第16話 天才と凡人

『剣聖』シンコウが魔境に入ってひと月ほどになる。


 彼女がこの一か月のあいだでしてきたことは、主に『拠点作り』であった。

 そのかたわらで、連れてきた奴隷少女に剣術の修行もつけていた。


「トヨ、動きが正しくありませんね。最初からやり直してください」

「え……」


 奴隷少女には『トヨ』という名が与えられた。

 漢字で書くと『豊』となる。これは、氷邑ひむら家に所有されていた段階ではまだ名前がなかった少女に、幸福や豊かさを願ってシンコウがつけた名前であった。


 赤毛の犬獣人の少女はこのように、『酷い扱いをする主人から解放され』『剣聖直々の剣術指南をマンツーマンで受けている』という状況にいる。

 第三者が聞けばうらやむような、『人生逆転ルート』である。が……


(ちょっと、ついていけない、かも……)


 シンコウはあまりにも厳しかった。


 物腰は柔らかい。口調も柔らかい。

 ただ、要求水準が高すぎる。


 それは、シンコウの主義が原因だった。


「トヨ、氷邑ひむら梅雪ばいせつを、どのような者だと思いますか?」

「……」


 トヨは答える言葉を持たない。

 それは、トヨにとって『主人がどんな人なのか』というのは、どうでもいいことだからだ。


 必要なのは、ご飯と寝床をくれること。

 それ以外では、動けないほどのケガを負わされたり、あるいはとてもできるはずのない仕事を振られたり、そういうことがあるかどうか。奴隷としてのトヨが気にするとすればそのぐらいだ。


 シンコウが聞いているのは、人格とか、人間性とか、どういう人間かとか、そういう問いかけなのはわかる。

 だから、トヨには答えることができないのだ。

 強いて言うならだというのはわかる。待遇に問題はなかった。だって、

 あとは程度問題。そういう意味で梅雪は、後遺症が残るようなケガもさせないし、ご飯を抜きにもしない、たまに無茶を言うけれどできないからといって罰もないし、普段の仕事に障るほどの追加要求もしないという……『不満のない主人』としか言えない存在だ。


 それをなぜ答えられないかと言えば、それは、であるシンコウが、梅雪をよく思っていないだろうと感じるからだ。


 よく思っていない人を良い評価で語られると、人は不機嫌になる。


 トヨは人の顔色をうかがい続けてきた。何せ、


 また物心つく前のように山野に戻って野良暮らしをするより、氷邑家で多少の無茶を言われながら生きていった方が、生存率が高い。

 だから奴隷としての心構えをし、過不足ない奴隷としての生活をしていた。


 そこを、シンコウにというのが、トヨの認識であった。


 トヨら奴隷にとって重要なのは、『誰が自分の生殺与奪の権を握っているご主人様なのか』、『そのご主人様は何を好み何を嫌うのか』『そのご主人様についていけば生きていけるのか』である。


 シンコウのしたことは、生きていける環境にいたトヨを拉致し、魔境に連れ去り……


 こうして、寝食をほとんど許さず、剣術を詰め込んでいる。

 そしてこの『魔境』において、シンコウから離れればあっというまに死ぬしかなくなるトヨは、の機嫌をとれるように自分をカスタマイズしていると、そういうところであった。


「……無理もありません。あれほど酷く扱われていれば、思い出すのもつらいでしょう」


 トヨが発言に困って沈黙してしまったのを、シンコウはそのように認識したらしかった。


 胸の前でがっちりと手を組んで祈るような仕草をするシンコウは、豊かな肢体と優れた顔立ちがあるだけに、なんとも慈悲深く神秘的な雰囲気をまとっていた。

 目を隠す黒い布もまた、神秘性を助長している。


「梅雪は、傲慢にして慈愛を知らず、周囲の者を傷つけることにためらいがない。そのうえ我慢というものをできず、怒りを呑み下す深みもない」


 トヨとしても、まあおおむね同意なのだが、人にそうやってまとめられると、なんとなく反感がわいてしまう。

 少なくとも梅雪には『わかりやすい』という長所がある。

 不機嫌な時と、そうじゃない時(機嫌がいい時はない)が、わかりやすい。


「しかし、彼は天才です。家柄があり、才能があります」

「……剣士の、才能、ない、らしい、です」


 言葉が途切れ途切れになるのは、トヨがあまり言葉をうまく操れないというのに加え、先ほどからずっと続いている鍛錬の疲労で、まだ息が上がっているせいでもあった。


 シンコウは『あなたも強くなければなりません』ととにかく鍛錬をさせるのだが、少しでも力の使い方を間違ったりすると、『最初からやり直してくださいね』と、当たり前のように言うのだ。

 当たり前というよりもむしろ、『つらいのはわかるけれど、これはあなたのためなんです』と信じ切っているような様子なので、何も言えない。


 大名家から奴隷の少女をさらって『魔境』に逃亡するような頭のおかしいヤツに逆らったら何をされるかわかったものではないからだ。


「剣士の才能などと、あんなものは、大名家でしか重要視されません」


 それはシンコウの思い込みによる過小評価なのだが、この場にそれを否定できる気力・知識のある者はいない。


「剣士の才能ごとき、なんだというのですか。彼は、というのに、剣士の才覚がないというだけで努力を怠り、腐っていた。……なんともったいないことでしょう」


 その言葉は、シンコウが歯噛みする音が聞こえてくるほど、悔しそうで、それでいて、激しく深い怒りを感じさせるものだった。


 トヨには、こののことが、わからない。

 ……だから、彼女の奴隷として適合するためにも、聞いておかねばならなかった。


「……あなた、ごしゅ…………梅雪に、どうなって、ほしい、です?」


 シンコウは、大名を嫌っている──と、思っていた。

 シンコウは、『奴隷』という制度を憎んでいる──と、思っていた。


 だからシンコウは、『いい血統で、いい家に生まれ、才能があり、奴隷を虐げる梅雪のことが嫌い』──と、思っていた。


 でも、話をされるごとに、どうにも、違う気がしてくる。


 シンコウにとって梅雪は、『奴隷をこき使う、いけ好かない、〝恵まれた側〟の生き物』というではないような、そういう気がする。


 もっと、何か、どろどろとした、重苦しい気持ちが、梅雪を語る時のシンコウからは匂ってくる。

 だが、その感情がよくわからない。


 トヨの想いは一つだけだ。

 嫌いなら嫌い、好きなら好きと、はっきりしてほしい。

 シンコウが嫌うなら、トヨもがんばって嫌う。シンコウが好くなら、トヨもがんばって好きになる。

 そもそも好悪の感情なんていうのはご主人様にお追従するために知っておく必要があるだけのもので、自分自身がご主人様に、好きだの嫌いだのという感情はない。


 感情の種類をご主人様と揃えること。

 それが奴隷として生きてきたトヨに染みついている処世術だ。


 だが、シンコウは明確に答えない。


「あなたには、強くなってもらいたいのです」


 この女は話したいことだけを話す。

 別にいい。奴隷を相手に『会話』などする主人はいない。それは当たり前のことだ。


 だが、それはただ単に、壁に向けて独り言を言っている様子とも違って……

 トヨからすれば、まったくつながっていない話が、シンコウの中では深くつながっている。そういう、気配があった。


「あなたには才能がある。あの氷邑梅雪にはない、剣士の才能が。……わたくしは、剣士の才能など、なくとも最強は目指せると思っています。けれど……剣士の才能がないことに悩みぬいているが、自分のもとから奪われた奴隷に剣士の才能があると知ったら……どんな顔をするのでしょう?」


 どろどろ、どろどろ。

 言葉にはねばつく感触と生暖かさがあった。

 目隠しをされたシンコウ。光を失っているらしい目が、氷邑家の方向を見ている。


「あなたは、氷邑梅雪を圧倒できるほど強くならなければなりません。そうすることで、梅雪が……」


 そこでシンコウはハッとした様子になった。

 こほん、となぜか頬を赤らめて恥ずかしそうにしながら咳ばらいをし、


「……あなたが、梅雪に無理矢理奪われそうになった時に、自分の意思で抵抗することができますからね」


 絶対に何か違うことを言いそうになったということが、トヨにはわかった。

 だが、それはシンコウにとって、トヨに聞かせるような話ではなかったらしい。今の咳払いはそういうことだと、トヨは察する。


 ……まあ、察したところで、トヨには『さらに深く聞いてみる』なんていう選択肢はないのだけれど。

 察することができれば、触れないように気を付けることができる。

 主人が言いたくなさそうなことは聞かない。というより、『質問をする』という行為自体がかなり、冒険だった。


 だからは「わかりました」とたどたどしい発音で答えた。

 何もわからないことがわかった。そういう意味で、この言葉は真実だ。


 ……でも、本当に、質問をする前よりも深く、わかったことも、ある。


 シンコウが自分に課しているのは、シンコウ基準でも厳しい鍛錬であり……

 それはどうにも、自分のためではなく、シンコウの、なんらかの欲望……梅雪に関係するなんらかの欲望を満たすため、らしい。


 つまり、今やっている鍛錬は、厳しくなることはあっても、易しくなることはない、ということだ。


(……適応しなきゃ……)


 トヨは山野暮らしから奴隷となる途上でしたことを、もう一度する必要性にかられていた。


 トヨの才能と呼べるものはこの適応力である。

 主人の好みに合わせて自分の性格さえ変える適応力。ある意味で『自我のなさ』と言ってしまえるような、そういうものだ。


 その非凡な才覚については、あの梅雪に怒鳴られたのが、シンコウの目の前であった一回きりのことであったと言えば、氷邑家の奴隷たちには伝わるだろう。


 視界の端を頭を下げて横切っただけで『貴様、この俺を愚弄しているのか!?』と絡んでくる梅雪に、たった一回しか怒鳴られていない奴隷など、トヨを除いて他にはいない。


 あの日はたまたま運が悪かったのだ。


 剣聖シンコウが、で梅雪を苛つかせている時に、梅雪の父である当主から、梅雪に刀を持っていくよう命じられてしまった。

 また、剣聖の指導はあの日が初日ではなかったから、梅雪も梅雪なりに、すでに我慢を続けていたことであろう。

 普段のトヨであれば、あからさまに不機嫌な梅雪になど近寄らないようにするのだけれど、偶然が重なって近づかざるを得なくなり……


 あとは苛立った梅雪が、刀を持ってきたトヨを突き飛ばした。


 それを見たシンコウが怒り、そのままトヨをさらって氷邑家を飛び出し、『魔境』にまで逃げたと、そういうことなのである。


(ゆううつだ)


 トヨは頭上の犬耳をぺたんと悲しそうに閉じた。


 ……ようするにこれは、『虐げられていた哀れな奴隷』と『それを救った元奴隷の剣聖』ではなく。

『安定した生活の中でそこそこ満足して暮らしていた下働きの少女』と、『それを拉致したイカれ女』という関係であった。

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