第5話 廃れ神



 ──夕焼け空にサイレンが鳴り響いた。

 小さな店がひしめき合う路地、切り取られた夕焼け空、サイレン。

 その不穏な音が響いたのは、あやめたちがバーから出てしばらく歩いたときだった。

 人工的な電子音とは違う、ウーウーと人間が叫んでいるようなサイレンが不安な気持ちをかきたてる。サイレンが鳴り始めたとたんに、路地で飲んでいた人たちが散り散りバラバラに逃げていく。どこか避難所のようなものがあるらしく、「防魔壕はどこだ!」「いそげ!」と口々に叫んでいるようだ。


「これは……?」

「妖魔が目撃された、っていうサイレンだよ。カクリヨのあやかしたちは妖魔の負の心に蝕まれやすいから、こうして妖魔から逃げるんだ」

「龍彦さんたちは?」

「僕らはウツシヨから来た余所者だから、大丈夫さ」


 ゆったりとした口調で微笑みを崩さない龍彦。

 鉄夜は今まで腰に刺していた刀の柄に手をかけている。


「どうやらこのあたりに例の妖魔が出たみたいだね」

「いや、まだ妖魔になってはいねぇな。匂いが違う」

「それなら、どうにかあやかしに戻せるといいけど……場所は近い?」

「ああ。ってことは、カクリヨとウツシヨの裂け目も近いぜ。俺は妖魔のなりそこないを探す。お前は裂け目を見つけて、とっととその女を──」

「あやめさん、だよ。鉄夜君」

「……あやめを向こうに追い出せ」

「うん、二手に分かれるってことか。たしかに、あやめさんを危険な目には合わせられないな。行こう、僕から離れないでね」

「は、はい!」


 龍彦のあとについて、裂け目を探すことになった。


「あの、龍彦さん」

「うん?」

「裂け目っていうのは、すぐに探せるものなのでしょうか。見た目とか」

「あれ、言っていなかったっけ」

「聞いてないです」


 あはは、ごめん……と、のほほんと笑う龍彦。

 やっぱり、意外と抜けている。


「霊力のある人が見ればわかると思うよ。青い鳥居に見える」

「青い、鳥居」


 鳥居というのは、朱に塗られたものだ。

 それが青いというのは、たしかに妙に思える。


「突拍子もないところにあるから、見えたとしたらすぐにわかるさ。それに君、たぶんそれなりに霊力があるんじゃない?」

「そう、ですかね」

「うん」


 どきどき、と心臓が跳ねる。

 霊力が、ある。龍彦には、あやめがそのように見えているということだ。

 ──実家の仕事もできない、ひとりぼっちの、脇役の自分に。

 ふと、何かの気配を感じて顔をあげる。

 ざわざわと、あの声が聞こえる。



 消えたい、消えたい……と叫ぶ声が。



「あ、れは……」


 周囲を龍彦とともに走り回っていると。

 曲がり角をおれた、猥雑な看板が並んだ路地の奥。

 そこに、青い鳥居が立っていた。

 まるで内側から光っているような、不思議な青。


「おや、やっぱり見えてるんだ」

「は、はい……でも」


 それだけでは、ない。

 真っ黒い、まるで影と泥を混ぜたような……得体の知れないモノがいた。

 獣か、人かもわからない。

 泥が体の内側から湧き出しているように、ぼとり、ぼとり、と溢れている。

 生理的な嫌悪感にあやめは背筋を震わせた。

 なんだ、あれは。

 あんなの、知らない。


「ひっ……」

「あれも見えているんだ。いや、見えているよねぇ……帝都駅で、あんなふうになっているんだから」

「あれ、が、妖魔……? あんなの……あんなの……」

「完全に妖魔になれば姿が定まるんだけどね、あれは妖魔のなりかけだから……廃れ神が、負の感情に飲まれて妖魔に生まれ変わろうとしている、その途中だ」


 龍彦は事務所でお茶を飲んでいるときと変わらない声色で言う。

 カクリヨの探偵というのは、こんなものと日々向き合っているのだろうか。


「蛹の中身から引き摺り出された……って言えば、感覚に近いかな」

「そん、な……」


 さなぎになった芋虫は、蝶になるために一度自分の体をどろどろの液体にしてしまうという。蛹が破れれば、どろどろの液体が溢れ出る。

 あやかしが妖魔になってしまうというのは、さなぎもなしに体を溶かすような壮絶なものなのだと。


「危なかったね、ギリギリだ。鉄夜君に鳥居を守ってもらおう」


 龍彦はポケットから取り出した笛を強く吹いた。

 笛からは、音は聞こえない。

 しかし、すぐにその笛が機能したことがわかった。


「おっと、おあつらえ向きだったなぁ!」


 すたん、と。

 妖魔になりかけている廃れ神と青い鳥居の間に、鉄夜が着地した。


「さすがはうちの用心棒、到着が早い」

「ふん、お前ひとりじゃあっという間にオダブツだからな」


 鉄夜がぽきぽきと拳を鳴らして、にぃ、と物騒な笑顔を浮かべた。


「こいつをあやかしに戻して、そいつをウツシヨに送り返す……面倒ごとがいっぺんに片付くじゃねーか」

「まぁまぁ、面倒ごととか言わないでよ。鉄夜君」


 ゆっくりと龍彦がポケットから何かを取り出した。

 コンロに火をつけたり、あやめにめくらましの術をかけてくれたのとおなじ符だった。色々な色や形がある。


「下がって、あやめさん」

「は、はい」


 龍彦に促されて、廃れ神から距離を取る。

 すると鉄夜が、刀を抜いた。

 どろどろの影のような泥を刀で払い除けながら、廃れ神を鳥居から遠ざけていく。

 刀身がきらめくたびに、廃れ神は怯えたように後ずさった。


「あの人を、鳥居から引き離す。あの青い鳥居をあの人が潜ってしまえば、あの人は二度とカクリヨには戻れない。ウツシヨに出てしまえば、祓魔師によって……永遠に魂を消されてしまうからね」

「……止めないと」


 永遠に、魂を消される。

 その言葉にあやめは胸が締め付けられるように感じた。


「どうすれば、元に戻せるんですか?」

「話を聞く、言葉を聴く……その心の痛みを和らげる。あるいは、妖魔となる前に終了させるか」

「え、特効薬とかはないんですか? なんかこう、術とか符とか!」


 それでは、あまりにも無力だ。


「ないんだよ。この符も、縛ったり目眩しをしたり……ようは、話を始めるきっかけをつくるためのものだ」

「鉄夜さんが持ってる刀は?」

「護身用。あれで斬ったら、廃れ神は死んでしまうよ。人と一緒だ」

「そんな……」


 龍彦の言葉にあった終了させる、というのは「殺す」という意味なのだろう。

 あやめは、妖魔になりかけた廃れ神を見る。

 どろどろの泥の塊が、獣のような四つ足の姿をしている。


 あれと、話をするなんて。

 そんなこと、できっこない。


「できる限り、元に戻してあげたいけど」

「龍彦さん、できるんですか?」

「うん、でも……かなり不味いかも」


 ごうぅおぅ、と声とも音ともつかない叫び声を廃れ神があげる。

 どろどろの影が、少しずつ道を這いながら何かを形作ろうとしている。


「あれって……」

「妖魔としての姿をとろうとしてるみたいだ! 鉄夜君、下がれ!」

「ちっ!」


 龍彦の声に、鉄夜が一度大きく刀を振るって後ずさった。

 刀からふるい落とされたのだろうか、地面にびちゃりと泥が落ちる。


「仕方ない……妖魔になってしまえば、ウツシヨに出る前にこちらで始末するしか」


 龍彦が声を振るわせた。

 それって、つまり龍彦と鉄夜が廃れ神を殺す──ということだろうか。


「あの、ダメです……ダメです」


 あやめは、無意識にそう呟いていた。

 龍彦の背中を押しのける。


「あ、あやめさん!? 危ない、妖魔は人を害するんだ。ああなってしまっては、もう──」

「殺しちゃダメ! だってあの人……あの人、すごく」


 そうだ。

 あやめには、確信があった。


 あの廃れ神は──。


「苦しんでる!」



 そう、苦しんでいるのだ。

 あやめの頭には、ずっとあの声が聞こえている。


 消えたい、消えたい。

 それを裏返すと──助けて、と。



 そう訴えている。叫んでいる。

 あやめは走った。


「おい、てめえ何やってんだよ!」

「あやめさん、戻って!」


 いや、それはできない。

 走る、走る。


 蠢く泥の前に立つと、身がすくんだ。

 けれども、あやめは手を伸ばす。

 あやかし──廃れ神が妖魔になる、ということがどんなに苦しいのか。

 見ているだけでも、聞いているだけでもわかる。

 それに。


「消えたいって思いながら、助けてって誰にも言えないこと……すごく、辛いですよね」



 世界の片隅で、誰にも必要とされないような気持ちで。

 捨てられて、忘れられて、遠ざけられて。

 そんな自分を否定しながら生きるのは、本当に辛いことなのだ。


 指先が、泥に触れる。

 廃れ神の記憶が、気持ちが、流れ込んでくる。

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