くっ……! 帝国騎士団長である私がこんな美味しそうなごはんに屈するわけがない!

山本コーリン

プロローグ 真夜中のラーメン

 アル=カザ故郷ンサの夢を見た。


 抜けるような晴天の午後、私たちは帝都に帰ってきた。


 108名から成る帝国騎士団の兵たちが、たったの一人も欠けることなく、皇帝陛下の待つ城へ向かって歩いている。


 そうだ、これは魔王討伐の凱旋パレードだ。


 通り沿いの商店の屋根に上った子どもたちが、両腕いっぱいに抱えた、色とりどりの花々を撒いている。この日のために、どこかでせっせと摘んできたのだろう。


 帝都は歓喜に満ち満ちている。平民も、移民も、獣人も、浮浪者も、貴族もみな、大きく手を振り、大声で叫んでいる。叫ぶ言葉はすべて賛辞と労いだ。


 私たちはこの日のために旅立ち、戦い、そして帰ってきた。


 部下たちもみな、無邪気に手を振り返している。血の染み込んだ鎧も、土埃の浮いた黒い汗も、今日ばかりは美しくきらめいている。


「お姉様!」


 と群衆の中から声がした。大気が震えるほどの人々の叫びの中にあっても、私がこの声を聞き逃すはずはない。誰よりも再会を願った、我が愛妹の声だ。


 細い体で人垣を押しのけて、紫色のフリルドレスを着た、美しい我が妹が現れた。妹は私に抱きつくと、柔らかな頬を何度も、私の胸にこすりつけた。私の肉体がここに在ることを確かめるように、霧の幻影でないことを確かめるように、何度も、何度も。


「お姉様なら、必ずやり遂げてくださると信じておりました」


 私の胸に顔を埋めたまま妹が言った。ああ、この瞬間をどれほど待ちわびただろう。軍神に見染められた私が私自身に許した、、それがお前の美しい髪にもう一度触れることだった。


 私が妹の頭にそっと右手を伸ばすと、妹はハッと息をついて、私の顔を見上げた。吸い込まれそうなほど深く、澄み切った青い瞳で。


わたくしが差し上げたお守りは……?」


 一瞬、心臓が跳ねた。高価な壺を壊した子どもが、夕餉ゆうげの食卓で不意に、親に名を呼ばれたときのように。


 返答に詰まり、右手は空中で所在なさげに置き場を探っている。妹は私の答えを待っている。果たして私に、この髪に触れる資格があるのか、そのことを問われているようだった。


 しかし一呼吸置いて、なにも恥ずべきことはないと強く思い直し、私は白状した。


「すまない。お前にもらった望海貝のぞみがいのタリスマンは、人にやってしまったのだ」


 妹はきょとんとした顔をして、そのあとすぐに微笑んだ。ああ、まるで天上に咲く花のようだ。万物の神すら欲する物があるとするならば、それはこの微笑みに違いない。


「旅の途中、部下のアルザスという男にやってしまったのだ」


 励ましてやりたくて……と言いかけて、喉に違和感がつっかえた。そうだ、あのタリスマンは確かにアルザスに託したのだ。死ぬのが怖いと嘆いた彼に、生きて帰れたならば、女に結婚を申し込むと言った彼に。そしてアルザスは死んだ。戦場で、他の部下もろとも。帝国騎士団108名、私とマルコを除いた106名が、あの戦場で無残に死んだ。それが事実だったはずだ。


「構いません。お姉様さえ、無事に帰ってきてくだされば」


 その声は、機械に録音された声のように冷たく、体温を失っていた。私はもう、気づきはじめてしまっていた。ここが現実の帝都ではないことに。


 それでもどうか、と願いながら、私は妹の背中を抱いた。妹の肉体がここに在ることを確かめるために、霧の幻影でないことを確かめるために、祈るように、強く、強く。


 妹の体は、ゼリーのようにぐにゃりとひしゃげてしまった。皮膚と肉体がドレスごとちぎれて、上半身はぐちゃりと水っぽい音を立てて、地面に落ちた。


「ああ、お姉様、どうして」


 崩れ落ちていく妹の体をどうにか元に戻そうと、地面に這いつくばって欠片をかき集めても、今度は指の隙間からぼとぼとと零れ落ちていくばかりで、妹がだんだん小さく、細かくなっていく。


「嫌だ、ようやく会えたというのに、アルマ!」


 妹の欠片は、星の中心に引きずりこまれるように、石畳の隙間から地中に吸い込まれていく。フリルドレスの紫と、白い肌と、栗色の髪と、青い瞳が溶け合って、灰緑のマーブル模様になって。


「お姉様、どうか、このまま目を覚まさないで」


 声だけになった妹が耳元で囁いた。私はもう、完全に理解してしまっていた。夢を見ながら、「夢を見ている」と。妹の声が空気に溶けて消えきった時、民衆の声も消えていることに気がついた。周囲を見渡すと、人々の姿はどこにもない。帝国騎士団も、音もなく、ただ灰色の帝都がそこにあるだけだ。


「団長」


 振り向くと、そこにマルコが居た。いつもと変わらぬアホ面で、久方ぶりに補給兵の鎧を着て。


「ラーメン食いに行きましょうよ」


 マルコはそう言って笑った。もし今、目の前に神が現れて「お前とラーメン」か「妹との再会」か、どちらかを選べと言われたならば、私は躊躇なくお前とラーメンを粉々に打ち砕くだろう。


「……ハハ」


 そんなことを考えながら、私はなぜか笑っていた。諦めに似た、乾いた笑いだった。



 ………………———―———―——


「……あ」


 騎士団長が目を覚ますと、時刻は午前1時前だった。ベッドサイドチェストの上に置かれたデジタル時計が00:49を表示している。彼女がベッドに入ってから、90分かそこらしか経過していなかった。それにしては、十分な睡眠を取った後のように、頭は冴え切っていた。


 頬が微かに濡れていた。


 カーテンの隙間から、自動車のヘッドライトが差し込んで、部屋の中を駆けて行った。ベッドから起き上がり、カーテンをめくって窓の外を見ると、当たり前に夜だ。


 部屋を見渡す。見間違うはずもなく、見慣れた六畳一間だ。


 デジタル時計の隣には、『機動戦士ハンサム』のチャア少佐の赤い機体のフィギュアが、物も言わずに立っている。ベッド脇には丸いちゃぶ台、その上には空のサッポロ黒ラベルのロング缶が数本、意味もなくボーリングのピンのように並べられている。壁には、もうずいぶん長いこと袖を通していない、かつて戦場を共に駆け抜けた紫曜鋼の鎧が、タコ糸と釘で固定されている。


 ドアにかけられた姿見を見ると、身長192㎝のエルフの女が、パツパツのジェラートピケの寝巻を着て、そこに立っていた。頬の涙の乾いた跡が、静かに光を反射した。……これが「千戦不敗」と謳われた帝国騎士団長の姿か。


 騎士団長はフッと鼻で笑うと、指の背で涙の跡を拭い去った。


 ああ、紛れもない私の部屋と、現実だ。


 騎士団長はため息をついた。もう一度眠りに就けば、妹にまた会えるだろうか。それとも夢の続きを見るだろうか。しかし、ベッドに入ったところでしばらく睡魔はやって来ないだろう。彼女は感覚的にそのことを確信していた。


「よし」


 こんな夜はラーメンだ。騎士団長は決心した。


 真夜中の孤独を癒してくれる物は、ほかにない。そもそもこの辺りで、この時間に開いている店と言えば、ラーメン屋かコンビニくらいのものだ。コンビニでカップラーメンでも買ってこの部屋で食うか? いや、一層虚しくなるだけだ。


 騎士団長は寝巻の裾を捲り上げた。このジェラピケの寝巻は、これでもフリーサイズなのだが、彼女には小さすぎて、着るのも脱ぐのも一苦労だった。ほとんど下着のように体に密着して、眠るにはいささか窮屈だった。それでも彼女が律儀にこの寝巻を着続けるのは、これを贈ってくれた娘が、騎士団長に好意を寄せているであろうことを、騎士団長自身もなんとなく察しているためだった。


 やっとの思いでジェラピケを脱ぎ捨てると、常人離れしたスタイルが露わになった。引き締まった筋肉に、あまりにも豊満なバスト、橋脚と見紛うほどに長い両脚は、小学一年生なら屈まず通り抜けられそうなほど、高く聳え立っている。


「…………四天王より手強いぞこの寝巻」


 騎士団長はそうこぼすと、寝巻をベッドの上に放り投げた。実際、彼女が魔王軍の四天王撃破に要した時間は、一体あたり約5秒だった。脱ジェラピケに要した時間は25秒。実に四天王5体分に匹敵する強敵だった。


 くしゃくしゃに放置された部屋着を床から拾い上げると、軽くパンと振ってシワを伸ばした。ドン・キホーテで買ったTシャツと、ナイキのランニングショートパンツだ。Tシャツは外国人観光客向けに売られていたもので、US規格のXLサイズだ。紺地に白い東京スカイツリーのシルエットと、漢字で大きく「摩天楼」と書かれていて、友人たちに「気が知れない」と強く非難されたものだが、騎士団長は結構気に入っていた。


 腰まで伸びた長い銀髪をヘアゴムでゆるく縛って、玄関へ向かうと、漫画雑誌の束に突き立てられた暴風剣ヴェンダバルと目が合った。そんな気がした。

 ——出かけるのか。戦闘になるなら、俺も連れて行け。そんなことを言っているようだが、あいにく今日は、いや、しばらくお前を使う日は来るまい。


 いい加減、まともな置台を用意してやらなくては、とホームセンターやニトリの近くを通りがかる度に探してはいるのだが、なかなか暴風剣ヴェンダバルに合う置台は見つけられないでいた。


「許せ、我が相棒よ」


 騎士団長はそう呟くと、靴箱の上に置かれた小さながま口を取り、中身を確認した。小さく折りたたまれた千円札が4枚ほど、それに小銭が数百円分入っていた。これなら、余計なトッピングさえ控えれば、3杯、いや4杯は注文できるだろう。

 近頃、キャッシュレス決済の店が増えて不便することも多いが、行きつけのラーメン屋が食券制である限り、私は断然現金派だ。そう心の中で宣誓すると、彼女は手首を軽くスナップしてがま口を閉じた。パチッ、と矜持に満ちたクラップが鳴った。


 玄関には、ドクターマーチンのブーツとナイキのサンダルが佇んでいる。サンダルは27㎝のメンズのカームだが、踵がはみ出して、つま先重心で歩く形になってしまう。これだけはどうにかならないものか、と彼女は常々思っている。今度、ドン・キホーテでサイズの合うものを探してみよう。


 ドン・キホーテはいい。珍奇な人々がありふれているから、私を見ても、大抵の人は気にも留めず買い物に戻っていく。帝国においても私は背が高い方だったが、ここ日本においては、文字通り群を抜いている。赤い瞳も、褐色の肌も、尖った耳も、銀の頭髪も、どれもこれもがこの国では珍しいらしく、カメラを向けられたり、職務質問を受けたり、コスプレと呼ばれたりは日常茶飯事だ。それがドン・キホーテにいる間は、あまり干渉されない。ドン・キホーテの買い物客はなぜか、画一的な日本人の容姿から逸脱していることが多いから……。


 騎士団長はドクターマーチンの紐をくくる手間を惜しんで、サンダルを選んだ。そう遠い道のりではない。そもそも彼女は靴下も履いていなかった。


 銀色の丸いドアノブを軽く捻ると、一瞬、力を込めてドアを押す。建付けが悪いのか、開ける時も閉める時も、扉が地面を擦るザリッという音がする。力を込めすぎると、ドアごともいでしまうので、慎重に。一度開いてしまえば、あまりにも軽い木のドアなのだが、開け閉めの都度、少し難儀する。


 いつかきっと、こんな取るに足らない習慣も、懐かしく思う日が来るのだろう。


 砂ばったアパートの二階の踊り場を歩くと、じゃりじゃりと音がした。サンダルに砂が入れば億劫だ。砂を跳ね上げないよう、ゆっくり歩いて階段へ向かう。


 赤錆の浮いた鉄の階段は幅が狭く、ところどころ鉄が腐食している。おまけに頭上のトタン屋根は低く、騎士団長は腰を屈めて頭を下げないといけなかった。一歩ずつ慎重に下る。ミニチュアの家を出るように、壊さないように、繊細に。


 路地を抜ければすぐに大通りだ。環状八号線。この都市の動脈。帝国では考えられないことだが、こんな真夜中にも、自動車は絶え間なく往来している。みなどこから来て、どこへ行くのだろうか。


 ……真夜中、大通りを走る自動車を眺めるのが好きだ。


 仕事の帰りだろうか。だとすればずいぶん遅い。それともこれから仕事だろうか。だとすればずいぶん早い。なにかを運んでいるのだろうか。誰かに会いに行くのだろうか。


 道行く自動車の一台一台に人生がある。その一つ一つの人生の行先がいつか、私の行く道と交わる日が来るのかもしれない。来ないかもしれない。気がつかないまま、すでに出会っているのかもしれない。人生は想像力を超えて、際限なく複雑に絡み合っていく。


 今しがた目の前を通過していった品川ナンバーの車と、サハラ砂漠で旅人を乗せて歩くラクダの行先は、決して交わることがない。しかし同時に、常に、いつか出会うかもしれない未来の可能性をはらんでいる。そして彼らは今も間違いなく、一つの空の下で繋がっている。その理屈と感覚が、騎士団長をいつも安心させた。再び抱き合える日が、今は想像できなくとも、いつか現実は想像を超えて、私と妹を出会わせるだろう。そして今もきっと、私たちの空は繋がっているはずだ。


「アル=カザ帝国ンサからやって来て、環八の果てへ向かうのか」


 騎士団長はそっと呟いた。過去と未来を味わうように。感傷と希望を噛みしめるように。


 ようやく、と言っても5分の短い道のりを経て、騎士団長の愛するラーメン屋『からまし屋』の電光看板が見えてきた。縦長の看板の上4分の1が消えて『ーメン』と光っている。さいわい、まだ営業中のようだ。


「団長」


 振り返ると、マルコがいた。いつもの夕暮れ色の短髪に、グレーのスウェットパンツ、プーマのサンダル、黒のアンダーアーマーのTシャツという出で立ちだ。二人は偶然の出会いに驚いた様子もなく、自然と並んで歩き始めた。マルコもこの近くのアパートに住んでいるのだ。


「団長もラーメンすか」

「ああ」


 店に着くまでの僅かな距離を歩く間に、二人はぽつぽつと言葉を交わした。


「夢を見た。故郷の夢だ」

「へー」


 マルコは興味なさげに、右手の小指で鼻をほじりながら返答した。少しの間を置いて、騎士団長は、なるべくさりげなく、それが重要な問いに聞こえないよう、注意を払いながらマルコに尋ねた。


「お前はアル=カザンサに帰りたいと思うか」

「まったく思わないですね」


 マルコの食い気味の返答に、騎士団長は少し笑ってしまった。


「団長は帰りたいんですか」


 騎士団長の脳裏に、妹や両親、そして死んでいった帝国騎士団の兵たちの顔が浮かんだ。


「……あまりにも多くのものを残してきた」


 二人はついに『からまし屋』の戸の前に立った。この店の入り口の引き戸は異様に重く、子どもや老人の力では開けるのが困難なほどだ。実際、初めてこの店を訪れた人間がこの戸に触れたとき、あまりにも開かないものだから、鍵がかかっているものと勘違いし、入店を諦めてしまうこともままある。この店にホスピタリティの概念はない。それでいて常に繁盛しているのだから、この店の味がどれほど多くの人の心を掴んできたか、この重い引き戸が誇らしげに証明しているようだ。


 騎士団長は引き戸にそっと手を掛けた。


「だけどここのラーメンは、ここにしかないですからね」


 マルコが言った。当たり前のことを、当たり前に。ああ。騎士団長は声に出さなかった。頷きもしなかった。返事の代わりに、騎士団長は勢いよく戸を開いた。引き戸は粉々に砕け散り、まるで暴走したトラクターが店内に突っ込んで来たような、凄まじい音が鳴り響いた。


 ベトナム人店員が飛び上がって叫んだ。


「店長! また来た! デカ女とハダカ男!」


 厨房の奥から、半狂乱の店主の怒号が聞こえてくる。


「塩撒け! 塩!!」


 ああ、いつものこの店だ。騎士団長もマルコもそっと微笑んだ。マルコは冷水器に水を注ぎに行く。騎士団長はカウンターの椅子に着席すると、優しい調子で店員に告げた。


「チャーシューメンの特盛。5杯くれ」

「はい、団長のお水」


 こんな夜も、たまには悪くない。




●tips! 『チャア少佐』


 人気アニメ『機動戦士ハンサム』に登場する人物。100戦100敗、なおも五体満足。何度も死んだと思われて、何度も昇級し、少佐の地位になった。彼の葬式はこれまでに9回挙げられ、墓も9個ある。機体の赤色は彼の血の色だと言われている。

 あまりにも弱いため、最も出来の悪い機体を押し付けられた。メカニックたちもロクに整備してくれないため、戦場で頻繁にエンストしたり関節が外れたりする。しかし、まともに戦えないが故に、奇跡的に100回生還しているとも言える。

 機体の呼び名は『チャア専用ジャク』。

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