1.ネクロマンサーの出勤
バルドがその最悪な音を聞いたのは、夜明け前だった。
第三屍体安置室のベルが鳴る。
そのときバルドは、全身を防護服で覆い、屍体から内臓を取り出して保存処理を施しているところだった。
安置室内は、焦げた果実酒めいた甘さ、内臓の生ぬるさ、消毒液の鼻に刺さる匂いが混ざりあい、甘ったるいとしか形容できない類の腐臭に満たされている。
それに気を取られて
『朝早くから失礼します、
淡々とした男声。バルドは管制官――リメンのいるであろう扉のほうをちらと見た。
いちいち称号をつけなくてもいいのに、彼はかしこまった場面では律儀に敬称で呼びたがる。
リメンはバルドの返事を待たずに続けた。
『緊急招集です。すぐ来てください』
屍体からぬるつく内臓を切り出す――いわゆる治癒魔術に転用可能な臓器の『収穫』と呼ばれる作業――には顔色一つ変えなかったバルドが、その言葉を聞いてはっきりと眉を寄せた。
「はあ? いやだよ。今すぐ手が離せるように見えるか?」
『可及的速やかにお連れするよう申しつかっています』
話は聞いてくれそうになかった。
盛大に舌打ちしたい気分だ。バルドは息を吐くだけにとどめて、作業を中断するための準備に切り替えた。器具が揃っていることを指先で確認し、金属トレイの上へ少々乱暴に止血鉗子を置く。
血まみれの手袋をむしり取ると、防護服の袖口に赤い点が散る。
そのまま手袋を、廃棄用の黒袋に落とした。
処置室から
防護服を剥ぎ取って現れたのは、三十代前後に見える痩せ型の男だった。短く刈った髪、目の下には薄い隈。首筋に点状の古い注入痕が並ぶ。左手の甲には細い刻印が文様のように彫られている。肩はやや薄いが、肘から先は締まっていた。
手指を消毒してから新しい手袋をはめ、扉を抜ける。タオルで額の汗を押さえると、消毒薬や漂白剤に混じってメンソールの匂いがよけいに立つ。
扉の先では、リメンが台帳を胸に抱えて無表情で立っていた。
メガネ越しに見える色の薄い眼はバルドにやらず、出口のみを見つめている。そこから何かが飛び出して来やしないかと見張るような目だった。
「こちらへ」
「あー。最悪……」
リメンは全く反応せず、バルドの先を歩く。
搬送路のシャッターが上がり、〈死後資産管理局〉と記されたロゴがむき出しになった。
――通行許可。
無意識に首筋の古い痕に指先を触れて、すぐ離す。呼吸を一つ整え、足を速めた。
バルドはゲートを抜けて、ロビーへ入る。冷風がゆるんだのにほっとした。局内はいつも完璧に明るいが、寒すぎる。
コートを脱いで近くのベンチに放る。
そのベンチには先客がいた。
「あれま、バルド。もしかして収穫までやっちゃった?」
そうのんびりという女は、鑑識のルツだ。長髪を後頭部でざっくりまとめて、なぜか防塵ゴーグルを載せていた。片手には紙コップを持って、ベンチにだらりと身を預けている。
バルドはルツの隣に腰掛けながら言った。
「やった。ついでだったしな。こいつが来たからギリギリだったけど」
「たまにはあたしを呼んでよね。働きすぎじゃない?」
バルドは肩をすくめる。
そこで、見知った顔が一人だけ足りないことに気付いた。
「あれ。グレイヴスは?」
バルドが聞くと、リメンが淡々と告げる。
「グレイヴス課長は第一屍体安置室に寄ってから来るそうです。じきいらっしゃいますよ」
それで〈保全課〉の顔ぶれが揃いつつあった。
グレイヴスは保全課の課長。階級は監理官。つまり、業務を監視する役。
リメンは管制官。現場に情報や指示を送り、臨時許可証の発行も担う。
ルツは監察医。検死、証拠の検査や鑑定、死因特定を行う。
そして、バルドは保全課付きの調査官だ。先んじて死の現場へ赴き、現場保全と検証を行う。監察医が死因究明をするのに必要な事実を集め、屍体の回収・移送を担う。
回収された屍体は安置室に運び込まれる。そこで彼はネクロマンサーとして、監察医と手分けをして解剖と検証を行う。
ロビーを簡易ブリーフィングルームにする腹づもりだとわかって、バルドはうんざりする。
「緊急招集しておいて、そっちは遅刻かよ。安置室に用事なら、ぼくかルツに言えば済むだろ」
「仕方ありません。昨晩、屍体が一体逃げたらしいので」
「逃げた?」バルドが眉をひそめる。
「変な言い方だな」
「自分の足で走って行ったそうですよ」
バルドは眉だけ動かす。
「ふーん。〈
ネクロマンサーであるバルドが呆れ返ったのも、無理なからぬことだった。
屍体は、触媒――魔法の発動・維持に使う物質として、きわめて有用である。屍体が「危険物」「貴重品」として回収・管理・再利用されるようになって久しい。
従って、昨今〈
擦過、裂傷、関節のガタ。すべてが触媒としての価値を落とす。
挙げ句、骨だけで動くスケルトンにでもしようものなら、血肉・脂・臓器といった一級の触媒がまるっと失われる。骨も優秀な触媒ではあるが、もったいなさすぎる。
「どうだろ?」ルツがあくびまじりに言う。
「処置台を投げてひるませてきたんだってさ。ゾンビにそこまで指示できる?」
「視界から外れた屍体を精密に操るのは厳しい。相当な熟練者だろうな。その割にやらせることがバカっぽいけど。処置台は重すぎるし、それで腕が壊れたら笑い話だろ」
バルドが言い切ると、背後で回転ドアがゆっくり動く気配がした。
廊下の向こうから、場違いな格好の女が入ってくる。女はまっすぐ受付の前まで来て立ち止まり、きょろきょろと見回す。
出口を探しているようなそぶり。
作業用のつなぎ、その上にサイズの合わない白衣。裾はずって、袖はまくれて、靴は履いていない。
沈黙の中で、しばしその女に視線が揃う。
異様な恰好ではあったが、まだましな部類だった。単にみすぼらしいだけなら、局内を五分も歩けばもっとひどいのが見つかる。
彼らが気にしているのはそこではなかった。
「おい」
バルドが話しかけると、女はびっくりしたようにこちらを見た。バルドは床を指し示す。
そこには、点々と血がついていた。
「床汚してるぞ。ちゃんと消しとけよ」
女はうろたえていたが、口を開いた。
「あの。わたし、道に迷って……」
「どうして迷うんです?」そう首をかしげたのはリメンだ。
「ここに来る理由など、仕事以外にないでしょう」
「新人だろ」バルドが断言する。
「現場に入れる奴が足りなくて無理だって、ここ数年ずっと言ってるんだ」
「採用報告は来ていませんよ」とリメン。
その言葉を無視して、バルドは女に話しかける。
「おまえ、専門領域はなんだ? 〈
「学派……」
「魔術士なら所属があるだろ。
「わたし、魔術士じゃないです……」
瞬間、空気が変わる。如実にひりついた雰囲気に、女はたじろいだ。
「その、迷っちゃって。外に出たいんですが……」
静寂の中で、視線が交わる。
「
リメンの乾いた業務口調。その声色に、ルツがコップを手に持ったまま固まる。
「……わかってる」バルドはもはやすべてを諦めた口調だった。
「指示をくれ。何をすればいい?」
「殺してください。援護します」
「……了解」
端的な肯定に、女は目を見開く。
バルドは表情一つ変えず、腰のホルスターに手を伸ばした。
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