再醒のエコ

軟体ヒトデ

第1話運命の日

『親愛なるアメリカ国民の皆さん、どうか困難に屈せずに立ち向かってください。災害と汚染から救援に赴けず、支援物資を送ることしかできない自身の不甲斐なさを恥じるばかりの毎日ですが、私は決して希望を捨てません。地球を死の星に変え、人類を1万分の1まで間引きして奴隷にするなどと宣ったあの侵略者を相手に立ち向かい、勝利を収めたように、目の前の苦難にも打ち勝ってみせましょう。そのためにも今も都市で戦ってる貴方たちへの支援を続けていくと約束します。この物資がランナーの方々を通じて貴方たちの未来を繋げていくことを心から願います!』


 灰色にくすんだ空を飛行する航空機から流れる声は、一度もこの街の地面を踏んだことのない大統領のものらしい。いつもの通り決まり切った謝罪と激励からはその人となりは判断できないが、大石剣也(おおいしけんや)は毎月途絶えること無く大空から投下される物資のこともあって、最低限大統領の仕事はしているのだろうと思っていた。


「ツイてる、今日は近いぞ!」

 

 剣也が駆け抜ける街道は、あちこちに亀裂が入ったままの酷い有様で、視界のなかにはもはや植物の柱にしか見えないほど蔦の絡まった街灯や、ひび割れたアスファルトを突き破って伸びる雑草、そして道の両端には鉄筋が顕になっている荒廃した建物。

 ここら一帯の悲惨さは昔住んでいた日本の本州とそう変わらない。かつてはアメリカの中心として機能していたらしいワシントンD.C.の町並みを、剣也はアスリートもかくやという勢いで駆けていた。

 その目的はパラシュートでゆっくりと落下するいくつかの小型のコンテナ。そう、あの灰色の空を飛んでいる大型の航空機から定期的に落とされる食料や日常品が入った政府からのプレゼントだ。

 剣也が暮らす集落の備蓄はすでに枯渇寸前、ここであれを取り逃がせばコミュニティに待っているのは全滅だけだ。百人近い人間の命が自分にかかっていることへのプレッシャーを押しのけ、目の前の角を右に曲がる。

 すると、並び立つ建物の隙間から赤い煙が立ち昇っているのが見えた。落下したコンテナから出る信号弾である。


「あれだ!」


 早鐘を打つ心臓を無視してコンテナの目の前まで走る。間近で見るコンテナは剣也の下半身ほどのサイズだが、重要なのは箱の大きさではない。呼吸を整え、表面のボタンを押すと、コンテナの蓋がはゆっくりとせり上がっていく。


「よしっ」


 その中身は宝の山と言って良い。

 飲料水が入った大量のペットボトルに食用植物を育てるための肥料、見た目は親指ほどの大きさしか無いが、水を少し混ぜるだけで数十倍に膨張するパンと味付けのためのジャムやチョコレートソース。そして素人でも扱えるように改良された人間と家畜の両方に使える治療用ナノマシンを収めた無針注射セットと治療スプレー。

 今月も中々の品揃えだと納得しながら背負っていたリュックを下ろす。さすがにすべてを持ち帰ることはできないが、集落の人間が数ヶ月生きていくだけなら剣也一人が背負えるだけの量で事足りる。

  これも近年発達した圧縮技術、そしてナノマシンによる恩恵だった。

 そして、必要な物資を厳密に選び、リュックに詰めてから剣也はとあるものを手にした。


(これこれ♪)


 危険を顧みずにコミュニティのために物資を運ぶランナー。決して割に合わない役割に対して暗に認められた特権として剣也が手にしているパック――に入っているチョコソースを舐めることだ。


(あっま!)


 強烈な甘さだ。

 奥深い味わいや風味なんて存在せず、ただ甘くしておけば満足するだろうという安易な考えで作られた科学の結晶も、明日どころか今日を生きることすら困難な難民にとってご馳走である。

 乾き切った世界で剣也の世界に色が着く貴重な機会だった。だが――


(毎度のことではあるけど、食料だけじゃなくて可愛い女の子が入ってたらもっとやる気が出るんだけどなあ。胸がでかくて俺を一途に想ってくれるようなエロエロ美少女とかなら言う事なしなのに)


 コミュニティに所属している女性というのは負けん気の強い肝っ玉母ちゃんが多い。頼りがいはあるが剣也の理想とする人生の伴侶からはかけ離れているのでそういった対象から外れている。

 そうでなくても未亡人製造機と揶揄されるランナーに添い遂げようとする覚悟のある女性は決して多くないのだから。

 無事に物資を調達できた安心感から余計なことを考えてしまったが、気を取り直してリュックを背負い、心地よい重みを感じながら急いで立ち去ろうとした瞬間。


「おいっ、荷物を下ろして両手を上げな色男!」


 背中に受ける怒声に体が震える。

 剣也は流れるようにリュックを地面に置き、両手をあげながらゆっくりと立ち上がってくるりと振り向く。


「なんだあ、まだガキじゃねえか」

「仲間のいる様子はなし。一人だけのようですね」

「たった一人で来るとは努力家だねえ」


 声の主は十人以上の男たちだった。よれよれのシャツを着て、その上には年季の入ったボディアーマー、そして整備の行き届いていないAKライフル。だが構え方はてんでバラバラ。正規の訓練を受けた兵士というにはあらゆる面で未熟だった。しかも、相手が少年であると分かってへらへらと笑みを浮かべて談笑までする始末。

 彼らは通称バンデットと言われる無法者だ。

 コミュニティにも馴染めず、政府に見捨てられたと思い込んだはぐれ者共が徒党を組んで武装した集団である。

 流石にコミュニティを襲うことなどは稀だが、少人数で物資を運ぶランナーにとっては天敵とも言える存在だ。今回も物資を求めて来るとは思っていたが、まさかここまで早く来るなんて想像もしなかった。


「まあいい。そいつを全部こっちに渡して消えな。そうすれば生かして帰してやる」


 やっぱりか。全部持ち帰るなんて物理的に不可能ではあったが、品性の欠片もないハイエナ共の手に渡るのは歯がゆい。

 だがここで反発しても命を危険に晒すだけ。


(仕方ない……)


 剣也は素直にズイッと横に移動し、コンテナの方へと目配せしながらリュックだけ持って帰ろうとするが。


「おい! 何を勘違いしてやがる。こっちは全部よこせって言ってるんだよ!」

「んなッ! 何を言ってるんだっ」


 さすがにこれには怒りを抑えられなかった。バンデットに分け合うなどという殊勝な心がけはないことは始めから知っていたが、まさかここまで酷いとは。


「コンテナのは全部やる。だからこれだけはやめてくれ。集落の人間にとってこれっぽっちでもあれば生きていけるんだ」

 

 一縷の望みに懸けて情に訴えるが、返答は下卑た笑い声となって返ってきた。


「聞いたかおい。こいつ、俺たちがお優しい善人とでも思ってるようだぜ?」

「お願いすれば言うことを聞いてくれるなんて、あるわけねえだろ? 現実見ろよ、若いの。水や食料が必要ならこっちにも見返りが必要なんだよ。具体的には俺たちの手足になってくれる労働力だがな」


 ハイエナらしい馬鹿げた言い分だ。

 労働力などとオブラートに包んでいるが、要は代わりに危険地帯で命がけの作業をしたり、身の回りの作業すべてを押し付ける奴隷がほしいだけだ。

 バンデットとは武装した暴徒集団の総称であるが、麻薬カルテルを母体としたメキシコの武装集団と違ってワシントン周辺を根城にしているこの連中に秩序というものは存在しない。弱者を踏みにじり、略奪できないものは徹底的に破壊する。正しく人間のクズと呼ぶにふさわしい。

 ギリッと歯を食いしばり、後ろポケットにすっぽりと入っている小型のリボルバー拳銃と2つの手榴弾に意識を向ける。連中が持つAKの銃口はこちらに向けられているが、相手は抵抗など予想にもしていない。所詮はただ武器を持って気が大きくなっただけのならず者だ。

 一発撃たれれば統率を乱して逃げ出すスキを与えてくれる。


(どうする? やるか?)


 敵の数は十人、距離にして三メートル程度。まず外すことはない。見目麗しい美女が相手ならともかく単なるチンピラが相手なら躊躇などする必要もない。後ろに手を回し、ポケットから顔を出しているリボルバーをいつでも取り出す準備をする。

 ――瞬間、複数の鳥類の鳴き声をかけ合わせたような咆哮が都市に木霊した。

 ゾクリと血の気が引いたのはバンデットたちも同じだ。自分たちを囲むように響く咆哮に耐えきれず、剣也から銃口を外して辺りを見渡す。


(あれはっ!)


 鳴き声のする場所、建物の屋上に陣取るいくつもの影が現れる。

 驚く剣也たちを余所に、影は一斉に跳躍したかと思うと剣也たちの近くへとまらばに着地した。まるでクレーンで高く上げられた鉄筋が地面に落ちたかのような重低音が響く。

 太陽に照らされて鈍い光を反射する灰色がかった白い体色を持つ二メートルの体躯。昆虫のような外骨格に指の一本一本がサバイバルナイフのように肉厚な前足とかかとを浮かせてつま先で立つ趾行性の後ろ足とノコギリのように小さな刃がいくつも連なった鋭く長い尻尾。異様に発達した二本の牙を携えた、鼻や眼球が存在しない頭部。その姿は、あえて形容するなら人間の形を真似たアリだった。


「ホワイトアントだっ!」


 剣也は叫ぶ。自分が生まれるよりもはるか昔。地球の環境を汚染し、大陸の文明の大半を壊滅させ、人類の総人口を五%まで減少させた侵略宇宙人の様々な生物兵器。その中でもっとも数が多く、最も人間を殺してきた最下級カーストのスレイブ――歩兵――だ。

 バンデットたちは恐怖に情けない声をあげながらAKのトリガーを引く。

 そして、その発射音が戦いの合図とばかりにスレイブの大群は一斉に飛びかかる。

 爆発によって押し出された7.62mm弾は銃口から強烈な轟音と閃光を放ちながらスレイブへと着弾するが、その攻撃は体表から僅かに緑色の血液を流すだけで怯む様子はなく、鋭利な五指でバンデットを切り裂いていく。


「「ぎゃあぁぁぁぁぁ!」」


 断末魔の声が恐怖で硬直していた剣也の体を動かした。

 リュックを肩に掛けてスレイブの密度がもっとも薄い部分に向かって走り抜ける。

 一瞬、足元に転げ落ちたAKを拾おうと逡巡し、すぐに無視した。本来であればボディアーマーを装着していても内蔵や骨に甚大なダメージを与えるAKだが、ロクな手入れがされていないせいで本来の半分の威力も発揮していない。そんなものに命を預けた結果が目の前の殺戮劇だ。

 一目散に逃げる剣也の存在に気づいたスレイブたちは我先にと追いかけてくる。

 ホワイトアントの中では数を頼みにした最も弱いスレイブでさえ、銃を持った人間十人を処理するのに数秒とかからない。それが人間と奴らの力の差を如実に表している。

 幅10mを超える悪路をものともせずに追いかけてくる様子はまるで津波だ。その速度は軽く40kmを上回る。どれだけ必死になっても20km前後が限界の剣也では追いつかれるのも時間の問題だ。

 もちろん人間と化物の超えられない壁を痛いほど理解している剣也はその差を行動と機転で補う。狭く複雑に入り組んだ道を器用に走り抜け、急な方向転換や曲り道に対応できない一体が体勢を崩して転げ回れば、後続の仲間が引っかかってドミノ倒しのように次々とその場で倒れ込んでいき、速度が圧倒的に落ちる。

 そこに護身用に持っていた手榴弾を投擲。数秒後に無数の破片と一緒に発生した爆風で何匹かが宙を舞うが、その体は血まみれになりながらも致命傷には至っていない。


「クソっ! やっぱりこんなのじゃダメか!」


 硬い外皮に覆われているスレイブに手榴弾や拳銃程度では決定力に欠ける。最低でもよく整備されたアサルトライフルかショットガンがなければ『普通の人間』ではまず勝ち目がない。

 そう、仮にこの体が特別であれば――、かつてこの体に馴染んでくれなかった第二世代ナノマシンがあれば――、普通の人間ではありえない超常的な力が宿ってくれたなら。


(やめろ俺っ! そんな意味のない希望にすがるな!)


 死を前にして妄想にすがる自分が恥ずかしい。

 生まれてから16年。どんな希望や夢を抱いても一寸先の絶望に裏切られ、打ちひしがれてきたではないか。

 祖父母の親類を頼って日本からアメリカに渡米すれば、その親類は既に死んでいて誰にも頼ることができず、未だ文明がまともに機能していたはずのアラスカに渡る手段を探し続けた父と母は劣悪な環境に耐えきれず帰らぬ人となった。救助作戦が近日決行されるという放送を信じた翌日に軍がホワイトアントの大群に壊滅させられた。

 すべて自分以外の誰かが勝手にやってくれると考えた結果が絶望に彩られてきた。今まで生き残ってきたのは自分の弱さを認め、その上で今できることを模索してきたからだ。過去の苦い記憶を悔いる暇があれば何も考えずに足を動かして前だけを見据える。その間だけは命をつなぐことができる。

 だがそれは前を向いていれば良いという甘えに過ぎないことを剣也は思い知った。

 ダアンッ! という大きな音とともに通りのカフェをぶち破り、巨大な影が飛び出してきた。濃い土煙越しに見える黒い影は、これまた凄まじい声を上げると自分を覆う土煙を吹き飛ばす。


「う、……嘘だろ?」


 信じたくなかった。

 影の正体はスレイブに似た姿形だがより巨大だった。王冠のような頭部が後ろで形成されている異形の人型。――コマンダーと呼ばれるホワイトアントのなかでも上位の存在であり、数の多いスレイブを統率する部隊長の役割を持つ。

 そんなコマンダーは、眼球が存在しないにもかかわらず目の前の剣也の存在を知覚して威嚇している。


「ッく!」


 リボルバーを構えてトリガーを引いたのは理性ではなく本能による行動だった。パン! パン! パン! と軽い発射音。3発の弾丸はすべてコマンダーの胴体へと命中するが、スレイブ以上に分厚い外骨格の前にすべて防がれ、次の瞬間には巨大な豪腕が剣也の体を吹き飛ばした。


「ゴッ!?」


 数秒ほど宙を待った体は河川近くの巨木へと叩きつけられ、次いで体中の血が逆流して口や鼻から一気に吹き出た。

 ゴロンと力なく倒れ、真っ赤な視界にはコマンダーに引き連れられたスレイブの大群。


(ああ、終わった)


 運命、そんな言葉がよぎったのは生まれて初めてだった。日本で受けた受けたナノマシン適正検査に落ちたときも、落ち込みはしたが逆にそれだけで済んだ。

 だが今は違う。逃れられない死が、一歩ずつ近づいてくる死神の存在が、これがお前の運命なのだと告げるように迫ってきている。ランナーとして誰よりも危険な場所に赴き、生還してきた。それはこのときのため、ここで惨めに殺されるために今まで生きてきたのだろうか。回らない頭で辛うじて思考するのは悲観的なものばかり。


「……はは」


 でも、まあ良いかと剣也は力なく笑う。

 疲れていたというのは不謹慎だが、当てもなく物資を探し回り、バンデットたちと戦い、ホワイトアントから逃げてばかりの毎日。死ぬことだけが自分にとってようやく取れた休息なのかもしれない。


「ああ、でも」


 もうどうしようもないというのに、心残りを思い出した。

 今も背負っているリュック。木にぶつかったせいでグシャグシャになっているが、せめて無事なものだけでも何とか送り届けられないものか。

 付き合いなんて必要最低限にしていたせいで住民の顔なんて村長くらいしか覚えていないが、自分だけのために見捨てるほど淡白なものではなかった。集落でランナーは自分しかいない。彼らは武器で自衛はできても自分からバンデットやホワイトアントが跋扈する危険地帯を走り抜け、国からの物資を取りにいけるような度胸や能力なんてないのだ。


「あと、死ぬ前に可愛い女の子とイチャイチャしたかったな」


 近づいてきたスレイブが爪を振り下ろそうとする。これが最後の光景かと観念したとき。

 突然、周囲を吹き飛ばすほどの暴風がホワイトアントの右側から発生する。暴風雨のような激しい衝撃と猛烈な水滴に目を閉じる。風切り音とスレイブたちの断末魔が耳をつんざき、再び目を開ける頃にはほとんどのスレイブが体中を切り刻まれ緑色の血液を流しながらが絶命していた。

 唯一耐えきったコマンダーは、同じく体を切り刻まれながらも水流の来た方向めがけて突撃したが、動きは突然止まり、首と胴体が別れた。


「んな……」


 剣也は驚きを隠せなかった。

 対戦車火器を用意してようやく撤退に追い込めるかどうかというあの化物を倒したのだ。しかも銃器ではなくもっと超常的な力で。

 コマンダーの倒れた先に視線を送る。もはや自分の体とは思えないほど重く、糸の切れた人形のようになっても、目だけはまだ自由に動かすことができた。


 ピチャ、ピチャ。


 水溜りの上を歩く音が近づいてきた。今にも閉じてしまいそうなまぶたを必死に開け、僅かとはいえ自分の命を繋いでくれた恩人の顔を見た。


「……っ」


 綺麗だ。


 視界がおぼろげも、その女性の美しさだけはハッキリと分かった。

 太陽の光に反射されて神秘的に煌めく腰まで伸びた水色の髪。

 背筋が凍るほど鋭い目とシュッとした小さな顔。女性にしては高めな身長と相まって獰猛な猛禽類を彷彿とさせる。

 裾が分割し、一見するとミニスカートのようなデザインのキュロットパンツから伸びる健康的な太ももと胸部だけを隠すへそ出しトップス。

 他人を寄せ付けない圧倒的なオーラ、そして見るものを魅了する神秘的で可憐な容姿。何より。


(で、でっかい……っ!)


 体にピッタリと張り付くレザーの上からも存在感を出す圧倒的なボリュームを持つ爆乳は、歩くたびにぶるんぶるんとアピールするように揺れ動く。

 こんな状況だと言うのにその魅惑的なスタイルに、剣也は虜となっていた。


「これで6匹目。クソ、どこまでしつこいんだ」


 まるで女神のように美しい女性は、表情を険しくしながら骸となったコマンダーを見下ろす。怒った顔も素敵などと空気の読めないことを考えていると、さっきまでとは一転。剣也の存在に気づくなりあきらかに動揺を隠せないまま駆け寄ってきた。その度に彼女の胸部は上下に自己主張を繰り返り、ゴクリと生唾を飲み込む。


「なぜこんな所に人が?」


 片膝を着いて語りかけてくる。酷く怯えているようだった。焦点の合わない目が剣也の体を見渡し、コマンダーにやられた腹部の傷を見つけて苦虫を噛み潰したように顔を歪める。

 女性は腰のポシェットを逆さにすると中の物品をすべて落とした。そのすべてが薬品類であることがラベルは形から把握できた。女性は一つ一つ手にとって確認するが、そのたびに顔がさらに歪んでいく。


「傷が深すぎる。この程度の薬では助けられないっ」


 客観的な分析に、やっぱりかと乾いた笑いで答える。そりゃそうだ、装甲車すら引き裂くコマンダーの攻撃を生身で受けたのだ。今こうやって生きていることすら奇跡に等しい。


「っ痛、はっきり言っちゃうんだな」


 額に大粒の汗を流し、今にも意識が途絶えそうになりながらも、剣也は応える。


「ごめんなさい。君が襲われたのは私が原因なんだ。何も考えずに暴れて、そしたら考えてる以上に連中の数が多くて」


 何を言っているだろうか。

 自分のせい? ホワイトアントに複雑な思考回路はない。群れのトップであるクイーンの命令がない限りは無差別に自分たち以外の生物を襲うだけのはずだ。なぜ女性は自分に責任があると考えているのか。


「別に、君が悪いなんて思ってないよ。化物と戦ってる最中に周りを気にしろなんて無茶だし」

「鎮痛用の麻酔ならある。もう手遅れだが、せめて痛みを和らげてやることはできるけど、その」

「いいよそんなの。バンデット相手なら殺してでも奪い取ろうと思ったけど、それは君にとっても必要だろ?」


 仮に女性の懺悔が真実なら、多少は恨みを抱くかもしれない。

 だけどこんな世の中、人間はみんな自分のために生きている。たとえバンデットのような悪党集団でなくても、命をつなぐことに精一杯な一般人でさえ、助けを求める声を耳をふさぎ、救いを求める手を払い除けてしまう。その行為は決して批判されるべきものでない。

 それなのに彼女はまず治療の可能性を確認し、望むなら苦しみから開放してくれる選択肢を用意してくれた。まだ他に生き残りのスレイブがいるかも知れない状況で、こんな無駄な時間の使い方をしてくれている。

 何よりも、そう語りかけてくれる女性はとても優しかった。己の不甲斐なさを詫てるかのようだった。こんな絵に描いた聖女のような女性に怨みなんてぶつけたくない。


「そうだ、できればだけど背中のリュックの中身を集落に届けてほしい。地図も一緒入ってるから迷わないはずだ」


 だけどせめて、彼女が応えられるであろうわがままをお願いするくらいならバチは当たらないと考えた。

 女性は目を見開く。予想にもしなかった懇願に頭が追いついていないようだ。


「この荷物さえあれば集落は生き残る。何なら君の強さをみせつければ雇ってくれるかもしれない」


 集落の男たちはみんな他力本願で他人と関わりたがらない。何よりもほとんどが所帯持ちだ。その上これだけの強さを持っていれば彼女がやましい目に合うことはまずないだろう。

 ようやく言葉の意味を理解した女性は、こらえていた涙を流し、歯を食いしばりながら悔しさをにじませている。


「悪いけどそれはできない。私には目的がある」


 その代わり、と女性は上に羽織っている外套の内ポケットから細長いものを2つ取り出す。それは医療機関で使われる無針注射器だ。1つは透明な筒の中身は女性の美しい髪と同じ、いかにも怪しげな水色の薬液が入っている。もう1つはなんの色もついていない。


「このままでは間違いなく君は死んでしまう。だがこの青い薬にうまく順応すれば生き残るかもしれない。もしもできなかったら数時間の延命と引き換えに今以上の苦しみと絶望を味わってしまう。それが嫌ならこっちの鎮痛剤を使ってくれ。最期の数分は痛みもなく安らかに眠れる。どっちにするか君が決めてくれ」


 2つの注射器を差し出す。最後まで自分に選択肢を委ねてくれる献身が眩しい。この爆乳含めて、すっかり剣也は女性の虜になってしまった。


(どっちにするかなんて)


 痛みで気を失いそうになる中、剣也の目には光が宿った。


(悩むまでもないだろう)


 こんなところで死にたくない。

 もっと生きていたくてしょうがない。

 諦めかけていたし、こんな人生に意味があるのかなんて哲学者を気取って悩んだこともある。

 だけどいざ生死の境を彷徨ってみたらここで諦める選択肢なんてありえない。

 何よりも。


「生き残ったら泣き顔じゃなくて笑顔を見せてほしいな、とか言ってみたり」


 冗談をのたまいなら青い薬液の入った注射器を右手で掴み、そのまま先端を左腕に突き立て、ボタンを押す。


「っう、くぅっ!」


 瞬間、コマンダーに裂かれた腹の痛みが引き、代わりに全身を激痛が襲う。

 体の芯に熱した鉄の棒を突き刺されたような痛みにが永遠と続くかのような錯覚に陥りながら女性を見ると、彼女は背中を見せると二刀のククリナイフを構え、散り散りになっていたスレイブの群れと相対していた。


「あいつらが来るまで約十五分。少しだけ相手をしてやる」


 胸と同じくらい形の良いお尻を振りながら地面を蹴ってと突っ込む。

 それが大石剣也と後世に再醒のエコと呼ばれる地球再醒計画の要、エコ・ローズの最初の出会いであった。

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