銭洗爺(7)
未來が帰る頃、雨はしとしとと弱くなっていた。
駅前に来たところで未來は足を止めて、バスターミナルへと続くほうをちらりと見た。駅の改札口は明るくて人が多いのに、バスターミナルへ続く階段は薄暗くて気味が悪い。
サキナシさんからのメモには危ないことはしてはいけないと書いてあった。だから、一人で何かしようとしちゃ駄目だ。未來自身に特別な力なんてない。
肩の通学鞄をかけなおし、未來が帰ろうとしたところで誰かと肩がぶつかってしまった。
咄嗟にごめんなさいと謝った未來は、相手が知った顔であることに気がついた。今日教室で淵衣と対峙していたあの先輩だ。
先輩は目の焦点が定まっておらず、未來のことも認識できていないようだった。ぶつかった拍子に肩から落ちてしまったのか、通学鞄を腕からだらんと垂れ下げてぼうっとしている。
魂でも抜かれてしまったみたいだ。
未來は思わず先輩の腕を引っ張った。
「あの、先輩、大丈夫ですか?」
「…………あ、ああ、触るな! これは私のものだ!」
無防備に下げていた鞄を両腕を抱え込んだかと思うと、先輩は未來を睨みつけて、押しのけるようにして走り去ってしまった。
その向かう先は、あのバスターミナルだった。
頭の中に一瞬浮かんだ「危ないこと、無茶なことはしない」という言葉は、すぐに消えた。
未來は走って先輩を追いかけた。階段を駆け下りて、濡れている地面で滑りそうになりながら周囲を見回す。先輩の姿が見えなかった。いるとすれば、昨日のあの場所か。
スマホを手に握りしめながら、未來は一歩ずつ電話ボックスに近づいていく。壁際に取り付けられている排水管から流れる水が流れる音がざあざあと響いて落ち着かない。
あと一歩、もう一歩と近づいて、水の音に交じって何かが聞こえてきた。
ちゃりちゃりと小銭を擦り合わせる音がする。
電話ボックスの向こうで、先輩が銭洗爺の広げる手に向かって何枚もの小銭をばらばらと落としていた。
皺だらけの口でにんまりと笑った銭洗爺は懐から束になった紙幣を差し出した。先輩は、奪うような激しさで必死にそれらを両手で抱える。
セーラー服の袖から覗く先輩の白い腕に、黒いしみのような汚れが見えた。
穢れた紙幣から粘性の黒い液体が溢れて、少女の身体を蝕んでいくように、黒い穢れが広がっていく。
それはまるで先輩の腕に絡みついているように見えて、未來は声を張り上げた。
「先輩っ!」
しかし、先輩は反応しない。声が聞こえていないようだった。
代わりに銭洗爺がふと顔を上げた。何を考えているかわからないしかめ面で、未來をひたりと見つめる。
そのしわだらけの口がぼそぼそと何か呟いている。
「――邪、魔、す、る、な」
がちんと未來の足が動かなくなる。
声が出ない。腕も重く感じる。頭の奥がぐらりと揺れて、視界が霞んでくる。ぼやける視界の中で、先輩のシルエットが黒い闇の中に吞み込まれていくように見えた。
でも、動けない。身体重くて痺れている。
唯一少しだけ動かせる指先で、未來は必死に握っていたスマホ画面をタップした。
ごおおん、ごおおんと低い音が響く。
途端に未來の全身にのしかかっていた重たいものが軽くなった。未來はスマホを握り直して、音量をボタンを最大にする。
スマホ画面で再生されているお寺の鐘の音の響きがどんどん大きくなっていく。
銭洗爺は苛立ったように周囲を見回し、耳を押さえ、頭を何度も振って、音から逃れようとしている。勢いよく身体をねじったかと思うと、まるで鬼のような歪んだ表情でかっと未來を睨みつける。
あまりの恐ろしい形相に身を固くした未來に、しかし鐘の音に耐えきれないのか銭洗爺は再度を大きく頭を振って、一瞬で闇の中に溶けるように消えてしまった。
さあさあと流れる水とスマホの鐘の鳴る音だけが響く。
「だ、大丈夫ですか、先輩!」
未來が慌てて先輩に駆け寄ると、先輩は何かが抜け落ちたようにぽかんとした表情をしている。
もう穢れた紙幣はなく、まっさらな手があるだけだった。
次の日、長く続いた雨は止んだ。
さわやかな風が吹いて、流れる雲の隙間から眩しい青空が覗く気持ちのいい晴れだった。こういう日は自転車で走りたい気分になる。
天気のおかげか、前日よりも明るい顔したクラスメイトたちがにぎやかに教室で挨拶を交わす。
登校した未來が席に着くと、振り返った華がおはようと挨拶をしてきた。
「おはよう、華ちゃん。今日は久しぶりの晴れだね。なんかそれだけで元気になってきちゃう」
「おはよう。昨日は、結局一人で帰ったの?」
「そうなの。ゆかりちゃん、どうしたんだろうね。今日こそ来るかな?」
そもそもクラスに在籍していないなんてことになっていたけれども、あれも銭洗爺の呪いの影響だったのだろうか。それなら、銭洗爺を追い払ったから、ゆかりも姿を見せるはずだった。
ちらりと教室の外に目を向けて、未來は勢いよく立ち上がった。
そこには、怯えた小動物のようにこっそり教室を覗いているゆかりがいた。
「ゆかりちゃん、おはよう!」
「おはようございます。えっと、昨日は来れなくてごめんなさい。風邪をこじらせてしまって、学校を休んでたんです。連絡先、交換しておけばよかったですね」
「元気になったならよかった。教室まで行ったんだけど、ゆかりちゃんがいないって言われて、心配してて……」
「教室までわざわざ来てくれてたんですか、ありがとうございます」
顔色の悪かったゆかりの頬も血色が良くなっているように見えた。銭洗爺の呪いの影響もなさそうで、ほっと未來は安心する。
もじもじとしていたゆかりは、そっと小さく唇をほころばせて、微笑みながら未來を見上げた。
「それでですね、今日学校に来たら、あの銭洗爺に会った友達が、いつもどおり私に挨拶してくれたんです。
「えっと、そうかもしれないね」
「その、野々本さんにお礼を言っておいてください。それから、あなたもありがとう。おかげで、今日登校するときも怖くなかったんです」
それじゃあと笑って、ゆかりは廊下を小走りで戻っていく。
その背中を見送っていると、ゆかりの小さな後ろ姿は廊下の窓際で立っている誰かと合流した。
それは、昨日のあの先輩だった。未來の視線に気づくと、驚いた顔をしてぺこりと頭を下げた。
「ゆかりちゃん、あの先輩と友達だったんだ……」
不思議な偶然に未來が驚いていると、いつの間にか後ろから近付いてきた華があのさと声をかけてきた。
「ずっと思ってたけど、未來勘違いしてない? あの人、私たちより先輩だよ?」
「え、あれ、嘘! 全然気づかなかった……あ、じゃあクラスに行っても在籍してないって言われたのって、そもそも学年が違うからなの?」
「そういうとこあるよね、未來。そそっかしいっていうか、ちょっと抜けてるとこ」
「え、華ちゃんはいつ気づいたの?」
「玄関ホールで靴履き替えるとき。あの人が行ったところって上級生のところだったじゃん」
全然気づかなかったと驚く未來に、めずらしく華が声を上げて笑う。
雨上がりの爽やかな朝、明るい教室では笑い声がよく響いた。
■ ■ ■ ■ ■
「――危ないから路地裏にはもう来るなって言っただろ、お嬢さん」
「でも、聞いた記憶はないし。……お礼に何か甘いものでも作るべきだったかな?」
「ああ、ああ! そんな屁理屈覚えちまって! メモを捨てさせて、全部忘れさせるのが逆に良くないのか。ここで説教しても覚えられねぇし。……よし、これから言うことをよく聞いて紙に書いてくれ」
「はぁい」
サキナシに指示されながら、未來は紙に文字を書いていく。
危ないことはしないこと、裏路地も危ないから近づかないこと、自分の身の安全を一番大事にすること。
そこまで言われるがまま書いて、未來は一旦書く手を止めて顔を上げた。
サキナシさんがない頭を傾げるように体ごと傾くので、思わず笑ってしまった。
「サキナシさんって、危ないの?」
「危ないに決まってんだろ、こんな怪異。なに気の抜けた顔で笑ってんだか、お嬢さんは! もっとしかめ面したほうがいい。不審者は気の抜けたやつを狙うからな。こう、眉間のあたりを意識して力むんだ。表情が変わるだけでも、危ないやつに狙われる確率は随分変わるぞ」
「そうなの?」
未來は眉間の間あたりを意識するように、ぎゅっと力を込めた。眉間にしわがよって、自分でもしかめ面をしているのがわかる。
そんな自分の姿を想像すると何だかおかしくて、未來はぷはっと噴き出した。すると、見えない手がぎゅっと鼻を摘まむ。
「だから、怪異に話しかけたり、笑いかけたりしちゃなんねぇって。怪異ってのは、基本的にひとでなしなんだから」
「えっと、確かに怪異は人じゃないね?」
「そういうことじゃねえ。……隙だらけだぜ、つけ入れられちまう。ひとでなしと目を合わせちゃいけませんって習わなかったかあ?」
「それは習ってないかも」
素直に返事をする未來に対して、サキナシはがっくりと肩を落とした。
「お嬢さんはしかたねぇな。こうなったら、危ないところに近づかないことだ。ここの路地裏もだぞ。よっぽどの危ないことがない限り、来ちゃいけねぇからな」
「よっぽどって、例えばどんな?」
「そりゃ、もう駄目だっていう命の危機があるときだよ。そんぐらいのときじゃないと、もうここに来たらいけねぇよ。ほら、ちゃんと紙に書いておきな。……ああ、サキナシの名前は書かなくていい」
促されて、未來は白い紙にボールペンで書いていく。「命の危機のときしか路地裏には来てはいけない」と書いて、命の危機と自分の口でも呟く。
「そんな危機、人生で滅多にないと思うけどな」
「だから滅多なことじゃ来ちゃいけねえってこった。……さ、そろそろ帰りな。こんなところ長居するもんじゃねぇからな。もう来るなよ」
「うん。またね、サキナシさん」
「お嬢さん、さては何もわかってねぇな」
呆れたようなサキナシの声を背中に、狭くて暗い路地裏の出口へ未來は進んだ。生ぬるい風と換気扇のぶうんという音、ぞわりと不快な感覚が肌を撫でる。それでも、未來の足取りは怖くなかった。
ぱっと視覚が明るくなって、未來は顔をしかめるように目を細める。そこはいつもの大通り。多くの人が行き交って、立っている未來を避けていく。かさりと手の中の紙の感触は、記憶にはないけれど、それがサキナシと会ったことの証明であることを未來は知っていた。
「また、ノートに書き写しておかないと」
そう呟いて、未來は鼻歌を歌いながら帰り道を歩いた。
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