尾道民宿裏噺〜道後老舗旅館の若様にはご用心〜
岡田遥@書籍発売中
第1話
「はっきり言いますが、あなたとの交際は『市場調査』でした。あなた自身を心から愛していたわけじゃない。それに僕らはもともと釣り合っていたとはとても言えませんし、このあたりで遊びも終わりにしませんか」
三十路目前。結婚秒読み。
溺愛されていたと思い込んでいた恋人から、あなたとの交際は市場調査だと告げられた経験のある女性が、この日本で私以外に一体どれだけいるだろう。
「聞いてるんですか、七緒さん」
「あ、はい」
七緒が咄嗟に頷くと、恋人――元恋人、
神経質な彼らしい、七緒が好きだった仕草の一つ。
透き通るような中性的な美貌は、こうしてただ椅子に座しているだけでも周囲の女性達の視線を
――ネル アジュール 東京ベイホテル。
銀座エリアの一等地に位置し、総客室数は102部屋。広々とした客室と落ち着いた色調、洗練された調度品でまとめたエレガントで快適な空間が売りの高級ホテルは、専用のバー、専任のコンシェルジュ、ジャグジーや屋内プールなどあらゆる需要に合わせた屋内施設が併設されていることでも有名である。
そして、若くしてそのホテルの支配人を任されているのがこの彼、佐久間薫だった。
「あなたのそういうぼんやりしたところも、実は好きじゃなかった。時は金なりという言葉の意味をこんなに説いて聞かせたいと思った女性はいませんよ」
「すみません……」
どうして酷い理由でフラれた上、トロくさいことまで怒られなければいけないんだろう。俯くと、この日のために新調した綺麗めなパンプスと目があって、急に虚しさが込み上げてきた。
ぐっと滲む涙を堪えていれば、そんなことさえ彼には鬱陶しく思えたらしい。
「年甲斐もなく泣かないでください。少女でもあるまいし」
そう一蹴された。
彼は真面目な顔で話を続ける。
「七緒さんは今、国内外の富裕層の注目が日本の――特に四国に集まっているのはご存知ですか?」
熱のある声でされた唐突すぎる問いかけに、七緒は力なく首を振った。そんなの知らない。何の話だ。
薫は薄い反応の七緒を呆れた目で見ると、さらに強く言葉を重ねた。
「日本が観光立国として世界に認められて10年。ゴールデンルートと呼ばれた北海道、東京、京都、大阪、沖縄の五都市は行き飽きられました。そして次に彼らが目をつけたのが、食も観光資源も豊富な四国です」
「はぁ……」
それが今自分がフラれていることと一体どういう関係があるんだろう。
たしかに七緒の実家は、しがない民宿であるけれども。
七緒が曖昧な返事を返すと、薫は今一度眼鏡を押し上げて強く言った。まるで出来の悪い生徒を前にした教師のようだ。
「私はあなたと出会った5年前から、実はこの流れを読んでいた」
しかし四国の目ぼしいエリアにはすでに他の大手ホテルが目をつけ土地の買い付けまで進めており、最も人気の高い松山道後は創業数百年の老舗旅館が幅を効かせている。
だからこそ〝
「尾道は本州と四国を結ぶ重要な拠点です。新幹線の通る福山駅とのアクセスも悪くない。さらに、あなたのご実家『民宿 とと屋』は、施設こそ貧相でニワトリ小屋レベルですが、あの立地はなかなか素晴らしいものがある」
「にわっ……!?」
七緒は突然頬を打たれたように目を見開いて固まった。
「薫さん、今、うちのことにわとり小屋って言いましたか……?」
「……ああ、失礼」
問い返す七緒を前に、薫はまるで悪びれたふうもなく「馬鹿にしているのではなく、客観的な意見を述べているだけです」と応じた。
「ですから、あなたとお付き合いしつつ、もし需要が高そうならあの民宿を取り壊し、瀬戸内海をコンセプトにしたリゾートホテルに作り替えようと提案するつもりだったんです」
「まさか……ずっと期を伺っていたんですか……?」
「ええ、まあ。こういうのは元の持ち主を説得するのが一番骨が折れますから。時間はかけすぎるくらいが確実なんです」
もはや、何の言葉も出てこない。
怒りと悔しさで頭が沸騰しそうだ。
「……父も、母も、二人とも、あなたを心の底から信頼してたんですよ……!」
「言っておきますが、僕を責めるのはお門違いですよ、七緒さん。恋愛もビジネスも効率的であることは大前提――。ただ、それも今は状況が変わりました」
薫が胸元から何かを引き出した。
皮の名刺入れから取り出されたのは、見慣れたホテルのロゴが入った一枚の名刺だ。
「私は『ネル アジュール東京ベイ』の総支配人に任命されました。この歳で、前例のない快挙だそうです」
薫の声には隠しきれない誇らしげな色が乗っている。
「ですから、もう滅多にこちらには来れません。尾道からも手を引きます。あなたとのこの関係も終わりにしたほうが双方のためだと、今日はここにお呼び立てしました」
支配人と総支配人ではどう仕事内容が変わるのか七緒にはわからない。
しかしそんなこと、もうどうでもよかった。
(……最悪だ)
彼の中の優先順位はいつだって仕事が圧倒的一位だった。
なのに七緒が、自分が愛されていると錯覚してしまったのは、彼が二番目に自分を据えてくえていることが誰の目にも明らかだったからだ。
「あなたに会いに来ましたよ。七緒さん」
就業後、東京から新幹線で三時間五十分。在来線で二十分。
この遠い距離をものともせずに会いに来てくれた。その無茶が七緒に愛を錯覚させたのだ。
まさか、自分が仕事の一部に含まれてたとは思いもせずに。
(………ほんと、最悪)
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