日々の何気ない時間

一ノ瀬

推しとの決別

 ー「エピローグ」ー


 今、私には特定の「推し」と呼べる存在がいない。それは誰かと文字通り拳を交えているわけではないが、精神的、あるいは活動のベクトルにおいて、過去の自分を夢中にさせた相手と「対立」していると認識しているからに他ならない。この情報過多で、常に新しい才能が生まれ、過去のものが瞬く間に消費されていくSNS社会で、個人が埋もれずに自らの光を放ち、存在を確立するためには、他者を熱狂的に推すことに時間と資本を費やす物理的な余裕が一切ないのだ。巨大な組織力と潤沢じゅんたくな資金を持つ大手企業や、既に確立されたファンベースとブランドを持つインフルエンサーたちは、広大なSNSの海を悠々ゆうゆうと航海できる大型船のようなものだ。しかし、表現者としてゼロから船出する素人には、使える武器は限られている。己の内なる情熱と、文字通り寝食しんしょくを削って捻出ねんしゅつする時間、そして、かき集めたわずかな自己資金以外に頼れるものはない。その、あまりにも限られた、命綱とも言えるリソースを、他者の応援に割いている暇はない、という切迫感が、私の日々の活動の根底には常に存在している。それは、生き残るための、そして、いつか彼らと同じ、あるいはそれ以上の輝きを放つための、静かで、しかし確固たる決意に他ならない。


 ー「推しがいた時」ー


 遡ること数年前、私の青春時代は、ある特定の存在への熱狂的な「推し活」によって色鮮やかに彩られていた。彼らの活動の全てを追いかける日々は、日常の退屈を忘れさせてくれる劇薬のようなものだった。彼らに費やしたお金は何万円どころか、もしかしたら数十万円に及んでいたかもしれない。それ以上に、私の貴重な学生時代の、二度と戻らないであろう時間は、彼らのために惜しみなく捧げられていた。それは確かに楽しく、私の世界を広げてくれる経験であり、彼らが作り出す美しい世界や表現に心から感動し、明日を生きる活力を得ていた。


 しかし、その熱狂の渦中かちゅうにいながらも、私の心の片隅には常に、どこか満たされない、表現者として立つ彼らに対して、自分は「」であることへの物足りなさが存在していたのだ。推しを画面越しに眺め、一方的にコメントを送るだけの関係。画面の向こうの彼らが作り出す世界に感動し、消費するだけの自分。その圧倒的な創造性と、それを受け取るだけの自分との間の、埋めようのない差に、時折、激しい焦燥感しょうそうかん羨望せんぼうのような感情を抱いた。「なぜ自分には彼らのような表現ができないのだろう」「同じ人間なのに、この才能や影響力の圧倒的な差は何だろう」という疑問は、日を追うごとに大きくなっていった。そして、ある日、雷に打たれたかのような閃きが私を捉えたのだ。もし、推しに費やしていたこのな時間、この惜しみなく使っていたお金を、全て自分自身のために使ったならどうなるだろう?自分自身を磨き、表現するスキルを身につけ、発信する側に立ったなら、彼らが見ている景色に近づけるのではないか。いや、もしかしたら、いつか彼らと肩を並べ、あるいは越えることさえできるのではないか、と。その瞬間、「推し」は憧れの対象であると同時に、「越えるべき目標」へとその存在意義を変えたのだ。


 ー「脱、推し活」ー


 その自己中心的な、しかし強い思いが芽生えてから、私の「推し活」への熱は、まるで潮が引くように徐々に冷めていった。単なる一ファンとして、彼らの創り出す世界を受け取っていることの心地よさと、自分自身が創造し、表現する側に立ちたいという強い衝動との間で、激しい葛藤が生まれた。それは、愛着のある場所を離れる寂しさと、未知の世界へ踏み出す興奮が入り混じった、複雑な感情だった。そして、最終的に、私は自己プロデュースへの舵を切ることを決意した。それは、長年慣れ親しんだ居場所を捨てる、簡単ではない決断だった。しかし、自分の内側から止めどなく湧き上がる「表現したい」「自分を形にしたい」という欲求は、かつて推しを応援していたどの瞬間にも匹敵する、あるいはそれ以上の、強烈なエネルギーを伴っていた。


 そうして、その自己変革への考えに至ってから約一年後の2022年、私はかつて熱狂的に応援していた「箱推し」の状態から、完全にそのコミュニティを降りることを選択した。これは単なるファンからの卒業という生易しいものではなかった。それは、自らが表現者として、かつての憧憬の対象と同じリングに上がるための、静かで、しかし明確な宣戦布告のようなものだった。そして、その決断を下した瞬間から、かつて夢中になった「推し」と、私は物理的な距離はあれど、表現者として互いを意識し、ある種の「対立関係」を築くことになったのである。彼らの存在は、私にとって目指すべき高みであり、同時に、自らの力を試すための、そしていつか乗り越えるべき明確な壁となった。この「対立関係」は、単なる競争相手というだけでなく、過去の愛着や尊敬、そして現在は自らが表現者として彼らと競い合おうとする意識の間で、感情が複雑に絡み合い、時に激しく揺れ動く、精神的にも非常に負荷のかかるものだった。


 自己プロデュース活動のスタート資金を確保するため、私はそれまで長年かけて大切に集めてきた推しのグッズを、フリマアプリなどを通じて手放すことにした。しかし、一つ一つの品に愛着があった。それらを梱包し、発送する作業は、過去の自分との決別を突きつけられるようで、寂しさも伴った。そうして集めた資金は、私の新たな活動のための貴重な燃料となった。


 ー「活動開始」ー


 自己プロデュース活動を開始するにあたり、私が主戦場として選んだプラットフォームは多岐にわたった。瞬間的な情報発信や他のユーザーとのコミュニティ形成にはX(旧Twitter)を活用し、視覚的な表現やポートフォリオの提示にはInstagramを選んだ。そして、よりリアルタイムなコミュニケーションや、音声・映像での表現にはツイキャスなどのライブ配信サービスを利用した。それぞれのプラットフォームには独自の特性と文化があり、そこでどのようなコンテンツが求められているのか、どのように発信すればより多くの人に見てもらえるのか、手探りでの試行錯誤が始まった。魅力的なコンテンツを作り、定期的に発信し続けることの難しさ。誰にも見向きもされないのではないかという不安。辛辣しんらつなコメントに傷つくこと。それらは、かつて一ファンとして推しを応援していた時には決して知ることのなかった、「発信する側」としての生々しい苦労だった。しかし、同時に、自分の表現に共感してくれる人が現れた時の喜びや、新しいフォロワーが増えることへの期待感、そして何よりも、自分の手で何かを生み出すという創造的な行為そのものに、かつて推し活では決して得られなかった、深いやりがいを感じていた。それは、受け身ではない、自らの意志で世界に働きかけているという、確かな手応えだった。


 ー「アカウント停止処分」ー


 自己プロデュース活動にようやく勢いがつき始め、手応えを感じ始めていた矢先のことだった。2023年のある日、何の予告もなく、長年利用してきたXのアカウントが突然停止処分を受けたのだ。青天の霹靂だった。そのアカウントには、それまでの活動の全てが詰まっており、約300人のフォロワーとの繋がりがあった。突然の遮断に、頭が真っ白になった。運営に問い合わせても、明確な理由は示されない。しかし、心当たりが全くないわけではなかった。過去の投稿や、他のユーザーとのやり取りの中で、もしかしたら規約に触れるような、あるいは誤解を招くような表現があったのかもしれない。今でもその処分に完全に納得しているわけではないが、SNSというプラットフォーム上では、運営の判断が絶対であることを痛感させられた出来事だった。推しとの「対立」を選び、自己プロデュースの道を進むと決めた覚悟が、私を突き動かした。再発防止策を慎重に考えながら、新しいアカウントを作り直し、ゼロからの活動を再開した。失ったフォロワーや積み重ねてきたものが惜しかったが、これもまた経験だと割り切り、前を向くしかなかった。


 ー「Xのフォロワー1000人へ」ー


 ゼロからのスタートとなったXでの活動だったが、諦めずに発信を続けた結果、2024年にはフォロワー数が1000人を突破することができた。それは、アカウント停止という挫折を乗り越え、地道な努力を積み重ねてきた結果であり、紛れもない成果だった。しかし、このフォロワー数増加は、私にとって新たな課題と向き合うきっかけともなった。フォロワーが増え、多くの人に自分の発信が届くようになった喜びと同時に、かつてのような一人一人との密なコミュニケーションが難しくなったのだ。以前は全員のリプライに返信したり、積極的に交流したりすることができたが、数が多くなるにつれてそれは物理的に不可能になっていった。フォロワーが増えることは素晴らしいことだが、その反面、かつてのような距離感や親密さが失われていく感覚があった。それは、私が理想としていたコミュニティ形成とは少し違う方向へ進んでいるのではないか、という不安にも繋がった。フォロワー数という「数」を追い求めることの危険性や、それだけでは測れない大切なものがあることを思い知らされた、ある種の「痛恨のミスであった」と、今では感じている。


 ー「今」ー


「数」が全てではないということを、Xでの経験を通して強く思い知らされた私は、現在、活動の場を広げている。特に力を入れているのは、物語やエッセイなどの文章表現に特化したプラットフォームであるカクヨムでの活動だ。ここでは、Xのように刹那的せつなてきな情報消費ではなく、じっくりと腰を据えて文章と向き合うことができる。現在、「青年の翼」という作品を中心に執筆活動を行っている。カクヨムを選んだのは、文章を通してより深い思考や感情を表現したいという欲求と、Twitterのような瞬発力よりも、継続的に質の高い作品を創り出すことに重点を置きたいと考えたからだ。ここでの活動はまだ始まったばかりだが、新たな表現の可能性を感じている。


 これから先も、私と、かつての「推し」との間の「対立関係」は続いていくだろう。それは、彼らを打ち負かそうという攻撃的なものではない。むしろ、彼らの存在を原動力として、自分自身の限界を越え、表現者として成長していこうとする、私自身の内なる挑戦だ。SNSという広大な、そして容赦のない戦場で、資本なき個人がどこまで立ち向かえるのか。過去の憧憬の対象に、表現者としてどこまで迫り、そして独自の光を放てるのか。この問いへの答えを出す旅は、まだ始まったばかりだ。具体的な活動内容や、かつて私をそこまで熱狂させた「推し」の正体については、また別の機会に、改めて詳しく書いていきたいと思う。

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