第10話

 世界規模のパンデミックから一ヶ月が過ぎた。

 インフラ機能は完全に停止し、インターネットは生き残っている政府や軍などの公的組織だけの特権になってしまった。

 辛うじて最初の一ヶ月を生き延びた人々は、次なる戦場へと駆り出された。つまり、有限な資源を奪い合う戦場である。

 無政府状態の地で最も隆盛を極めるのは、若く暴力的な集団である。純粋な力関係と個人間の信頼関係によって強固に築かれたコミュニティは、各地で息を潜めていた老人たちを文字通り排除した後、かれらが持っていた物を全て奪い尽くして我が物とした。

 それは日本でも同様だった。暴力団や半グレ集団といった反社会的な勢力の春が来たのだ。かれらを止める警察はもはや存在していない。好きに奪って好きに暴力を振るうことができる。これほどに全能感を味わえることはなかった。

 転化者という脅威はあったが、それらは木偶の坊である。柵を立てて見張りを置いてイレギュラーに対応できるようにすれば如何様にもできる。まして暴力への忌避性の無いかれらにとってはストレス発散の対象でしかなかった。



 とはいえ、例外も存在する。幾つかの都市では警察と自衛隊による有機的連携が成功し、秩序を保てているケースがあった。藤波市もその一つである。


「転化者を排除しながら市内を確保します。生存者のグループが幾つか存在しているようなので、それらも回収していく予定です」


 藤波市郊外にある洋館。その一室では柊機関の機関員たちが行動方針について話し合っていた。


「藤波駐屯地とは常に連絡を取り合っています。車田大臣……首相は現在駐屯地で待機中です」

「少なくとも市街地が我々の手中に収まらない限りは動くべきではないからね。その点、あの人はわきまえている」


 上座の椅子に座るトウカが静かに言った。


「ところで他の国の様子は?」

「定期連絡を続けているアメリカと中国ですが、アメリカは掌握した州を繋ぐルートを構築することで物資と人を流通させることに成功しています」


 アメリカの柊機関に当たる組織は〝ディレッタント〟という。ディレッタントは学問や芸術を趣味とした愛好する者のことを指す言葉で、メンバーのほとんどが知識人や芸術家としての顔を持っている。

 ディレッタントは世界崩壊の折に北米大陸を横断するルートを構築する計画を立てていた。太平洋と大西洋の入り口を確保するためである。

 カリフォルニア、ネバタ、ユタ、コロラド、カンザス、ミシシッピ、ケンタッキー、バージニア。この九つの州政府を掌握し、ディレッタントは突貫工事に似た強引さでルートを完成させていた。


「アメリカらしい思い切りの良さだ。中国は?」


 中国の組織は〝窮奇チオンジー〟という通り名を持っている。神話に登場する霊獣の一つの名を取ったこのグループは、党幹部と軍の高官、国営企業の経営者によって構成されていた。

 機密機関の中でも規模は柊機関を大きくしのいでいたが、それでも十三億の人民を救う力は無かった。そこでかれらは大陸各地にセーフゾーンを置き、同志の人民解放軍兵士たちに守らせることにした。計画はおおむね成功し、現在は転化者の巣窟と化した北京に向け進撃しているという。

 他にも、イギリスはロンドンを放棄し、イングランド南部のみを確保することで完全な無政府状態を回避した。王室はウイルスの被害が少ないカナダへと避難していた。

 一方で完全な崩壊の憂き目に遭った国もあった。事実上ウイルスの自然感染が始めて確認されたメキシコでは、転化者の大量発生に伴って麻薬カルテルといった犯罪組織が一挙に蜂起し、各地で軍閥のごとき勢力として幅を利かせるようになってしまっていた。

 アフリカ、中東、バルカン半島などの政情不安が続く国は、政府の力が及ばず各所で市民が独自行動を取ったことで国家としての体裁を破壊してしまっていた。それまで息を潜めていたゲリラやテロ組織が一斉に陽の目を浴び、各地で抗争を繰り広げている。


「他人事とは言えないよ。我々も対応を間違えれば内戦状態に陥るかもしれない。事実、現在のところ我々の息がかかった部隊以外の自衛隊は、各地で命令も無いまま待機状態にある」

「今は良くても、いつか勝手に行動を開始する可能性があるということですね」


 若嶋わかしまがトウカの発言の意図を汲み取った。


「それだけじゃない。暴徒化した民間人が警察署や駐屯地を襲撃して銃火器を奪い取ることも考えられる。そうでなくとも暴力団みたいな連中だっているしね」

「日本も平和ではない、と」

「思っているよりもね」


 柊機関の構成員たちが会議を続けている間、地下では新人機関員となったハルが射撃訓練を行っていた。


「……十メートルで全弾命中。訓練を始めて一ヶ月にしちゃ上出来じゃねえか」


 蜂蜜色の髪をしたビクターがハルの頭をくしゃくしゃにする。ヒースたちはハルの訓練教官としての仕事に従事していた。ヒースが銃器の分解・組み立て、ビクターが実射訓練、モーリスとニールスの兄弟が近接戦闘のノウハウを叩き込んでいた。


「ビクター、そろそろCQBの訓練を……」


 レンジに入ってきたニールスは、湿布のような匂いが漂っていることに気づいた。


「どうした?」

「……よく飲みますね」

「はあ? 美味いじゃん」


 ビクターはルートビアの缶を軽く振った。


「味は良いと思いますが、匂いはちょっと……」

「分かってねえなぁ。この匂いが良いんだろうが。なあハル!」

「えっ、何です?」


 ハルはイヤーマフを着けて拳銃を撃っていた。


「だからこのルートビア。お前も飲むよな?」

「……いや、匂いがちょっと……」

「ああ? まだまだ子どもだな。これを嗜めるようになるのが大人への第一歩だな」

「たかが炭酸飲料一つで語りすぎです。行きますよハル」


 ニールスはハルを連れて出ていった。一人残されたビクターは、空になった缶をゴミ箱に投げ捨て、また新しい缶を開けた。


「あまりビクターの言うことを真に受けないように。悪い影響を受けますよ」

「はあ……」


 彼らと行動を共にするようになって一ヶ月。ハルはそれとなく人となりを把握しつつあった。

 真っ先に知ったのは、ビクターとニールスが〝喧嘩するほど仲の良い〟関係にあることだった。二人は互いに互いのすることにちょっかいを出してはにらみ合い、その度にモーリスに止められていた。モーリスは四人の中では一番風貌と立ち振舞いをしていて、隊長であるヒースの横で常に的確に仕事をこなしていた。

 三人の上に立つヒースは、常にスポーツウェアとミリタリーパンツそして軍靴という格好で過ごしていた。分解・組み立て訓練のためにハルが呼びに行くと、ヒースは常に寝ているかテレビを見ているかしていた。


「リラックスできる時はリラックスしておけ」


 これがヒースの口癖だった。曰く、任務中はそれが終わるまで緊張感を絶やしてはいけないので、どんなに場数を踏んでもストレスに悩まされる兵士は多いのだそうだ。だからこそ仕事以外の時間は自分の力を及ぶ限りだらけるべき、というのがヒースの主張だった。



 CQB訓練は、市街戦における屋内戦闘と、ナイフの扱いについての手ほどきを受ける。ハルは戦争に赴く兵士ではなく種々の工作に従事する工作員エージェントと位置付けられているが、急な接敵に対応できなければ話にならないのは兵士もエージェントも同様だった。

 ハルが最も苦手とするのはこの訓練だった。今やハルは目隠し状態でもグロック17の分解・組み立てをこなし、二十メートル先のターゲットになら必中させられるほどの射撃能力を持っていたが、それでもこの〝遭遇戦〟にはなかなか慣れることができなかった。

 モーリスに三回、ニールスに二回あと、ハルは休憩のためにロッカールームへ駆けていった。


「よう、坊やの調子は?」


 ヒースが訓練場に入ってきた。二人の訓練教官にミネラルウォーターの差し入れを渡す。


「まだ私たちに勝つことはできてないですね。まあ簡単に負かされてはたまらないので、こっちもそれなりに力を入れてますが」


 ニールスが肩をすくめた。


「とはいえ、平均よりもはるかに速いスピードで動きが良くなっています。チンピラ程度なら簡単に伸してしまうでしょう」


 モーリスが落ち着いた口調で弟の言葉を継いだ。


「そうかそうか。まあこんな短期間でここまで成長したことを褒めるべきかな?」

「そもそも彼はお使いをこなすための工作員ですし、我々のように誰かを暗殺したり救助したりするわけではありませんしね」

「あとは実地で使えるかどうか、そこが問題ですが……」

「なら、ちょうど良い任務があるわ」


 凛とした声の主はユノだった。訓練場の入り口に立ち、スタイルの良さを誇示するように腰に手を添えている。


「任務?」

「聞いた限りじゃあとは実戦のみってところかしら、彼?」

「まあ、そんなところで」


 ヒースが軽い口調で答えたタイミングでハルがロッカールームから出てきた。


「柊さん」

「夕凪くん、そろそろ私たちも仕事を始める時が来たわ」

「それって……」

「任務よ。早く着替えて三階のブリーフィングルームに来てね」


 ユノの口調にはどこか冒険に向かおうとしている少年のごとき軽やかさがあった。

 三階の一角にある図書室にはブリーフィングルームとしての機能が隠されていた。部屋の中央に置かれた長方形のテーブルは、ボタン一つで表面が巨大モニターに変化する仕組みになっていた。


「我々は情報収集のために民間人の力を使うことがある。探偵などを雇ってね。もちろん先方に正体は明かさない」


 説明役を担うのは機関長トウカの腹心といわれる若嶋だった。まるで新社会人のようなあどけなさがある若者だが、変わり者の機関長の意図をよく汲み取り、トウカの代わりに実働面を担う有能な機関員である。


「こういう協力者たちを我々は〝外部委託人〟と呼んでいる。君たちにはこの外部委託人の家から資料を取ってきてもらいたい」


 平面モニターに映し出されたのは、髭面の中年男の顔写真とその住居と思われるアパートだった。


「この男は自営業の探偵で、一週間前ほど前に消息が分からなくなってしまったんだ」


 藤波市を拠点と定めた柊機関は、市内の監視カメラをあらかじめ完全な管理下に置いていた。インフラが死んでいるこの状況でも監視カメラには電力が供給され、街の様子を常時モニターしている。行方不明となった探偵の動向も監視カメラで捉えていたのだ。


「ずっと街にいたんですか?」

「この男がいた地区は転化者が少なくて比較的安全な場所だったんだ。けど、ここ二日くらいで市街地の転化者が移動してきている」

「襲われた?」

「かもしれない。ひょっとすると連絡手段を失っただけで引きこもっているのかもしれないが、とにかくカメラの目が届かない所にコイツはいる」


 若嶋は男の安否、そして資料の回収を二人に命じた。簡単なおつかい。初任務としては順当である。

 ブリーフィングの後、ハルとユノは私室で装備の確認をした。


「ケブラー繊維?」

「防弾・防刃性の高い繊維でできた服よ。当たったらとっても痛いけど、死にはしないわ」

「内戦中の国とかじゃないんだから、別に防弾装備なんか要らないんじゃ……」

「万が一に備えるの。命拾いする可能性があるでしょ」


 ハルの分の服を渡しながらユノは滔々と語った。生存者と遭遇した際に備え、服のデザインは限りなく平凡なものになっている。


「ちょっと綺麗過ぎない? 新品みたいだ」

「任務を進めていくうちに汚れていくわ。そもそも人と接触しないのが基本なんだから服のデザインなんて何でも良いでしょ」

「それはそうだけど……」

「着替えるからちょっと部屋を出て」


 反論の間もなくハルは部屋を追い出された。ややあって再び入室すると、水色のTシャツに身を包んだユノが立っていた。


「何見てるの」

「いや、似合ってるなって」

「そう。じゃ、私は外で待ってるから早く着替えてね」


 勇気を出して褒めたつもりだったが、軽くあしらわれた。やはり〝可愛い〟とか〝キレイ〟などという褒め言葉は飽きるほど聞いているのだろう。ハルは少しショックを受けたが、気を取り直して服を着替えた。全ての準備を終えた頃には、すっかり気分を入れ替えることができていた。



 







 

 

 

 

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