようとするのか、よくわからないけれど。この間も、見知らぬ人の指と指との間にナイフをあてがい、首の付け根まで肉を裂くということを、両手両足それぞれの指の間で行なっていた。小谷の腕がいいのか、大して痛そうではなかった。流石に、今回は死んでしまうのかなあ、と横目で眺めていたけれど、切り裂かれた方は元気なもので、涎ひとつ垂らさなかった。首から伸びる細長い肉紐二十本を器用に操り、まるで蛸型火星人のように、歩き出すことさえできたのだ。内臓はこぼしていたけど。緩慢かつ優雅な動作で。ただ、その時、どこからともなく小学生の集団が現れて、気持ち悪いんじゃボケえとかと罵って、その蛸型を蹴り倒し、取り囲み、教科書の詰まったランドセルで滅多打ちにしてしまった。元気に暮らしているだろうか。それ以降、その蛸型もあの小学生達も見かけてはいないけど。


 暴行を加えられた日は、何もしたくなくなる。きっと、暴行で傷ついた肉体を癒すために、それなりのエネルギーが必要になるからだろう。私の膚は、窓ガラスを磨いた後の雑巾のようにところどころ黒ずんでおり、ちくちくと針で突かれているみたいにそこかしこが痛む。本当に、文字通り、雑巾だなあ、私って思う。ただの連想であって、本当は、本当のところは、雑巾の気持ちなんて、私にはわからないのに。

 私は、立っているのも面倒になって、信号機の細長い鉄柱にもたれかかる。それから何もしない。できうる限り、立ち尽くして、立ち尽くすことも面倒になったらずるずるとしゃがみこんで。あたり一帯、水没させる。脱力しきった私は、背泳ぎの要領でぷかぷかと浮かぶ。こんな場所に滞留しちゃ、あかんやろう、と思ったけど。

生垣が、水圧に耐えかねて、押し倒される。煉瓦塀は、迂回する。民家の柱が、めきめきと拉ぐ音がどこからか聞こえてくる。わたしは目を瞑っている。大怪獣になった気持ちになる。あるいは、大怪獣がそこかしこにいて、地団駄を踏むとかではなくて、優雅に、一歩一歩、家々を踏み潰している様を想像する。大怪獣にとって、民家一つを押しつぶすことは、私たちが梱包用のプチプチを押しつぶすのと同じくらい容易くて、病みつきになる、特別の目的のない遊びなのだ。

 私が、悪いのではない。殴られたり、蹴られたりしたから、疲れただけだ。疲れたら、眠るだけだ。眠っている間に起きたことは、知らない。子犬がきゃんきゃんと吠える。溺れかけているのかもしれない。でも、そんなこと、知らない。

「でもなあ」

 死んでしまうのは、可哀相だなあ、と思って、ハゴロモ湖の畔まで泳ぎ渡って、歩き出す。歩いていたんじゃ、間に合わないかもしれないから、よろよろと走り出す。


「なんで、私が走らなくちゃならないのだろう。子犬なんて勝手に何処かで死んでしまえばいい」


 小谷の姿は、どこにもなくって、あれ、どうして私は殴られたり蹴られたりしたんだっけ、と考える。特に理由はなかった。


 また、いつか、特に理由もなく、殴られたり、蹴られたりするかもしれない。


 私は、しばらく走ると、すぐにいろんなことがどうでも良い気分になって、まろんで、私は道路に寝そべって、そんな私を浸すようにハゴロモ川が流入して、ハゴロモ川がハゴロモ湖になって、周囲の家々やら車やら水浸しにしたり、押しつぶしたりして、寝たきりの爺さん婆さんの悲鳴や子犬の鳴き声に、目覚めさせられて、仕方ないから、泳いで走って、しばらくしたら、やっぱり、いろんなことがどうでも良くなって、まろんで、まるで受け身も取らずに投身するものだから、全身痣にまみれて、痛くて、さらに、いろんなことがどうでもよくなった。

 私は、どこへ向かって進んでいるのか、良くわからなくなった。手当たり次第、民家を水没させ、破砕させているだけのようだった。


 気がつくと、あたりは、まるで、大津波にでも侵されたみたいに、何にも残っていなかった。

「ひどいことするなあ」と小谷が言った。

「どこにおったん」

「ここ」

「ずっと」

「ずっと。あなたが勝手に走って行って、勝手に戻って来ただけだ」小谷は、相変わらず、座り込んで、タバコを吹かせていた。小谷の周りを濃いタバコの匂いが取り巻いていた。もう、随分と長い間、そこでそうしていたのだろう。小谷の衣服も全身びっしょりと濡れそぼっている。

「あああ。疲れた」

「もう、公園に帰ったら」

「でも、大惨事や」

「素知らぬ顔をすればいい。俺はいつも、そうしてる」

「無責任だ」

「誰かが死んだわけでもないんだろ」

「多分なあ」


 小谷は、優しくないから、介抱してくれたり、一緒に連れ添ってくれたりはしなかった。私は一人で、ヴェネツィア公園に戻った。


 それから、空ちゃんを眺めたり、日向ぼっこをして過ごした。会社や学校から帰って来た大人や子供達が、どんな気持ちで、荒れ果てたこの住宅街を眺めるだろうか、と想像した。びっくりするだろうなあ、と思った。してやったり、という気持ちにもなった。びっくりするだろうなあ。してやったり。何をしてやったりなのだろう、知らない。


「あ」


「なんじゃこりゃー」


「うわー」


 夕方になって帰って来た、会社員やアルバイターや学生が声をあげた。私は、公園の中央で、両手で口を覆って、くすくすと、笑った。


「おーい、おいおい」


「怖かったよー」


「わん、わわん、わん」


 寝たきりの婆さん爺さんや、風邪で留守番してた子供達や、取り残された番犬が、甘えた声で泣き喚いた。私は、やっぱり、悪いことをしたのかなって思って、私以外誰もいない公園の真ん中で、ごめんねの予行演習を行った。


「ごめんね」


「ごめんね」


「ごめんね」


「笑いながら言った、あかんなあ」


 それからしばらく、街のみんなは、野宿して暮らした。がれきの下で、雨露をしのいで、太った人を取り囲んで暖をとった。喉が乾いたら、ハゴロモ川を飲みに来て、お腹が空いたら、畑を荒らした。電気なんて通らないから、夜になると真っ暗になって、寂しくないように手を繋いで眠った。お風呂なんて入れないから、みんな臭くなった。まだ、秋で、本格的に冷たくなる前だから、お昼の、一番暖かい時に、みんなして、ハゴロモ湖で水浴びをした。かと思うと、ハゴロモ湖の辺りで用を足す子供達もいた。私は、そんな彼らのことを、両手を望遠鏡のようにして、眺めていた。時折、私にお供えにくるお婆さん。そのお婆さんが公園の入り口に置き去りにしたおはぎを、拾い食いする子供。その後を尻尾をふりふりついていく野犬。野犬という属性のチワワ。行方知れずになった、飼い犬を探す、おばさん。

 何日か経った。私は、ほとんど毎日、一日中眠って過ごしていたから、正確な日数など分からなかった。よく、無人島に漂流した人たちが、木に刻みを入れて、日数をカウントするけれど、あれになんの意味があるのだろう。暦も曜日も、週末のデートの予定もなくなった世界で、そんなことして意味なんてあるんだろうか。そんな言わずもがななこと脈略もなく考えた。気怠かった。食べては眠り食べては眠り、そんな日々を繰り返した。時折、私の島まで泳ぎくる人たちがいて、お互いにちょっと気まずくなったりもした。お互いに、お互いの影を眺めやって、そこに他者がいることを認識して、そうっと後ずさった。そうしているうちに、身体中の傷が、癒えたから、私は、のそのそと、起き上がった。爪先立った。世界を見渡した。流石に、数日間じゃ、荒地は荒地のままだ。テントや、キャンピングカーや、プレハブ小屋が所々立ち並ぶ。お互いにもたれあう民家の間に隙間を見つけ、洞穴のように利用している人もいる。そんな荒れ野。以前より、ごちゃごちゃと、いろんなものがあり、栄えているようにさえ見えるけれど、ただ、エントロピーが自然増大した結果なのだ。私の着衣が汗臭くて、急に気持ちが悪くなって、溺れるみたいにハゴロモ湖に入って、じゃれつくハゴロモ湖にもみくちゃにされて、洗濯機で渦巻く衣類のようにしばらくの間漂流した。


「あ、どこに行くの」

「散歩」

「だから、どこに行くの」

「私も知らん」


 漂流することに飽いだ私は、ハゴロモ湖を抜け出して、荒地を抜けて、意味もなく歩き続けた。荒地の人たちは、私のことなど御構い無しだった。みんなして、私に石投げうち、私のことをいじめ殺すのではないかと、恐ろしかったが、そういう気配は伺えなかった。私が、こんな風にしたって、誰も知らないのかもしれない。

 目的地なんてなくて、特に会いたい人もいなくて、だから、ただただ、まっすぐ歩いた。道に迷う余地がなくて、時速八キロくらいで、ずんずん、と進んだ。途中で、少し怖くなったのだけれど、立ち止まる理由が思いつかなかった。


 犬の糞かと思った。生暖かかった。


「あのさあ」

「なんや」

「あかり、俺踏みつけてる」

「ああ、気づかんかったわ」足元には、うーくんがいた。うーくんの腹の上に乗り上げていた。浮いたり沈んだりした。痩せた腹で、内臓が退化したのか、ふみごこちの悪い腹だった。私は思わず、立ち止まった。

「退いてくれんのか」

「いろんなことが、どうでもようなってな」

「俺のこともか」

「いろんなことは、いろんなことや。いろいろ入っとる」

「そっか」

「いろんなことがどうでもええんやけど、だからって、何かにかまけとるわけやないんや。なんか、特定のことに気持ちが集中して、それ以外のものがどうでもようなっとるわけやないんや。ほんとにいろんなもんが、どうでもええんや」

「そっか」

「なんで、私、今こうしておしゃべりしとるんやろうなあ、って気持ちにもなるんや。ああ、うーくんに話しかけられたからや。別に、私から、おしゃべりしたかったわけやないんや。なんや。黙ろ」

「そうか」

 うーくんの腹に乗ったおかげで、少しだけ高くなった視点で、みるともなしに、私の視界の届く、一番遠くのものを眺めやった。

「うーくん」

「なんや」

「うーくん、優しいな」

「いきなりなんや」

「いろいろや」

「ようわからんが」

「踏みつけにされて、いきなり無視されて、また急に話しかけられて、返事しとる。うーくん、優しいなあ。さもなくば、ただの寂しいばかだ」

「罵っとるのか、褒めてるのか、どっちかにせえや」

「どっちでもいいんや。うーくん、あのなあ。覚えとるか」

「覚えとるって何をや」

「いろんなこと」

「漠然としすぎとるわ。でも、漠然としたもんは、記憶からすり抜けちまうもんやから、きっと忘れとるやろ」

「ばか」

「俺の記憶は、もう、九割がた、これまで見た空模様で埋まっとる」

「やろう」

「もう、ここに植わって何年もなるからなあ」

「その始まりや。うーくん。うーくんが、小谷に首切られた時んこと、覚えとらんのか」

「痛かったなあ」

「私、泣いたんやで」

「何がや」

「うーくんが、首切られて、殺された時」

「そうなんか」感慨深そうに、うーくんはつぶやいた。「そん時、俺、意識のうのっとたからなあ。初耳や」

「泣いとったんや」

「ふーん」

「二、三ヶ月くらい」

「ふーん」

「毎日ポカリスウェットばっかり飲んでなあ、泣き続けとったんや。九十日くらい」

「ふーん」

「アクエリも飲んどったかもしれん。経口補水液も。アミノなんとかも。泣きすぎて、おしっこ出んくなって、もしかして、私の目から溢れとるこれは、涙やのうて、おしっこの成れの果てなんやないか、アンモニア臭いんやないかって思ったりもしたんや」

「心配のしすぎやろう」

「そうしたらな、私の周囲水浸しなって、川か湖みたいになっとんたんや」

「ああ、覚えとる覚えとる」うーくんは笑った。「久しぶりに会ったら、川引き連れとるから、びっくりしたわ」

「私も、びっくりしたわ。死んだと思っとったら、畑の肥溜めん中転がっとって、勝手に根っこ生えとるんやから。試しに、胴体くっつけたら、接ぎ木できたんやから」

「あの時は、ありがとうな」

「どういたしまして」

「ふう」

「でもなあ」

「なんや」

「私の涙、なんやったんやろうなあ」

「川やろ」

「湖かもしれん」

「どっちかゆうたら、海かもな」

「にしては、小さいわ」


 過去に注釈を加えることはできないし、今に注釈を加えることもできないし、未来にだってできない。でも、こうしたもやもやした思考がまさに注釈なのかもしれないな、て思った。


 あの時、肥溜めの中に転がっていたうーくんからは、糠漬けみたいな匂いがしたなあ、と、その匂いを、思い出す。風が吹いても、鼻の奥に張り付いたみたいに、匂いは消えなかった。髪がばたつくばかりだった。


「いい眺めや」私は呟く。「いつも思うんや。もう五、六センチばかし背え高かったらな、て。子供の頃から、そうや。ゼロ歳の頃は知らんけど、三歳とか、幼稚園くらいの頃からそうや。クラスで一番背え高い子に憧れとったわ。五、六センチの差が、憧れやったわ。ふと思い出したわ。いい塩梅や。うーくんの腹の厚みわ」

「そうか」とうーくんは落ち着いた声で答える。

「あのなあ」と私は呟いた。「うーくんのこと、引っこ抜いてもええか。いや、引っこ抜くんは面倒やから、根っこの根っこんところ、だからアレな、根っこの生え際んところ、アスファルトのかけらかなんかでな、ガンガン叩き折ってもええか」

「怖いことゆうなや」


「根っこんところ切り離したらな、うーくんの体、筏みたいに、ハゴロモ川ん浮かべて、一緒にどこか、遠くへ行こうや」

「そんなことしたら、俺死ぬやろ」

「死なんかもしれんやろ。そのうちまた生えてくるかもしれんし」

「根っこのうのったら、養分も水も吸えんし、干からびて死ぬやろ」

「干からびたって、しわしわになるだけやろ。ハゴロモ川につけとったら、そのうち治るわ」

「そういうもんかなあ」

「そういうもんやろ」

「ふーん」

「ん」

「じゃあ、そう、するか」

「そうって」

「さっき、あかりがゆったこと」


「でもなあ」と但し書き。「少しずつやってな。いきなり鉈でぶった切るんやのうて、ノコギリかなんかで、少しずつ、な。で、めっちゃ痛なったり、根っこから血がポタポタ垂れたり、なんか知らんけど、このままやったら、きっと死ぬわって、思ったら中止してな。多分、少し傷つくくらいやったら、大丈夫やろうから」


「え、う、あ」私は、少し、急に、怖くなって、その場を立ち去る。その腹からポン、と飛び上がる。

「どこへ行くんや」

「あ、あれや」

「あれってなんや」

「あれは、あれや」

「だから、なんや」

「ノコギリ取りに行くんや」

「それもそうやな。早よしてな。いや、気長に待っとるから。焦らんでええからな」

 私は、十数歩離れてから、思い出したように、手を振って、さよならを言った。うーくんは、もはや、水没しかけていて、ごぼごぼごぼお、みたいな不明瞭な台詞を吐いた。自分で、ふっと、言い出したことだったけれど、想像すると、怖かった。「私が、うーくんを、切るんかあ」って呟くと、現実感が、薄らいで、とてててて、とピンボールみたいに、(車道側の)ガードレールにぶつかって、(畑側の)ガードレールにぶつかってを繰り返した。気持ちを取り直そうと、「私が、うーくんの、大事なあそこを切り取るんかあ」とあえてボカして、卑猥っぽく呟いた。「グヒヒヒ」って笑いも添えてみる。うん、いい感じだ。

 どこか、遠くへってどこなんだろう、と頭の片隅では考えていた。


 くちなしれんかが、鉄箸を、アスファルトに突き刺していた。カンカンカン。「納、豆ぅい」

それは、納豆じゃないよって、言いたくなった。でも、そんなこと、百も承知かもしれなかった。足元、というか、引力引っ張る方には、おそらく、生命は、少なくとも人命はいないだろう。だから、引力で粘つく方の納豆を、かき混ぜてやろう、と考えているのかもしれなかった。でも、そうなると、うーくんが危険だな、と思った。でも、くちなしれんかも苦しそうだった。ずっとずっと、ずっと、納豆をかき混ぜたくて、かき混ぜたくて、待ち焦がれて、我慢していたのだ。そんな彼女に、当事者じゃない私が、なんて言葉をかけたらいいんだろう。

「また、会ったね。くちなしれんか」

「なん、や。納豆、か」

「納豆やないで。人間や。ただ、見かけたから、声かけただけ。元気そうで何よりや。また、ね」

「あ、待って、や」

「なに」

「わたし今、納豆、かき回し、とるんかな」

「アスファルト」

 この広い世界、どのくらいのパーセンテージを、納豆が占めているんだろうか。

「どうり、で、ねばり、が、足らんわ、けや」

 彼女は、スックと立ち上がると、どこへともなく歩いて行った。信号も納豆。車道も納豆。ならば、クラクションの音も、きっと納豆なんだろう。書き割りのような山並みの方へと、消えて行く。失恋した女の子のように、しょんぼりと肩を落としている。


 納豆小屋なるものを、想像した。一辺二メートルくらいの、正六面体の小屋である。そこには、扉が一つだけあり、窓はない。その小屋には、うず高く納豆が積まれている。だいたい、体積の八割くらいが納豆である。壁は、鋼鉄でできており、ちょっとやそっとじゃ傷つかない。くちなしれんかが、いつでもそこへ入ることができ、思い切り納豆をかき混ぜられる小屋だ。そういう小屋があればいいのにな、と思った。


 私は、しばらく、納豆小屋のディティールを想像しながら、歩く。どこかに、ノコギリは、落ちていないものだろうか。うーくんを地面から切り離したら、どこへ行こうか。そんな事どもを、もやもやと、考えながら。


 手に手に武器を持つ群衆が、私を追い越して行く。どこか遠くへ。山の方へ。雄叫びをあげるものもいる。疲れるだろうに、くるくる舞い踊りながら、流されて行くものもいる。感極まって、ガードレールに齧り付くもの。アスファルトに正拳突きを食らわせるもの。鍬や鋤や出刃包丁や木刀や、算盤や電化製品や三輪車や下駄、とにかく固そうなものを皆々握りしめている。物騒だ、と思った。

 見知った顔が一人いた。飛んだり跳ねたり、踊っていた。

 私は、彼らに混じるお姫ちゃんに訊いた。「どこへ行くん。なにをしに?」

「知らんけど、おもろそうやから、混じっとるんや」野次馬だった。

 ハゴロモ川を踏み越えて行く、バシャバシャという音。私は彼らの邪魔にならないように、ガードレールを跨ぎ超えて、ガードレールと畑との、あってないような隙間に身を置いた。お姫ちゃんも、ガードレールをくぐって、こちらに来た。歩道も車道も関係なく、何百人という人々が流れ行く。

「ついて行かんのん?」

「あかりちゃんとおる方が面白そうやからなあ」

 私は、しばらく、彼らを眺めていた。大人も子供もいて、女も男もいた。彼らのうち、一人でも、ノコギリを振り回している人がいたら、なんとかして譲ってもらえないかな、と思った。そんな都合良く、事が運ぶだろうか。ノコギリ、ブンブン振り回している人に声かけるのは、勇気がいるな、とも思った。スっちゃおうか。それも、それで、恐ろしい。スーツ姿の人もいたし、どてら姿の人もいた。素っ裸に近い人もいたし。上が背広で、下寝巻きみたいないな人もいた。でも、大半は、ありきたりな普段着姿の人たちだった。量販店で売っていそうな、格子柄や縞模様の、色だけ変えてお互いに識別し合う、そんな洋服姿の。名前は知らないけれど、見知った顔が、何人もいた。子供の頃、隣に暮らしていたおじさんとおばさんと子供。ヴェネツィア公園前のバス停をいつも利用しているおじいさん。ヴェネツィア公園周辺の人々が、大挙して流れて行くみたいだった。

「みんな、どこへ行くんだろう」

「さあ、なあ」

「なんか、言っとらんかったん?彼ら」

「口々に、殺せ、殺せってなあ」

「物騒やなあ」

「ヘヴィメタルとか、デスメタルみたいな、アレやないんかなあ」

「ブツ持っとるし、本気やろう」

「みんな本気になれるものがあるんやなあ」

 お姫ちゃんも、ついさっきまで、あそこに混じっていたくせに、他人事のように言う。

「ヘヴィメタルとか、デスメタルとかの、アレやと思っとったんや」言い訳のような注釈のような、お姫ちゃんの台詞。

「アレってなんや」

「本気やないんやろうなってことや」


 みんな怒っていた。怒っていたらしかった。耳をすませると、口々に、罵りの言葉を吐き出していた。楽しそうに怒っていた。本当に、怒っているのだろうか、って少し不思議に思った。串刺しとか、八つ裂きとか言っている人の横で、アハアハと笑っている子供や老婆が居る。祭りの神輿行列のように、だらだらと、彼らは間延びして進む。私は、彼らの最後尾が通り過ぎると、最後尾のあと十メートルくらいをついて歩いて行く。後を追って居るわけじゃなく、しばらく、一本道が続いて居るだけ。だいたい、同じ方角に向かって居るだけ。彼らは、純喫茶『コンビニ』の角を折れて、ハゴロモ連山へ。私は、なんの目的地もないまま、直進する。しばらく迷って、私の後をついてくるお姫ちゃん。


 彼らの顛末は、後になって、風の噂で聞いた。風にたゆたう風天小鞠から聞いた。退屈だったから、はるか上空から眺めていたそうだ。シフト休だったそうだ。彼らの大半は、山に住まう怪獣に殺されて、食べられて死んだ。散り散りに逃げた、何人かは、そこらの熊や猿に襲われて食料になった。

「どうして、そんなことしたん?」って私。

「知らないけど、もしかしたら」と風天小鞠。「街を破壊したのは、怪獣だって、思ったんじゃないですか。それで、みんなで、怒髪天。殴り込みに行ったら、逆に食べられたのでしょう。怒ると、人は、無謀なことをしでかすものですね」

 後には、彼らの武器が不法投棄の塵となって散乱した。

「私のせいなんだね」他人事の気分になった。こんな気分のままじゃいけないな、とも思った。舌でも噛みちぎるくらい悲しまないと。「申し訳ない」

 ハゴロモ市は、過疎化の一途をたどっている。


 群衆と別れて、私は、相変わらず、お姫ちゃんと二人で国道の上。歩いたり、立ち止まったり、歩いたり、立ち止まったりしている。あまり、ツカツカと先を急ぐと、私たちがこれまで行ったことのない場所へ、簡単に行き着いてしまうから、時折、立ち止まって、空ちゃんを眺めたり、水平線を指でなぞったりした。


 国道の、どこにも、ノコギリは、落っこちていなかった。ナイフ一本落っこちていなかった。まあ、ナイフなら、調理用のものが、ヴェネチア公園にあるのだけれど。


「刃物が見つかったら、この街から出て行こうと思っとるんや」

「ようわからんなあ」とお姫ちゃん。

「私の中では、繋がっとるんや」と私の身勝手な主張。

「どこへ行くん」

「何処か遠くへ」

「曖昧やな」

「この街のほか、なんも知らんからな、私たち」知らない場所へ行きたいだけなのだろう。私が、まだ、見知らぬ場所へ。

「そこへ行って、何がしたいん?」

「特に、何も」未定。何もかも、未定。


「お姫ちゃんも、どうせ、死ぬんやろ。なら、さ、一緒に行こうよ。少なくとも、生き埋めには、ならない場所へ」

 お姫ちゃんは、黙り込んでいる。真剣に、悩んでいるみたいに、あー、とか、うー、とか、言葉になりかけの吐息を漏らしては、口を閉じている。

「お父さんがな、頼んでくれるゆうとったんや。小谷に。小谷に、あたしを、生き埋めにするん手伝ってくれってな。小谷にやったら、殺す気でやっても、なんだかんだで、死なんやろって。もし、小谷が、埋めてくれるんやったら、多分、あたしは、死なない。土ん中埋まるだけで。やったらな、逆もありやと思うんや」

「逆ってなんや」

「あかりちゃんもな、あたしと一緒に、生き埋めになるってこと」

 しばらく、両天秤にかけて、考えたけれど、

「いややな」

「そっか」

 私は、どこか知らない場所で、野垂れ死ぬことに決まり、お姫ちゃんは、土の中で、一人生きて行くことに決まった。


 私は、一旦ヴェネツィア公園に、調理用のナイフを取りに帰った。やっぱり、国道をいくら彷徨ったところで、ノコギリには出くわさないだろうから。


 根っこを八割くらい切り裂いたところで、あとは、力任せに、引きちぎることにした。これ以上時間をかけると、うーくんが溺死してしまいそうだったから。お姫ちゃんも手伝ってくれた。気象庁職員も手伝ってくれた。彼らは、初め、うーくんがこの地を去ることに、渋ったが、うーくんと友達でもあったから、最後には、まあ、それもいいか、と許してくれた。根っこから血は流れなかった。うーくんも、ひとまずは死ななかった。しばらく、意識白濁していたけれど。


「蓮華の花をイメージするんや」って私は、うーくんに助言をする。うーくんは、ぷかぷかと、ハゴロモ川に浮かんでいた。

「蓮華の花なあ」

「水生植物をイメージするんや」

「イメージゆうてもなあ」

 うーくんは、根っこが切れた後も、まるで手足が動かず、植物人間のままだった。だから、新しい根っこを生やす必要があった。

「うーくん、あなたは、差し木中のポトスなんや」


「でも、黙りこくってもらってはダメだ。そこまで植物に、成り切ってもらってはダメだ」


 生活の必需品は、木箱に入れて、うーくんと一緒に、ハゴロモ川に浮かべた。当座の食料も、同様にした。


「さようなら」

「さようなら」


「こんにちは」

「こんにちは」


「どこかへ行くの?」

「うん」


「さようなら」

「さようなら」


「どこから来たの?」

「あっちから」



追記、切り株となったうーくんの根っこからは、その後しばらくの間、目玉やら、胃腸やら、肉の塊が、出芽した。臓器移植に利用された。


追記、風天小鞠は、人間バレーボール中、強烈なスパイクにより破裂した。でも、肉の方の風天小鞠が、丁寧に裁縫したから、事なきを得た。


追記、ヴェネツィア公園周囲は、もう、誰も暮らしていない。


追記、私がいなくなって、ハゴロモ連山は、乾いた紙粘土のように瓦解したそうだ。


追記、田畑には、用水がひかれたそうだ。


追記、小谷は、今日も誰かを殺し損ねてる。

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川と歩く。 @DojoKota

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