第33話 石澤凪沙 逃げる。

 石澤凪沙目線


 普段から部活で走り込んでいる。だから体力的には自信があった。相手はどう見ても普段から運動をしてなさそうな男性――おじさん。


 関係ないかもだけどオタクっぽい。

 偏見かもだけど、普段から部屋に、こもることが多そうに見えるこのおじさんに、朝晩のキツイ練習をしている私が負けるとは思わない。だけど、逃げるという行為は思ってたより体力を消耗する。


 怖いから。

 捕まったら何されるかわからない恐怖。だからペースを考えずに、全速力で走ってしまった。制服。スカートなので勝手が違う。でも、そんなこと言ってられない。このオタクっぽいおじさん。


 私の初めて。

 初体験。開通権とか言ってた。キモい。さっきの臭ったすえた臭いを思い出し、えずきそう。私はあがった息を整えるために、雑居ビルの入口に身を隠す。近くに中華料理店があって、その換気扇から吐き出されるニオイとたいして変わらない。


 そうだ、こんな臭いだった。こんなニオイになる前にどうしてお風呂に入らないんだろ。清潔にして身なりを整えれば、普通の人と変わらないのでは。ならお金で初めてなんて買わないで恋愛して――そこまで考えて私は目を疑う。


 逃げる際、色んな方向をでたらめに走った。私は地元なので土地勘がある。だから少しくらい休んで、逃げたらいいなんて思っていたが、その考えは間違っていた。


 巻くために走ってきたはずなのに、時間を稼ぐつもりで、猛ダッシュしたはずなのに、追いつかれた。このすえた油のような臭いは、中華料理店の換気扇の臭いじゃない。


 さっきのオタクおじさんの臭いだ。

 どういうこと? 体力があるようには見えない。ジグザクに逃げた私をまるでロスなく一直線に、線を引いたみたいに移動してきた? 逃げた私自身、行先を決めてないのに……


 こんな所でへばってる場合じゃない。私は再度逃げる。そして逃げた先で、とんでもない人物を目撃する。瑛太だ。スマホを片手にきょろきょろしてる。勘が悪い私でもわかる。


 さっきのオタクおじさんに協力してる。幸い、いや全然不幸だけど、見つかってないし、駅前。帰宅する人でごった返していた。すぐには見つからないだろう。


 無意識のまま握り締めていたコーヒー豆の袋。かさかさと乾いた音がする。音でバレないように握り締める。瑛太にはまだ気付かれてない。さっきのおじさんの姿もない。冷静になって周辺を見渡せる場所。


 いざ見つかったとして逃げれる場所を探し、周辺を観察して私は絶望を感じる。瑛太だけではない。お姉さんの村上愛莉センパイの姿もある。鋭い目つきから本気度がうかがえる。それだけじゃない。


 瑛太のバンドメンバーも気だるそうに周りを探してる。こんな人数で探されたら秒で見つかる。駅の反対側。どうしてそっちに逃げなかったんだ。駅の南口には交番がある。


 常駐してるかまでは知らないけど、交番に逃げ込んだら、力づくで引きずり出すなんてされなかったはず。行くか、イチかバチか。ここにいても見つかるのは時間の問題。


 帰宅を急ぐ人の波はそんなに長くは続かないだろう。乾いた唇を舌で湿らす。甘く見ていた。本当に甘く見ていた。カンナから用心するように言われてたのに、甘く見ていた。軽く見ていた。


 枇々木ひびき君とカンナ。

 3人でこの先、ぬるい青春をやれると勘違いしていた。私なんだ。運に見放されたような私にそんな平凡な日常にあふれる青春が用意されてるわけがない。


 このまま捕まって、知りもしないオタクのおじさんに初めてを奪われ、その後も――あの家族にいいようにされるんだ。


 毎日のようにお客を取られ相手をして、痛みを感じないようになって。瑛太のおばさんにクスリ漬けにされて――嫌だ。そんなの嫌だ。そんな未来は嫌だ。ほんの少しの望みがあるなら、交番に逃げ込もう。寸前で捕まったなら叫べばいい。そうだ、それしかない。


「どうしたの。こんなところで」

 聞き覚えのある声。姿。日に焼けた笑顔に私は全身の力が抜けた。


 ***

「――だいたいこんな感じ。カンナ的にはどうしたらいい?」


 私は鷹崎高校サッカー部の練習着を着ていた。

 それはつまり、オタクおじさんに捕まる寸前で枇々木君に出会えた事を意味していた。そして路地裏で制服の上を脱ぎ、枇々木君に借りた練習着を着た。


 変装のためだ。瑛太たちは私が制服を着ていると思ってるからと。この助言はカンナのものだ。枇々木君に事情を話した途端、彼は躊躇ちゅうちょなくカンナを頼った。

 三人の中で機転がもっともきくのはカンナだからと。枇々木君は通話を中断し私に話しかける。


「カンナがなんかおかしいって。いくらなんでも、そんな正確に追跡出来ないだろって言ってる。カンナが何か持たされてないかって、聞いてる。かばんとか、なにか――石澤さん? その手に持ってるのなに」


 枇々木君に会えた安心感から、私は腰が抜けたように座り込んでいたが、まだ危機は去ってない。


「えっと、コーヒー豆。これ配達してって」

 枇々木君は「それだ!」という声と共にコーヒー豆の袋を私から取り上げ、強引に袋を破る。すると薄っぺらいカード――乾燥剤だろうか。ポトリと足元に落ちた。


「これって」

「たぶん、これGPS。これで石澤さんの居場所を特定してるんだ。待ってて――」

 枇々木君は小走りで駅前のバス停へ。

 停まってるバスに一瞬乗って降りてきた。何をしてるか混乱した私でもわかる。GPSをバスに置いてるんだ。程なくバスは発車。


 隠れて見ていた私たちは胸を撫で下ろす。

 オタクっぽいおじさんをはじめ、瑛太たちは駅前から姿を消したのだ。恐らくGPSの指し示す地点を追って移動したのだろう。


 こうして私は親友たちに守られ、窮地きゅうちを脱したのだが、話はそんな簡単ではなかった。カンナの指示で彼女の家にタクシーで移動してと言われた。


 タクシー。

 いくら100万円が掛かってるとはいえ、タクシーを襲うほど、瑛太たちはバカではないと信じたい。理性が働いたのか、もしくはうまくGPSに釣られてくれたのかタクシーは無事にカンナの家に辿り着いた。


 到着した私をカンナは涙目で迎え、抱きしめてくれた。カンナの温もりでようやくわが身の無事を実感できた。














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