第6話 【吉兼遥飛】Ⅲ
どうして分かってしまうのか、嫌になって堪らないほど、自分が憎かった。
終わりが来る、と、背中にこっそりと突きつけられたナイフの切っ先のような、冴え冴えとした予感がした。
いつもより急いて、すっかりお馴染みになった道を歩く。嫌な予感も相まって、今日はとても酷い一日だった。常に他の人の視線が自分を向いているようで気持ち悪い。青葉さんの存在によって薄れていたあいつへの怒りや、悩みごと一つなく気楽に生きられる奴らへの嫉妬、そんな汚い感情にぐちゃぐちゃにされ続けて、自分の芯がわからなくなっていた。早く会いたい。温め合いたい。俺が本当に生きているのかどうかを教えてほしい。でも、そんな日に限って月が明るい夜だった。どんなに小さくなって道の端を歩いていたって、いつまでも追いかけてくる光。お前がいるせいで、俺は陰になる。息が切れそうになりながら、マンションのオートロックを開けてエレベーターに乗った。酸素が薄い。息が苦しい。
霞んできた視界がまるであの日のようで、あのまま死んでいたらよかったのかなと、朦朧とする頭で考える。息も絶え絶えの状態で押したチャイムのボタンの位置が分からなくなりそうになっていたそのとき、遠慮がちに開いたドアの向こうで、俯いている青葉さんが見えた。
「遅いよ、」
か細い声は、天使の澄んだ響きなんて欠片も感じさせない、ただの人間のものだった。細く開いた隙間から素早く中に入り、少し乱暴に手を引いて彼女を抱きしめた。俺と同じものを嗅ぎ取ったのか、はたまた別の何かに怯えているのか、青葉さんの体はいつもより震えていて、縋るようにシャツの胸元を掴んで泣いた。
「もう嫌、本当に、もう無理」
あぁそうだ、本当にもう、限界だよな。そう言いたくなる喉に舌で蓋をして、ただ抱きしめることしかできなかった。たった一つでも判断を間違えたら、今すぐにでも二人で飛び降りてしまいそうになるから。
「私、生きててなんの意味があるんだろう。あの子がいれば、それで皆幸せなんでしょ。ならもう、いいじゃん。いらないよ、こんな私」
そう言って拳で俺の胸を殴る。何があったのか、聞きたくても聞けない自分に苛立つ。時々彼女の話に出てくる”あの子”のことを、詳しく聞いたことはない。ただその口ぶりから分かったことは、彼女の一番傍にいる人だということだった。恐らく俺より近くに。だから触れられなかった。青葉さんと”あの子”より外側にいる俺には、その間に踏み込む権利がない。
「そんなことないです。青葉さんを求めてる人は絶対にいます」
「いないよ。だって誰も本当の私なんか」
「俺は?」
忘れないでいてほしい、と強く思った。もし、これから俺が、青葉さんの前に姿を現せられなくなったとしても、絶対に。
「俺は”あの子”じゃなくて、青葉さんのことしか見ていませんよ」
俺のことを唯一理解してくれた人。同じ光に怯え、同じ闇に寝床を求める人。
「本当?」
「はい」
青葉さんの身長に合わせて屈み、おでこ同士をこつんと合わせる。あの日と変わらない、長い髪の毛をよけると、白銀に輝くピアスが顔を覗かせた。本当は、このピアスが必要なくなるまで、ずっと傍にいたかった。
「青葉さん、こっち見て」
泣き濡れた瞳が、答えを求めるようにまっすぐ、こちらを見上げる。壊れないように細心の注意を払って頬に触れ、そっと口づけた。
「大丈夫。絶対に、大丈夫」
息が触れ合うほど近くで言ったその言葉は、本当は自分が求めていたものだった。
抱きしめ合ったままなだれ込むように入った寝室は、外かと思うほど肌寒く、肌が粟立つような鋭い風で満たされていた。顔を上げると、いつもより大きく開け放たれた窓に、いつもかかっているはずのカーテンがなくなっていた。そのせいで窓から入ってきた風はそのままの威力を保って部屋の中に入ってきている。一層苦しそうに泣き出した青葉さんの頭から手を離さずに、部屋を見回す。暗がりの中、月明かりで唯一照らされているベッドの上には、びりびりになったレースのカーテンと、二つに切り裂かれた真っ白の遮光カーテンが放り投げてあった。
「ごめん、私、ハルのこと、裏切ろうとしてた…。もう無理だと思ったの。楽になりたかったの。だから、」
「そんなこと、大丈夫だから。
だって今、青葉さんはここにいるでしょ。それだけでもう、いいから」
もしかしたら、と思う。青葉さんも同じように、今日の不穏な空気を嗅ぎ取っていたのかもしれない。”あの子”のせいだけではなく、本能的に怯えているのかもしれない。でもそれは、いつだって俺達の中にあったということを、ふと思い出す。こんな不安定な関係は、いつ終わったっておかしくないもの。俺達はいつだって、お互いを求めれば求めるほど迫ってくるそれに震えて、でもそんな自分を見ないように目を背けて、あるいは押し込めて、この関係を大切に守ってきた。今に始まったことじゃない。幸せを知りすぎた俺達が、少しだけ弱くなっているだけ。きっと目の前に迫ってきている、ずっと前から分かっていた終わりを理解したくないだけ。
「青葉さん、こっち」
窓を閉めてベッドからカーテンを払い落し、フレームの下に、完全に見えなくなるように押し込めた。そして羽毛布団を持ち上げ、青葉さんが完全に隠れるように被り、自分も中に入って後ろから抱きしめた。元々一人用の布団に、仮にも大人二人が入ると当然のように狭い。少し身じろぎするだけで、爪先同士が触れ合う。まるで初めて会った、あの日の夜みたいに。
「ハル?」
「もう誰も”あの子”を引き出そうとはしません。ここにいるのは、青葉さんと、俺だけ」
彼女の肩を両手で掴み、くるりと返してこちらに向けた。暗がりでそううまくは見えないけれど、少し不安そうな顔をしていることがありありと思い浮かぶ。
大丈夫、大丈夫。
青葉さんに言っているのか、自分に言っているのか、その境界はひどく曖昧だった。何度も口の中で繰り返す。大丈夫、大丈夫。
貴女は変わった。
弱くなった。誰かが傍にいないと、生きていられなくなった。暗闇でしか息ができなくなった。でも、どこだって苦しかった呼吸が、暗闇だけでもできるようになった。
だからきっと、強くなった。自分を守ってくれるものを、見つけ出すことができた。生きる糧を手に入れることができた。たとえそれが、こんな俺であったとしても。
「耳、失礼しますね」
普段は勝手に触るけれど、今日はちゃんと断りを入れた。おずおずと頷いてくれたのを確認して、右の耳たぶに触れ、一番下のロブから、そこを貫いているフープピアスを抜き取った。ちりちりっ、く。あの日、この部屋で初めて聞いた音がする。俺はシャフトとキャッチをつまんで、薄い皮膚から硬い金属を抜き取った。それを手の中に落とし、今度は自分の耳から、同じように金属を取り除く。そして自分の体温から落ちたそれを、青葉さんの耳に通した。ちりちりっ、く。
「…なぁに、それ」
「天使」
幼い頃からずっと、一人で小説を書いてきた。何もかもうまくいかない世界で、ただ自分が生み出す文章の中でだけは、自分を幸せにしてあげることができた。そんな自分が不甲斐なくて、夜通し泣いたこともあった。俺にも、こんな穴を幾つも開けた時があった。今はもうほとんど塞がっているけれど、いじめられて、毎日どうして生きているのか分からなくなっていたとき、これがずっと続くなら、死んでしまいたいと一秒ごとに思っていた。それでも死なないために書いて、それでも抑えられないときは、鋭い針で自分の耳を貫いた。即物的な痛みが、俺をこの世界に繋ぎ止めてくれていた。でも、そんなことをしていても、解決することなんてひとつもない。自分でさえも幸せにできないほど非力なのであれば、いっそのこと早く、天使に迎えに来てほしいと思った。天使は俺にとって、生と死、希望と絶望、どちらとも持った存在だった。天使が迎えに来るとき、それは人生の終わりと、永遠の安寧をもたらすときだから。
理想の世界で、くどいほど綺麗なハッピーエンドの世界で、永遠の安寧を否定した。『苦しい現実の世界で、それでももがき続けることを選んだ』。そう言える人間になりたい、という思いは、今だって消えていない。だけど、そんなこと絶対にできなかった。
そんなときに現れた、同じように傷つき苦しみながら現実の世界で泥臭くもがき続ける貴女。
青葉さんは、俺の天使だった。
天使は生と死、希望と絶望を持っていつも微笑んでいる。ここは、そんな心なんてないように見える天使が羽を休める場所だった。天使は傷ついた羽を横たえて、それでも愚かに幸せを求める人間のために羽ばたく朝を、じっと待っている。自分の痛みは羽毛で覆い隠したまま、次の日が来るたびに何度も飛び立つ。俺を助けてくれた、あの日のように。
息をするのも辛かったあの時期に開けた最後の穴に、真珠を砕いたものを固めた飾りの、小ぶりなピアスを入れた。天使の羽のように柔らかな色合いは、ふと目に入ったときにいつも、俺を安心させてくれた。辛いことがあって、もう立ち上がれないと思った時は、傍にいる天使が”頑張ったね”と言って、俺を連れて行ってくれる。
でも、もうこれは必要ない。だってここに、腕の中に、自分の天使を見つけたから。ひどく人間らしい、命を賭したくなるほど愛おしい、俺の天使。その傷ついた羽で世界を飛び回れなくなったら、今度は俺をずっと守ってくれていた天使の羽を借りて、もう一度立ち上がってみればいい。俺がいなくなったって、これがあればきっと、空は飛べずとも、この世界を歩いていくことはできるから。
もう片方も自分のものと変えて、手の中に落とした青葉さんのピアスを彼女に返した。
「…遥飛の耳が、寂しい」
押し付けたはずのピアスが押し返されたかと思うと、今度は青葉さんが俺の頭を引き寄せ、耳たぶにそっと口づけられた。思ったよりずいぶんくすぐったくて身を捩ると、「しゃきんとして」と怒られた。言われるがまま頭を動かさないように努めていると、「ハルの穴、ちょっと歪んでる」と耳元で囁かれた。
「だって…何で開けたっけ。…そうだ、安全ピン…で開けましたから」
嘘だ。本当は名札のピンだった。
「そっか」
それ以上は何も聞かれなかった。
ややあって、右にはフープピアス、左には銀のスタッドピアスが通された。微かに残っている青葉さんの温もりがじんわりと伝わってくる。
「ありがとうございます」
そう言うと、布団の中で、ふふっと笑う青葉さんの息がかかった。俺達は今、自分達より近く、お互いの傍にいると、そう思った。
「もしこれから、辛いことがあったとしても、俺が悲しむから、死なずに生きる、ってどうでしょう」
「…嫌だよ。辛い時は、死にたくなっちゃうもん」
だけどね。
「いつか、遥飛みたいな天使が迎えに来てくれるなら、私、頑張れるよ」
遥飛がいてくれたから、この部屋で守ってくれたから、私、この世界も悪くないって、思えるようになったんだよ。
ね、遥飛、私、君のこと、
次の言葉は分かっていた。だけど、聞くことはできないから、強引に唇を奪った。ごめんなさい、そう思いながら。顔を上げた先で暗闇に慣れた瞳が、歯を見せて笑いながら涙をこぼす青葉さんを捉えていた。その耳たぶには、確かに、純白の羽が輝いていた。あぁどうか、どこまでも、俺が行けるはずのない世界の果てまで、思いのまま、自由に飛んでくれ。
俺の天使。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます