7  聖女を冷遇する婚約者

 修道女たちの馬車に乗り、約五時間ほど遅れて砦に到着したエリュシアはすぐさま、砦の兵たちの治療にあたった。

 国境の警備にあたっていたところ、エデン軍が侵攻してきたという。

 徹底抗戦を経て敵軍は退却させたが、負傷兵は二百を越え、聖女の到着までに命を落としたものもいた。あのようなことがなければ、聖女の奇蹟で全員を助けられたかもしれない。だが、後悔している暇はなかった。

 後悔したところで助かる命はない。


「私は女神ロクスの祝福を預かるものです、私がきたからには誰も死なせません」


 エリュシアは微笑みながら瀕死の兵たちに声をかけ、聖女の奇蹟を施す。

「なぜ、すぐにきてくれなかったのか」と嘆いていた兵たちもいたが、傷がたちどころにふさがると安堵し、穏やかに眠りはじめた。


 なかには大砲にやられ、脚がなくなった兵もいた。まだ若い男だ。


「ハルモニア、彼の脚はまだありますか」


 看護をするため、派遣されてきたハルモニアに声を掛ける。


「え、あっ、脚ですか」


「彼の脚をつなぎます、持ってきてください」


「えっ、や、やだ……こ、こわい」


 ハルモニアは想像を絶する悲惨さにすくんでしまっていた。

 ほかの修道女たちも頭を横に振る。彼女らの助けは頼りにできないものと割りきって、エリュシアは兵に声をかけて現場に赴き、脚を抱きかかえてきた。


「俺はだめだ。死んだほうがまだ、よかった。死なせてくれ、聖女様」


「いえ、ここで死するのはあなたの天命ではありません。御気を確かに。女神を信じて祈るのです。さすれば、かならずや奇蹟がもたらされます」


 絶望する兵に語りかけ、エリュシアは脚をつなぐように包帯を施してから手をかざした。女神の御光があふれて、紋様を織りなす。


 エリュシアの額から真珠のようなあせが噴きこぼれた。眉を寄せ、苦痛を堪えるように息を荒げる。


 それでもエリュシアは懸命に微笑を取りつくろった。


「ほら、もうだいじょうぶですよ」


 包帯を解けば、ちぎれていた脚が元通りになっていた。


「奇蹟だ! 聖女様が奇蹟をくださった!」


 兵は歓声をあげた。ほかの兵たちも感涙かんるいする。


「ありがとうございます、これで故郷に還れる……」


 まだ若い兵の安堵した表情をみて、エリュシアは胸がいっぱいになる。よかった。ほんとうによかったと彼を抱き締め、また新たな負傷者のもとにむかった。


 奇蹟をもたらすほどにエリュシアは気息奄奄きそくえんえんとなっていった。


「あの、お姉さま、だいじょうぶですか」


 なんとか気持ちを振るいたたせて看護をはじめたハルモニアが声を掛けてきた。エリュシアは無理やりに頬を持ちあげる。


「……すみません、へいきですよ」


 唇は紫になっていたが、顔紗マスクをしているので、隠せる。ふらつきながら、エリュシアは致命傷を負っていた全員の傷を癒した。


 残りは命に別条のない傷を負った兵だ。ひとまずは安堵の息をついたとき、白銀の鎧をまとった聖騎士が砦に帰還した。


「ミュトス殿下だ」

「ご帰還くださったぞ」

「ミュトス皇子」


 銀製のかぶとをはずせば、きらびやかな黄金の髪がを描いた。やさしげな眼差しに慈愛あふれる顔つきをした男が兵たちに微笑みかけ、手を振る。


「安心してくれ。砦のまわりに残党はいなかった。敵軍は完全に退却したよ。よく乗り越えてくれたね。神聖アルカディアの勝利だ」


 ミュトス゠パラディソスは教皇の嫡男ちゃくなんだ。

 神聖アルカディアは神権政治という特異な政体に基づき、教皇が統治している。教皇は王位継承等と同様に世襲制であり、ミュトスは次期教皇ということになる。現在は聖騎士として各地を駆けまわり、聖なる英雄と民から称えられていた。この北の砦が持ちこたえることができたのも彼が駐留していたからだ。


「聖女」


 ミュトス皇子から声をかけられ、エリュシアは裾をつまんで頭をさげた。


「このたびはミュトス殿下のご活躍により、神聖アルカディアに迫る危険が退けられました。ミュトス殿下のご功績に畏敬の念が堪えません」


「次期教皇としてなすべきをなしただけだよ。……重傷を負っていた兵たちの治療が終わったんだね。一度別室にきてくれるかな、話がある」


 エリュシアは僅かに緊張する。

 アルテミス司祭からは貴族令嬢に変装するように指令したのはミュトス皇子だと聴いていた。聖服せいふくを身につけていなかったせいで刺客に狙われたことを考えれば、彼は聖女暗殺の容疑者の筆頭に挙げられる。


 だが、次期教皇である彼が、聖女に殺意を抱くとは到底考えられない。


「承知いたしました」


 エリュシアの背後ではハルモニアが「あ、皇子様」と声をかけたそうにしていたが、ミュトス皇子は微笑ひとつかえして、エリュシアを連れてその場を後にした。

 

 …………

 

 北の砦は石造りで、昼でも指がかじかむほどに寒かった。

 別室に移って扉を閉ざすなり、ミュトス皇子は穏やかな表情を変えずに尋ねてきた。


「なんで、こんなに遅くなったのかな?」


「森のなかで馬車が横転する事故があり」


「言い訳を聴きたいわけじゃないんだよ、聖女」


 ミュトス皇子はあからさまにため息をついた。


「貴女が遅れたせいで、負傷した兵がふたり、死んだ。神聖アルカディアの尊き命が失われたんだよ。どのような事情があっても許されることじゃない、わかるよね?」


 エリュシアは身を縮め、靴に視線を落とし、聖服のすそを握り締める。指が微かに震えるのを堪えようとした。


「申し訳ございません」


「しかも、聖服も身につけていなかったというじゃないか。かわりに異境の高級な絹の服を身につけていたとか。遠征は観光きぶんだったのかな?」


 おどろき、咄嗟に視線をあげる。


「ミュトス殿下が変装するようにと命じられたのでは」


「私がそんな命令をするはずがないだろう。衆目しゅうもくを避けたいならば、馬車の帳を降ろせばいい」


 変装しろと指令したのは彼ではなかった?

 だとすれば、彼は暗殺を依頼した容疑者ではなくなる。


「連絡の不一致があったようです。しかしながら、私が浅慮あさはかだったせいで誤解を招き、要らぬご懸念をおかけしてしまったことは事実です。心よりお詫びいたしま――」


 最後まで言葉にすることはできなかった。ミュトス皇子はエリュシアの髪をつかんで、無理に顔をあげさせたからだ。


「貴女は私の婚約者なんだよ?」


「っ……心得ております」


 次期教皇が、アルカディアの聖女と結婚する。

 異例だが、続く戦火にかげる民心に希望をもたらす政略結婚である。愛はなく、だからこそ彼の意に添えるようにエリュシアは努力してきた。


「聖女の評は私の評につながる。私に恥をかかせるような事はしないでくれるかな?」


 声は凍えるほどに冷たいのに、彼は皇子様らしい完璧な微笑を絶やさない。それは兵の指揮を執るものとして最も重要なことでもある。だが、なぜだろうか。エリュシアの失態をよろこんでいるような、ゆがんだ喜色を感じた。


 いや、そんなはずはない。

 現にいま、エリュシアは叱責されているのだから。


(だいじょうぶ)


 髪がひきつれる。いくつかの髪がちぎれた。


(だいじょうぶ、だいじょうぶ)


 髪をつかまれるくらい、たいしたことではない。


「承知いたしました。このようなことがないよう、努めます」


 納得してくれたのか、髪をぱっと離された。


「それでこそ、私の婚約者だよ」


 慎ましやかに微笑む。


「有難き御言葉です」


 吹きつけた風が石壁のすきまを抜けて、堪えきれなかった悲鳴のように聴こえた。

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