尾道民宿裏噺〜道後老舗旅館の若様にはご用心〜

岡田遥@書籍発売中

第1話



「わたし、将来はひとりで生きてくの!かっこいいキャリアウーマンになって、〝ととや〟を世界で一番のみんしゅくにしてあげる!」




 当時は、そんなことを言う子供だった。

 世の中には自分の好きなものと、嫌いなものとがあるだけで、何かを決める時に迷うことだってそうそうない。

 まさしく初志貫徹。

 一度心に決めたことをやり通すのは、特別得意な方だった。


「あなたの穏やかな人柄や、あたたかい声音を聞いていると安心する。心が癒されます」


 彼に素の自分を見せたことは一度もない。

 だって女性らしく、物腰柔らかく気品があって、文字通り旅館の女将のような女性が彼の好みであることは明らかだったから。

 偶然そういう自分を演じている時に身染められて、それからは彼の望むまま演じ続けた。

 苦に思ったことは、意外とない。

 だって彼は認めてくれたから。



「あなたと一緒に、僕がこの場所を守っていきます」



 この小さな民宿を嘲るでも馬鹿にするでもなく、まっすぐ評価し、そう言ってくれた。

 だから七緒は一生ついていこうと思ったのだ。

 彼のために、どんなことでもしようと思った。



 それが数年越しに、ぽっきりと裏切られることなど考えもせずに。





**






「はっきり言いますが、あなたとの交際は『市場調査』でした。あなた自身を心から愛していたわけじゃない。もともと釣り合いも取れていませんでしたし、一旦お遊びはここで終わりにしませんか」

「…………はい?」



 三十一歳。結婚適齢期やや超過。

 あの約束からは五年の月日が流れていた。


(………いや、まさか。幻聴よね?)


 溺愛されていた――とは言わずとも、憎からず思われていると信じ込んでいた恋人から、あなたとの交際は市場調査だったと告げられることなど、そうそうあっていいはずがない。

 しかも、周囲の友人たちの結婚ラッシュなんかとっくに落ち着き、なんならベイビーラッシュが来始めているこのタイミングで。



「聞いてるんですか、七緒さん」

「え、ええ」


 七緒が咄嗟に頷くと、恋人――元恋人、佐久間 薫は、細縁の眼鏡を、人差し指の第二関節でくいと上に押し上げた。

 神経質な彼らしい、七緒が好きだった仕草の一つ。

 透き通るような中性的な美貌は、こうしてただ椅子に座しているだけでも周囲の女性達の視線をほしいままにしている。

 それは、七緒が彼と出会った五年前から何も変わらない。



 ――ネル アジュール 東京ベイホテル。

 銀座エリアの一等地に位置し、総客室数は102部屋。広々とした客室と落ち着いた色調、洗練された調度品でまとめたエレガントで快適な空間が売りの高級ホテルは、専用のバー、専任のコンシェルジュ、ジャグジーや屋内プールなどあらゆる需要に合わせた屋内施設が併設されていることでも有名である。

 そして、若くしてそのホテルの支配人を任されているのがこの彼、佐久間薫だった。


 対する七緒は、広島の小さな港町、尾道にあるささやかな民宿「とと屋」の一人娘。

 客入りはほどほど。

 エレガントというか庶民的。

 彼と自分が釣り合っているかといわれれば、そんなのは聞くまでもない。


「……じゃ、じゃあ、薫さんは……今日はここに、私との関係を、清算しに来たと?」

「まあ、そうなりますね」


 頬をひくつかせながらどうにか尋ねれば、大判のメニューを開いたまま薫はけろりと答えた。

 七緒はくらくら眩暈がするのを必死で堪えながら、視線をテーブルの上に向ける。


(…………全然、気づかなかった)


 震える指先を握り込む。

 もともと連絡は多く取り合う方ではなかったのだ。お互い仕事で忙しくしていたし、時々電話で声を聞いた時も、出張で東京に出向いた時も、彼が来てくれた時も、薫はいつも通りの態度だった。


「……ごめんなさい。私、ちっとも気が付かなくて……」

 ぐっと滲む涙を堪えていれば、薫は呆れたように短いため息をつく。

「年甲斐もなく泣かないでくださいよ。少女でもあるまいし」


 七緒は静かに息を呑んだ。

 薫の目はとっくにこちらから外されている。

 こんなに突き放されるほど彼の心が離れていたことに、七緒は本気で気が付かなかった。


「これを見てください」

 薫から差し出されたのは、業界でも有名なラグジュアリー向けの旅行誌だ。

 表紙をかざるのは確か松山で有名な老舗旅館。



「七緒さんは今、国内外の富裕層の注目が日本の――特に四国に集まっているのはご存知ですか?」



 熱のある声でされた唐突すぎる問いかけに、七緒は力なく首を振る。

 正直言って今はそんなことについて話している気分ではない。

 一体自分のどこに非があったのか、そればかりが七緒の頭をぐるぐると回っていた。


「日本が観光立国として世界に認められて10年。ゴールデンルートと呼ばれた、いわゆる北海道、東京、京都、大阪、沖縄の五都市はられました。そして次に彼らが目をつけたのが、食も観光資源も豊富な四国」

「……はぁ」


 七緒が曖昧な返事を返すと、薫は今一度眼鏡を押し上げて強く言った。まるで出来の悪い生徒を前にした教師のようだ。


「私はあなたと出会った5年前から、この流れを読んでいた」


 しかし四国の目ぼしいエリアにはすでに他の大手ホテルが目をつけ土地の買い付けまで進めており、最も人気の高い松山道後は創業数百年の老舗旅館が幅を効かせている。

 だからこそ〝尾道おのみち〟に目をつけたのだと彼は言う。

 いつからか、得体の知れない嫌な予感が七緒の胸を占めていたが、それは唐突に、実態をなして七緒の前に突きつけられた。



「尾道は本州と四国を結ぶ重要な拠点です。新幹線の通る福山駅とのアクセスも悪くない。さらに、あなたのご実家『民宿 』は、施設こそ貧相でニワトリ小屋レベルですが、あの立地はなかなか素晴らしいものがある」

「…………にわとり小屋………?」


 七緒の目が、ゆっくりと見開かれていく。

 薫は失言に気付いたように口元を隠したが、しばらくの沈黙を経て、取り繕うのは無理だと判断したように再度語り始めた。


「古民家民宿なんて今時流行りません。時代を先取りしなければ廃れるだけだと、僕は常々思ってました」

「……でも、薫さんだってうちを気に入ってるって」

「あくまで立地の話ですよ。あそこに泊まりたいとは僕は思いませんね」


 ――――すっと、七緒の中の何かが冷えきった。

 音もなく、何の前触れもなく、そこに確かにあったものが喪失したといってもいい。


 「実はいろいろ事情が変わりましてね」

 七緒の変化にも気づかず、薫はヒートアップするように話し続ける。


「あなたとお付き合いしつつ、もし需要が高そうならあの民宿を取り壊し、瀬戸内海をコンセプトにしたリゾートホテルに作り替える予定だったんです。でもそれもどうやら難しそうで……。というのも、実は先日『ネル アジュール東京ベイホテル』の総支配人に任命されましてね」


 薫が胸元から引き出したのは革の名刺入れに入った一枚の名刺。見慣れたホテルのロゴが刻印されている。役職は、総支配人。

「この歳で前例のない快挙だそうですよ」

 薫の声には隠しきれない誇らしげな色が乗っている。 


「ですから、もう滅多にこちらには来れません。尾道からも手を引きます。それと――」


 それからしばらく、薫は身振り手振りを交えながら七緒に語り続けた。支配人と総支配人ではどう仕事内容が変わるのかや、給与のことなど、七緒にとってはもはやどうでもいいことばかりだ。


(………最悪) 


 今彼女の心にあるのは、そればかり。

 耳に残るのは、あの頃の、少し疲れた薫の声。


「……あなたに会いに来ましたよ。七緒さん」


 就業後、東京から新幹線で三時間五十分。在来線で二十分。

 この遠い距離をものともせずに会いに来てくれた。薫のその無茶が七緒に愛を錯覚させたのだ。

 しかし薫にとって、そんな距離はさほど苦でなかったに違いない。



 だって、こんなにも、七緒は彼にとって「仕事」の一部だったのだから。



「馬鹿みたい」



 ぽきりと、心の折れる音がした。

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