第4話

 悪いことは続く。

 正確に言うと、余計なお世話は続く。悪気の本当にない悪意は繰り返す。

 その日、昼休みで皆でお弁当を囲んでいるときだった。私の持ってきたお弁当に、友達が「うわあ……」と言ったのだ。

 その日は洗濯機の不具合のせいで手間取り、あまりお弁当をつくる時間がなかった。ご飯に梅干しを載せた日の丸弁当を用意するので精一杯だった。コンビニで買おうにも、私はほとんどお小遣いを持っていないため、もったいなくってできなかった。


「なんで? お母さん寝坊したの?」


 なにげに言われて、胸の奥がチクリとする。


「お母さん、私のお弁当をつくらないよ」

「ええ……なんで?」

「忙しいから。仕事が」

「あー……大変だねえ」


 それだけで話が終わったらよかったのに、別の子が余計なことを言ってきたのだ。


「でも、ほたちゃんのおばさん、この間無茶苦茶綺麗な子と一緒に歩いてたよ?」

「綺麗な子って?」

「なんかねえ、ものすっごく浮世離れしてる感じの子。あれほたちゃんの妹?」

「……ううん、お姉ちゃん」


 よりによって姉の検査入院に行く様子を見られたらしい。それに周りは沸き立った……町に住んでいたら、知られたくないプライバシーだって娯楽の一環だ。私は彼女たちの娯楽になってしまったらしい。

 皆は姉が病気だということも、お母さんと検査入院しに行っていたことも知らないから、暢気なものだった。


「ええ、ほたちゃんのお姉ちゃん可愛い! 天使みたいだった!」

「そう……」

「でもお姉ちゃんのほうがさ、髪型綺麗じゃなかった?」


 なにげなく言われる。

 私は学校の生活指導の先生に怒られないよう、ひとつにまとめるので精一杯だった。前髪も伸びっぱなしなのを、なんとかゴムで止めている。安いシャンプーに安いリンスで、ごわごわした髪を誤魔化し続けている。

 一方姉は、相変わらず院内理容室で綺麗にボブカットにしてもらっているため、天使の輪が浮いている。

 それにはどう答えたらいいかわからない。

 私自身、お小遣いは少ない、アルバイトだって中学生だとまだできないんだから、ホームセンターで売っている何枚セットの服ばかり買っている。

 せめて出かけるときくらい綺麗にというお母さんの考えの元、毎日毎日ファッションショーのように服が変わっている姉とは、そもそも違う。

 そんなことを言う訳にもいかず、私が黙り込んでいる中。

 とうとううちのグループで一番の常識人が口を開いた。


「……それって普通に虐待じゃないの?」

「ええ?」

「姉妹格差とかって。ネットとかにも結構載ってるよ?」


 途端に沸き立っていた空気は、一気に微妙なものになってしまった。

 ……止めてよ、そういうの。

 結局友達は、私に気を遣って日の丸弁当に細々としたおかずを足してくれるようになった。私はそれを「ごめん」「ありがとう」と言いながら受け取りつつ、げんなりとした。

 うっすらとは思っていた。お母さんは姉に依存していると。でもそれを突きつけられた途端に、げんなりとしてしまった。

 あの子たちは知らないんだ、姉が検査入院に行く前に、ずっと窓の外に手を合わせていることを。お母さんに買ってもらった水晶のブレスレット。アクセサリーというよりも、お守りみたいなゴツゴツしたそれを手にして、一心不乱にお祈りしていることを。

 姉は大人になれないと、ひと桁のときに突きつけられた。

 それにお母さんは嘆き悲しんで、姉を連れてあちこちの病院を回っているのだ。新しい病院の話をするたびに、姉は一瞬頬を引きつらせたあと、両親ではわからないくらいに綺麗な笑顔を浮かべる。


「うん、わかった」


 そして一心不乱にお祈りするのだ。

 次はいい結果が出ますように。次も退院できますように。次も外を歩けますように。

 そう祈っている人を、どうして「羨ましい」と言えるのか。

 そしてその姉を愛して、必死に余命宣告に抗っているお母さんを、どうしてそこまで悪く言えようか。

 私だって苦しいけれど、もっと苦しい人が目の前にいるのに、無下なことは言えない。

 そんな気持ちは、きっとわかってもらえないし、わかりようもない。結果として、私はそのグループを離れ、ひとりで保健室で弁当を食べるようになった。

 保健室で弁当を食べていると、姉のことも見ていた保険医さんが心配そうな顔をする。


「お姉ちゃんのことで、なにかあった?」


 そんなストレートに聞きつつ、教室でなにかあったことを聞かないでくれる保険医さんは、正直かなりありがたかった。

 私は弁当を摘まみながら、口を開く。


「お姉ちゃんのことを言うと、すごく同情的な顔をされて、ギクシャクされるんですよ。でも言わなかったら言わなかったで、変な子扱いされますし」


 兄弟姉妹がいるかどうか、年は何歳違うのか、今なにをやっている人なのか。いちいち聞かれて、のらりくらりと交わしていても、なにかの拍子に聞かれてしまう。

 そして偶然見つかった姉のことを話題にされたら、大概勝手に盛り上がった末に、勝手に問題にされて、勝手に同情される。それに私はすっかりとくたびれてしまった。

 保険医さんは私に湯飲みと一緒にやかんの麦茶を汲んでくれた。


「難しいわね、人の家の話って、どこまで踏み込んでいいものか」

「私……普通がよくわかりません。テレビとかあんまり見ませんし、今なに流行ってるのかも知りませんし、スマホもまだ持ってないんで、ソシャゲとか、流行りのゲームとかもわかりませんし」

「そうね……もうちょっと大きくなったら、あなたと気の合う人ができるから。だから。ねっ?」


 大きくなるのを待っていたら、私はもう子供でいられなくなるのに。

 大人になったら、私はもうちょっと上手く嘘をついて、人の話題をのらりくらりと交わして、家族のことを触れられないように避けきることができるようになるんだろうか。

 暗澹とした気持ちで、私は麦茶を飲んだ。やかんで淹れた麦茶は、ペットボトルのものよりも主張が強く、苦みも際立っていた。今の私には、これくらいの苦さがちょうどいい。


****


 そうこうしている内に、私の受験シーズンになった。

 私の受験シーズンになったら、いよいよ私は家にいることが難しくなってしまった。姉が自室のベッドの下で倒れているのが見つかったのだ。

 すぐに救急車を呼んだものの、お医者さんには首を振られてしまったのだ。


「……大変申し訳ございませんが、お嬢さんは多臓器不全に陥っています」

「そんな……今まであちこちの病院で診てもらいましたけど、そんな話はひと言も……!」

「お嬢さんの免疫疾患で、少しずつ少しずつダメージが蓄積されていって、とうとう表に出たんだと思います。なによりもこれだけ体力が弱ってしまっては……手術する体力も残っていませんし、あと一年、あるかないかだと思ってください」


 お医者さんは姉が倒れて眠っている中、そう私たち家族に告げたのだ。

 こうなっては私は完全に叔母さん家に預けられ、その中で受験勉強に勤しむこととなってしまった。

 叔母さんは「中学浪人だけは絶対にしちゃ駄目」と、学校の先生以上にスパルタだった。

 涙目になって勉強しているのを、まだ受験とは無縁の満美ちゃんが「これ食べる?」とお菓子を運んできてくれ、わからないところは徹くんが教えてくれた。

 恵まれている。そう考えると気持ちが満ち足りてくるけれど、それと同時に罪悪感が募る。

 姉は今も病室で寝ているし、もう治らないと言われてしまった。期限だって区切られてしまった。私だけ、本当に幸せでいいんだろうか。

 お母さんはそれでも必死に病院に食らいつき、どうにか多臓器不全の治療のできる病院を探しているし、お父さんはもうこの数年で気の毒なくらいに老け込んで、寝ている姿か目が落ちくぼんでいる姿しか見たことがない。

 私だけ、安全な場所にいる。それがより一層居心地を悪くしていた。

 春の喧噪が過ぎ去り、夏の蝉時雨がなりを潜め、秋の落ち葉をシャクシャク踏む感覚がなくなったと思ったら、気付けば冬になっていた。

 マフラーをぐるぐる巻きにして、私は受験に出かけた。

 受験の前に、叔母さん宅のWi-Fiを使ってアプリで連絡をする。


【お母さん、受験に行ってきます】

【お姉ちゃんね、あと半年寿命が延びたのよ! やっぱり前の医者は藪医者だったんだわ!】


 お母さんは半狂乱になってしまっていた。それに私は後ろめたく思い、見なかったことにして受験に挑んだ。

 あれだけ人の家に棲み着いて勉強した以上は、合格しないとあまりにも情けなかった。

 私がうだうだ考えている中、私は第一希望に合格した。

 受験番号を確認し、ポロリと涙を溢す。思い返してみても、家が大変なことになっているのと、必死に受験勉強をした記憶しかなく、やっとひとつだけ報われた気分になった。

 そのとき。


「お母さん、合格した!」

「偉い! 第一志望合格!」


 何気ない親子の会話に、私の気持ちはみるみる萎んだ。

 当たり前だ、合格したらその足で学校に報告に行かないといけないんだから、親子で合否確認に来ている人がほとんどだ。ひとりで来ているのは、私と。


「……あれ?」


 背中を沿って、じぃーっと合否確認の表を眺めている男の子を見た。周りには誰もいない。どこもかしこも保護者同伴で賑わっている中、その子だけは気怠げな雰囲気を醸し出していた。

 癖っ毛で、髪の毛の先々がピンピン跳ねている。眠そうな目。しばらく男の子は表を眺めたあと、うっすらと笑った。どうも自分の受験番号を見つけたらしい。それを確認して、安心したように背中を丸めると、校門へと移動してしまった。

 大柄の子なのに、身長を丸めたら私とあまり変わらなくなる。私は特に身長が高いほうでもないのに。

 私はただ、その背中を眺めていた。そして、彼の立ち去っていった残り香に、嗅ぎ覚えのあるにおいが混ざっていることに気付いた。


「うん……?」


 なにかの拍子で姉の病院に行くために、この匂いはすっかりと嗅ぎ慣れてしまった。アルコールと薬、そしてすえた柿のにおい。それらが全部混じり合うと、死臭のような物悲しいにおいになる。

 死臭を纏わせた男の子は、私と同い年なんだろう。私と同じにおいを知っている彼と、どうにかして話をしてみたかった。

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