夕凪に抱かれて
「じゃあ、お盆くらいに海を見に行かん?」
8月6日の登校日、帰りの廊下で3人一緒になり、けいの提案で今年も海に行くことになった。
僕の部活は7月の試合で早々に一回戦負け、夏休み中は練習に来てもよいことになっているが、実際そんなことをする人はなく、実質引退していた。よしのも同じような感じで、運動部の3年生はよっぽど試合で勝ち進むことがない限り、8月に入ったあとにはほぼ全員が受験勉強に集中することになっている。そのため夏休みにはそれなりの量の受験に向けた課題も出されている。一方、試合のない文化部にはそんな制限はなく、秋まで部活を続ける人もいるようだった。
ただ、勉強に集中するといっても、そんなに急に気持ちを入れ替えられることはなく、それならいっそのことどこかに遊びに行って、気分転換するのもいいんじゃないかという、けいの提案だった。
海といっても海水浴ではなく、話をしていくうちに、今回は宮島まで行ってみようということになった。ここならみんな遠足で行っているので、だいたいどんな感じか分かっている。今回は3人でちゃんと計画を立てることにした。もみじ饅頭の店と水族館に行ってみようということになった。
お盆を過ぎても相変わらずの猛暑が続いていた。
去年と同じように学校に近いバス停で待ち合わせをした。
街角にあるお寺のお墓には、この地域独特の棒の先に大きく鮮やかな色をした飾りのついたお盆
ふたりは時間ちょうどにやってきた。もう見慣れた私服姿。彼女たちは、白と淡い青緑色のブラウスに、桜色と青い
駅にはたくさんの路面電車。去年の夏、港の方の海に行ったのはとても懐かしい想い出。その時は川沿いに南へ下っていったが、今日は西に向かって進んでいく。
電車は街の中心街のビルに囲まれた通りをゆっくりと走っていく。まだ時間が早いためか人も車も少なくがらんとしていた。
そして急に周りに高いビルがなくなったかと思うと、原爆ドーム前の停車場で電車が止まった。
カタリとドアが開くと、すでに熱せられた夏の空気の塊とともに、セミの声が車内に充満し、なんだかめまいがするようだった。
やがてブーンという音とともに電車が動き出すと、川のそばに建つ、骨組みのあらわな建物が見えた。
3人とも黙ってその建物を見ていた。
1時間ほど電車に揺られ、宮島へのフェリー乗り場に着いた。
夏休みだけあって、人はとても多かった。
潮の香りがして海に来た感じがした。
フェリーは島に向けて一直線に進んでいく。
「気持ちいいー!」
「ほんと!」
手すりにつかまり、風を受けながら身を乗り出すように前を見ているけいとよしの。
フェリーのスピードは思ったよりも速く、みるみるうちに島が大きくなってくる。
島に渡ると、さっそく鹿が出迎えた。
そこかしこにいる鹿に、よしのはおどおどしていたが、そんな彼女を尻目に、けいはさっそく鹿せんべいを買い、鹿にまみれてはしゃいでいた。
「よっちゃんもあげる?」
「いい!」
よしのは僕の横を鹿から隠れるように歩いた。
水族館へ向かう道沿いには、もみじ
どこも焼き立てを売っているようで、しかも店ごとにいろんな味のあんがあって、どれにしようか迷ってしまうが、とりあえず気になった店で一個買って、帰りにはまた違う店で買おうということになった。
「うちはチョコにしよ」
「わたしはカスタード」
「僕は…あえてこしあんにしてみようかな」
「あんこならいつでも食べられるんじゃない?」
「そうだけど、いつものとどれくらい違うのかなと思って」
「ひょっとして、違いのわかる男を目指しとるん?」
そう言ってけいとよしのはまるで屈託なく笑った。
出来立ての温かいもみじ饅頭は想像以上に美味しかった。今まで食べていたのは何だったのかと、正直びっくりした。あんはいかにも手作りといった上品な感じのあんこだし、カステラの部分もとても香ばしい。おかわりにもう一個、いや全部の味を試してみたいほどだった。
「もみじ饅頭美味しいね! あんこはどうじゃった?」
「ぜんぜん違ったよ。びっくりするくらい美味しかった」
「そうなん? じゃあ次はうちもあんこにしてみよっかな」
それから水族館までの道すがら、しばらく3人は、自分の食べたもみじ饅頭がいかに美味しかったかについて話をしながら歩いた。
照明の落ちた水族館の壁や天井は深い海の色に塗られ、すこしひんやりとしていた。
水槽の中で泳ぐ大きなマンボウやカラフルな魚、ちょっと地味な瀬戸内海の魚、エビ、カニ、そしてペンギン、スナメリやトドなど、いろんな種類の海の生き物がいた。
アシカのショーで水をかぶりそうになった時には、お互いのびっくりした表情がおかしくて、心の底から笑いあった。
水族館を出るとちょうどお昼になり、道端で売っていたお好み焼きを買ってベンチを探した。
海に面した松の木の下、鹿がこわいというよしのを真ん中にして座った。
夏の太陽は空の上から強く照りつけるが、松の枝が木陰を作ってくれているので、ここは幾分か過ごしやすい。
目の前には、潮が引いて浅くなった海に建つ大きな赤い鳥居がある。
その向こうをフェリーが行き交っていた。
潮風が吹いてくる。
顔や体にまとわりついてくるが、それでも当たっていると気持ちがいい。
よしのもけいもほんとうに美味しそうにお好み焼きを食べていた。
「やっぱお好み焼きよね」
「外で食べると美味しいね」
そんなたわいもない会話がなぜか深く記憶に残った。
お土産のもみじ饅頭を手に、帰りの電車に乗るまではいろいろな話をしていたが、シートに座るといつの間にか3人ともぐっすりと眠ってしまい、いつ電車が出発したのかすら気が付かなかった。
ドアの開閉する音、人々が乗り降りする音、車内のアナウンス、モーター音、そんなものを意識の表面で感じながら、長いこと電車に揺られていた。
僕が目を覚ますとけいはすでに起きていて、水族館でもらったパンフレットを見ていた。一瞬目が合い、彼女はふんわりと笑った。
電車は最後の橋を渡るところだった。
「高台の公園に行きたい」
ふたりが降りる停留所が近付いてきたバスの中で、そうよしのが持ちかけてきた。
よしのがどうしてそんなことを言ったのかわからないけれど、このまま家に帰るのが名残惜しいのは僕も一緒だった。
そのままバスに乗って公園に一番近いバス停で降りた。
3人ベンチに座って、街を、海を眺めた。
「今日はあそこまで行っとったんじゃねえ」
感慨深そうにけいがつぶやいた。
その見つめる先には、小さな山のような島が浮かんでいた。陸と島の間は泳いで渡れそうなほどに狭く見えた。
太陽が西に傾き、淡いオレンジ色の空が街を覆いはじめていた。
気が付くと風が止まっていた。今日は典型的な
瀬戸内海を見下ろすこの街は、この時刻になると海からの風がやみ、今度は山からの風が下りてくるようになる。
湿気をたっぷり含んだ暖かい空気が体にまとわりつき、じんわりと汗が出てくる。
カナカナカナとめずらしくヒグラシの声が聞こえてきた。
その声を聞いて初めて、僕は周りから音もなくなっていたのに気がついた。
「うちらも、もう半年もしたら卒業なんじゃね…」
けいがぽつりと言った。
僕らは暮れゆく街と瀬戸内海の景色をずっと眺めていた。
その瞳に、記憶にしっかりと焼き付けるように。
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