case.3 絵画を愛した男①

 パラノイアとリビドーは馴染みの飯屋で食事を摂っていた。過食症を患っていた少女――宇春ユーチェンは、会うたび元気になって行く。今も店でグラスを洗っていた。


「リンゴがたくさん手に入ったの。デザートに食べて行かない?」


 飯屋の女店主は、パラノイア達が昼食を終えた食器を片づけながら言った。


「常連の行商人がくれたのよ」

【果物は久しぶりだナァ。ありがたく頂戴しようゼ】

「そうだね。戴こうか」


 女店主は食材庫からリンゴをひとつ取り出すと、丹念に洗い、包丁を入れてパラノイア達に差し出した。リンゴの皮はうさぎの耳のような形にしてある。


 リビドーは素早くリンゴを啄んだ。


【ジューシーで美味いゼ!】


 パラノイアもひとつ摘まんで齧る。甘酸っぱい味が口に広がった。美煙壺びえんこの絵付けを頼んでいる絵付師――白蛇パイシャが「ある宗教においてリンゴは禁断の果実らしいよ」と、話していたのを思い出した。


「食べた人間に知恵を授けて神に背くようになるからなんだって。自分で考えられなくする方が、支配者には都合がいいのだろうね」


 白蛇はそう言っていた。

 芸術や宗教を禁止し、人間から思想の個体差を奪い支配しようとする『奴ら』と似た考えだ。

 色んなことを考える奴がいるからこそ人間は面白いというのに。


「白蛇の奴、どこにいるんだろうね」


 パラノイアはリンゴの汁で汚れた指先を舐め、呟いた。


 白蛇は何より芸術を愛する画家だ。今もどこかで絵を描いているに違いない。

 『奴ら』に捕まり『教育』される寸前まで追い詰められても、脱走して創作活動を続けるような男だ。


「あいつに依頼したい仕事が溜まっているんだが」


 絵付けされないと美煙壺が完成しない。

 まだ売り物になれない妄想がかなりの数になっていた。適当な器で店に陳列するのはパラノイアの美学に反する。

 別の絵付師に頼む気にもなれない。


【おいら、あいつ苦手なんだよナァ】


 リビドーは全身をぶるりと震わせた。


「白蛇はお前に執着してるってのに」

【だからダ! 気持ち悪いんだよ、あいつ】


 リビドーがぶつくさ言っていると、誰かがパラノイアの隣の席にすわった。画材の匂いが鼻を掠めた。


「楽しそうだね。僕もご一緒させて貰っていいかな」


 よく知る声だ。パラノイアは隣の席に視線を向けた。紅いメッシュを入れた白髪を胸元まで伸ばした、三十代半ばの大男がすわっていた。


「白蛇じゃないか」


 リビドーは【げェ!】っと鳴いて、そそくさとパラノイアの影に隠れた。


「やぁノアちゃん、久しぶり」

「あんたは相変わらず個性的な格好だね」


 白蛇はノースリーブでヘソまでしかない丈の派手な柄の服を身に着け、桃色で透け感のある女物のような衣を羽織っていた。

 下は白い蓮の模様が入った水色の袴だ。

 目がちかちかする。いつ見ても理解できないファッションセンスだ。


「美しいだろう?」


 見せつけるように白蛇は桃色の衣を揺らした。


【その格好のどこが美しいんだヨ。趣味が悪いゼ】


 白蛇に自分の言葉が理解できないのをいいことに、リビドーは毒づいた。


「リッ君!」


 白蛇はパラノイアの影で小さくなっているリビドーに気がつき、表情を明るくさせた。そしてリビドーが逃げる間もなく両手で掴み、羽根を執拗に撫で、頬ずりした。


【ぎゃア!】

「いつ見ても艶やかで美しい羽根だね。ちょっと顔を埋めてみてもいいかな」

【やめろォ!】


 リビドーが抵抗すると羽根が抜け落ちて床に散らばった。


「ああ、もったいない」


 白蛇の注意が床に向いた隙をついて逃れ、リビドーは素早くパラノイアの肩に止まった。


「君はいつもつれないなぁ」


 拾った羽根を片手で弄びながら白蛇は残念そうに呟いた。


「白蛇、あんたに仕事をお願いしたい」

「僕もだよ。だから会いに来たんだ。お店の場所が変わっていたから探すのに手間取っちゃったよ」

「そりゃすまなかった。以前のところは『奴ら』が徘徊するようになったから、ここまで逃げて来たんだ」

「大変だったね。積もる話もあるし君の店に行こうか」

「ああ。案内するよ」


 妄想屋に着くなり白蛇は店内を観察して満足げに目を細めた。


「今度もいい店だね。独房を改装しているのも風情がある。インスピレーションが湧くよ」


 そう言ってゆったりとソファに腰かけた。


「そのインスピレーションを生かしていい仕事を頼むよ」


 パラノイアは絵付け前の美煙壺を箱詰めすると、妄想のリストと共に白蛇に手渡した。


「いつも通り、あんたの感性に従って描いてくれりゃいい」

「信頼してくれて嬉しいよ、ノアちゃん」

「で、あんたが依頼したい仕事ってのは何だい」

「『愛する女性のことが知りたい』という人がいてね。その女性の妄想を売ってあげて欲しいんだ」

「『媒体』になりそうなものはあるのかい」

「いや。だけど本人には会えるよ」

「妄想を取り出すには本人の協力が必要だ。その女は協力してくれそうなのかい?」

「僕には判断できないよ。リッ君に見て貰わないと」


 白蛇はリビドーに笑いかけた。


【おいら?】


 リビドーはいきなり名前を出されて驚いた様子だ。パラノイアは女の正体に感づいた。


「この仕事、受けてくれるかな」


 パラノイアは頷く。


「妄想を求めている奴がいるなら、売ってやるのがあたしの仕事だよ」



 次の日。

 パラノイアとリビドーは、白蛇の案内で依頼主の家に向かった。

 出張は面倒なのでできれば避けたいが、『愛する女性』を妄想屋まで連れて行くのが難しいということだった。



 ふたりと一羽は、派手な看板で彩られた無数のペンシルビルが建つ薄汚れたビル群を歩いた。

 ビル同士は寄り添うように建ち、遠目からだと巨大な集合住宅にも見えた。


 ペンシルビルはどれも半壊していたが、互いに支え合うことで奇跡的に大天災地変だいてんさいちへんを耐えたようだ。


 ビルの間には配線が網目状に張り巡らされており、そこにゴミが堆積して屋根を作っていた。

 湿度の高い不快な空気が肌を撫でる。体臭と、油と、何かが腐ったような匂いが入り混じっている。それらを縫うように火薬の匂いがした。

 危険地帯のようだ。だが、ひとの気配は無数に感じる。こんな場所にもたくさんの人間が住んでいるのだ。


 多くの人間は安全な中央都市に移動したが、後ろ暗い仕事をしている者や、

 まっとうな生活が肌に合わない者、思想を縛られたくない者はこの無整備地区スラムにとどまった。


「まだ着かないのかい……」


 ゴミと瓦礫に埋もれた歩きづらい道のせいで、元々少ない体力が削られたパラノイアは、覇気のない声で言った。


「もうちょっとだよ」


 パラノイアに答える白蛇は平然としていた。芸術家は体力がいるからと常に鍛えているだけのことはある。パラノイアは日頃の運動不足を悔いた。改める気は毛頭なかったが。


「随分と遠いんだね……」

「『奴ら』から隠れるために、道を複雑にしているからね」

【根性ねぇナァ、ノア】


 白蛇は落ちているビニール傘を二本拾うと、片方をパラノイアに差し出した。傘は受け骨の一部がさびて赤茶色になっている。


「使って」 


 白蛇は傘を差して先程より狭いビルの間を歩き出した。何度も通っているのだろう。慣れた足取りだ。パラノイアも傘を開いて後ろに続いた。


【雨でも降るのカァ?】


 不思議そうにリビドーが空を見上げると、ぽたりと水滴が落ちて来た。


【うげッ!】


 リビドーは水滴から守るように体を縮めた。パラノイアの頭上にも水滴がしたたった。ビニール傘が一筋、黒く染まった。ひどく汚染された水だ。


【ひでぇ道だナァ】

「まったくだよ」


 さらに十分ほど歩いた頃、白蛇は「着いたよ」と言って立ち止まった。目の前にあるのは薄汚れたアパートの扉だ。


【案外フツーのところだナァ】


 白蛇は扉をノックした。


 トトン、トトント、トン、トトントト、トントントン、トトトトン、ト、トトント――妙なリズムだ。暗号になっているのだろう。


 しばらく待つと扉が開き、でっぷり太った中年の男が出迎えてくれた。この男が依頼人だろうか。


「おかえり白蛇。その人が妄想売人か。ようこそ。さぁ、とにかく中へ」


 太った男はパラノイア達を促すと、扉から顔を出して注意深く外を見回し、急いで閉めた。

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