路地裏のサキナシ
運転手
ハシタコさん
ハシタコさん(1)
近くのハンバーガーショップから揚げたてポテトの匂いが漂ってくる。交差点にある信号のスピーカーから横断を促す機械音が騒がしい。背後を仕事帰りの会社員や部活終わりの学生、買い物袋を手に
それら全て、どこか遠い世界の出来事のようだった。
どれほど立ち尽くしていたのか。未來は自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
「ここで、いいんだよね……」
飲食店の入っているビルとビルとの間の細い路地。人が一人ぎりぎり入れるほどの狭くて暗く、不気味なそこを目の前にして、未來は震えそうになる足をゆっくり前に出した。
それは真っ黒だった。
■ ■ ■ ■ ■
始まりは昨晩だった。
そういえば授業用のノートを使い切ったんだったと未來は思い出した。
自室のベッドから立ち上がって、学習机の本棚を
「あった」
記憶どおり新品のノートはそこにあった。それを何気なくめくって、あれと異変に気づいた。
目に飛び込んできたのは真っ黒なページだった。
墨汁かインクを上から
不思議に思って、ほかのノートも手にとってみる。ぱらぱらとページをめくっても、見慣れた白いページだ。最初に手をとったノートの最初の数ページだけが黒い。
ノートをつくる工場で失敗したのかもしれない。あまり深くは考えず、未來はノートを閉じ鞄の中に押し込んだ。授業で使う分には問題ない。
ある意味めずらしくてラッキーかもと、それ以上気にしなかった。
真っ黒なページの意味を教えられたのは次の日だった。
通っている女子校に登校した未來は、お気に入りのセーラー服のスカーフを揺らして、朝の教室に入った。
おはようとクラスメイトと挨拶し合う、いつもの穏やかな朝。しかし、自分の席に座わろうとして、未來は教室の後ろが騒がしいことに気づいた。
クラスで一番目立つ
「いい加減にしろよ」
大丈夫かなと未來がそわそわしていると、机をバコンと叩く音が教室に響いた。
ほかのクラスメイトたちも不穏な空気に気づいて顔を見合わせる。
「これ、あんたのせいでしょ」
彼女は
まさかあの子が囲まれているなんてと未來は椅子から立ち上がった。たまに話す程度だけれど、淵衣とは友達だった。いつも一人で本を読んでいて、お昼を誘っても静かに首を振るおとなしい女の子。
未來がそうっと近づくと、淵衣の肩は小刻みに震えていた。泣いているのかもしれない。それはそうだ、誰だって囲まれたら怖い。
「な、なんなの、あんた……」
初香が気味悪そうに身体を引いた。
声を上げて笑っているのは淵衣だった。全身を震わせるほどに大袈裟な身振りでげらげらと笑っている。いつも口を引き結んでいる彼女のこんな大笑いを未來は初めて見た。
しんと静まり返る教室で淵衣は笑い続けた。ばたばたと地上で泳ぐように足を蹴って、
「怖いんでしょう?」
そう問われて、初香は威嚇するようにきつく言い返す。
「は、はぁ? 誰があんたなんか怖がるんだよ!」
「本当は何のせいか、わかってるんだよね? わたしはちゃんと忠告したのに。……信じなかった君たちのせいだよ」
「あんた、うざいんだよ!」
いつも静かな淵衣の反抗的態度に、
それに淵衣はまた下品にげらげら笑って、身を乗り出したかと思えば初香の持っているノートを奪ってしまった。
「な、何すんだよ!」
「ああ、やっぱり……?」
詰め寄る初香を無視した淵衣は、ノートの中身を見て口の端をにんまりとつり上げた。
「やっぱり真っ黒になっちゃったんだぁ」
そう言って、淵衣は奪ったノートをひっくり返した。見せつけられたノートの中身は、見開きページいっぱい黒く汚れている。下に書かれている文字がほとんどつぶれて消えている。
それを見て、未來は自分の真っ黒になったノートを思い出した。
「勝手に触んな!」
ノートを奪い返した初香は、汚れを払うように淵衣が手で触れた部分を叩いた。
「だから、あんたのせいなんだろ! 昨日、あんたが妙なことを言ったの覚えてるんだからな!」
怒った勢いで机がまたバンッと叩かれる。
しかし、淵衣は音に怯えむこともなく平然としている。むしろ目の前の初香と
「そうだね、わたしは言ったよ。あそこの女子トイレでそんな陰口なんて言ったら駄目だって。さもないと、「ハシタコさん」に呪われちゃうって……言うことをきかないから、みんな呪われちゃったんでしょう?」
呪われるという言葉を聞いた瞬間、誰かが息を飲む音がした。
異様な空気の中、初香も虚勢を張って言い返す。
「呪いとかハシタコさんとか、ワケわかんないことばっか言いやがって。あたしたちのノートを黒くしたのはあんたでしょ! わかってんだよ!」
「だから呪いだって。怖がるのはわかるけど、そうやって現実逃避してても事態は悪化するだけだよ」
「ばっかじゃないの。あんた、まだ呪いとか信じてるんだ? そーいうのはさっさと卒業しなよ。ありえないんだよ」
「でも、わたしが君たちのノートを真っ黒にしたほうがありえなくない?」
そう言って淵衣はノートを指差し、それから初香と背後の
「君たち全員のノートを誰にも見つからず、こっそりページを真っ黒にして戻すなんて、簡単にはできないよ」
ぐっと初香が黙り込んだ。
確かにそうだ。これだけの人数のノートを誰にも見つからずに手に入れて、黒く染めて、それでまた見つからずに全員のところに戻すなんて難しい。不可能に近いかもしれない。
じゃあ、それは呪いということになる。
初香の後ろにいた
「いい加減にして! いいから、あんたのいたずらだって認めてよ!」
叫び終わった後、床に座り込んだ陽菜子はぜいぜい何度も荒く息を吐いて、か細く喉を鳴らした。過呼吸だ。
あれが呪いなのと傍観していた周りもざわつき始める。みんな不安そうに顔を見合わせて怯えている。今、教室の中で笑っているのは淵衣だけだった。
呪い、呪いと教室中が囁き合う中で、しゃがみこんだ陽菜子の息はどんどん浅くなり、とうとうばたんと床に倒れた。
「き、きゃああああああっ!」
誰かの叫び声で恐怖が破裂して、教室にパニックが起こった。
同じように過呼吸を起こす子、泣き出す子、教室から逃げ出す子までいた。
今まで呆然としていた未來ははっとして、倒れた陽菜子に駆け寄った。ひゅうひゅうと頼りない息をして、意識も
未來が抱きかかえてもぐったりしている。
「ねぇ、誰か先生呼んできて! あと、誰か小さいビニール袋か紙袋、持ってないかな!」
パニックを引き起こしている周囲のクラスメイトには未來の声は届かない。
「ねえ、お願い! 袋を何でもいいから持ってきて!」
「え、あ、ああ、うん……」
青い顔で立ち尽くす初香の手を揺さぶると、頼りない様子で頷いた。そして、どこからかコンビニの袋を持ってくる。
未來はお礼を言って、ビニール袋を過呼吸を起こしている陽菜子の口元に当てた。
「無理に息を吸おうとしないでいいよ。大丈夫だからね」
つらそうに震える背中を撫でて、未來はゆっくり呼吸するよう促す。
自分の吐いた二酸化炭素を吸い込んで、陽菜子の過呼吸が収まっていく。
良かったと未來が顔を上げると、淵衣が無表情でこちらを見下ろしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます